――ロアナプラ。タイの外れにある街は一等荒くれ者たちが集う。裏社会では悪徳の都として有名なこの街で、私は“洋裁屋キキョウ”として日々運がいいのか悪いのか何とか五体満足で生きている。
生きているだけ上等というのが通常スタンスの街の住民たちはあまり服に興味がないようで、今日も今日とて依頼はない。まあ私に依頼してくれるのは、懇意にしてくれているマフィアの人たちか風俗系の仕事をしている人くらいだ。そうそう来るものではないだろう。
そういう訳で、出かけるべき用もなく暇つぶしも兼ねて端切れに刺繍をしている。どこか遠くで鳴った銃声を聞きながら布に糸を通していく。
そんな中でも前に依頼に来てくれた人から貰った飴で糖分補給しながら作業に集中する。
――食べていた飴が全て溶け、もう一つと飴を手に取った時、唐突に作業台の上で聞き慣れた着信音が鳴り響いた。
私の番号を知っている人は限られてくるが、今かけている人物がその内の誰かなのか分からない。誰であろうと待たせるのはよくないので刺繍道具を台に置き手にある飴をポケットに入れ、すぐさま携帯を手に取る。
「はい、洋裁屋キキョウです」
『ようキキョウ、俺だ』
「……張さん?」
『久々だな』
名乗ってから間を空けず聞こえてきたその声は、私のパトロンである張さんだった。忙しいはずの彼が私にかけてくる用と言えば服の依頼か酒の誘いくらいだが、今日はどちらだろうか。
「お久しぶりです。最近また忙しくなったと聞きましたが」
『ああ、おかげで休まる暇もない』
「そんな貴方が私に電話をかけてこられた理由をお聞きしても?」
『冷てえな、こうして話すのは一か月ぶりだってのに。――俺達は熱い夜を過ごした
間柄じゃねえか。もっと労わってくれよ』
「……御冗談を言えるくらいの元気はあるようで何よりです」
『冗談じゃねえさ』
何が面白いのか、この人はいつも私をからかうような冗談を言ってくる。基本こういう時は淡々と流すのだが、彼にとってはそれでさえ面白いらしく今も飽きていないらしい。大方、私がどういう反応をするのか見たがっているだけだと思うが。
「それでどうされたんですか? そんなに疲れてるなら早くお休みになった方が」
『お前に会いたい』
私の言葉を遮ってまで放たれたそのたった一言に思わず口が止まった。一瞬目を見開いた後、聞かれないように小さく息を吐く。
「……本当にどうされたんですか?」
『お前に会いたいのは本当だぞ? 少し頼みたいことがあってな』
「頼みたいこと?」
『お前が怒りそうだからあまり言いたくなかったんだが』
と、張さんはやっと本当の用について話し始めた。“会いたい”と言われてから少し熱くなっている顔を気にせず、彼の話を黙って聞く。
「――分かりました」
『怒らないのか?』
「怒ってないですよ? ただ、気をつけてくださいとお願いしていたはずなのに、とは思っています」
『……後で小言を言われるのは決まりだな、こりゃ』
「言われたくなければ気をつけていただきたいんですが」
『悪かったよ。で、すぐ来れそうか?』
「ええ。今からそちらへ向かいます」
『そりゃよかった。待ってるぞ』
「はい。それでは、また後程」
最後にそう言葉を交わしてから程なくして通話が切れる。そのまま携帯をポケットに入れ、刺繍道具を片付ける。流れるように持ち運ぶ用の裁縫道具を手に取り、外へ出ようと足を動かした。
――――――――――――――――――――――――――――
「――張さん、キキョウです」
「入れ」
「失礼します」
張さんと電話した後、寄り道することなく三合会の拠点である熱河電影公司ビルに向かった。理由は言わずもがな、彼に依頼で呼び出されたからである。
普段はあまりしないが、簡単なものなら依頼主の元へ赴きその場で修繕することもある。
今回は彼が“うっかり”で煙草の火を少しシャツに落としてしまい直してほしい、とのことだった。
何か依頼する時、ほとんどは張さん本人か彼の部下が私の家へ来てくれるのだが、今はそんな暇もないようで今回は私が出向くことになったのだ。
彼がいるという部屋まで腹心である彪さんに案内され、ドアをノックすれば低い声音が中から聞こえてきた。入ってもいい許可が出たところで、一言言ってから中へと入る。
ドアを開け踏み入れた薄暗い部屋の奥には、高級ソファに座っている張さんが一人で酒を飲んでいた。
こちらを向かない彼に近づきながら声をかける。
「お待たせしました」
「ああ」
「早速ですが例のシャツを見せてもらっても?」
「そこにある」
彼が軽く指さした方にはコートラックに掛かっている一枚のワイシャツ。すぐさま近づき黙って手に取り状態を見る。
左胸のあたりに煙草の火によって空いた穴を見つけ、彼の方へ向いて話しかける。
「やはりこれは今この場で修繕するのは無理です。二、三日いただければ直せますよ」
「……」
「あとボタンも解れかかってるのでこちらも直しておきますね」
「……」
「あ、あの張さん」
「あ?」
「聞いてますか?」
「……ああ。それは全部お前に任せる」
「分かりました。——では、私はこれで」
「待て、キキョウ」
私の言葉に何の反応も示さない彼に思わず問いかける。すると、持っていたグラスを置きようやくこちらを向く。ここで彼がサングラスを外していたことに気づいた。
「折角来たんだ、少し付き合え」
「一人でゆっくりできる貴重な時間じゃないんですか?」
「俺が誰と過ごすかは俺が決める。いいから来い」
「……では、もう少しだけお邪魔しますね」
こんな風に強引な時は、私が何を言おうと無駄だということは長年の付き合いでよく理解している。ここは大人しく彼に従い、酒の席を共にする方が吉だ。
そう判断し、ワイシャツをコートラックに戻してから再び彼に近づく。
ソファのすぐ傍まで来た時、彼が空いている隣を軽く叩き座るよう促してきた。その誘導に素直に従い、「失礼します」と一言断りを入れてからソファに腰を下ろす。
ふと、張さんの顔を間近で見て一瞬目を見開いた。
——彼の目の下にうっすらと隈が出来ていることに気づいたのだ。
ここ一か月間何をしていたのかは知らないが、彼がここまでなるのは珍しい。
「張さん」
「ん?」
「ちゃんと寝てますか?」
「あ?」
「少し隈が出来てますよ。貴方がそうなるのは珍しいですね」
「……そうだな。ちと疲れてるかもしれん」
「ちょっとどころか相当お疲れでしょう。やっぱり私は帰った方が」
「構わん。お前がいた方が落ち着く」
人がいては休まるものも休まらない。そう思い帰ろうとしたのだが、彼の言葉に驚き動きが止まる。
張さんはこういう時私が気の利いた台詞を言ったり行動したりすることが苦手であると知っているはず。だというのに、何を求めてここにいろと言っているのか。彼の真意は分からないが、普段お世話になっている人がそう言うのであれば私はただ従うだけだ。
彼の顔から目線を逸らし、黙って隣に座り続ける。
「……」
「……」
いつもなら軽い口調で話をしてくれるのだが、余程疲れているようで彼は何も話さない。私も何か彼が面白がるような話題は持ち合わせてないので口を開くことはない。
そうしてお互い何も言わない時間が少し続いた後、ふと張さんが動いたのを気配で感じ取る。
間を空けて彼を見ると、ソファの上で横になろうとしていた。
声をかけようとした瞬間、張さんは一言も断りを入れることなく頭を私の膝の上に乗せる。
———所謂、私が彼に膝枕をしている状態になっていた。
「柔らかくて心地いいな。癖になりそうだ」
驚きで言葉が出ない私の心中を知ってるのか知らないのか、張さんは悪びれた様子もなく呟く。
「……何してるんですか」
「見て分かるだろ?」
「そういうことじゃなくて」
「気を許せる女が隣にいたら男はこうするもんさ」
「…………よく分かりませんが、せめて一言言ってください。びっくりします」
「そりゃ悪かった。――はは、それにしても意外だな。てっきりすぐどかされるもんと思ってたぞ」
「どかしてもいいんですか?」
「いや、しばらくこのままで」
驚きで咄嗟に動けなかったせいか。はたまた彼の珍しく疲弊している姿のせいか、何故かどかそうという気は起きなかった。
目線だけこちらに向けたままほんの少し口の端を上げる彼の顔に内心でため息をつきつつ、しばらくは動けそうにないなと腹を括る。
……それにしても、彼の顔を上から眺める時が来るとは思ってなかった。こうして見ると、やはり思ったより可愛い顔立ちをしている。
少し垂れ目で丸っこい。彼の素顔を知らない人からしたら、普段の立ち居振る舞いからは想像がつかないだろう。バラライカさんが“ベイブ”と呼ぶのも頷ける。
だが、張さんはそのことを気にしているのかそのあだ名は嫌いらしい。
「人の顔みて何笑ってんだ」
「失礼しました。ただ、こうして上から顔を眺められるのは貴重だと思って」
「惚れ直したか?」
「反応に困る冗談はやめてください」
「はは」
疲れているなら冗談を言う前に甘いものでも食べておけばいいものを。と、口には出せないので心の中で留めておく。
そこではた、と一つあることを思い出す。
そういえば……と張さんの頭が乗っていない空いている方のポケットに手を突っ込み奥にあるものを取り出す。
それは、白い包み紙に“strawberry”と書かれた飴。
「張さん、甘いものって食べれますか?」
「ん? まあ、食べれんこともないがあまり好かん」
「……そうですか。疲れてる時に甘いもの食べたら少しマシになるかと思ったんですが」
「飴か」
「はい。でも甘いのが嫌いならお口には合わないですよね……。すみません、余計なお世話を」
「いや、食う」
「え?」
「くれ」
「一応言いますけど、すごく甘いですよ?」
「お前が俺を心配して差し出そうとしているんだ。なら食わんと勿体ない」
「……本当よく飽きませんよね。そんなこと言っても大して私の反応は面白くないのに」
「そうか? 最近のお前は割といい反応してるぞ」
「は?」
「お前はそのままでいいんだよ」
張さんはそう言いながら微笑んだ。いや、微笑みというよりニヤリとした表情の方が正しいかもしれない。
これ以上この話を掘り下げるのは自分にとってあまり良くない気がするので、内心で再びため息を吐きながら口を閉じる。
「ほら、飴寄こ……いや、やっぱいい」
「え?」
「食わせろ」
「はい?」
「お前の手で食わせてくれ」
いきなり何を言い出すんだこの人。
「……自分で食べれるでしょう」
「疲れてるから動きたくねえんだ」
「子供じゃないんですから」
「男はいつだって餓鬼みたいなもんさ」
「いやいや」
気分屋であることは理解しているが、まさかここでその気質を出してくるとは。
膝枕は吹っ切れたが、その上飴を食べさせるというのは大分恥ずかしい。
というか、大の大人が。しかもマフィアのボスとして羞恥を感じないのだろうか。
「食べさせてくれるまで帰らせねえぞ」
何故そんな脅しまでかけるのか……。
本気なのか冗談なのかは分からない。だが、一向にどいてくれる気配もない。
よく考えれば、膝枕してる時点で逃げ場はないようなもの。それに、今この瞬間でもここで彼を無理矢理どかすという行動を起こす気が湧かない。
結局、私は何か譲れないものがない限り彼の言う事には逆らえないのだ。
意を決し、両手で丁寧に包み紙を開けていく。
中から出てきた赤い飴を手に取り、愉しそうに弧を描いている口元へ運ぶ。
「口あけてください」
「無理矢理突っ込むなよ?」
「流石にそんなことしないのでご心配なく」
淡々と言葉を返せば、張さんは徐に口を開けた。
隙間へゆっくりと飴を入れ、彼の口の中へ入っていくのを見届ける。
口の中で飴を転がしているのか、コロコロと音が鳴っている。
「……甘えな」
「だから言ったでしょう」
「だが食えない程じゃない。疲れてると甘いのが平気になるもんなのかねえ」
「それほどお疲れだったんじゃないですか? でもまさか、貴方が他人にこんな姿を晒すなんて思ってませんでしたが」
「お前だから甘えてんだぜ、俺は」
「……今度からこういうことは、甘やかし上手な女性に頼むことをおススメしますよ」
「他のオンナなんざ興味ない」
そう言った後張さんの口の中でガリッ、という音が聞こえた。口を動かす度に音が鳴っていることから飴を噛み砕いたのだと分かる。
次第に音が小さくなっていき、そしてついには全く聞こえなくなった。
その次の瞬間、張さんがいきなり体を起こし、顔をこちらへ向ける。そのまま手を私の頬へ伸ばし触れられた。
目を見開いていると頬から後頭部へ手を移動させ、流れるように顔を近づける。
気が付いた時には目の前に彼の顔があり、唇には柔らかい感触が。
「ッ……ちょっと、まっ……」
「……ん……」
「ん……ッ」
咄嗟に言葉を発しようと口を開いたそばから舌を入れられる。
煙草の苦みの中に飴の甘い風味が混じっている味が自身の口内に広がっていく。
「……ッ、あ……」
「は……」
いきなりの事で驚き、離れようと藻搔こうとするが彼の舌使いと後頭部に添えられた右手、いつの間にか腰に回っていた左手のせいで身動きが取れない。
そんな中でも背筋に痺れるような感覚がじわじわと伝わり、抵抗する力も弱まっていく。
やがて絡んでくる舌を目を瞑り受け入れるしかできなくなった時、ようやく彼の唇が離れていった。
「……はあっ……はあ……」
「たまんねえな、お前の唇は甘くて美味い。さっきの飴より遥かに」
吐息交じりにそう呟いた後、彼は自分の唇をぺろりと舐めた。
その様を見て急にとてつもない羞恥が襲い掛かり、思い切り目を逸らす。
「疲れて動けないんじゃ、なかったんですか……」
「そういやそうだったか。お前のおかげで疲れが取れたのかもしれんなあ」
「……」
「そう睨むなよ」
“ふざけないでほしい”と心の中で呟きながら彼を見やる。
それでも張さんはどこ吹く風で、ふっと笑みを漏らした。
――口の中に残った苦みと甘さが混じった味は、そこからしばらく消えることはなかった。