これは、少女がふたりと出会わなかった世界の話。
アロイスは戦場を見下ろしていた。
幾人もの戦士らが命を奪い合う戦塵の中より、たった一人の獲物を見つけ出すべく。上空にて羽ばたく彼は、猛禽の王にも似た
此度は居ないのだろうかと考え出した頃、眼下の兵士らが動揺を見せた。それは右翼最端から中央部の方向へと、地割れのように伸びていく。
「……見つけた」
天翼族の男は目を細め、風を切るように目標の元へと飛翔した。
そして、一人の女の前に降り立った。
アテナは戦場を駆けていた。
両手剣を強く握り締め、憎き仇の姿を探して。道を阻む兵士らなど物ともせず、みな斬り捨てるようにしながら、彼女は敵陣の中央部へと走り続けていた。
ばさりと聞き馴染んだ音を耳にして初めて、ヒューリンの女は足を止め、音の主を目に留めた。
「端へ追いやられたのか。此度の軍師殿はお前の実力をよく分かっているようじゃないか」
「邪魔。退け。殺す」
声、表情、その全身すべてで殺気を放つ少女の様とは対照的に、アロイスはへらへらと笑いながら言葉を続ける。
「相変わらずつれないね。俺としては、そろそろお前さんの名のひとつでも聞きたいところであるのだが」
言い終わるか否か、少女の剣が振り抜かれた。
鋼のごときアロイスの拳が剣先に沿って払われ、その軌道を変える。
「まぁまぁ、そう慌てるな慌てるな。俺とお前、今日で何度目の出会いか覚えているか?」
「死ね」
「なんと、丁度5回目だ。記念すべき日だと思わないか!」
「殺す」
剣と拳の応酬が繰り広げられる。殺意に満ちた復讐鬼と獲物を捉えた肉食獣の視線とが交わされる。
凡庸の兵士らは直感で理解した。少しでも近づけば己の命はないであろうことを。
自然とふたりの周囲に、誰も近づかぬ領域が形成される。戦場の中でありながら、そこには確かにふたりだけの世界が存在していた。
そろそろ今日の愉しい一時も終わる頃かとアロイスが思考した、その時であった。
少女の瞳が、アロイスの背後を捉えた。
「……!」
「おや、余所見か? ……ッ!」
刹那。アテナは男の横を抜け、奥へと駆け走る。
振り向かずともその意を察したアロイスは少女を阻害せんとするも、やや遅かった。
「死ねッ! ゼダン!!」
銀色に光り輝く剣を手にした馬上の男へ、アテナの剣が振り抜かれた。
剣と剣が打ち合わされ、火花を散らす。高い音が周囲に響く。
少女は体勢を崩し、肩から地へと倒れた。
転がる少女を見下ろすは神聖ヴァンスター帝国が“神聖皇帝”、ゼダン。
青の瞳に僅かな揺らぎさえ見せることなく。皇帝は少女の命を奪うべく、神の剣を振り翳した。
「お待ち下さい、皇帝陛下」
アテナの耳にその声が聞こえたことと、自身の体が
天翼族の男の小脇に抱えられている現状に気づくと、少女はもがき、その腕より脱しようと足掻き出す。しかし全身による抵抗むなしく、ただアテナは無為に暴れることしかできなかった。
「放せ! 死ね! 殺すッ!!」
「おいおい、命の恩人に向かってその言い草はあんまりじゃないか」
「……ぐぁッ!!」
哀れな少女の怒声など何処吹く風といった様子で、アロイスはアテナの手首を捻り上げる。
両手剣が地面へと落下し、重い音を響かせた。
「くッ、そ……殺す! 絶対に! 殺す……ッ!!」
「やれやれ。一度捕えちまえば鳴き喚く仔犬も同然だな」
「……何を考えている、アロイス」
少女を抱える己の臣下へと、皇帝は冷えた目を向け、同様の温度を感じさせる声を発する。
へらへらと笑うアロイスの表情は、ゼダンへ向き直っても尚変わらない。
「申し訳御座いません、皇帝陛下。
「そなたの道楽を余が知らぬとでも。戦のたびに、それとの交戦を第一としていただろう。
これ以上は目に余る。己の立場を弁えよ」
「……それは残念、もう少し楽しんでいたかったが。皇帝陛下に直々に言われちゃあ仕方がない」
「…………」
「そう睨まないでくださいませ。存じ上げておりますゆえ」
仰々しい仕草で天翼族が主へと頭を下げている最中も、捕われの少女は暴れ、叫び続けていた。
「死ね! 死ね! この、悪魔共め! 何が神聖帝国だ、何が神聖皇帝だ!! 気狂いの殺戮者共め!!」
「おやおや、お前がそれを口にするか。手負いの獣のような目をして、道行く兵士らを斬り捨ててはその身に血を浴びていたお前が」
す、とアロイスの視線が自身の抱えるアテナへと移動する。自然とその男の表情は皇帝へ向けていた笑みとは異なる――両の目が細められ、口角の上がったものとなる。
「お前たちと同じにするな、虐殺者! くそ、殺す! 殺してやる! 私がこの手で、絶対……ぐッ、あぁっ!!」
「ヒューリンの女の腕ってのは細っこいなぁ。少し力を入れれば簡単に折れちまいそうだ。よくこんな細腕で両手剣など振るいながら、あのような動きができるねぇ。感心、感心」
「アロイス」
「分かってるって。なぁ、ゼダン。これ、飼っていいか」
「は……!?」
「…………」
窘めるような皇帝の声に、天翼族は常と変わらぬ調子で答える。
アテナは息を呑み、ゼダンは友の目の色を見て――その奥に、抑えられぬ猛獣の意思がぎらぎらと光っているのを見て――仕方がないというように口を開いた。
「士気には影響を及ぼさぬよう」
「当然。むしろ戦帰りの楽しみができるとあらば、やる気も増すというものさ」
ゼダンは肩を竦め、これ以上話すことはないとばかりに馬を御して立ち去りゆく。
いつの間にか鬨の声はとうに聞こえなくなっている。此度の戦も、神聖帝国の勝利に終わっていた。
「クソッ、待てゼダン! 殺す! 殺してやる……くそ、クソッ! ふざけるな、放せ、殺す、殺す……ッ!!」
「お前さんはどこまでもアイツにお熱だねぇ。……ちょいと焼けちまいそうだ。
だが、自分の立場ってものを分かっていないようだな」
少女を抱えたまま、アロイスはゆっくりと歩み出す。
もがき続けるアテナの健闘が実を結ぶ気配は些かもない。
「殺す、殺す、殺すッ!! 死ねッ、くそ、殺してやる!!」
「お前は敗北し、この俺に捕われた身。己の支配権を有する相手へどのような態度を取るべきか、野生の獣でさえ知っていることだ。お前さんとて、そこまで馬鹿じゃあないだろう?」
「死ね、死ね、殺すッ、死ね!!」
「やれやれ、痛い目に遭わねば分からんか。……いや、それでこそ躾甲斐もあるというものだな」
「クソ、殺す……っ、……!?」
男の手が少女の左目へと伸ばされた。
神経の切れる音。身体を襲う激痛。滴り落ちる鮮血。哀れな女の絶叫。
苦痛に身を捩り、息を荒げ、アテナは呻き声を上げ続ける。上機嫌に細められた捕食者の
「次はその細腕を。それでも従わぬというのなら、両の脚を折るとしよう。欠損の趣味はないが……まぁ、慰み物にはなるだろう」
「が、ぁッ、……あ゛、ッ……っ……、っ゛、……ッ!!」
「お前さんとて、地を蹴る自由を失うのは嫌だろう。
ふと、アロイスはその足を止めた。
拘束するようにアテナの両手首を片手で押さえ付けながら、己よりずっと小さなその体を軽々と自身の目線の高さへと抱え上げる。
「名前、まだ聞かせてもらえていなかったな」
「……っ……ッ、……」
「うん?」
憎々しげに睨みつけてくる少女へと、アロイスは口角を上げながら首を傾げる。分かっているだろうとでも言いたげに。
数回呼吸を繰り返し、放つ殺意を一層強めさせたのち。少女はようやく口を開いた。
「っ、…………アテ、ナ……」
痛みに苦しみながらもその顔は屈辱と憎悪をありありと宿し、逸らすことなくアロイスと対峙していた。
例え片目を失おうとも、その意志は欠片も折れてなどいない。それを確かめた男は、満足げに喉の奥で笑った。他の誰でもない自分へと、初めて彼女より向けられた真っ直ぐな殺意に高揚感を抱きながら。
「……あぁ。それでこそ、俺が気に入ったお前さんだ」
少女を抱え直し、男は再び医療班の元へと歩を進める。
そして、爛々と燃える
「簡単に壊れないでくれよ、アテナ」