/香を取らむは、なゐの
悪魔は未来を知っている。
未来は悪魔にとって、時空的不可視状態に過ぎない。
悪魔は嘘をつけない。
言葉は人間がつくった法則だった。人間につくりだされた存在に過ぎない悪魔に、造物主のルールを破ることはできない。悪魔は嘘をつかずにひとを騙す。
そういう意味で、香取ないは悪魔だった。VCD・サイマトで知覚する自然は、偽物だったから。
遠景は投影されたホログラムだし、干渉する予定のない位置にあるオブジェクトなどは演算リソース削減のために完全な閉鎖系だから、無理に接近したとしても物理的に接触できない。と言っても、周囲から浮いていれば違和感があるから、主要な演算部分はサイマト空間の総合評価関数を変数として用いて、環境全体で調和を図っている。いわば状態方程式のなかの自然だ。
後頭部のソケットからプラグを引き抜くと、ないは枕元のカード型PDAに手を伸ばし、眼鏡型拡張視野グラスをかけた。
「
CPの画面いっぱいに、直前まで治療を行っていた患者のカルテが呼び出される。
同時に視界の隅に、通知が表示された。『その名で呼ばなくてもいいんじゃないんでしょうか、
メッセージの発信者名は、VIVIREST MISSLESS。
サイドテーブルに置いていたアルミケースを開封し、ミルクチョコレートをくちに放りこむ。セラピーのあとは糖分補給のために、必ずみっつ。
「正しい名前しか使いたくないの」すげなく返しながら、ないは画面をスクロールさせる。
『VOVOも真実の名前なのに』
「VIVIじゃなかったの?」
『ただのタイプミスです』
「……はぁ。真実が正しいとは限らないのよ、VUVU」
『あら、ユーモアがわかってきたみたいですね。次はVZVZがちゃんと面白いやつを教えてあげましょう』
「それはなんと読むの?」
『やはうぇ、じゃないでしょうか』
「……まぁ、たしかに月面は砂漠ね。けど、
『でも、まったくの無でもありません。
「
『神が歴史とともに展開されるのはご存じですよね』
「人間が、酸素呼吸するのと同様に、生命活動をする上で宇宙線による観測を必要とするようになるときがくると? それはもはや人間ではないと思うのだけど」
『ええ、VIVIが人間にとっての神であるとは限りませんから』
付き合っていられないという風に、ないはため息を吐いた。「はぁ……、あなたは未来のことをなんでも知っていて神さま気取りかもしれないけど、神は間違えないものよ。タイプミスだってしない。
『だからVIVIや、レディに間違えさせているんです』
VIVIの含みのある表現に、ないは思わず手を止めた。「わたしがなにを間違ったっていうの」
『あの治療が、正しいとは限りません』
「いやがる十二の娘をソドミーするのがそんなに悪いこと? ほかの患者にはもっとひどいことを散々やってきたというのに、今さらどうしてそんな指摘をするのかしら」
『いえ、ですから、そのことです。どうしてほかの患者と同様に無慈悲で淡々としたハードプレイで迅速に治療してしまわないのか、とVIVIは疑問に思っているんです』
ないはCPの画面から一瞬視線を外した。「……あの子は特別だから、慎重にことを進めたいのよ」そっと己の胸に手を乗せ――心臓の真上に位置する箇所を撫でた。
ないは視線で拡張視野からVIVIのメッセージを消すと、カルテのページをめくり、くゆりの基礎情報の項を指でなぞった。
三葉くゆり。
性別:女。
十二歳。
犬猫態
爵位なし。
インプラントなし。
高速催眠学習経験なし。
クオリアテスト――合格。
意識剥離性自閉障害。
注記――先天的明晰者。
くゆりは、連合のスフィア・
くゆりには父親が存在しない。厳密には、くゆりの受精卵のもととなった精子は、女性から作成されていた。転換器を挿入したインタポーザを用いることで、ゲノム擦り込み制御を行うことなく二母性LMOを出産する技術は、もう半世紀も前に確立されていた。十三年前に旧連合が滅んだことを契機に、連合法でも二母性LMOは認可されていたし、現在二母性LMO自体は珍しい存在ではなかった。
ただしくゆりの場合、転換器を使用せずに魔術によって産みだされた、現連合においても違法のLMOだった。両親の魔術を融合させたようなNEMESISを有し、猫型耳状デバイスと犬型尾状デバイスを併せ持つ、世にも奇妙な
本来、
現在進行形の現象が、からくりや仮想であるという感覚は体験を与えにくくする。夢と気づくと醒めてしまうのと同じことだ。それが夢と気付いてなお
そして明晰者だけが、サイマト空間を自在に設計できる月の民の資格を得られるのだった。
後天的に明晰者となるには心理学的誘導、脳神経外科的処置などを施したうえで、最低1000標準時間からのターンイン経験が必要となる。つまり準高級爵位並みのオーガニズムレベルと、ある程度の資金が求められるのだ。
先天的明晰者は貴重だった。明晰者となるためにオーガニズムレベルを割いていないということは、サイマト内でも有効となりうる新たな改造施術を受ける余地があるということを意味する。今後のサイマト発展において、重要なピースになりうるのだ。
そしてもっとも肝心な部分は、くゆりが現在いずれのスフィアにも籍がなく、CP所有も認められないような人権のない違法LMOであるということ。くゆりを
くゆりは、
そのMAYによる意識剥離性自閉障害治療を一任されたのが、サイマトセラピストである、香取ないだった。
モノアミン強制産出幻覚剤。略称、MAY。通称、鼠薬。
十三年前、スフィア・
MAYを服用すると、この世のあらゆる薬品よりも強烈な多幸感をもたらし、特徴的な幻覚を見せる。
それは妻子が眠る家に魔術で火をつけることに無上の歓喜を覚える幻であったり、恋人を積分杖で刺すたびに絶頂を極めるような幻であったり、あるいは敬虔な教徒であれば偶像に小便をかけることを祈りとし、騎士であれば領主を敵対スフィアに売ることで忠義を立てようとする――信仰反転性幻覚とも呼ばれている、服用者の正と負の情動を強く混線させた幻覚だった。
情動を絶対値化する、といえばわかりやすいかもしれない。ある個人にとって最大の正と、最大の負が絶対値化され、区別できなくなってしまい、過剰に増幅された神経伝達反応が、両者を合成して再生しまうのだ。これは、MAYが情動反応の処理を司る扁桃体機能にとくに重大な影響を及ぼすためだと言われている。
作用機序としては、MAYはドーパミンなどいくつかのモノアミンに対するリガンドの構造を変化させ、受容体を活性化させ、反応を増大させる。また、再取り込み阻害薬と同様にトランスポーターと結合し、再取り込みを抑制してシナプスにモノアミンを留まらせる働きもする。さらに、結合しそこねたMAYはシナプスに留まりつづけ、一時的にモノアミン分解酵素のダミーにもなるので、神経伝達反応が抑制されることもない。これらの機序を経て服用者は性的絶頂時の何万倍もの神経伝達反応を強いられ、幻覚のなかでもっとも忌避する行為ほど幸福を感じるようになる。だがその反動で、強力に
MAYによる多幸感が過ぎ去ったあとに訪れるのは、ダウンレギュレーションによる壮絶な鬱状態だ。服用者のほとんどは、一回の使用でPTSDを発症し、二度とMAYに近づくまいとする。ところがなかには至高の多幸感を忘れられず、MAY中毒者となるものもいる。そしてMAY中毒者が行きつく先は、自発的な摂食を行う意志すら見せないようになり、さながら魂の抜け殻のようになってしまう自我喪失、および自閉症状。その原因は、MAYによってまさに意識と脳が乖離してしまい、魂が形成できなくなる状態にあった――。
生体プラズマ計算機・色即是空による解析で、月面のワームホール状重力異常地域から発見された、分化多能性模倣子たる異次元・海宙。海宙を利用した人類の
物質や情報の構造によって重力場が変化する、構造重力という見かけ上の力がある。大脳新皮質の皺とDNAの構造、そして脳内の発火による複雑な意識体験がもたらす電磁場変動によって、水や金属イオンが熱振動のホワイトノイズを、蛋白質などの大型分子がカラードノイズを生じさせる。そのノイズたちが絶妙に(そして極小に)空間を歪曲させて微小重力を発生させ、本来空間中に遍在し、思想や集合意識、シンクロニシティなどの伝達を担うサイマトを脳内で収束させることで、個人の魂が形成される。
簡単に言えば、
この発見により、魂の存在を解き明かす魂魄学が発達、脳と意識の相関性が近年になって急速に解明され、意識のハードプロブレムは解決しつつあった。
MAY中毒者の自閉症状が、意識と脳が乖離した状態であると判明したのは、魂魄学の成果だった。MAYによる信仰反転性幻覚がもたらす情動のあまりに急激すぎる変化は、それまでその脳に発現していた意識との位相差を生じさせる。その位相差は時間とともに零に近づき再び同期するが、回復する前に複数回にわたりMAYを濫用し位相差を蓄積させていった場合――やがて脳と意識は完全に同期が取れなくなり、魂は消え失せる。意識を、幻覚のなかに置き去りにしてしまうのだ。これは、意識剥離性自閉障害と呼称されている。
非常に厄介なことに、MAYによって意識剥離性自閉障害が引き起こされると、外部からの情報認識が処理されないため、いかなる心理療法も意味をなさない。
また薬物治療も効果はない。メカニズムから考察するに、脳をMAY服用時と同じ状態に持っていくことで再び意識と同期させ、緩やかに脳を平常時に戻していけば、魂が構築される可能性はあるだろう。だが強力なダウンレギュレーションがそれを許さない。脳側からでは、置き去りにした意識に辿り着けなかった。
残された手法は、意識側からの治療だった。そしてここでようやく――
VCD・サイマトとは、海宙内に設計した仮想空間だ。色即是空を通じてこの空間から、任意の認識を自らの意識に書き込むことを可能にする。海宙は分化多能性模倣子であるため、人類にとって既知・未知のあらゆる文化を含み、許容し、実現を可能にする。海宙内のVCD・サイマトでは、人類は想像しうる限りのあらゆる体験を享受することができ、その記憶だけを現実に持ち帰ることができた。
プロセスとしてはこうだ。まず脳を色即是空に接続する。そしてあらかじめ設計しておいたVCD・サイマトにターンインする。VCD・サイマト内では、受容体集合と呼ばれる仮想人格モデルを、いわゆる仮想空間内の肉体として持つ。そこではあらゆる事象は、ユーザーが受容体集合で体験する認識を根底の法則とする。ユーザーが感じたいように感じたように、VCD・サイマト内の仮想物理法則が追従するのだ。コペルニクス的転回世界、とも言えるだろう。その体験記憶は文化を伝達する海宙と同じ次元の場にある個人の認識に保存され、ターンアウト時の処理によって脳に書きこまれる。
意識剥離性自閉障害者に施されるサイマトセラピーは、このVCD・サイマトを活用したものだった。VCD・サイマトは意識の次元の空間だ。それはまさに、意識剥離性自閉障害者が情動を狂わされた幻覚を見ているのと同じ次元だった。
明晰者であるサイマトセラピストは、患者と同じVCD・サイマト空間にターンインすることで、信仰反転性幻覚に囚われている患者に干渉することができた。その空間内で、複雑に絡み合った正の情動と負の情動を切り分け、再生し、再認識させることで、意識の認識の正常化を促すのだ。
現時点で意識剥離性自閉障害を治療するには、VCD・サイマトを応用して剥離した意識の認識を正常に戻すしか手立てがなかったが、実際、サイマトセラピーは一定の成果を上げていた。セラピストの技量によるところは大きいものの、意識剥離性自閉障害は手のつけようのない不治の心の病ではなくなっていた。
VIVIのメッセージ。『レディ、もしかして、怖気づいているんですか?』その言葉に含まれる意味が、非難なのか、嘲笑なのか、ないには嫌というほどわかっている――両方だ。
ないは辟易して黒縁の眼鏡を外し、みっつめのチョコレートを食べると、目頭を揉んだ。
ないの憔悴の色は濃かった。くゆりの治癒の兆しは、ようやく見えてきたところだ。
ないは
ところが計画していたカリキュラムを開始した当初――ないは、ことごとくセラピーを失敗に終わらせていた。
セオリー通りであればまず、たとえば正の情動を司るシンボルとして、患者のもっとも親しい人物のモデルを用意し、それを
セラピストは、
そしてなにより、ないが得手とする、性体験を通じて正の情動を
だがくゆりに、セオリーはまったく通用しなかった。くゆりは、どんな状況、場所においても対象を害することもなく――、とにかく自死し、強制ターンアウトしてしまっていたのだ。
サイマト空間側から患者の行動を制限し、セーフティをかけることもできるが、それが信仰反転性幻覚に強力に結合している場合、以降の意識体験がフリーズしてしまうだけにすぎない。完全に手詰まりだった。
くゆりのプロファイルや幻覚内容を解析していくなかで、ないの頭を痛めたのは、くゆりの世界の小ささだった。五キロ平方メートル足らずの超小型スフィア、それにぽつんと建てられた2LDKの平屋――くゆりの世界は、それですべてだった。
くゆりには友人も隣人もいなければ、産親以外に家族もいない。おじさんと呼んでいるLMOがひとりだけいたようだが、それも一年に一度程度しか会っておらず、くゆりが持つおじさんの情報自体が少ないためにシンボルとしては扱いづらい。
くゆりはほかのLMOとは一切の交流を断絶し、CPも所有せずオンラインネットワークに触れたことすらない。そしてLMO以外の動物を見たことさえない。まともな教育も受けておらず、社会とはまるきり隔絶した世界の住人であり、ゆえに生死の知識はあれど、だれかを害するという概念そのものを持ち合わせていなかった。
すなわちくゆりにとっての信仰反転性幻覚とは、くゆりの世界そのものである産親と離別すること――己の死のみだった。
産親以外に他者を知らず、産親のスキンではどのようにアプローチしても、ないの目の前で多種多様な自死を繰り返しつづけるくゆり。奴隷化を約束された先天的明晰者の使用権について、経営陣が政治的なかけひきに夢中になっているせいで、手柄を逸ってないに重圧をかけてくる上司や、ちょっかいを出してくる別チームのチーフ、その他諸々――。
ないは万やむを得ず自分のスタイルを曲げ、自分のスキンをチューニングし、くゆりのセラピーに挑むこととなった。
今度は壁のディスプレイに勝手に干渉してスイッチを入れ、VIVIが無慈悲に追撃してきた。『でも、もう大丈夫でしょう、レディ? 新たな正の情動は散々教えこみましたし、もうあの
「……わたしには、わたしのやり方があるの」
『はやく治療してしまわないと、そしてあなたに依存させないと、――あなたの立場も危うくなりますよ』わざわざメッセージ間に間を持たせて、厭味ったらしく強調してくる。
「わかっているわよ。けど、アーク、忘れないで。わたしはあくまでセラピスト。患者に寄り添って、分析して、セラピーを進めるのは、当然のことよ」
『これが治療だと? おかしなことを言いますね。ここは工場ですよ。麻薬中毒者という原料から、サイマト奴隷という製品を生産する、工場。あるいは
ないはディスプレイを睨みつけた。「そうしたくて、やっているわけじゃないわよ。あの子は、あまりに世界を知らなさすぎる。まずは教えてやらなければ、切り分けることすらできない。破壊の前には、創造が必要なの」
『つまり、趣味でしょうか』
「……? なんのこと?」
『いえ、こちらの話です。ともかく、はやく治療を進めてくださいね、レディ。こんな調子では、いつまで経っても一人前の――
「……ああ、もう、わかったわよ」CPをひっぱたくようにして、ディスプレイの画面を切った。「やってあげるわよ、この悪魔」いつつめのチョコレートを噛み砕いた。