虚無の世界に佇む一人の少女。彼女の視線の先には愛する人がいた。
その人は少女に優しく微笑みかけると、背を向けてゆっくりと遠ざかっていく。
『はる君!』
少女は追いかける。されど一向に縮まらぬ距離に、少女の憂色は濃くなるばかり。
『さよならだ。今までありがとう、ほのかちゃん』
鼓膜を揺さぶるのは愛する人の声。別れを意味する言葉は、少女の涙を誘う。
『イヤッ、そんなの聞きたくないッッ!』
『またね』
『いかないではる君ッ‼』
目一杯に手を伸ばすと、手のひらには微かなぬくもりを感じた。少女は、それが愛する人と自分を繋ぎとめる唯一の光だと信じて……思いきり握りしめる。
『絶対に、離さないから!』
少女の強い想いが通じたのか、手のひらに伝わるぬくもりが手全体へと広がった。そして手を中心に混沌とした闇が光に満ちていく。
「――ん……さん」
「ん、んぅ……」
声が聞こえる。消毒液のアルコールの匂い。
「……さん、光井さん」
「――え?」
少女が目を覚ますと市原鈴音の顔が視界に広がった。
「あれ……どうして、あれ?」
「光井さん、大丈夫でしょうか?」
ほのかは鈴音に支えられて上体を起こすと当たりを見渡した。
「ここは会場の医務室です」
「そうですか……あ、市原先輩が……」
「え、ああ、光井さんが眠っている時に声をかけたらこうなってしまいました」
視線の先には鈴音のを握りしめる自分の手が。
「あれは、夢、だったんだ……」
暗闇の中で感じた温もりは鈴音の手だったようだ。手を離すと混濁していた記憶が徐々に蘇ってきて、遥のことを思い出す。
「そうだ、はる君はっ!?」
「そのことなのですが……」
言葉を濁して言いづらそうにする鈴音の姿を見て、最悪を想像する。
「病院から連絡がありまして……意識を取り戻したそうです」
「……え?」
鈴音の告白にほろりと涙が頬を伝う。
「先ほど光井さんの端末にも電話がかかってきていたようですが」
その時にほのかを起こそうと身体を揺らした瞬間、手を握られたというわけだ。
ほのかはベッドの横の台に置かれた自分の端末を手に取ると、確かに着信があった。しかし、登録されていない番号からの着信。
「おそらく病院の電話からだと思われます。病室で端末は使えませんので」
ほのかの耳には鈴音の言葉など入っていなかった。ほのかは急いで遥の端末へと電話をかける。
「出て……おねがい……」
祈るようにコール音に耳を傾け、一回、二回、三回と鳴るたびに激しく胸が震えた。そして四回目のコールが鳴り、それが途切れた瞬間、ほのかの涙腺は崩壊した。
「もしもし、ほのかちゃん?」
「あぁっ……」
不安からの解放と安堵から、目からは大量の涙が零れ落ちる。手で拭いきれぬほどの雫を見かねた鈴音が、ほのかにハンカチを渡すが、端末越しに愛する人の声を聞くたびにハンカチは湿り気を増していく。
「心配させてごめんね」
謝罪の言葉から始まり、次第に遥節が聞こえてくる。
「元気なほのかちゃんの声が聞きたいな」
いつもと変わらぬ声に、ほのか心の憂色が晴れていく。
「はる、くんっ……」
「もう何ともないからさ、もう泣かないでよ」
誰のせいだと、自分勝手なことを言う遥だが、怒りなど湧くはずもなかった。
「うわぁぁん、はるくっん……ぐすっ……ひぐっ……」
「そんな泣かないでよほのかちゃん。かわいい顔が台無しだよ?」
「……うぅっ」
「いま、会場に向かってる途中だから、もうすぐ会えるよ」
「え……ほんとですか?」
「うん。横には雫ちゃんもいるけど、雫ちゃんとも話す?」
「雫はいい」
「ハハッ、雫ちゃんムスーッてしちゃったよ」
もうすぐ遥と会える。それだけほのかの心は幸せで満たされていった。自然と涙も止まり、ほのかの表情に笑顔が戻る。
「でも、本当にごめんね」
「いい、です。はる君が、無事ならそれで……」
「それだけじゃなくてさ」
「え?」
「ミラージバットの試合、もう始まってるよね?」
「……あ」
時計の針はミラージ・バットの試合予定時刻を過ぎていた。
ほのかは目の前にいる鈴音に確かめようと尋ねる。
「あ、あの、ミラージバットの試合は……?」
「予定通り始まっていますね。現在は第一ピリオドが始まったばかりでしょうか」
新人戦ミラージ・バット決勝戦。ほのかは深雪やスバル同様に決勝戦まで勝ち上がっていたが、こういう状況になった以上は棄権という扱いなのだろう。
先ほどまで準備を済ませた深雪がほのかの傍についていたが、さすがに深雪まで棄権するわけにもいかない。
ほのかに『待ってるわ』と言い残して部屋を出ていった。その約束も果たせそうにない。
「ごめん。俺のせいで」
「はる君のせいじゃないです!」
雫の敵討ちではないが、深雪との勝負を楽しみにしていたのも事実。
「九校戦は今年だけじゃありませんから。それよりも、はる君の方が大切です」
眠らされていなかったとしても、雫や真由美らと共に看病という名の淫らな交わりに汗を流していただろうし、結果的に試合を休む形となっていたはずだ。
「早くはる君に会いたいです」
試合の事を忘れようとしているほのかの元に、二人の話を聞いていた鈴音が口を挟んだ。
「試合は不戦敗という形になりましたが、試合には出場可能ですよ」
「え!?」
「光井さんは体調不良と大会本部には報告しているので棄権ではなく治療中という事になっているはずです。途中参加は参考記録として優勝したとしても九校戦の順位やポイントには関係しませんが、出場自体は認められています」
「本当……ですか?」
「はい。過去にもそういった理由で途中参加した人はいましたので、あとは光井さんの気持ち次第です」
ほのかの気持ちは決まっていた。しかし彼女の一存では決められない。
「はる君……」
「出なよ」
「え?」
「出たいんでしょ?」
「でも、早く、はる君と会いたいです……」
「ほのかちゃん」
「なんですか?」
「これは俺のわがままなんだけどね、ほのかちゃんが可愛い衣装で優雅に大空を躍っている姿を見てみたいな」
遥に頼まれればほのかが断れないのは知っている。例えば、遥がほのかに死ねと言えば死ぬだろう。それほどまでにほのかは遥に尽くし、依存し、従順であるのだ。
遥の期待に応えようとほのかは決断する。
「わかりました。でも、試合が終わったら抱きしめてくれますか?」
「うん、離してって言っても離さないから」
「うふっ、他の人に見られちゃうかもしれません」
「バトルボードの試合後に抱きついてる所をテレビに映されてるし今更だよ。俺たちのラブラブな所を日本中に見せつけてあげよう」
「えへ、うへへへ、駄目ですよそんな……不健全です」
ぎゅっと力強く抱きしめられる姿を想像してだらしなく頬を緩ませるが、言動が合っていないほのかを見て鈴音は呆れたように息を吐いた。
「試合に出るために、まずはその充血して腫れぼったい目と、涙で汚れてしまった化粧をどうにかしないといけませんね」
「え、あ、はい」
今のほのかは人様に見せられる顔をしていなかった。
「第一ピリオド終了までまだ時間がありますので、急いだほうが賢明かと」
「はい、わかりました。じゃあはる君……」
「うん。頑張れ、必ず応援に行くから」
「絶対に無理はしないでくださいね」
「ほのかちゃんも無理して怪我しちゃダメだよ?」
「……大丈夫です。この御守りがあれば、どこにいてもはる君が守ってくれるって信じてますから」
いつも首にかけているお守り袋を握りしめる。これがあれば絶対にほのかが傷つくことはない。
「そうだね。じゃあ、いってこい」
「はいっ、いってきます!」
ほのかと鈴音は部屋を出た。
【次回の投稿は6月12日19時予定です】