/いばらの冠と、不可視の車輪の指輪
「え゛」ないは上擦った声を出した。「い、い、いい、いいわよ、してくれなくとも――」
妙に嫌な予感がしていた。あとずさり、ベッドから抜け出そうとするないの足首を捕まえ、くゆりが屈託のない笑顔で言った。
「まァまァ、遠慮せずにっ」
「きゃぁっ……!」
存外に強い腕力が発揮され、ないはくゆりの目睫に引きずり戻された。
「ちょっとっ、わたしは本当にかまわないったら――やっ……!?」
ないはそれでもなお抵抗を続けたが、慣れた所作で手を絡めとられて抑え込まれ、背後から抱きすくめられる体勢で拘束された。
――ぁ……、しまった、ミミッド式ジュージュツ……!
現実において、肉体を動かすことに縁遠いないが、スフィア・
魔術を適切に用いればくゆりの筋肉を弛緩させ、ただちに離脱することも可能だろうが、ないにはその経験もノウハウもなければ、実行に移す度胸すらなかった。
「くゆり、だめよっ、だめ、だめ、やめ――んむっ」
振り向いて諌めようとする声が、肩ごしのくちづけで封じられる。同時に指先で、さらりと腹部を撫で上げられ。
「んんんん~~っ……!」ないは鳥肌を立たせて身震いし、脱力した。
――うそ、どうしてこんなに、ぞくぞくして……ちから、はいらないのよ……。
各種モデル入力を最大設定にしたときのような――否、それさえ上回る、圧倒的な知覚の存在感。たったひと撫でしただけで、それはないから抗う意志を剥奪してしまっていた。
そしてもちろん、くゆりの求愛行動はそれで終わるはずもなく、十本の指はなにものにも守られてはいない下腹部の表面を這いずりまわった。
「んんーっ! んっ! んっ! んっ……!」
くゆりが舌を吸いつつ、ぺたぺたと不躾に触れ、愛でるように皮膚を張りつかせてくる。自分のおもちゃのように、自分が征服した場所であるかのように。
なすすべもなく一方的に弄ばれ、少し前にVCD・サイマトで思い知らされた上下関係が、腹の芯に蘇る。抵抗感が、熱で薄れていく。ねっとりと、塗り替えられていく。
しかも今回は、ないにとってはなお悪いことにVCD・サイマトでは存在しなかった要素――
「はっ……、はっ……、はっ……、はぁっ……♥」
「あはっ……♥ ないちゃんのからだ、あつぅい……♥ やけど、しちゃいそ……♥」
「はっ……♥ ふんんっ……♥ んんん~~っ……♥」
背後から密着され、柔らかな肢体を押しつけられ、回避しようのない至近距離で毒を吸引させられ、ないはあっという間に息が上がっていた。
それは疲弊からではなく、からだが弛緩しきっていたからだった。それは、肉体が屈服しはじめたことを意味していたのだった。
ないは体奥がすっかり柔らかくほぐれ、熾火のように熱を持ち、ねばついた汗が噴き出してくるのを自覚した。
「はっ♥ はっ♥ はっ♥ はっ♥ はぅっ……♥」
ないの頭の片隅に根付いていた、現実で他者に接触されることへの恐怖が沸き起こる暇もなく、むしろそういったものを恐れていたことを思い出したときにはすでに、ないのからだはすっかりできあがってしまっていた。
それでもわずかに残っていた矜持からか、ないは抗議しようと試みる。
「ぅはっ……♥ あ♥ ま、まちなさ♥ あ♥ くゆりっ……♥ 話、をっ……♥ あ♥ あ♥ あ♥」
下腹部をさすられる都度、喉奥から溢れてやまない吐息は、それを許さなかったが。
「あは……♥ ないちゃん、ぜんぜん喋れてないね……?♥」くゆりが楽しげに、ますます熱っぽく、ないに汗ばむ肉体を密着させ、あちこちを撫でまわした。それとともに。
外耳をかじり――。「ぅひゃんっ♥」
うなじを舐め上げ――。「あ゛♥ あ゛♥ あ゛♥」
頭皮の匂いを嗅ぎ――。「うぅぅうううっ……♥♥」
肩甲骨に吸い付いた――。「んぅぅうううんんっ――!♥♥」
かくかくと、太ももをかすかに震わせたないの反応と、手のひらにかかった愛液のしぶきに気づいたのか、くゆりが耳打ちした。「ないちゃん……♥ もしかして、ちょっとイッちゃった……?♥」
「うぅぅぅう……っ♥♥」
ないは返答しなかったが、その耳は林檎の果実よろしく鮮やかな朱色を呈し、肯定していた。
「えへへ……♥ ないちゃんがしてくれたみたいに、しただけなんだけど……やりすぎちゃったかな……?♥」
想定以上に洗練された責める力加減や速さ、順序など――くゆりの手練手管は誰から学習したのか、改めて教えられるまでもなく、ないは承知の上だった。くゆりは月に来るまで、セラピーをはじめるまで、性知識も経験も皆無だったため、ないの手法を模倣するのは至極当然の流れだったからだ。
ないが真に驚愕し、ある種の畏怖さえ感じているのは、くゆりが単にないの愛撫の数々をコピーしたわけではなく、相手の状態を見極めて臨機応変に責め方を工夫していく手段そのものを、盗み取ったことだった。
その事実は、自分の技術のすべてを見透かされ、破られただけでなく、逆手にとって逆に支配されてしまったかのような、強烈な屈服感を、ないに刻み込んでいた。
――だめ……くらくらして……どきどき、しすぎて……思考が……まとまらない……。
「えへへ。ごめんね? ないちゃんがかわいすぎて、くゆ、ちょっと悪戯しちゃった」くゆりはぺろりと舌を出した。「ここからは、優しくするから、ね……?♥ いいよね……?♥」
ないはもはや、自分がなんと返答をしたのかさえ明確に記憶できなかった。
ただ、その後の展開を考慮すれば、自我を保てなかったのはないにとって、救いだったかもしれない。有体に言って、くゆりの性玩具も同然に玩弄されたのだから。
「んはあぁああっ♥ くゆりっ♥ くゆりぃっ♥ とまんなっ♥ とまんなくなるっ♥ からぁあっ♥ ひっいぃぃんっ♥♥」
尾の根元の裏側を舐めまわされながら、Gスポットを押しつぶされたときは、あまりに鈍重な甘さの喜悦にはしたなく潮を撒き散らせていたし――。
「ぅぎっ♥ いっく♥ んにぃっ♥ っぐ♥ ひぎゅっ♥ いくっいくっ♥ っ――♥ いくいくっ♥♥ ~~っ♥♥♥」
中指でとんとんと尖りきった陰核を規則正しく丁寧にノックされつつ、RNAパッチの効能で陰核以上の過敏性を帯びた乳頭を舌で転がされた際には、一秒ごとに小規模の絶頂を刻みつけられていた。かてて加えて――。
「すごーい、ないちゃん……♥ もう尾っぽの半分ぐらい入っちゃったね……♥」
目も眩むほどの絶頂から降りてこられなくなり、背筋を反らすないの秘部を覗きこみながら、くゆりが琥珀の虹彩を輝かせた。その手には、漆黒の尾状デバイスが握られており、尾は大半がないの狭い膣内でねじくれ、もつれて、収められていた。
「ひ、ぃっ……♥ も……♥ っ……♥ ぬい……♥ て……♥」
「んー、ないちゃんが嫌なら、くゆはやめてあげたいけど……♥ せっかくだから、もうちょっと入れてみない……?♥ だめ……?♥」
「や、だぁ……♥ これ、いじょ……む、り……♥」
「そっかァ、わかった。でも……♥ ないちゃんのここ、締めすぎて、全然動かないから、どっちみち、魔術は使わなきゃ、だよ……?♥」
「ひ……♥ それだけ、は……♥ やめ――♥」
「じゃァ、また合図したら、魔術使ってね?♥ さーんっ♥」
「う、うそっ♥ い、いやっ♥ やぁ♥ それっ♥ もおやだぁっ♥」
「にーいっ♥」
「くゆりっ♥ やめてっ♥ おねがっ♥」
「いーちっ♥」
「しんじゃうっ♥ わたし♥ しんじゃうからっ♥ もういきたくな――♥」
「ぜーろっ♥」
「~~っ♥♥♥」
どこからそこまでの気力が湧いてくるのか――くゆりの無尽蔵とも言えるスタミナと執拗な責めに、性感帯という性感帯を徹底的に蹂躙され尽くされ、ないの理性と矜持はとうの昔に混捏され、跡形もなかった。
「ふゥ……、ちょっと疲れちゃったね。休憩しよっかっ」
ようやくくゆりが休憩をはさんだのは、二時間後――ないが二十五回達した頃だった。
平時において青白いまでのないの素肌は、耳、首、頬はおろか、胸元まで官能的に色づいていた。
「はーっ……♥ はーっ……♥ はーっ……♥ なに、が……♥ やさしく……♥ する、よぉ……♥」
すっかり水浸しとなったシーツの上で、大股開きにされた股間を閉じる体力すらなくなったないは、息も絶え絶えに恨みがましく抗議した。
「えへへ……♥ だって、ないちゃんがかわいすぎるのがいけないんだも」まったく反省の色を見せずに、くゆりが笑うと、サイドテーブルに身を乗り出した。「ないちゃん、これ、くゆも使える?」戻ってきたくゆりの手に握られていたのは、インタポーザ。
朦朧とした頭で応じる。「……つ、かえる、けど……」
「くゆも、使っていい? ないちゃんに」
「ま、まだ、するつもり……?」
「ないちゃんは、したくない……?♥」
「っ……♥」
――やっぱり……するのね……。
疲労以上に、側頭部をしたたかに殴りつけられたようなぐらつきを感じたせいで、ないはたった一言を返事する二も困難だった。震える指でくゆりの股に取りつけてやった。
平衡感覚が仕事をしていたのはそこまでで、際限のない緊張と興奮のピークに達したないは、倒れ込むようにしてベッドに背を預けた。
「じゃァ……、いくね?」
「……」
くゆりがはちきれそうな怒張を、ないの濡れそぼった陰唇に押し当てた。
一瞬――想起する。かつて強姦されたことを。
あのとき、ないに意識はなかったが、どんな風に凌辱されたのかと想像したことはある。それは常にひどく、無味乾燥で、客体的で、自分の肉体の――実存の――虚しさとおぞましさをないに提示していた。
そして、自分がその肉の檻に囚われているしかないという、制御しようのない恐怖も。
ないが心臓に手をやりかけた――それは、くゆりに絡めとられた。
「ぁ――んむ」
有無を言わさぬ熱いくちづけに、ないの思考が酩酊する。直後に、股を断ち割って体内に滑りこんでくる、巨大な灼熱。
「んんんっ~~♥♥」
直径にして三センチ足らず、長さにして十センチそこそこの細長い管のどこに、それだけの質量が詰まっていたのかと疑いたくなる、凄まじい圧迫感。熱量。肉体の芯を本当に刺し貫かれてしまったかのような、身動きのとれなさ。
そしてもっともないのこころを熱くしたのは、そのとてつもない一体感――くゆりとの。
自分だけしかいなかった肉の檻のなかを訪ってくれた、相手への際限のない愛しさたるや、とても言葉では言い表せられなくて――気持ちで伝えることしか、できなくて。
「ぅっ……♥ んっ……♥ ちゅぅ……♥」ないには、くゆりとの繋がりを慈しむようにきゅうきゅうと甘く締め付け、甘えるように唇を吸うことしかできなかった。
「ぷは……、ないちゃん、いたくない?」
「ん……♥ へいき、よ……♥」
「じゃァ、動いても……かまわないちゃん?」
「もう……、ええ、かまわない、わ……、すきに、して――んぁっ♥」
緩慢な、抽挿運動がはじまる。
「んぅっ♥ ぅんっ……♥ はぁっ♥ あっ……♥」
瑞々しい生の肉を掻き分けられ、耕される本物の感覚に、ないは喉を反らして喘いだ。
己のもっとも秘めやかなる場所を明け渡し、委ねてしまっているという取り返しのつかなさが、ないを吹っ切れさせ、性感に対して素直にさせていた。
奥をねっとり、ねちねちと執拗に押しつぶされ、ないは身悶えした。
「んっ♥ ん♥ んんっ……♥ やっ♥ やぁ♥ いやっ♥ そっ、そこぉっ……♥」
「はーっ……♥ は……♥ ここ?♥ 奥?♥ ないちゃんっ、奥、ぐりぐりするのが、いいのっ?♥」
「ちっ……♥ ちがっ……♥ だめっ……!♥ かっ♥ かんじすぎちゃっ♥ からぁ……!♥」目じりに涙を溜めながら、ないはいやいやとかぶりを振った。
「じゃァ、これは?」今度は最奥をこつこつと小突く運動に切り替えるくゆり。
「あうっ♥ あ♥ あ♥ ま♥ まって♥ あ♥ だめっ♥ だめっ♥ だめぇっ……♥♥」
一突きごとに、子宮が弾けんばかりの性感に揺さぶられ、ないの指がシーツを掻き毟る。
「えー? じゃァ、こっちはどう?♥」
くゆりがインタポーザの角度を変えた。先端を奥へ向かってではなく、ないの腹側の肉壁を圧迫したまま、雁首の凹凸を使って前後にずりずりと摩擦しはじめた。
途端に、下半身を中心に広がる甘美なぬくもりに、ないはとろけきった鳴き声をあげた。
「ぅはぁあぁっ♥ んゎっ♥ あ゛♥ それもっ♥ それもっ♥ だめぇえっ♥♥」
「もうっ、ないちゃん、だめなとこ、多すぎだよう。これじゃ、くゆ、なにもできないよ?」くゆりは頬を膨らませた。
「はっ♥ はぁーっ♥ は……♥ うぅぅ……、だ、だって、しかたない、じゃない……わたしばかり、イッてしまう、もの……」
――開発など、これまでされてないはずなのに……ひょっとして、わたし……。
この数十分間で指一本動かすのも億劫なほどに翻弄され、うっすらと予感していたことが確信に変わりはじめていた。
――ものすごく、感じやすいのかしら……。
ないにとっては残念なことに、事実として、その通りだった。
ないは己の心身を含め、あらゆる事柄が制御できなければ気が済まず、また強靭な意志も持ち合わせていたために、ある程度の外部刺激ならば抑えこめてはいたが――その実、先天的に肉体が内に秘める感受強度、被虐嗜好性は、ひと並みならぬものなのであった。
「いっぱいイッてもいいよ? くゆは、ないちゃんに、たくさん、たくさん、イッてほしいな……♥」
「い、いやよ……」ないは黒髪をいじって顔を隠した。「わたしだけ、なにも考えられなくなって……なにもわからなくなって……我を忘れちゃうのが、恥ずかしいのっ……! それに――」ふてくされたくちぶり。「なんだか……、負けたみたいで、悔しいし」
「でも、くゆはずっとないちゃんに、そうされっぱなしだったよ?」
「う゛……」
「くゆは、ないちゃんにしてもらっても、負けたとか思わなかったし、大好きなないちゃんにしてもらえてうれしかったし、しあわせだったよ?」エメラルドの瞳を秘し隠す黒髪を、そっと掻き分けた。「ないちゃんにも、そうなってほしいな……大好き、だから」
あめ色の瞳で――すべてを受けとめ許容する、まなざしで。
「……卑怯よ……、そういうの……」
「うん?」
「いえ……なんでも、ないわ……。はぁ……その代わり……、わたしがイクまで――」
くゆりだけに、その言葉が届くようにと、ぼそぼそと呟いた。くゆりは朗らかに微笑んだ。
「えへ。わかった、じゃァ、するね……?」
まったりとしたピストンの再会――嵐のような法悦の再来。
「んっ♥ ぅあんっ♥ んく♥ ぅうんっ♥」
目を閉じ、喉を鳴らすないに覆いかぶさるようにして上体を倒すと、くゆりはもはや痛々しいほど真紅に染まった耳に唇を寄せた。
「……好きだよ、ないちゃん……♥」
「っ――♥」
ぐちゃり、という音がした。今まさにインタポーザに穿たれている陰唇と同様に。
「ないちゃん、好き――♥」
「っ――♥♥」
「すき、すきすき――♥」
「~~っ♥♥♥」
くゆりが耳打ちするごとに、ぐちゃぐちゃと、頭のなかでなにかが撹拌されていくような、そんな音が。
「すきっ♥ すきっ♥ すきっ♥」
「あ゛っ♥ あ゛っ♥ あ゛っ♥ おぁ♥ お゛んっ♥ んぉぉっ♥♥」
子宮口をごつごつと幾度となく叩かれ、瞼の裏に火花をちらつかせながら。
「はぁ……すきっ♥ すきぃ……♥ だいすき……♥」
「お゛ぉぉっ♥ お♥ お♥ おぐっ♥」
獣のごとき嬌声で吠えながら。
「すきっ♥ ないちゃんっ♥ すきっ♥ すきっ♥ すきっ♥」
「いくっ♥ いくっ♥ いくっ♥ いっくぅっ♥」
何度も何度も、しとしとと熱い想いを注ぎ込まれて。
「っ――♥ っ――♥ っ――♥」
達したことを認識できないほどの鮮烈なエクスタシーに、飲み込まれる。
脳を、こころを、愛しいひとだけで埋め尽くされて到達した、ただただ白い奔流に流されていくしかない、忘我の境地。
「あっ♥ うはぁっ♥ ないちゃっ……♥ しめすぎ、だよぅ……♥ んんっ♥ くゆ、もっ……♥ っ……♥♥」
「――っ!?♥ っ……♥♥♥ っ……♥♥♥ っ……♥♥♥」
さらにそこへ追い討ちのように、体奥に粘稠度の高い熱湯のごとき煮えたぎる体液をばしゃばしゃと吐きかけられ、壮絶な快楽の極限はますます高く登りつめていった。
より深くより深くと腰を押しつけ合う。内臓がへしゃげ、亀頭が潰れそうになるのにもかまわず。
「っ……♥♥♥ っ……♥♥♥ っ……♥♥♥」
そして――、いつしかMAYで観た幻覚をも上回る多幸感の光を、ないに実感させていたのだった。
ふたりで味わう気だるい余韻――至福の時間。
ぴったりと額を擦りあわせ、尾と足を絡め、互いの体温を確かめる時間。
「……大好きだよ、ないちゃん」
そっと伸びてきた指先が、指先に触れあう。
「……わたしもよ、くゆり」
指と指がもつれあって、手のひらが密着する。
「……しあわせになってもらえた?」
「ええ、……とても」
言葉では、そう返事をしていた。こころでも、そう思っていた。
――けど、ホンモノかしら。
ニセモノの心臓が生む、この熱、この心中、この現象的意識は、本当に?
空いた手でおそるおそる、痕の残る胸に触れようとして――その手の上から、くゆりの手が重ねられた。
――……あったかい。
とくん、とくん、と――こころはたしかに、悸っていた。
ぽつりとつぶやいた。「とても、しあわせだわ」
「えへへ」くゆりはだらしなく頬を緩ませると、興味深そうにたずねた。「ないちゃん、ここ、病気してるの?」
「これは……べつに、なんでも――いえ。……月に来るときに、事故に遭って、心臓移植したのよ。わたしは簡易ジェネレータしか積んでいなかったから、それで拒絶反応が出てしまって……つまりからだに合わなくて、まァ、あとはいろいろね。事情があってきれいにはできないから、不恰好に見えるけど、もうなんともないわ」
「ほゃ……よかったァ。なんともないちゃん、だね」
「……優しいのね、くゆりは」
「えー? そうかな? ないちゃんの方が、ずっと優しいよ?」
「そんなこと、ないわよ」
「そんなことあるよっ。だってないちゃんは、くゆを助けてくれたんだも」
「それは……、仕事、だからよ」
「だからだよ。ひとに優しくするお仕事……それって、ものすごくすてきだけど、ひとに優しくできるひとにしか、絶対できないお仕事だと、思うから」
くゆりの柔らかな唇が、額に触れる。
「ないちゃんはきっと、優しさをつくるあーるえぬえーが多いんだ。きっと、くゆよりも、ずっと――」
そんなものは存在しないと、断言することはできなかった。
今、額を通してじんわりと浸透する熱は――くゆりの優しさに間違いがなかったから。
それは決してニセモノではなかったから。
ものすごくすてきなものだったから。
それでいいのだと、ないは思った。