「櫻井、その、今日の事は誰にも言うなよ……?」
結局ノートは見つからず、その日、俺たちは荷物を教室に取りに戻った。
当然クラスメイトたちは全員帰宅していて、スマホを見ればクラスのグループから何件か抗議のコメントが届いていた。待たされた挙句放課後まで音沙汰なしとなれば、それは怒るだろう。
櫻井はそれを見ると、特に気負った様子もなく、「明日解いて答えはみんなに送るから、心配しないで」と返信した。授業の内容は、全部理解していると自慢げだった。
「今日の事って?」
櫻井は丸メガネをかけ直しながら、はて、と首を傾げた。
その後思い出したかのように顔を赤く染めると、そっちこそ誰にも言わないでよねと怒られた。
もちろん、と頷き返す。とはいえ彼女はおっぱいの話ではなく机の上で寝た事に対しての釘刺しなのだろうが、俺の中ではなんというか痛み分けに近かった。両者吹聴されたくない今日の出来事を、封印し合うというような感じだ。
櫻井の誤解を解いておっぱいを揉んだとか説明しても良かったが、ここ数分で彼女の認識が少々厄介な事になっているのを把握した俺はどうするべきかと悩んでいた。
端的に言い表すならば、彼女は俺が胸を揉んだ事を当たり前だと捉えている。
その証拠に、
「櫻井、脱がなくて良いからちょっとだけ触って良いか?」
「え、うん、良いよ? さっきから何回もそれ言ってくるけど、そんなに気に入った?」
櫻井はなんて事ないように俺の手を取ると、白いブラウスの上から優しく押し付けた。
柔らかく、ぽよんとした感触に、股間が疼く。
俺は苦虫を噛み潰したような顔で、「ありがとう」と即座に手を戻した。中々に精神力のいる行為だった、乳房から手を離すというものは。
それにしても、普通学校の廊下で、こんな事をする奴がいるか。いや、仮に居たとしても、そいつらはめちゃくちゃバカップルとか、そんな感じだろう。それに比べると、俺と櫻井の関係は極めてフラットというか、甘く見積もっても「クラスメイト+2」くらいの強化値だ。間違ってもおっぱいを揉ませてくれるような関係ではない。
やはり俺が命令したせいなのか。ここまで来ると気軽におっぱいを揉める嬉しさは吹き飛んでいて、ただただ不可思議な現象に首をかしげるだけだった。
せめてもう一度あの状態が再現出来れば、検証も可能なのだが……
「櫻井」
「ん、何かな? おっぱい揉みたいの?」
「……いや、何でもない」
このように、何度彼女の名前を呼んでも、あの停止状態になってはくれない。
全く納得出来ない。あの過程があって今の櫻井の状態があるはずなのに、その過程の再現が出来ない。
ほぼ間違いなく、「おっぱいを揉ませてくれ」という俺の命令によって、今の櫻井が生み出されたはずだ。というかもしこれもコイツの演技なら、俺は人間不信になる。
よしんば櫻井が彼氏にこんな悪戯をする茶目っ気たっぷりの女性だとしても、俺との関係性はクラス委員で一緒というだけだ。甘酸っぱい関係は皆無だ。
閑話休題。とにかく俺はこの短時間で、櫻井をあの、動きが止まった状態にしようと試行錯誤していた。
そのため、何度も櫻井の胸を揉む前の記憶を思い出している。
一度目、櫻井が五分以上の停止状態になった際は、何が引き金だったか。
櫻井はノートを探していた。つまり彼女の意識があった。
俺はというと、スケベ心丸出しで透け透けのブラジャーを盗み見しながら、何か会話の糸口はないかと、雑談を試みていた。
そこで、確かに彼女の名前を呼んだはずだ。櫻井、と。
そして以降、彼女は一切の動作を停止した。
「……そして、次に」
二度目の停止。俺が櫻井に一度目の停止の件について、聞き出そうとしていた時だ。
櫻井は俺の不可解な言動に熱でもあるんじゃないかと額に触ってきた。
目の前でたぷたぷ揺れるおっぱいから逃れようと、俺は及び腰で体を退いた。
『さ、櫻井、大丈夫だから、やめてくれ……』
流石にこちらはセリフまで覚えている。確かにこう告げた筈だ。
そして櫻井は、案の定動きを止めた。
「一度目と、二度目に共通するのはなんだ……?」
顎をさすりながら、美少女と共に校舎を歩く。櫻井は全く変わりない動作で、俺の隣を普通に歩いていた。
超豪運が働いて櫻井の精神に宇宙人が乗っ取りを掛けた、とかじゃなければ、確実に俺の言動、行動にて停止状態にしてしまったのだろう。
一度目と、二度目に共通するもの。それは。
「やっぱ名前しか無いだろ……」
はぁ、と重いため息が漏れた。
この結論は、理科室から出た後からすぐに出たものだ。けれど、何度名前を呼ぼうとも、彼女が再びあの状態になる事は無かった。
お陰で櫻井に「今日はよく名前呼んでくれるね。何かあったの?」と妙な勘ぐりをされた。だったらもう少し頭を働かせて、なんで私おっぱい揉まれてるんだろう、とは考えないのだろうか。ますます謎は深まる。
名前。そう、名前だ。二回とも共通するのは、彼女の名前を呼んだという事しか無い。が、現状、その仮説が外れていることも分かっている。
うーむ、分からん。それとも一度目の停止状態にこそ意味があったのか。
櫻井が動かなくなって色々あたふたしていたので、一度目の記憶は既にあやふやだ。もしかすれば、櫻井がこうなる何かを、俺はしたのかもしれない。
いやでも、意図して櫻井を停止状態にした訳ではない。そうなると自分の行動を逐一覚えていない俺では、仮に一度目の記憶があっても大差は無かったように思える。
やはり何かあるのだ。名前以外に、あの状態にする方法が。
そして早い事それを見つけないと。早く彼女の呪いを解いてやらないと。今の彼女は、例え冗談でも「おっぱい揉ませて」と言われれば迷う事なく頷いてしまう。その相手が同級生の女子ならギリギリセーフかもしれないが、櫻井の場合見知らぬおっさんにでも胸を貸し出してしまう。これはマズイ。
せめてキスとかにしとけばよかった。いや、それはそれで気持ち悪いか……でも、おっぱい揉ませても冷静なってみると最悪に気持ち悪いな。
「うーむ……」
いつの間にか下駄箱に着いた俺は、ひとまずこれ以上は櫻井と一緒に居られないことを悟った。
べ、別におっぱいが揉まなくなって悲しい訳じゃないぞ。単純に、今の櫻井を俺の周りから居なくなることが危険というか、ヤバそうだと思っただけだ。
とりあえず、どうにかしないと。
「櫻井、もしかしたら夜、電話かけるかもしれないけど良いか?」
俺は自分のスマホをフリフリと見せるようにして、そっと顔色を疑った。もうこれは癖だ、今更治せない。
今はそんな事より、彼女の行動を把握することの方が重要だ。
「え、うん……良いけど、急にどうして?」
櫻井は何故か頬を赤く染めると、その理由を聞いてきた。
「いや、今日の宿題。一応自分でもやってみようと思って、その、それの、答えというか……なんだろ、アドバイス? を貰いたくて」
我ながら咄嗟に思いついた嘘にしては上出来だ。電話してまで確認するのは、もちろん誰かに胸を揉ませて居ないかだ。流石に堂々と女性向かって「おっぱい揉ませて」と頼む奴は居ないだろうが、現に俺はまだよく分かっていない状態にもかかわらず、櫻井の巨乳に釣られて口にしてしまった部類の人間だ。油断はできない。
櫻井は多少惚けた顔をすると、上履きを履き替えながら、プイと顔を背けた。
「……うん、分かった。ま、待ってるね……」
櫻井は自分の顔を隠すように頬を押さえると、「じゃあまた夜にね」と足早に立ち去ってしまった。
家は近いとの話なので、大丈夫とは思うが、どうせなら家まで送ってやりたかったな。
まあ、いいか。
……それよりあいつ、なんで今あんなに嬉しそうだったんだろう。
ーーーーーーー
家に帰ると、俺は新しいノートを取り出し、忘れない内に今日の出来事をメモった。
「えーと、最初は……」
日付を書き、櫻井の一度目の停止状態について詳しく書こうとしたところで、今朝ヤンキーに会ったことを思い出した。
あれもかなり衝撃的なものだったが……
「あっ!?」
雷に打たれたような思いで、俺は思わず声を上げていた。
そういえばあいつも、俺のよく分からない呪いにかかっていた気がする。
慌てて隣のページに、近所のヤンキーと書き足す。
「んで、えーと……なんて命令したっけか?」
胸を揉んだのは覚えてる。今日でどんだけ揉んでんだよ俺、というツッコミは置いておいて、確かに触れた。櫻井のおっぱいの感触とはまた違う、むちむちの乳肉を。櫻井のはどっちかっていうと柔らかさ重視だったな。
そうしていると、股間がムクムクと膨れ上がっていく。いやいや、勃起させてる場合じゃないだろ。
「とにかく、命令はおっぱい……どうやって停止状態に……?」
確か、コンビニであって、あいつの分まで俺が払って、そしてお腹が空いていたので近くのコンビニでパンを食った。向こうはシュークリームか何かを食べてた気がするな。
そこで、俺はおっぱいに触った。
「……あー、そうか。代金の代わりに揉ませろとでも言ったような、言わなかったような」
と、そこまで思い出して、とある事に気がつく。
「嘘だろ……俺、アイツの名前呼んでない……」
今度こそ、俺の仮説は崩れた。
だって俺は、あのヤンキーの名前を知らない。呼んだこともない。
もしかしたら校内でちらりと耳にしているかもしれないが、俺はそれが彼女だと認識していない。故に俺の中であいつはヤンキーとしか記憶されてない。
俺は頭を抱えた。本気であの状態にする方法が分からない。
「せめて誰か第三者を設けて検証しないと……」
クソ、どうすりゃいいんだ……
俺は夕飯の支度もせずに、あーでもないこーでもないとノートに書き散らした。
「……ちくしょう、なんもわかんねぇ」
ベッドに寝そべり、天井を見上げる。もはやどれをどうすればいいのか、何も分からなくなっていた。
事態は中々に深刻だ。ヤンキーの事を思い出すまでは、俺にはまだ多少の余裕があった。心の何処かで楽観視していたのだろう。けれど、「名前」というほぼ正解だろうと見ていた答えは、実は全く答えでもなんでもなかったのだ。
「どうすりゃいいんだ……」
俺は空腹を訴える腹をさすりながら、スマホの画面で時計を確認した。
時計は夜の九時を指していた。いい加減飯にするか。
「……お、電話か?」
立ち上がってキッチンに向かおうとすると、手に持ったスマホが振動した。
画面には櫻井の文字があった。なにも考えずに応答する。
「おう、もしもし」
『……も、もしもし』
「なんでちょっと緊張してんだよ」
俺は苦笑しながらベッドに腰掛けた。櫻井は完全に美少女なんで面と向かって会話するのは今でも緊張するが、電話越しだとそうでもないな。
むしろ緊張しているのは向こうの方らしい。
『だ、だって、男の子にかけるの、初めてだから……』
「そ、そうか。それは勇気いるな。偉いぞ」
『……そういうそっちは、慣れてるみたいだね。女の子、との電話に』
少々棘のある言い方に俺は閉口した。コイツ急になんで怒ってんだ。
「そんなわけ無いだろ」と返すと、スマホを操作して登録してある現在の友達の数を数える。
「うーむ、我ながら笑っちまうな……まあいいや。ほら、良く聞け? 俺の友達の数は百二十二人で、その内訳が百十九人が男友達だ」
『……残りの三人は?』
「俺の家賃とか負担してくれてる親族のおばさんと、そのおばさんの娘さんだ。後者は会ったことも無い」
『……それと、私?』
「そうだ。てか櫻井だって、去年のクラス委員で必要だから登録しただけで、一生電話なんてしないと思ってたくらいだ」
『……そうなんだ』
櫻井の声は、最初に比べると幾分か落ち着きを取り戻していた。
なんとか怒りも鎮めてくれたのか、「そういうことなら」と納得してくれたらしい。
「それで、何の用なんだ?」
『何の用って……調子はどうなのかなー、と思って』
「調子……?」
言われて、そういえば櫻井に電話すると約束したのを思い出した。今の今までヤンキーと櫻井の謎を解明しようと必死だったので、頭から抜け落ちていた。
「ちょ、ちょっと別の事考えてた……」
『別の事って……?』
また声のトーンが落ちた。ヤバイな、今ここで櫻井の好感度を下げるような事はしたくない。近づき辛くなれば、その分あの乳揉みの呪いを解くにも障害が出るかもしれない。
それに、名前を呼ぶという行為が無くても停止状態になれる以上、調査は完全に振り出しになったのだ。どうにかして、せめて櫻井だけでも守りたい。彼女の側になるべく居てあげたい。
「櫻井……明日会えないか……?」
気がつくと俺はそんな事を口走っていた。
でも、櫻井が側にいないと落ち着かない。いや、恋心的な意味じゃなくて、いつ誰かに乳揉まれるか不安的な意味合いで。俺のせいで櫻井がタダ乳女になっていたら、後悔してもしたりない。
『っ……!?!!?!!?!』
電話の奥では、がちゃんと携帯をとり落す音が聞こえた。めちゃくちゃ動揺してんじゃん、別にデートに誘った訳でもないのに。
しばらくすると、櫻井は嬉しさ半分、驚き半分といった様子で、
『そ、それって、デートのお誘い……?』
と聞いてきた。
今度は俺が携帯を落とす番だった。