雫が喘ぎ声を出すという事件があったとは思えないほど穏やかな時間が過ぎていた。
時折、お淑やかな雰囲気に戻った深雪の元へ、交流という名目を背負って男子生徒、ここでは一年生ではなく二年生や三年生が群がってきたが、遥の一言で皆一様に散っていく。
『俺の彼女に何の用ですか?』
遥の言う『彼女』とは深雪の事ではなく彼女の隣に座るほのかを指していたのだが、それを聞いた男子生徒たちは険悪な空気を漂わせながら自分の席へと引き返していく。
さすがに権力を持った人間が近くにいるときに突っかかる度胸は無いようだ。
見目麗しい美少女であり、気後れを感じさせるほどの美貌を持つ深雪に男子が寄ってくるのは仕方ないことかもしれないが、姫を守る騎士の存在を侮ってはいけない。
おかげで深雪やほのかの平穏が保たれた。しかしその代償として遥が一年男子のみならず、二年生や三年生の男子からもヘイトを買ってしまったが、当の本人は気にしていない模様。
呑気に雫やほのか、深雪たちとなぞなぞで盛り上がっていた。
ちょうど富士山についてのなぞなぞを出していた時だ。深雪はぼんやりと窓の外に映る富士山に視線を向けていたため、それに気づくのが一番早かった。
「危ない!!」
叫んだのは千代田花音という二年生の女子だ。
彼女は、恋人が達也と同じ作業車に乗っているため、退屈そうに外の風景を眺めていた。そして対向車線の大型車がパンクしたようで、路面に火花を散らしているのに気づいた。
「パンクだ!」
花音の声に外を見た誰かが叫ぶ。
しかしその声に危機感は無い。自分に関係ないことに興味本位で騒ぎ立てる野次馬のような興奮した声だ。
それもそのはず。
現代のハイウェイは車線ごとに強固なガード壁が設置されている。そのため対向車線の事故で別の車線である自分たちが影響を受けることはまずありえない。
自分たちに関係のない他人の事故は若者にとって興奮を呼ぶ見世物だった。
だが一瞬にして興奮が恐怖へと変わる。
パンクした車体が傾いたことで大型車がスピンし始めた。そのままガード壁に衝突。ぶつかった衝撃で車体が宙を舞い、一高生徒の乗るバスが走る車線へと落ちてきた。
直撃は避けたが、大型車は火だるまになりながらこのバスへと滑ってくる。
バスは急ブレーキがかかり全員がつんのめる。
「ハルカ!?」
雫は状況を打開しようとCADに手を伸ばしていた。だが遥によって制止させられる。
「大丈夫だよ。安心して」
遥は柔らかな笑みを浮かべながら雫の頭を撫でた。すると雫は身体を脱力させながら席に座り込む。
雫は元教師に襲われた後の事、そして司甲を尾行していて暴漢に襲われた後と同じ感覚に陥っていた。
崖っぷちに追い詰められた状況だというのに絶対的な安心感が灯る。遥の笑った顔を見た雫は安堵したのか、自分の頭を撫でる遥の手をギュッと握りしめた。
コンマ何秒の世界。
遥はもう片方の手で誰にも見えない画面を操作する。
「吹っ飛べっ!」
「止まれ!」
「消してやる!」
「っっ!」
迫りくる火を纏う大型車。
瞬間的に、数名の生徒がそれを止めようと魔法を発動させる。
恐怖より正義感や使命感が勝ったのは褒められるべきかもしれない。しかし今回に限りそれが事態を悪化させた。
無秩序に発動された複数の魔法を、同一の対象物に働きかけてしまうと、重ね掛けされた魔法が多すぎるため相克してしまう。
それにより事故回避を妨げる結果となる。
「馬鹿やめろ!」
危機的状況に陥りながら、摩利は冷静に魔法を止めるべく叫んだ。
強力な魔法は一瞬にして現実を書き換えることが可能。だが、無秩序に複数の魔法が発動されたため、この空間はキャスト・ジャミングの影響下と酷似していた。
キャスト・ジャミングは他者の魔法発動を阻害するサイオンのノイズを作り出す魔法。
先に発動された魔法の効果を打ち消し、新たに魔法を発動させるためには、全ての魔法を圧倒する魔法力が必要だった。
「十文字!」
摩利はこの中でそれができる人物の名を呼ぶ。しかし、克人の顔には焦りの色が浮かんでいた。
いくら克人といえど、この状況の中、一人で炎と衝突の両方を防ぐことは困難ともいえた。
ならばキャスト・ジャミングの影響下のような空間が無くなれば。
「会頭。少し待ってください」
「遥!?」
摩利は訝しがる。しかし、疑問より先に驚きの声が上がることに。
座標の設定を終えた遥は、人差し指でバスを囲う結界を発動させた。
結界の効果は『指定した座標に結界を発動。結界内の秩序だったサイオン構造を破壊』というもの。それによりこの空間に溢れていたサイオンの嵐が一瞬にして消え、無秩序に発動していた魔法式がかき消された。
「なッ!? 消えたっ!?」
摩利は驚愕の表情を浮かべる。目の錯覚かと、自分の感覚を疑った。
結界の発動時間は一秒にも満たなかった。この空間のサイオンを消すために発動された結界はすぐに消去され、また元の空間へと戻る。
「私が火を!」
刹那、深雪が迫りくる炎を纏う鋼の塊に対して魔法を発動させた。
車を凍らせることなくあっという間に消火する。その鮮やかな魔法に摩利は感嘆の声をあげる。
「防壁は任せろ!!」
克人が大型車を受け止めることを疑っていなかったため、摩利の意識は目の前の大型車から遥と深雪へと向く。
この一瞬で、いったい何が起こったのか。ほとんどの生徒は迫りくる危機に混乱し、恐怖していたが、摩利は興奮にも似た感情を抱いていた。
大惨事になりかけた出来事を解決し、真由美が皆を落ち着かせるために声をかける。
「みんな大丈夫? 十文字君さすがねっ、ありがとう」
「いや」
「深雪さんも素晴らしかったわ。あの状況で適切かつ適度な魔法。私たち三年生でも難しいわ」
「光栄です。ですが、上手く対処できたのはバスに減速魔法をかけてくださった市原先輩のおかげです。ありがとうございます」
深雪から丁寧な礼を向けられ、鈴音も無言で会釈を返した。
摩利は深雪の才能を空恐ろしく感じていた。
まずは鈴音の魔法に気づいた点。誰もが目の前の脅威に目を奪われていたというのに、深雪だけは鈴音の魔法に気づいていた。
それに的確に炎だけを打ち消した技術。
あの落ち着き具合は、余程の修羅場を経験しなければなせることはできない。
「七草。お前があの無闇にばらまかされ魔法式を消したのか?」
「私はその現象が起こる少し前まで寝てたから……」
克人や真由美は無秩序に展開された魔法式を吹き飛ばした人物を探っていたが、摩利だけはその人物を特定していた。
(あのサイオンの嵐と乱立した魔法式を消したのは……)
摩利の視線が遥へと伸びる。熱い視線を送られている当の本人は、二人の女の子に抱きつかれて呆れるほど鼻の下を伸ばしていた。
(あいつがあの最高難度の魔法を使ったのか? いや、違う)
バスの外ではハイウェイを走っていた者たちが救助活動を開始していた。とはいえ、あの大事故だ。運転手の生存は絶望的だろう。
警察の事情聴取や現場の整理などでしばらくこの場に留まることになった。
バスの中で落ち着く者もいれば、外の空気を吸う者など、自由な時間。その時間を使って摩利が遥をバスの外へと呼び出した。
「どうしたんですか摩利ちゃん」
「あの大量のサイオンと魔法式を消したのはお前だろう?」
「ふふっ、何のことかわからないなぁ」
「誤魔化すな。サイオンが消える前、あの一瞬。お前との……密会の時に遥が使っている障壁の中にいたような感覚になった」
「……」
「あの障壁の中にいると魔法が使えなくなる。遥お前、それを使ったな?」
摩利は二度目のハグタイムの時、匂いを使った意識操作を遥に使おうとした。
乱れた関係を終わらせようと、遥を誘惑して操ろうと。しかし、匂いの効果が発動されることはなく、逆に遥の虜になってしまった。
それからは遥に抵抗することなく成すがままにされていたが、よくよく考えてみれば魔法が使えないのはおかしいという事に気づいた。
「あの障壁はなんなんだ? あんな大量のサイオンを一瞬に消す魔法なんて聞いたことが無いぞ」
「魔法の事を詮索するのはタブーなんじゃないかな?」
「教えないというのか?」
「まぁ、教えないこともないけど」
「本当か!?」
「摩利ちゃんが俺とキスしてくれたら教えてあげるかも。首や頬に、じゃなくて唇にね」
「なっ!?」
「俺は恋人だったり身内には甘いからね~。もし今より親密な関係になったら俺も秘密を教えてあげるよ」
摩利を信用していないわけではない。遥は自分が危険な存在であると自覚しているからこそ、秘密を共有する相手を選ぶ必要がある。
「どうする? あの魔法の秘密を知りたいの?」
「……あれは遥がやったってことは認めるんだな?」
「そうかもね~まぁ、俺がやってなくてもあの事故は防げたけど」
「ん?」
「それはいいとして、キスしてくれるの?」
「いや、それは……」
「ふぅん」
「お、おい遥ッッ!?」
少し近づくだけで狼狽える。
「摩利ちゃんが呼んだのに拒まれると悲しいな~」
「……ここだとみんな見てるだろ」
摩利が呼び出したといってもここは事故現場の近く。バスからこの場所は見えるため、少しでも変なことをすればたちまち噂が広まるだろう。
「ただでさえ朝にお前からキスされてまだ痕が残ってるというのに」
「ははっ、キスマークを隠そうと必死な摩利ちゃん可愛かったよ」
実はこの二人、朝の集合時間の少し前に一週間に一度の逢引きをしていた。
トイレに行くと言っていて抜け出したため、ほのかや雫にも気づかれてはいない。しかし、その時に付いたキスマークが今もくっきりと摩利の鎖骨辺りに付いている。
摩利はゆったりとした長袖シャツを着ているが、痕が見えないよう第一ボタンまで留めている。
けれど屈んだり、身長差がある相手には角度によって痕が見えてしまう。特に男子と近くで話したりすると見える危険性がある。
真由美を待っている間、バスの外にいて達也と距離を取っていたのはそういう理由があったのだ。
「同じ部屋の真由美ちゃんにバレちゃうかもね」
「っっ」
「俺としてはバレて問い詰められる摩利ちゃんを見てみたい気もするけど……っと、あんまり長い時間話してると変な噂たてられるかもしれないし戻ろっか」
「……あぁそうだな」
再び道路が通行可能になったのは事故が起こってから三十分後の事だった。
出発の遅れと合わせて予定よりは大幅に時間が経ってしまったが、昼過ぎには宿舎に到着した。
バスを降りるとそれぞれを荷物を部屋に運び、夕方に予定されているパーティーまでは自由時間となる。
遥はほのかや雫らと一緒にホテルのロビーを歩いていると、扇情的な格好をした女子がソファーに腰を下ろして寛いでいた。
「やっほ~」
健康的な素足を惜しみなく人目にさらすショートパンツ姿で、上もタンクトップで肩をむき出しにしたエリカが遥たちに手を振っていた。
これには堪らず遥たちの後ろを歩いていた深雪や達也も目を見張った。
真由美の露出の多いワンピース姿も色気があったが、相手が十師族ということもあり直視することができなかった。
それに比べてエリカは九校戦の練習でも献身的に付き合ってくれた比較的接しやすい女子。
一高男子がエリカの姿を見て、鼻を押さえて駆けて行ったのは仕方ないことかもしれない。
しかし達也はこの例に当てはまらなかった。
「機材の整理があるから俺は先に行ってるぞ」
「ハイお兄様」
「エリカもじゃあな」
「えっ、もう?」
達也は荷台を押しながらエレベータの方へと歩いて行った。
「っ」
エリカの姿に欲情した遥が、悪魔的な笑みを浮かべていたのに気づかないエリカではなかったが、平然を装いながら深雪らと接する。
「一週間ぶりね深雪。元気にしてた?」
「ええ、それよりエリカ、貴女は何故ここに?」
「勿論応援だけど。こいつが部屋を取ってくれたってのもあるけど」
エリカたちがここに来ることを知っていた遥は、親の権力を使ってエリカたちの部屋を取っておいた。
もちろん部屋は遥の隣だ。一緒にホテルに来た男子二人に関しては関与するつもりはなかったが、エリカに頼まれて渋々一番下の階の部屋を取った。
「競技は明後日からよ?」
「でも今日は懇親会があるでしょ?」
「? 一応言っておくけれど、一高の生徒であっても関係者以外は参加できないわよ?」
「それなら大丈夫。私たち関係者だから」
「え? それはどういう……」
関係者の意味を尋ねようとする深雪の言葉を遮るように、大きな胸を弾ませながらエリカたちの元に少女が駆けてきた。
「エリカちゃん! お部屋のキー……って深雪さん?」
「美月まで!?」
「こんにちは」
「……美月、派手じゃない?」
「そ、そうですか? エリカちゃんが勧めてくれたんですけど」
深雪はマジマジと美月の事を見つめる。
居心地の悪そうに顔を強張らせるが、遥と目が合うと頬を緩ませた。
「美月ちゃんとても似合ってるよ」
「本当ですか!?」
「うん。凄く魅力的だね」
「ありがとうございます!」
美月の格好は、キャミソールのアウターに膝より上のスカートと、見る人によってはエリカよりも扇情的とみられかねないモノとなっている。
特に大きな胸を全面的に押し出される形になっており、近くにいた男子がエリカを見た時よりもより頬を赤らめながら美月の事を見ていた。
エリカは遥が好きそうな服をコーディネートしたのだが、さすがは遥の童貞を奪った女だ。遥の好みを熟知していた。
「悪いことは言わないから早く着替えた方が良いわよ。その服、確かに似合ってて可愛いんだけどTPOに合った格好をした方が良いわ」
「はるか君はどう思いますか?」
「え~俺は凄く良いと思うけど、深雪ちゃんの言う通りかもしれないね」
「そうですか」
エリカは不満げに遥を見つめていたが、端末に届いたメッセージを読むと遥を睨んでいた。
美月も自分の端末に届いたメッセージを読むと、顔を綻ばせながら遥の方を見つめていた。
何ともわかりやすい二人である。
「じゃあ私ももう行くわね」
「はい。それでは深雪さんまた」
「じゃーね~」
「俺たちも部屋に行こうか」
「はいっ」
「うん」
「エリカちゃん、美月ちゃん。また後でね」
「……」
「はいはるか君!!」
深雪が去った後、遥やほのか、雫も荷物の整理のために部屋へと向かった。彼女たちの部屋は遥が手配した最高級スイートルームである。が、それを知らない二人が部屋に入ったときにどんな反応をするのか、遥は悪い笑みを浮かべていた。
今週は3回投稿だったので来週は4回投稿予定。
【次回の投稿は1月31日19時予定です】