両親を忘れたいとまなかさんは言った。
その話を聞く限りマトモな親ではないのだろう。娘のことを金のなる木とでも思っているらしい。
そんな両親を忘れて、自由に暮らしたい。それが彼女の願い。
勿論叶えてやるのは簡単だ。俺が催眠して、一言命令すればいい。
自分の両親の事を忘れろ、と。
彼女は俺と櫻井と花城に巻き込まれた、言わば被害者だ。催眠というちっぽけな俺の労力で彼女が幸せになるなら、是非ともやってやろうという気になる。
とはいえ、一日だけ記憶がなくなる、といったような軽度の記憶喪失とは程度が違う。その人の根底に根付く記憶の削除だ。多少慎重になりすぎるくらいがちょうど良いだろう。
俺は少しだけまだ乗り気じゃなかった。何かがくるって彼女がおかしくなっても、その責任を取れないからだ。
……ああ、あんまり催眠をしないのも、そこら辺が怖いからなのかもしれないな。
「とりあえず座りましょう。まなかさんこっちに」
「はい」
玄関先での立ち話では済ませられない会話になる。後こんな格好の女体をいつまで玄関から丸見えの場所に置いとくのもまずいだろう。
そんな事を考えながら靴を脱いで部屋に上がると、突然視界にピンク色の何かが映った。
「あん?」
綿毛が浮かぶような、そんな速度だった。
やけに発色の良いピンクだった。自然にそんなの発生しますかねってくらい。
気にせず部屋の中に。どうせ彼女の私物からなんかふわふわもこもこした何かが飛んできたんだろう。それが玄関からの風で飛んだ。それだけ。
「よいしょ」
鞄を置き、折り畳みのテーブルを部屋の中央に立たせる。
まなかさんを対面に座るように顎で指し、自分も座る。
「それで──」
目の前にHカップのビキニ美女を据えたところで、俺は固まった。
思わず自分の目を疑う。
「なんだ、これ……?」
俺は目を閉じたり開いたりを暫く繰り返した。
必死に視界の中に映るそれを消したかった。
けれど消えない。
彼女の胸の内側に浮いた、ガラス細工のようなハートマーク。
「……?」
まなかさんが俺の様子を見て不審そうに首を傾げた。
それどころじゃなかった。
なんだあのハート。まるで彼女の身体の内側が透けるように浮いている。
そしてそのハートから、ピンク色のこれまた小さなハートが飛び交っている。たんぽぽの綿毛のようにまなかさんの身体からふわふわと飛び散っている。
……なんだ、これ。
「まなかさん、それ、何?」
「え? えと、これは……び、ビキニです?」
彼女の胸元を指差して尋ねると、向こうも向こうでなんのこっちゃとはてなマークを浮かべて何とか答えた。
ちげぇよばか、その胸の中の奴だよ。
そうキレても良かったんだが、何故だか彼女にはそれが見えていないという直感があった。
これも恐らく、俺の能力……?
「いや、じゃあなんで今まで出なかった?」
何がトリガーか検討もつかないが、こうして自然に発動したということはこれ以前にも勝手に発動していた可能性が高い。
それでも気がついたのは今が初めてだ。
そんな事あるのか?
本当に前から発動していて、俺が気がつかなかっただけなのか?
俺は、何故かそうとは思わなかった。
どうにもこの能力が今発現したように思えてならない。
だとしたら、何故今なのか。
櫻井もいない。嘘か本当か分からないグラビアアイドルと二人きりの状態で、何故今突然に。
……分からない。何もヒントがない。
まるで俺の催眠能力が急に進化したみたいだ。
レベルが上がって、次なる能力を得るために進化した。そんな感じだ。
本当にただの催眠能力なのか。
なんかもっと恐ろしい能力なんじゃないか。
そもそもこの能力はなんなんだ。どこで手に入った、俺はいつ手に入れた、これは、一体─
「う、ぐぅ……!?」
瞬間、割れるような頭痛。
いつもこうだ、この能力の事について深く考えようとすると、それを邪魔するように頭が痛くなる。頭に住み着いた小さな悪魔が仕事だとばかりに起き上がって、手当たり次第に攻撃し回るのだ。
ふざけた話だ……と怒るのは簡単だが、こんなに甘い蜜を吸わせてもらっている俺が怒る資格なんてあるのだろうか。
「真田様っ……!?」
脂汗をかいて項垂れる俺に、まなかさんは見かけとは裏腹な機敏な動きで俺に駆け寄る。隣に座り込み、背中をさすってくれる。
ちらと横を見れば、彼女の胸元にガラスのハートが浮いている。中にはピンクのインクのようなものが溜まっていて、ハートの周囲には桃色のオーラみたいなのが容器を包んでいる。そのオーラからハートマークが浮かんで飛んでいるみたいだ。
なんなんだよ、これ。
俺は訳がわからなくなって、どうにかなりそうだった。
──あ、やば、気持ち悪い。
意識が、保たない。
ーーーーーーー
「真田様……!」
俺が目を覚ましたのは、それから一時間後。
そばには相変わらずマイクロビキニを着た、神崎まどかが居た。
まだ着替えてなかったのかよと呆れたが、彼女の様子を見る限り、この一時間本気で俺の事を心配していたようだ。
彼女の感情を表すように、胸のハートが心配そうな青色に変わっている。
……感情まで分かるのか、これ?
「ま、一旦置いとくか……」
まなかさんに問題ないと告げると、立ち上がり、スマホを探す。
早く櫻井に電話しないと。
櫻井なら、なんとかしてくれる。
俺の不安を解消してくれる。
櫻井、櫻井、櫻井、櫻井、櫻井、櫻井、櫻井。
櫻井。
櫻井。
櫻井。
櫻井。
櫻井。
櫻井。
「櫻井──」
俺はスマホを手に取ると、祈るように彼女へと通話を掛けた。
コール音が酷くもどかしく感じる。
早く繋がってくれと、叫び出したいような気持ちになる。
同時に今の自分が明らかに正常ではない事に気がついて、怖くなった。
なんだ、俺はどうしちまったんだ。
早く櫻井の声が聞きたくてたまらない。
とにかく、安心したい、落ち着きたい。
この胸の中の不安を、取り除きたい。
全てが、櫻井に助けを求めていた。
櫻井なら、俺を、助けてくれる。
確信のない信頼があった。
助けてくれ、櫻井。
『もしもし、どうしたの真田君?』
長めのコール音が鳴って、櫻井が出た。
俺はホッとした気持ちになって、思わずため息を吐いた。
『いやぁ……!』
『もう、静かにしてったら……』
どうやら電話の奥では誰かと一緒にいるらしい。
ちょっとだけ彼女のプライベートを邪魔して申し訳なく思う気持ちがあったが、そんな事よりも安心が欲しかった。
電話の奥では、ばちち、と空気が弾けるような音が連続して聞こえた。静電気をもっと大きくしたような音だった。
何の音だろう。着替えでもしてたのかな。いやしかしそんな真冬みたいな静電気が──まぁいいか。どうでも。
『がぁ、ぅ……!?』
『これでよし……ごめんね。それで、何かあった?』
「ああ、その、えと、……う、上手く、説明出来ない……会って話したい……会いたい、会いたいんだ……櫻井」
俺は彼女に今の状態を説明するつもりだったのに、口からは何故か会いたいという一言しか出なかった。
それほど、俺は大きな不安の中に居た。
櫻井は「く、くふぅ……♡♡」と妙な鳴き声を出すと、すぐに分かったと返答した。
『でも今ちょっと動けないんだよね……真田君、こっちに来れる?』
「いいけど、何処だ? 遠いのか? 早く会いたい……」
『ん、んぐぅ♡ ……はぁもう、なんなの、可愛すぎ……おまんこ濡れてきちゃう……んんっ、てそうじゃないや。えと、それでね。ううん、全然遠くないよ、今から場所教えるね♡』
俺は櫻井の説明を聞きながら、出かける準備をする。
幸いにも場所はそう遠くない。三十分も掛からない筈だ。
「真田様」
呼ばれたので振り返ると、そこにはすっかりビキニをやめて朝の格好──童貞殺しの服を着たまなかさんが居た。
ついてくる気満々の顔だった。
「いや、まなかさんはついてこないで良いです。彼女に会いに行くだけなので」
「なら、まなかも挨拶しませんと。これから共に真田様を支えていく仲間として」
「……」
こいつ、マジで頭大丈夫か。
そう思い、怒鳴り散らしてやろうかとも思ったが、今は時間が惜しかった。
勝手にしろと吐き捨てて、家を出る。
彼女は当然のように俺の背後にぴったりとついてきた。
我ながら余裕のなさすぎる自分に呆れつつ、櫻井の元へ急ぐ。
どうしちまったんだ、俺は。