おぼろげに思いだせる――好きだったもの。
お風呂から出たあと、ドライヤーでかわかした、お母さんの尾っぽのにおい。
洗いたてのやわらかいタオル。ほかほかおひさまのにおいのするおふとん。
ぽかぽかぬくぬくした陽射しの明るさで目が覚めたあと、おうちの窓辺で、背伸びをしているとき。
お母さんがたまに注文してくれる、わさんぼん入りの食パン(噛むとおくちのなかにふかぁってあまぁいおさとうの香りがひろがって、とてもおいしい)。
お母さんがお庭でそだてた、ハーブのお茶。
お母さんがつくってくれた、トマトとツナのパスタ(ママの大好物だったんだって)。
ホイップクリーム添えのシフォンケーキ(これも!)。
ママのむつかしいご本は、書いてる意味はぜんぜんわかんないけど、いろんな動物の絵が載ってるやつは、好き。
ママの研究スケッチ。
おうちがおおきなスフィアの下を通りぬけて、ぱあって明るくなって、やぐらがきらきら、かがやくとき。
卵とか、牛乳とか、お肉とか、お野菜とか、売りに来てくれる商人さんのおうち(あたしのおうちよりもちっちゃくて、とってもかわいい)。
お母さんがあたしのためになおしてくれた、昔のママのお洋服。
ミミッド式ジュージュツがうまくできて、お母さんにほめられたとき(でも練習はきらい)。
お母さんが寝る前にしてくれる、ママのおはなし。
CPで昔の写真を見てわらってる、お母さんの横顔。
おでこにキスをしてくれるときの、お母さんの胸元のにおい。
今、好きなもの。
びびとのおしゃべり。
ターンアウトするときの、目覚めるような感覚。
お部屋から見える地球。
サイマトに降りていって、ないちゃんに会うとき。
ないちゃんがむつかしいことを、がんばって説明してくれてるとき。
かまわないわ、って言うとき。
わたしの名前を呼んでくれるとき。
だめ、だめ、だめ、って言ってるときも、実はすこしだけ好き。
なんでもないわ、ってはぐらかされるのは、あんまり好きくないけど……ないちゃんって感じがするところは、好き。
おいしいものをたくさん知ってるところ。
おしゃれなところ。
心配してくれるところ。
やさしいところ。
バラのにおい。
きれいなお顔。
きれいな尻尾。
きれいなおてて。
きれいなおめめ。
髪をいじるくせ。
おっきくてやわらかいお胸。
そのおっきなお胸を撫でるくせ。
それに、お別れの前にしてくれる、キス。
/クレッセント・クリサリス
ひどい暑苦しさに、くゆりはシーツを蹴り飛ばして飛び起きた。
純白の病室――、一瞬、自分がどこにいるのか把握し損ねる。
――
ここで一ヶ月と少し、この部屋で寝起きしていた記憶ははっきりと残っている。だが、見慣れていながらにして初めて訪れた部屋のような、奇妙な錯覚を、くゆりは感じていた。
――そっか……薬、切れて……意識、戻ったんだ。
「っ……」
そう自覚するやいなや、月に降り立ってからのあらゆる現実の記憶、夢の記憶が次々と鮮明にフラッシュバックし、軽い頭痛と眩暈を覚えた。額を撫でながら、何度か深呼吸してゆっくり思考を整理していく。
――大丈夫、大丈夫、ぜんぶ、覚えてる……。
未だ脳の全体に霞がかかったように細部までは明瞭に想起できないが、もっとも重要な事柄だけは、理解できている。意識の集中を乱しているのは――。
くゆりは汗で貼りついた患者服をつまみ、下着のなかを覗きこんだ。むっとする性の臭気。寝水をしたような惨状。
――フィードバックされちゃったんだ……。
くゆりは天井のカメラの位置を確認すると、背を向けてシーツをかぶり、横になった。
病室に、かすかな吐息と衣擦れ、くちゃくちゃという水音が奏でられること半時間――。
――う……、だめ……、あたしの指じゃ……ぜんぜん、イケる気がしないや……。
くゆりは悶々としたまま、再びまどろむように意識を手放し――本物の夢のなかへ落ちていった。
まばゆい熱線が、天を薙ぐ。
熱波とイオンシールド内の大気が焦げる異臭が吹きつける。耳をつんざく軋みを上げて、溶断されたデリックが傾いだ。
平屋の裏に取りついた、熊のような巨躯を持つ牛頭のエーテル活動群の仕業だった。一手に引き受けてくれたキキおじさんの安否が気がかりでしょうがなかった。
でも、身じろぎひとつできなかった。待機状態の
見ているだけで、息もできないほどの張りつめた空気。
最初に動いたのは、白蛇だった。正面から二つの頭が牙を剥き、両脇から無数の毒針の雲霞と毒液の奔流を吐きかける不可避の連携――母の巨躯は火花を散らし、けたたましい金属の咆哮を上げて真っ向から飛びこんでいく。
パワードスーツは強化されていない視神経には影すら映らない俊敏さでNEMESIS積分杖を振るい、針を叩き斬り、毒液を飛び越え、二頭を泡の炸裂で吹き飛ばして、着地を狙ってきた一頭を三枚におろした。
パワードスーツの各部に仕込んだ液体炸薬によって、文字通り爆発的な初動がもたらす尋常ではない瞬発力は、装甲の方が耐え切れず軋みを上げ、さながらパワードスーツが悲鳴をあげているかのようだった。
相対したものにとっては、でも、悲鳴をあげるどころではない。次の瞬間には雷光と鉄火のみを残して黒い巨体は忽然と消失し――、己の首を刎ね飛ばしているから。
スフィア・
でも――白蛇もまた、大陸の怪物。残った四頭は音を断ち切る杖の剣撃さえ掻い潜り、パワードスーツの両足、左腕、腹部に鋭利な毒牙を突き立てた。
装甲に穿たれた穴から赤黒い液体を噴きださせ、そして恐るべき噛合力の前に、今度こそパワードスーツが耳障りな音を立てて、ひび割れ、もしくはいびつに歪みはじめた。
それでも騎士は――お母さんは、最後のちからを振り絞って積分杖を持ち上げ、蛇の腹にねじこみ――魔術を起動。なまっちろい蛇の胴体が、内側から弾け飛んだ。火と煙、塵と芥の伴わない純粋な暴力の炸裂。甘ったるいエーテル血液の碧い雨が、スフィア・
「お母さん!」
思わず駆け寄ったあたしを、お母さんは叱咤した。
「来ちゃだめ!
「で、でも――!」
どうしていいかわからなくて、おろおろする、あたし。
フェイスマスクをおろしているからお母さんの表情はわからないけど、黒いパワードスーツは、あっちこっちから液体が漏れ出ていて――。
それって――その、お水って……お母さん――。
「お母さんは、キキくんとあとから追いつきます。だから、くゆりは先に脱出しなきゃだめ」
なんでもないような、平板な声。それが、心配させないようにとして、パワードスーツの機能を使って補正していると知っていたから……余計に。
「いや! お母さんとじゃなきゃ、いや!」
今離れ離れになったら、もう二度と出会えなくなる、そんな気がして、あたしは灼けた装甲に抱き着こうとして、寸前で服の襟首をつかまれて、摘み上げられた。
「ほんとうに、この子は、我儘なところばかり、あのひとに似て――」
平板な――でもどこか、ぬくもりのある、穏やかな口調。
あたしはばたばた手足を振りまわして暴れたけど、
「やあ! いや! お母さん! お母さん! お母さん!」
「行先は、ククが知っています。ごはんは三日分しか積んでないから、一度に食べすぎちゃだめ。きちんと計画して食べなさいね。おトイレの方法は、ククに訊いて。いいこと、コクピットを開けて、外に向かってしちゃうなんて、絶対に、だめですからね。そんなはしたないこと、お母さん、ほんとうに許さないんだから。お着替えもお風呂もないけど、しばらくは我慢して。あたしの実家に着けば――いえ、あるとは限らないかしら。あのひとたちのことだものね。でもきっと、ミミッドにさえ辿り着けば、あとはもう、なにも心配はいらないから。だから……ね?」
淡々と告げるお母さんのうしろで、平屋が――十一年間育ってきたあたしの唯一の居場所が、炎に包まれた。
「いやああ! お母さん! 離して! 離してよう! お母さんと、一緒にいさせてよう!」
「くゆり……お願い、先に、逃げて。もう……あたしに、守れなかったもの――増やさせないで――」
ハッチが閉じはじめる――お母さんが、フェイスマスクを上げた。今にも泣きだしそうな、汗みずくで青白くなった、お母さんの顔。
「お父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、らいかに、よろしくね――」
「お母さん! お母さん! 待って、お願い! お母さ――」
ハッチが完全に閉じる。
「クク! 待って! 戻って! お母さんを助けて! おじさんを助けて! クク! おはなし、聞いてよう……!」
コクピットを手当たり次第に殴りまくる。
眼下――どうしようもなくなったあたしが窓から見守るなか、次第に小さくなっていくスフィア・
「いやあああああああああああ……!」
赤すぎる、あまりに赤すぎる爆炎を噴きこぼれさせ――雲のなかに、消えて行った。