/石鹸箱の毒
激烈な横揺れに見舞われ、くゆりの首は捩じ切れそうになった。
意識が飛びかけていたくゆりは、半分も聞いていなかった。もっとも、聞いていたところで、対処するだけの知識も技術もなかった。
後方視界に、蛇の尾をもつ巨大な鷲が赤く染まった空を背に、鉄をも切り裂く爪を斜陽できらめかせているのが映った。
――またくる……!
今度は、覚えたての急制動をかける。凄まじいGのハンマーがくゆりの胸をしたたかに打ち据え、肺と心臓を押しつぶす。
鷲のエーテル活動群の鋭爪を束の間やり過ごし、即座に推進機関の出力を最大に。高速回転する鋼の牙を剥いて、
そしてすれ違いざまのさらなる一太刀で、
当たりどころが悪かったのか、今の一撃でメインCPUをも破壊され、何ヶ月もの間、たったひとりのくゆりの相棒として数々のエーテル活動群や連合スフィアの追っ手、スフィア・
くゆりが墜落の浮遊感に怯える暇はなかった。
嘴が、くゆりを啄まんとかっと開かれた――その瞬間、鷲の頭部が、電動おろし器にでもかけられたかのように、ずたずたの肉片へと変貌した。
突然の事態に呆然とするくゆりの視界に、鷲の代わりに、顔を覗かせたのは――。
「うわグロッ! ってか緑色なんだ、大陸生物の血って――しばらくお抹茶飲めないなーこれ……」ひとりの狐。「やっほー、生きてる?」
見た目から言って、おそらく母親と同年代。澄んだ紫の瞳をした金毛のその狐態LMOは、箒型の小型機動ユニットに腰掛け、ひどく悠々とした態度だった。
「あ……、あなたは――」
「あたし? この辺の空をシマにしてる空賊。なんか襲われてるぽかったから、攻撃しちゃったけど、よかったよね?」
「あ……うん、あり、がと――、えと……」
狐の女性が手を差し出した。「あー、とりあえずこっから出よっか。このままだと落ちて死んじゃうし?」
狐に引き上げられ、箒にまたがる。箒は軽やかに上昇していき――あちこちから煙を吹きだし火花を散らしていた
間髪おかずに、箒が影に入った。沈みかけていた夕日を遮ったのは、流線形の白銀の高速船――骨を齧る鼠と狐、髑髏のペインティング。
本物の空賊――くゆりは警戒心を強めた。
エーテル活動群を一撃で屠るほどの魔術からして、少なくとも爵位は持っているはずだった。
貴族崩れの空賊は、危険だった。強大な魔術をもっている上に、傲慢で知恵があり、狡猾で、制御不能。
逃げる算段を立てる前に、箒は船に収容された。ふらつく。頭がまわらない。
――このまま、どうなっちゃうんだろ、あたし……。
疲労が重すぎた。スフィア・
狐態LMOのしっとりした手に引かれ、狭苦しいハンガーから出て、船室に連れて行かれる。待ち受けていたのは――。
――……うそ。
「あざみさん、平気だった……?」おとなびている割に狐よりもずっと若く見える、おどおどした様子の鼠態LMOと――。
「よゆーよゆー。いや、結構トラウマもんだったけど。あ、ゆうひちゃん、しばらくミドリミドリしたごはんはやめてね?」
「……」狐に頭を撫でられた、無表情な幼い猫態LMO。
――まさか。
狐が指を立てていく。「お抹茶とか、ジェノベーゼソース系のとか、あとは、グリーンサラダとか」
その猫は、白毛で、褐色の肌をしていたが――。
鼠が訝しむ。「グリーンサラダは、あざみさんが嫌いなだけじゃない……?」
「あはは、さすがかのん先生。なんでもお見通しかァ」
「もう……、先生は、やめて」
そのあどけない顔つき。その深いあめ色の瞳。それだけは、見間違いようがなかった。
「ああ――、そん、な――」くゆりはくずおれた。
毎日、その写真を見ていたから。見せてほしいと、母に頼んでいたから。
その写真のなかで――母の隣で、いつも無邪気な笑顔を咲かせていたから。
「――ママ」
変わり果てた胤親の姿が、そこにあった。
「何度も言うけど……、いい? この忘れ薬で、記憶を失っていられる期間は、二か月だけ。必ずそれまでに……、月の民の、資格を得ること」
静粛飛行で航行する高速船の船室にて、耐衝撃・耐熱・耐電磁に優れた医薬用ケースに並んだみっつのイオン注射器のうち、くゆりから見て左端を指して、鼠態LMOは再三に渡って念押しした。
厭うことなく、その都度くゆりはちから強く頷きを返した。「うん、わかってる、メイ先生」
メイがそれだけ薬品の取り扱いに注意している理由を、十分に承知していたからだ。自分たちの計画の重要性、そして自分が担うその役割の重さを、だれよりも噛みしめていたからだ。
次は真ん中。「それからこっちは、やっと完成した……設計図を歪められる前の、Mouth of Absolute Yearning――絶対思慕の入口。真の
くゆりはかぶりを振った。ちから強く。「んーん、メイ先生を信じてる。薬の
メイは赤らみ、俯いた。「その呼び名は、やめて」そして最後の一本を、触れるのもおぞましいとばかりに、苦々しげな視線で示した。「そして、これが、信仰反転性幻覚薬――偽MAY。サンセットリゾート最悪の、遺産。一回で意識が剥離するように調整しているわ。目的地に着いたら、使って」
もうこれ以上は見たくないという顔で、メイはケースの蓋を閉じた。「二ヶ月……。これは、肝に銘じておいて。忘れ薬が切れてなお、意識が剥離していたら、最悪の場合、計画が露見して、取り返しのつかないことになる」
「わかってるよ。二ヶ月で退院して、ニキーダ・ヴァイラヴァに搭載された超密度有機結晶コンピュータを奪って地球に帰ってきて――まひるさんを、解凍する。ちゃんと、頭に入ってる」
居たたまれなさか、メイは一瞬視線を逸らしかけ、しかしくゆりを正面からはたと見据えた。「お願い、ミツバちゃん。あたしは、あのひとに一年で助けてもらえたけど……あの時間は、本当の本当に、地獄だった。信仰反転性幻覚なんかが、生ぬるく感じられるぐらい。それを、あのひとは、もう……十年も――」
背後から狐態LMOが、ぎゅっとくゆりを抱き寄せた。「――ごめん。大事なとこ、全部あんたに任せちゃって。たったひとりで、月にまで行かせちゃって。あんたはまだこどもで、あたしらはいいおとなだってのに、なんにもできなくて――」
柔らかな二の腕を、くゆりはぽんぽんと叩く。「んーん、いいの、ナリアさん。これは、くゆがやりたいことだから。くゆの手で、やり遂げたいことだから」
メイとも抱擁を交わしあうと、くゆりは、傍らで手持無沙汰に佇立していた猫態LMOをベースにしたセクサロイド――ゆうひの頬に手を添えた。「すべては……連合に、ごめんなさいをさせるため。連合は、くゆの世界を焼き滅ぼした……だからくゆは、連合の世界を
高速船の前方に、スフィア・
――絶対に、成し遂げる。どんなものを、利用してでも。