100、冬木の日々 01
6月に入ると雨の日が増えた。梅雨なんだから当然なんだけど、どうも今年の夏は暑くなるみたいで今からムシムシしている。5年生の時は物珍しさもあってあまりそういうのが気にならなかったけれど、1年経って6年生になると色々と目に入ったり気になったりする事がやたらと増えた。
まぁ、イリヤを通して見ていても、それは知っているってだけで自分の体験じゃないからね。わかっているようでもわかっていない事がたくさんある。この通学のバスにしたって、窓が曇っているのは外が雨だからじゃない。雨で冷えるバスの外装より、バスに乗っている私達の体温で温められた室温の方が高いからこうなっている。そんな事がようやく頭でなく実感としてわかるようになった。
私はママのお腹に居た頃からゆりかごで眠る頃まで、ずっとアインツベルンの調整を受けていた。だからたいていの魔術の事も、それを理解するための基本的な知識も持っていた。なので頭は悪い方とは思わないし、理解力もある方だと思う。だけどそれらと学校の勉強は別だったし、何も体験していない『心』は年齢以下だったと今は思う。
それを実年齢に一致させようと色々と教えてくれたのが、今は倫敦にいるエルヴァお姉ちゃんだ。倫敦に行っちゃった時に私は怒っていた。見捨てられたような気がしたのだ。だから空港に見送りに行けなかった。でも、お姉ちゃんがパパやママにイリヤや私の事を考えて倫敦に行ってくれるのだと頭ではわかっていた。だから余計にむしゃくしゃしていた。
でも、ゴールデン・ウィーク中に届いたお姉ちゃんからのメールを読んで、私は自分の『幼い心』を恥じた。魔道も人の道もそんなものの遥か先にある。『お姉ちゃんがいなくなった』……そんな事につまずいていたらどこにも行けない。私はイリヤだけでなく、スイスのエルヴァの姉でもある。また、私の本名は『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』。妹のイリヤと同じという前に、英霊のイリヤお姉ちゃんと同じなのだ。一族の命運を背負って聖杯戦争に出たイリヤお姉ちゃんと。
そう気づけた……ううん、気づかせてもらったのだ。
バスの中はクーラーが入っているけれど、ムシムシする中で満員だから、どの人も皆んな汗びっしょりだ。私の背中もランドセルの裏側辺りがヌルヌルだ。気持ち悪いなって思うけど、こればっかりはどうしようもない。ハンドタオルは持っているけど、心もとないなぁ。だからといってもっと大きなタオルや、替えの肌着をランドセルに押し込む小学部生は居ないだろうし……。
6年生って本当、中等部生に上がる一歩前なんだなってつくづく思うよ。気持ちは小学生でも体が中学生に近づいて行ってる。横に立つイリヤはまだあくびをしていた。眠いのは私もだ。体が成長するために眠りを求めているんだ。最近、ベッドで膝が痛いときがあるしね。
それと5年生の終わり頃から私とイリヤは少~し忙しくなった。塾じゃないよ? 勉強はエルマお姉ちゃんかトロンメルお姉ちゃんがみてくれるから。魔術もお姉ちゃん達だけでなく、凛やルヴィアも教えてくれるし、ゾウケンも教えてくれる。なので忙しくなった理由は……そうだなぁ、まずはお掃除の範囲が拡がったからだ。
今まで毎日掃除をするのは自分達の部屋と廊下や階段だけだったけど、日曜日は洗濯物を干すお手伝いが免除になった代わりに向かいのエーデルフェルトのお掃除を手伝っている。これは倫敦に行ったエルヴァお姉ちゃんに言われていた事だった。そしてお姉ちゃんは美遊にも話していたようで、6年生になって初めての日曜日にお向かいに行けば、メイド服の美遊が待っていたから驚いた。
それで私とイリヤもメイド服に着替えさせられ掃除をした。もちろんエルマお姉ちゃんもトロンメルお姉ちゃんも、アーチャーのお兄ちゃんもマルガリータもいて、皆んなで掃除をする。ルヴィアまでがジャージに着替えて掃除をする。凛はその間、自分の家に帰って自分ん家を掃除している。
こういう掃除を皆んなでするのはなぜか? それはルヴィアのためであり、私やイリヤのためだった。ルヴィアも凛も学園を卒業したら、プラハの魔術協会に行く。そこで本格的に魔術を勉強し直すのだ。そしてそこには美遊のお兄さんも付いていく。また、私とイリヤと美遊は中等部に上がったら、エーデルフェルトで共同生活する事が決まっていた。だからだ。
ルヴィアがいなくなった後の管理人はマルガリータとエルマお姉ちゃんだ。これはエルヴァお姉ちゃんがそういう話をフィンランドのエーデルフェルトとしていて、そう決まったことらしかった。だから、お手伝いをしっかりやれば、中等部になったらあっちに部屋を用意してあげると前々から言われていた。
と言うのは私とイリヤも徐々に大きくなって来ているから、いい加減部屋もベッドも狭くなっていた。それとお兄ちゃんが消防隊員になりたいとパパやママにはっきり言った事、セラとリーゼリットの部屋もいい加減分けてあげろという、お姉ちゃんの考えもあった。それでパパやママにもとっくに話を通していたし、ルヴィアともそういう約束をしていた。
お姉ちゃんは黙って倫敦に行ったわけじゃない。それとお掃除が早く済めばマルガリータとアーチャーのお兄ちゃんがお料理を教えてくれる事になっている。セラも今まで以上にお料理を教えてくれるようになった。それもこれもお姉ちゃんが頼んでくれていたからだ。そんな風にお姉ちゃんは、私達の未来を考えてあれこれ手を打ってから旅立ったのだ。
私も少し成長して、今までわかっていなかった事が少しずつわかって来るようになった。その内の一つが、妹のエルヴァの学年だ。あの子、私とイリヤが5年生だった去年、『次は中学だ』と話していたのだ。私とイリヤはそれはスイスと日本の学校の違いだって思い込んでいた。
けれど本当はあの子、スイスの学校に編入した翌年に飛び級していたのだ。そもそもエルヴァは幼稚園に通っておらず、小学校も2年生くらいで入っている。それで去年の秋も飛び級していて、日本風に言うなら今の段階で中学二年生なのだった。賢いのはわかっていたし、エルヴァなら『そうだろうなぁ』って思えるから私はあまり驚かなかった。むしろアメリカのお姉ちゃんの結婚式で友達になった、ユリアーナがエルヴァと同じように飛び級していた事を最近知って驚いた。そういう意味で『だから親友なんだな』って思えたくらいだ。
けれど今回のこの飛び級はそんな親友のユリアーナを置き去りにするものだった。だけどその理由は早く大学に行きたいからでは無かった。エルヴァは大学をユリアーナと通うと決めていたらしい。でも、私やイリヤとも同じ学校に通いたいと考えてもくれていた。つまり飛び級で2年ほど稼いで、大学受験までの間休学して穂群原に通う積もりだったのだ。
これをお姉ちゃんは、多分メールのやり取りなんかで薄っすらと知っていて、スイスのお祖父様ともお話が済んでいたようだ。そして先日のメールで、やっとその計画をエルヴァがきちんと明かしてくれた事をお姉ちゃんが知らせてくれたのだった。だから周りの人は私がいきなり『お姉ちゃんロス』から立ち直ったと考えているようだけど、それだけじゃないんだよね。
お姉ちゃんからのメールには、『このまま上手く行けばあなた達が高等部に上がった頃、1~2年は穂群原に通える』と書かれてあったんだ。春からとは行かないで秋からになるだろうけど、最低でも1年、長ければ2年もエルヴァと一緒に学校に通える……。それを知って嬉し過ぎてイリヤなんて泣いていた。私も少し泣いたけど。何より『一緒の学校に一緒に通いたい』というエルヴァの気持ちが嬉しかった。
また、エルヴァの真似をして、短期でユリアーナも留学してくる可能性があるみたいにも書かれてあった。そうなったら嬉しいな。そこをじっくり話すのはまた夏のカリフォルニアになるだろうけど、私とイリヤはそんな優しくがんばり屋なエルヴァに見合う『姉』でないとダメだ。これはお姉ちゃんに指摘されていない。でも私もイリヤも自分達でそう考えた。だから私とイリヤは毎日を頑張っている。
それもあっていつも眠いんだよ。言い訳は良くないけどね……。
バスの中では皆んな、おでこに前髪がくっついていた。汗でべっちゃりなのだ。私とイリヤはエルヴァお姉ちゃんやママと同じで、ほっとくと前髪が勝手に立つ。クセ毛じゃないんだけど、そういう寝グセみたいなのがあるんだよね。それなのに今朝は私達も前髪がぺちょんとしていた。それっくらい今日は湿度が高いのだった。そしてこういう雨の日は、誰もが雨具を持っている。そこも湿気を強くする要素だった。
だから学園前にバスが到着した時はホッとした。外が特別涼しい訳じゃないだろうけど、少しはマシだと思う。それで一斉に、と言っても皆んな列を守りながらバスから降り始めた。まずは小学部生、次に本来の登校時間に遅れた中等部生や高等部生だ。うちの学校は長年そういう降り方になっている。だって終点が学園前だから。
それに学園生以外はこの時間帯、病院も商店街もないこの辺りまで来る事はないし、例えこの路線を利用する必要がある人でも、学園に関係のある人か用事のある人以外は終点まで乗っていないのだった。なので上級生である高等部生が年下の中等部生や小学部生の面倒をみるというのが伝統になっていたのだ。
小学部の低学年の子が気分が悪そうなら、高等部生の誰かがサッとエチケット袋代わりのビニール袋を差し出す。別の高等部生はポケットティッシュを。また別の人はその子のランドセルから水筒を取り出し、お茶を飲ませたりなどなどだ。だから保護者も最寄りのバス停までしか見送らない。
また小学部の子はたいてい徒歩で、この山の上にある学園に通っていた。イリヤにしたって4年生までは歩いて学園まで通っていたのだ。それがバス通学になったのは、何だっけ……? まだ親しくなかった美遊を撒くため? 違う。あれはあの時だけだし……そうだ。不慣れな私のためもあったけど、もう一つの理由は学園が狙われていたからだった。あの頃のお姉ちゃんは大変だったろうな。毎日気が張っていたと思うよ。
それを解決したのが『エル』お姉ちゃんが派遣した、エルマお姉ちゃんとトロンメルお姉ちゃんだったのだ。そんな二人も今はお姉ちゃんの妹として学園に通っている。私とイリヤも本当の『お姉ちゃん』だと思っている。一人はエルヴァお姉ちゃんを『お姉様』と呼んで憚らない妖しい人だけれど、頭は良いし運動神経もお姉ちゃん並みに鋭い。でも、本気で同性であるお姉ちゃんが好きな変な人でもある。私らには優しいけれどね。
もう一人は無口で愛想が良くないところがあるけれど、実はお姉ちゃんの事や私達の事をちゃんと考えていて、エルマお姉ちゃんの事も大事にしている。勉強はイマイチらしいけれど、音楽に才能があって学園ではバンドを組んでいたりする。それでもってやっぱり私達に優しい。
それでそんな二人のお姉ちゃんは、つい先日、とある家の人からお礼を言われていた(お向かいに行かないでウチに来ていた)。なんでも新都で気分が悪くなったお年寄りを助けたのだそうだ。お礼を言いに来たのはそのお年寄りの家の人達だった。エルヴァお姉ちゃんもそういう人だったから、何度かお礼を言いに来る人が居た。二人のお姉ちゃんはそれを見習っているのだ。私とイリヤは格好良いなと思った。だから素直にそう言ったら、壊れそうなほど照れていた。
だけどこれはお兄ちゃんも同じ気持ちだったらしく、二人のお姉ちゃんを『さすがエルヴァ姉さんの妹だ』と褒めていた。ちなみにお兄ちゃんはお姉ちゃんが倫敦に行ってから、お姉ちゃんの事を『エルヴァさん』でなく『姉さん』と呼んでいた。本人の前だと照れくさかったんだろうね。だけど二人のお姉ちゃんのすごいところはそんな程度じゃない。お兄ちゃんが知らないだけで、こういうのは今まで頻繁にあったのだ。
パパとママがエルマお姉ちゃんたちを本当の娘のように思っているのは、その事を知っているからだ。流される子猫を救けるために未遠川に飛び込んだ事件の時は、『女の子なんだから、誰かに任せられなかったの?』と、パパがエルマお姉ちゃんに聞いていた。だけど『勝手に体が動いていた』というエルマお姉ちゃんの言葉に何も言えなくなって大きなため息をついていた。その時にパパがお兄ちゃんをチラッと見ていたのには気付いていたけど、私もイリヤも何も言わなかった。
部屋に戻った後で、『パパは並行世界のお兄ちゃんの事を考えていたのかなぁ』なんてイリヤは言っていた。けれど私は『違う』と言った。だいたいエルマお姉ちゃんなら『空間転移』で子猫だけ拾って帰れたのだ。でもそれをしなかったのは、できない状況だったからだ。河川敷だからきっと誤魔化しようも無かったのだと思う。だから泳ぎの邪魔にならないように服を脱いで、川に飛び込んだのだ。
そして誰の目も届かない川の中で、子猫がそれ以上流れないように魔術で軽く固定して泳いだのだと思う。もしかしたら、子猫の入った箱をこちらに引き寄せる魔術も使っていたのかも知れない。どっちにせよエルマお姉ちゃんは『魔術の秘匿』を心に置きながらそういう事をしたんだ。それでパパの溜め息は、そういう事を咄嗟にきちんとできるエルマお姉ちゃんに呆れつつ感心し、無事で良かったと安心して溜め息をついたんだと思う。だから、パパが本当の意味でエルマお姉ちゃんを認めたのはその時からだとイリヤに話してあげた。
『え? 娘だって言ってたのに認めていなかったの?』
『そうじゃないよ。人の気持ちにも何段階かあると思うんだ。エルヴァお姉ちゃんとエルマお姉ちゃんは別人だしさ。どっちも『好き』だけど、同じ『好き』じゃないでしょ? だから……あの日からエルマお姉ちゃんは、エルヴァお姉ちゃんと並んだというか、パパに認めてもらったんだと思うなぁ』
そこまで言うとイリヤも納得していた。こんな風にパパやママだけでなく私やイリヤの中では、エルヴァお姉ちゃんだけでなく、エルマお姉ちゃんやトロンメルのお姉ちゃんも大きな存在となっていたのだ。そこに追い打ちを掛けるように、今度は見知らぬ『お爺さん』を二人で救けたという。
それも処理っていうの? 担当した人が吉川の兄ちゃんのお兄さんだったから大変だったみたい。さすがに表彰はなかったけれど、吉川の兄ちゃんの家でも『さすがはエルヴァさんの妹さんだ』とかなり話題だったそうだ。ねぇ? エルヴァお姉ちゃんもエルマお姉ちゃんも、トロンメルのお姉ちゃんも魔術師なんだよ? そんな人助けをする魔術師なんている?
だからルヴィアは胸を張って『さすがですわ』だし、凛も『参ったわ』としか言えなかったし言わなかった。だからこそ、妹である私達も気を引き締めていた。
そんな中、別に誰かが悪い訳じゃなく無く、流れでそうなったとしか言えないんだけど、学園前のバス停でアクシデントが起きてしまった。こういう雨の日の降車には何人かの高等部生と小学部の先生が、傘を持って低学年の子の降車を手伝っている。というのはバスからスムースに降ろすためだ。一人一人がバスの出口で傘を差していたら時間が掛かるからだった。そしてなぜかこの学園前のバス停には屋根がないのだ。
それに幾ら小学部が優先で先に降りれると言っても、出口に近い人が先に降りないと後がつかえる。だから同じ小学部生でも1年生より6年生が先に降りる事はあった。私はイリヤの少し前で降りた。イリヤと私の間に2人ほど挟まっていた状態だ。それでイリヤがバスから降りた時、後ろの1年生が降りやすいように手を引いてあげていた。ところがそのタイミングで2~3人後ろの誰かが転けて、バスから降りようとしていた数人が転けたのだ。それでその重みをイリヤ一人が受けるカタチになってしまった。
幸いイリヤに怪我はなかったし、下級生にも怪我はなかった。それはイリヤと同じように小学部低学年が降りるのを手伝っている高等部生が直ぐ側に居て倒れそうなイリヤ達を支えてくれたからだ。だけどイリヤは後ろの下級生が怪我をしたら大変とばかり体をひねって支えようとした。だから高等部生が支えてくれた腕から溢れてしまった。それで一人だけ雨で濡れるバス降車場ですっ転んでしまったのだった。
正直、『あ~あ』と思ったし、声にも出た。けれど『鈍臭い』とか『もっと上手くやりなよ』とは思わなかった。それはイリヤが後ろの下級生の安全だけを考えて、体をひねったのはわかっていたし、あのタイミングは私でもキビシイと思ったからだ。だから手を出してイリヤを立たせ、濡れて汚れた制服をハンカチで拭ってあげた。だけどこれで授業を受けろというのは可哀想だった。イリヤの服はドロドロだ。さて、どうしたものかと私は考えた。
家に電話してセラに替えを持って来てもらう? 却下。待っている間にイリヤが風邪をひく可能性がある。
私が制服を投影してトイレで着替える? 却下。今年の私とイリヤは違うクラスだ。そうなると私の服をイリヤに貸して、私が投影品を着るしかない。だけど今着ている制服も大概汗で濡れていた。いくら姉妹でも、それは気の毒だ。それと6年生になってからイリヤはルビーを学校に持って来なくなっていた。なのでルビーを使っての転身もできなかった。
それで私はイリヤの手を引いて保健室に行った。保険のカレン先生は正直人間的に困った人だけど、それでもイリヤのために保健室に常備してある替えの下着を出してくれた。そして授業は体操服で受けなさいというアイデアも出してくれた。幸い今日は体育があるらしく、イリヤは体操服を持っていた。
またタイガは今年もイリヤの担任だったから、事情を話したら1時間目に手の空いている先生に、イリヤの制服の洗濯を頼んでくれた。今日の天気だと6時間目が終わっても乾きそうにもない気がするけど、少なからずシミは残らないだろう。放課後にビニール袋にでも入れて持って帰れば良いと思う。そうして私達はそれぞれの教室にわかれて授業を受けた。
アクシデントはあったけれど何とか1日を終えて私達は家に戻った。一人だけ体操服だから、帰りのバスでイリヤは相当恥ずかしかったみたい。でも夕方の6時頃、エルマお姉ちゃんが着替えもせずうちに来て、イリヤを抱き締め褒めていた。『下級生をちゃんと守れたね。偉かったよ』って。イリヤも嬉しそうだった。
きっとアサシンの誰かが見ていて、エルマお姉ちゃんに報告したんだろうね。私はエルマお姉ちゃんのフォローに目をパチクリさせて感心していた。ママが『エルヴァちゃんみたい』と言ったのが耳に残っている。『お姉ちゃんが好き』という気持ちが少しズレているエルマお姉ちゃんだけど、『エルヴァお姉ちゃん』から見習うべきところはきちんと見習えている。真似じゃなく本物になっているのだ。高等部生ともなれば違うんだなぁって実感した出来事だったよ。
エルマがお向かいから戻った時、私は自室でエルマから預かっていた『Orville by Gibson』の調整をしていた。大体2~3日で5本、週に10本のペースで調整だけを終える段取りだ。全体的に『要修理』がほとんどないから助かる。これだと思ったより早く……多分、今月中には終わるのではないだろうか?
買ったばかりのCDレシーバーで音楽も流さず作業に没頭していると、ドアがノックされた。出てみると凛さんだった。
「はい、ブラウス」
ああ。家に帰って来てすぐさま洗濯して、ボイラー室に干していたものだ。
「ありがとうございます。わざわざ……」
「良いのよ。ついでだから。それよか、この季節は参るわね。お向かいにも干しに来いって言ってあげれば?」
「そうですね」
そのタイミングでエルマが荷物を抱えて二階に上がってきた。制服のままだから今帰ったのか。
「おかえり。弓道部の道衣?」
「ただいま。もありますけど、向かいに行っていたもので、どうせ今から洗濯するからとあの子達が今日着て行った服も預かったんですよ」
と、凛さんとエルマ。
「手伝おうか?」
と、これは私。凛さんは晩御飯の進み具合を教えてくれてから自室に入っていった。結局お手伝いは30分後からで、ボイラー室で洗濯済みの衣類をハンガーに掛けるのを手伝っただけだった。
「あっちって乾燥機なかったんだっけ?」
「あるにはあるけど、電気代が掛かるしさ。それにどっちみち私の洗濯があったから。それで預かって来たんだ」
それで今朝、イリヤちゃんが被(こうむ)った顛末を教えてくれた。バス停じゃ見張っているアサシンも出て来れないし、どうしようもない。だから念話で知っていたエルマは、今日一日気が気でなかったらしい。そのイリヤちゃんとクロエちゃんのセーラー服をパンッと広げ、ハンガーに掛けた。掛けた後に左脇のファスナーを下げ、胸のホックを止める。こうして乾かすとシワになりにくく、カタチが整うのだ。
この夏服は4年生まで着ていたものでなく、クロエちゃんを取り出した後に姉さんが買い揃えた夏服だ。去年までは少し大きかったのに、それが今だと二人ともピッタリになっている。来年は中等部生だものね。子供の成長は早いものだ。こうして見ると本当に可愛らしいデザインの服だなぁ。生後2年にも満たない私は、自分が得られない『子供時代』というものに憧れがある。
だから、イリヤちゃんやクロエちゃん、美遊ちゃん達を眺めるのが好きだったりする。エルマのコスプレも姉さんが感傷的に言った『学生時代は今だけ』という言葉だけが理由じゃない。自分に『子供時代』がないホムンクルスだからこそ、余計に存在しない『空白の期間』とも言える『子供時代』に憧れているからだ。
私よりエルマの方が感受性が強いから、そういうコスプレなんて行動に出るのだと思う。どこか『自分と関係ない古い写真』を集めるレプリカントのようだと思わなくもない。だけど私やエルマにヴンダーは、『エル様』が第六世代ホムンクルス鋳造に移行するためのプロトタイプだったし、四世代前のリズライヒ型ホムンクルスの平均的な寿命が4年だったのは事実だ。
それを人と変わらない寿命にまで伸ばせたのは、先代御館様の下に居らっしゃる『大婆様』から得られた研究成果の賜(たまもの)だったらしい。だからあの方が大切にされているのだとか。そしてその『ホムンクルスの寿命を伸ばす事に成功した家』こそが先代様や今代様である『エル様』が属する『ラインハルト家』なのだった。
そしてそれまでの第五世代を元に、新たな第六世代を開発したのも『エル様』だ。だから私達はアインツベルンの遺産である様々な礼装と相性が良い。わかりやすい例なら魔杖だ。元々ルビーやサファイアといった魔杖は、私達ホムンクルス向けの礼装だったし、ある意味補助礼装でもあった。だけど私達第六世代はそれら礼装を使いこなせるよう改良されている。だからエルマは抜群に適正が高いのだった。
また、イリヤちゃんのような子供を導ける相手としても鋳造されているから、応用力もかなり高く設定されている。イリヤちゃんを見て修正し、そこから得られたデータを元にさらなる発展を考え出せるような。なのでルビーが一本あればエルマは何でもできた。子供姿の自分をエーテル出力して、そこに自分の意識を移して行動できたりとかだ。勿論、その時の自分自身は宝具に格納して眠らせておくんだよ。
口では言わないだろうし、聞いてもいないけれど、少なからず私はエルマがそういう『子供姿で過ごす遊び』をしている事を知っている。ついでに言えばエーテルを二体出して、片方で姉さんを演じている可能性もあると睨んでいる。『エル様』という人を知っていて、宝具を持っている訳だから多分間違いないだろう。
それとルビーの『囁き』だ。ルビーの口車に乗せられて、凛さんが前々から隠れて子供の姿になっていたのは知っていたけれど、この間はエーテルで子供姿の桜を出して遊んでいた。まぁ、そこはわかる。妹との失った時間を取り戻したいという凛さんの気持ちは。そこに関しては姉さんのアドヴァイスがあった可能性も否めないしね(※)。だけど子供の凛さんと子供の桜。二人して穂群原小学部の制服姿だったのはどういう了見だ? だいたいあの人は学園小学部の出身じゃないでしょうに。
※)凛さんが抱えるトラウマ解消の一貫らしい。しかもここの凛さんは、かなり軽い方なのだとか。他の世界の凛さんはもっとキズが深く、病んでいるのだと姉さんもエルマも口を揃えて話している。健全そうに私なんかは見えるのだけど、『衛宮士郎』程ではなくとも精神的に病んでいるのは事実だという。視野狭窄にハマるのもそこに原因があるのだとか。
「夏服は向こうと同じデザインなんだね?」
「そうね。上から被るカタチは同じだね」
『向こう』とは『エル様』が居らっしゃるあっちの世界の事だ。あっちとこっちでは同じ穂群原学園でも微妙に違っていた。こちらの小学部があちらでは初等部と言ったりだ。特に違うのが小・中・高の女子の制服だった。あっちだと初等部の女子冬制服は襟付きの上着でなく、中に着たブラウスの襟を、襟なしの上着の外に出すカタチだった。体温調整もしやすそうだし、あちらの方が良いと思う。
それと高等部女子の夏服はオーバーブラウスだった。胸元にピンタックが入っていて、そこもあっちの方が可愛かった。こっちのはスカートの中に入れる普通のブラウスだから、腕を上げたり自転車を漕いでいると裾が上がって来るのが困りものだ。おまけにタックはないし、胸ポケットもないから愛想もクソもない。上に茶色のベストを羽織らないとツンツルテンでダサいと女子は皆んな話していた。
「あれ? 桜って穂群原の小学部出身だよね?」
「そう。だから桜が6年生の時、イリヤちゃんは1年生だったよ。気付いたのはそれでしょう?」
「うん」
やっぱりエルマはとっくに気付いていたんだ。
「士郎さんと懇意になる前から、縦割りなんかで何度か面倒をみていたらしいよ? それにタツ子ちゃんみたいなハーフ顔じゃなくて、イリヤちゃんって私達と同じまんま外人さん顔だからさ、余計に目立っていたらしくてね。小さい頃はとっても引っ込み思案な子だったんだって。だから桜と通じるものがあってさ」
「仲、良かったんだ?」
「うん。まぁ、あの頃のイリヤちゃんにとっては親切な6年生のお姉さんという認識しかなかったろうけどね。桜を桜として認識できたのは、中等部のお兄ちゃんと仲のいい人ってところからかな? 昔の事なんてほとんど憶えていないと思うよ」
「ああ……。再会って言うと変だけど、間の記憶が少し抜けているんだ?」
「そう。『彼女』と認めたのも昨年からでしょう? その前は恋敵で。その恋敵という感覚も4年生の頃は無かったと思うよ。小学生なんだから、そんなもんだと思うな」
そうかぁ……。こうして考えると不思議だなぁ。イリヤちゃんと桜が同じ校舎に居た時期があったなんて。頭も心も15~16歳で造られた存在としてみたら、人の年齢差って違う意味でも面白いと思う。そこにドラマを感じるというか。洗濯物を干し終えて部屋に戻った私達はお茶を入れ、晩御飯までしばらくそんな事を話し合った。
だから食事は久しぶりにメイド服姿のままだった。洗濯前に着替えてそのままだったのだ。こういうのに慣れっこな凛さんとルヴィアさん、それとマルガリータさんは、私達の出で立ちにスルーだったけれど、アーチャーさんは少々呆れ気味だった。だけど姉さんもメイド服で過ごしている時が結構あったので気にしてない。何より姉さんは自分が使っていたメイド服を倫敦に持っていっている。それはアインツベルンのもエーデルフェルトのもだ。相変わらず着替えて掃除などをしているのだろう。
食後、後片付けを終えた女性陣は皆んなでお風呂に入った。エルマと私は乾いた衣類にアイロンを掛けて、お向かいに持っていった後に遅れてお風呂に入った。その時にエルマから『後で部屋に来て欲しい』と言われた。なのでお風呂から上がって部屋で髪を乾かした後に、エルマの部屋にタオル片手に向かった。私は暑かったので上はTシャツ、下はパジャマという出で立ちだった。エルマは机に向かい、パソコンを起動していた。
「こら、トロンメル。あなた、またTシャツの下、ブラなしでしょう? 女の子だらけの家でもそこは注意なさい」
「ごめん。暑くて」
振り向いたエルマが私を叱ったのは、その姿で廊下へ出るなという意味だ。部屋の中のエルマは私と同じで、Tシャツにノーブラが多い。これは昨年の夏や秋もそうだった。それよかその濃い青地のTシャツの背中に白抜きで描かれた『Rosa Bleu en Bouton』とは何だ? 元ネタはわかる。『エル様』の部屋に既巻全部あったからね。だけどアインツベルンを青と例えるなら、ロサ・ブリューは『エル様』に他ならないぞ? だけど私の視線の先に気付いたエルマは、こう返した。
「青薔薇の花言葉は昔だと『不可能』や『存在しない』だったけど、今は『夢が叶う』『神の祝福』や『奇跡』となったの。不可能だった青い薔薇を初めて誕生させたのは公式だと日本人よ。2002年の事だった」
『知ってた?』なんて表情で小首を傾げている。なので私は首を真横に振った。だけど姉さんを奇跡と言うならヴンダー以上に相応しい気がした。
「『青薔薇の蕾様』、そのTシャツ、わざわざ作ったの?」
「そう。これあげる」
そう言ってエルマは私に何枚かのTシャツをくれた。弓道部のものと姉さんに関するものばかりだった。部活Tシャツは修学旅行でも弓道部員が着ていたものと新作があった。これは嬉しい。だけど『I Love Elva』はやり過ぎだろう? でも、旅行にも持って行かない完全な部屋着なら良いのか……。ホント、隠そうともしないな……。天井付近では2本の杖が何やらヒソヒソと話し合っていた。
そんなある意味で突き抜けた、でも節度も適度に併せ持った『百合な姉』はデスクトップに開いたメーラーの添付画像を指して、こんな事を言った。
「これって何?」
その『これ』は笑顔のアメリカの姉さんの後ろに写っているスピーカーだった。棚の上で横向きだし、これまでオーディオに興味のなかったエルマだから今まで気付かなかったのだろう。
「私がオーディオを買ったから?」
「そう」
エルマの部屋にはCDラジカセがある。これは私とお揃いで、姉さんが買ってくれたものだ。確か家電量販店でなくホームセンターで買ったものだった。型遅れなのか安かったらしい。色はピンクで、メーカーは『SANYO』だ。MDはないし、カセットも一つだけ。でも何かと重宝している。
「それはスピーカーだよ。『JBL』ってアメリカのメーカーの、多分『4311』だと思う」
この薄いグレーのエンクロージャーはおそらく1970年代の初期型だ。白いウーファーとそれを縁取るように斜めに取り付けられた黒いスコーカーにツイーターの3Way。しかも縦置きの時はウーファーが上になるという何とも斬新な小型ブックシェルフ・スピーカーだった。スタジオ・モニター・シリーズの中の一つで、今も『4312』『4318』と続いている系統でもある。
残念ながら『4312』ではエンクロージャーの縁と平行にスコーカーなどが取り付けられるようになり、去年出た『4318』はツイーターの位置が『らしく』失くなってしまった。
なので私は2000年頃のバッフルが青い『4312M(ミニ)』が欲しいなと前々から思っていた。本当にあの『JBL』が『YAMAHA』の『1000M』に対する『10M』みたいに、思いっ切り小型のスピーカーを出していたのだ。しかもそんな小型なのに真面目に3Wayだった。私、その頃、まだ鋳造されていない。きっとササミのようなタンパク質の塊だったろう。中古で良いから手に入らないかな?
「昔のなの?」
「そうだね」
「そっか……中古で手に入る?」
「探せばあるんじゃないかな?」
おいおい。それもアサシンに探させるの? エルマだなぁ……。
次の日も雨だった。今日のイリヤは行きも帰りも転けないで無事だった。今朝はバスから降りる下級生を私も手伝った。先に降りてボーッとしてないで、私も側に行って手伝うべきだったと反省したのだ。そうして学校での細々した用事も終わった帰り道。いつものバス停で降りて家に向かってイリヤと並んで歩いていると、50mほど前で体の大きな人達数人が、体の小さな中学生くらいの男の子を小突いていた。どちらも黒い学生服姿だった。
『何か揉めてるの?』なんて単純には考えられなかった。恐喝なのか、イジメなのかはわからない。だけど、あの背が低く気の弱そうな男の子が大きな人達に迷惑を掛けたとか、イタズラをしたとも見えなかった。だけど事情がさっぱりわからない。なので私達は横を通り過ぎる時に聞き耳を立てた。
だけど私はその時に魔力がその人達を取り巻くのを感知した。それもかなり危険な予感がした。だからイリヤを抱え、どこかの家の塀に跳び、そこを足場に屋根まで跳んだ。『何?!』とさっきまでいた道路へ振り向いたら、大きな人達は全員道端に倒れていた。どうやら気絶しているらしい。そして男の子はアサシンから地面に押さえつけられていた。
魔術の発動の瞬間に割って入って、大きな人達を魔術の及ぶ範囲外に逃しつつ気絶させ、小さな人……つまり魔術師を取り押さえたのだ。私とイリヤが道路に降りようとしたら、屋根に登って来ていたアサシンに止められた。そこにランサーが飛び込んで来た。
「後で説明してやるから、今は黙って、お前ぇらは家に戻りな」
そんな事を言うから『絶対だよ』と言い残して帰った。それでランサーは約束通り5時に私とイリヤをエーデルフェルトに呼んでくれた。場所はいつもの食堂。そこには学校から戻ったばかりのトロンメルのお姉ちゃんと、凛にルヴィアが待っていた。エルマお姉ちゃんは弓道部があるから居ないし、イリヤお姉ちゃんもアルバイトで居ない。でもゾウケンくんやアーチャーのお兄ちゃんにマルガリータさんは居た。代理人や参考人として話を聞くそうだ。
「あの男の子は?」
「裏庭だ。ランスロットの小屋に居るぜ」
「少し考えたんだけど、あの子、悪い人でなく、悪い結果を出しちゃう人?」
ランサーが『成長したな』と私の頭を撫でた。
「今風に言うと天然の魔術使いですわ」
「天然?」
ルヴィアの言葉にイリヤが聞き返した。
「ええ。何かの事情で家を離れた魔術師の血を引く者が、似たような境遇の相手と偶然出逢って子供を残した……。そういうケースがここ50年の間に増えつつありましたのよ」
「魔術師の血なのかしらね? 惹かれ合うんでしょうね。それであの少年は結構遠い街から来ていてね。家が母子家庭らしいんだけど、母親が急遽入院しちゃってね。それでセカンドオーナーの私を頼りなさいとか言い残され、この街を訪れてくれたらしいの」
どういうこと?
「凛の親戚か何か?」
「親戚じゃないけど、祖父や祖々父同士が知り合いというか……。有り体に言えば、昔うちの店子だったのよ」
祖父の世代までは店子だった? そこでエルマお姉ちゃんが私やイリヤにもわかるように話してくれた。
「ファーストオーナーやセカンドオーナーは、自分が所有・管理する霊地を他の魔術師にひと月幾らで貸して収入を得ているんだよ。これはわかるでしょう?」
私とイリヤは『うん』と頷いた。
「そんな関係が祖父の時代まであったって言う場合、本当に関係が深かったのは祖々父の代以前だった可能性が高いんだ。というのは魔術の研究ってお金が掛かるから、長期に渡って安定した収入が得られる仕事を持っていないと厳しいものなの。だけど誰もがそういう『出て行くだけ』のお金を工面できる訳じゃない。というのも、お爺さんが社長さんでもさ、お父さんは別の会社でサラリーマンって場合もあるし、その子供の世代はニートだったらどうする? ね? お金を稼ぐって魔術師かどうかは関係ないんだよ。お金を稼ぐ才能がある人が儲けられるものなんだから」
なるほどと思った。
「それに親族が少なく、世間の普通の家と同じように核家族化した家は、没落しやすい側面もあるのね。だから名のある、魔術師として何代も続く家はそれだけで『偉い』となるし、そういう家は大抵一族皆んなで団結して盛り立てて行こうとしているよ。だから、そうしなかった一家・一族が決まって核家族化し、最後は没落してしまう。そうなったら魔術師を廃業するしかないの。だって家族が食べていくのが最優先だから。つまりその男の子のお父さんか、お母さんが子供の頃までは魔術師として育てて貰えたけれど、途中で冬木から出ちゃって、廃業していたんだろうね。で、先にランサーが男の子から訊いてくれていて。案の定と言うかやっぱり誰からも魔術は習っていなかったみたい。だから『天然』ってルヴィアさんは言ったの」
『ああ』と私とイリヤが同時に声を出した。
「習ってなくても使えたりするの?」
私がそう尋ねると、トロンメルのお姉ちゃんにデコピンされた。『それをあなたが言うの? 少しは考えなさい』って意味だ。
「私利私欲での魔術行使でなく、身に危険が及んだ場合の魔術行使……。だから『天然の魔術使い』な訳だね。でもそんな没落した家の子でも、最初から才能が高い場合がある。レアケースだけど、『絶対に無い』とは言えないよね?」
私とイリヤはコクンと頷いた。
「そして知らなかったとは言え、魔術で第三者を傷付け、隠蔽を怠ったら?」
あ。
「凛さんもルヴィアさんも、そんな子を捕まえて時計塔に引き渡すのはどうかと考えたの。だからエルマを通じて、ランサーやアサシンに網を張って貰っていたって訳よ。わかった?」
その子は冬木に入るまでに素行の悪そうな人に絡まれ、5人ほど骨折させていたらしい。バス停近くで絡まれていたのは追い掛けて来ていた人達だったようだ。だからアサシンはその人達が怪我をしないように、魔術の範囲の外に出したのか……。
「身を守るのは当たり前の事だけど、だからといって一方的に相手が悪者とも決められない。しかも、あの子はここに来るまでに少しやりすぎていた。さすがに4人も5人も深山町で骨折事故が起きたら、何事かと怪しまれるわ。セカンドオーナーとしてはアサシン様々よ」
「ですわねぇ。本当助かりましたわね、リン」
ここでようやく話が飲み込めた私だった。
『おヌシ達で引き取るのかえ?』
ゾウケンくんだった。
「あの年齢で、あの魔術。触媒なしですわよ? 眠らせるには惜しい才能かと」
「それにエルヴァなら引き取りそうだわ」
「ですわ。アインツベルンとしては無理でしょうけど、個人的支援と最低限の魔術教授はするでしょうね。だって、それが一番無難で安全ですもの」
「ね。魔術から離したい親の気持ちもわかるけれど、あの才能じゃ、何も知らないで生きる方が危険だわ」
つまり?
「母親の容態をみながらだけど、ちゃんと事情を話して、納得の上で許可を得、こちらで何年か指導するしかないでしょう」
そこで少し揉めたというか話し合い、ルヴィアとリンが卒業した後はエルマお姉ちゃんとトロンメルお姉ちゃんが引き継ぎ、それらをマルガリータさんがサポートする事でこちらの話が纏まった。後はその子のお母さん次第だった。その後、6時前かな? 部活を終えたエルマお姉ちゃんが帰ったので私達も家に戻った。それはお兄ちゃんも帰っている可能性が高いからだ。そうなると夕御飯が始まるからね。
「暑っつぅ~」
帰りのバスで蒸された私は鉄格子の門を抜けた瞬間にリボンを解き、ボタンを開いて、パタパタと手の平で胸元に風を送り込んだ。玄関の扉を開いて『ただいま~』と声を掛けたら、『おかえり~』と皆んなからの声が届いた。部活だったから、念話を切っていた。なのでアサシンやランサーからの報告を聞いていたら、うっかり胸元を開いたまま食堂に入ってしまった。
「エルマ……」
「この姿をエルヴァさんがご覧になられれば何を仰るか……」
「フラれるでしょうね」
凛さん、『フラれる』って何だ? そういう関係になって欲しいとは願っていても、私はまだお姉様と付き合ってもいないぞ。その言葉が何気に一番キツい。その後、気を取り直して2階の自室に入って荷物を置いた。着替えようとクローゼットの鏡を見たら、私、胸を開き過ぎ。ブラジャー丸見えじゃん。これはお姉様に『フラれる』と言われて当然だった。
私は着替え終えると、脱いだ制服やリボンをカゴに入れ地下のランドリー室に下りた。この家はルヴィアさんが知っている以上に女性のための小道具に溢れていた。洗濯ネットも大中小と様々あるし、柔軟剤も洗濯ノリも、お洗濯ボールも何でもあった。空中コンセントに繋がったアイロンも、スカートやズボンを挟めるプレス機も、穂群原独自の緩い襟のカーブやパフスリーブを仕上げるための丸く膨らんだアイロン台もあった。
これらは全部、お嬢様であるルヴィアさんのために、今は本国に帰ってしまったエーデルフェルトのメイドさん達や、オーギュストさんが揃えたものだ。それで、オーギュストさんはともかく、それ以外のメイドさん達は忠実ではあったけれど、本国に帰りたがっていた。それは皆んな恋人や家族を国に残して日本に来ていたからだ。
それを交代制にしてあげろと言ったのがお姉様だ。だけどその交代制もいつの間にか有耶無耶になって、今は全員本国に帰っている。それは私とトロンメル、マルガリータさんとアーチャーさんが居るからだ。マルガリータさんとアーチャーさんは、趣味が高じたお料理好きではあるけれど、家事全般は必要に駆られたから出来るのであって、そこまで好きというタイプではない。
『いや、アーチャーは好きだろ?』と思う人も居るだろうけど、私が観たところ彼が好きなのは『D.I.Y』を感じさせる『何か』であり、本質的には『ものを作る事に喜びを感じる』職人肌の人だ。こだわるのは常に『完成度』で、それをどこまで極められるかにあるようだ。決して『投資』に見合った『結果』だけを追い求める浅い人ではない。
この件は、やはり料理で例えるとわかりやすいだろう。何も安い食材だけを追い求めている訳ではないし、『安物でもウマい』というコストパフォーマンスのみに囚われている訳でもない。『衛宮士郎』としてならその収入から逆算した買い物内容にならざるを得ないし、コストパフォーマンスも重要だ。
けれど、スポンサーにルヴィアさんがついてコストがある程度無視できるとなればそれに見合ったものを作る。そういう切り替えが出来る。そして本気度や入れ込み度も変わる。もっと言えば『モードが変わる』と言えばわかるだろうか? 上手く言えないけれど、アーチャー・モードからバトラー・モードに切り替わると言うか……。これも不思議な話だけど、そうなったら頭というか心というか、ともかくスキルを押し込んだタンスまでが変わる事に私は気付いた。まるで各段に収まった『引き出し』の中身そのものが、全然違っているような錯覚を覚えるくらいに変化するのだ。
お向かいの衛宮先輩(士郎さん)も、男子高校生と思えばマメで器用な人ではある。だけど一人暮らしになったからと、アーチャーさんの前身である『衛宮士郎』のように生活できるかとなると『無理だな』と思ってしまう。1年365日いつもどこかの掃除をして、毎日料理をして、洗い物をして、2日に1回は洗濯をして、家のどこかの修理をして、天気が良ければ布団を干して、アルバイトに精を出す……。
こんな生活、専業主婦でも無理がある。リーゼリットさんはセラさんの補助的な役割しか無いけれど、リーゼリットさんが居るから、セラさんも息抜きが出来るのは間違いない。だけど『衛宮士郎』は学生で、平日は1日の大半を学園で過ごす必要がある。もしかしたら学園が唯一『息抜き』できる場所だったのだろう……。
異常とかロボットみたいだと言う前に、英霊となった後との『落差』が私は気になる。そのモードが変わったようにしか見えないほどのスキルはどこから降って来た?
英霊の座はアカシックレコードにあるという。そこが『根源』だと魔術協会はいう。だけど『エル様』は両者は別物だと仰った。
『究極の一、すべての始まり。それを定義すれば『何もない』という事です。そんなものを追い掛けるより、図書館に行って勉強した方が幸せになれますよ。そこでレシピ本を見比べて、著者ごとでどうアレンジが異なるのかを知り、自分なりの『美味しくなるしか無い方程式』を見付け、新たな自分だけのオリジナルレシピを考え出した方が、圧倒的に有意義な人生を送れます』
私もそう思う。
『レヴェイユ、ヴンダー、トロンメル?』
鋳造後すぐに『エル様』はまだ培養槽に浮かんでいた私達に声を掛けて下さった。ちなみに『レヴェイユ』とは『réveil』と書き、私の本名だ。ヴンダーもトロンメルも省略して『レヴェイ』とか『レベイ』と呼んでいたが、意味はフランス語の目覚まし時計だ。通しナンバーが私は101番だったから、ハイドンの交響曲からそう名付けられた。
街中などにある公共用の大時計なら『L'horloge』、振り子時計なら『La pendule』、腕時計なら『La montre』となる。つまり時計はフランス語だと女性格なのだ。けれど『réveil』は違う。『réveil』だけは『Le réveil』となって男性格となる。この名詞の格はドイツ語にもあるので違和感はないけれど、自分が女なのに『Le(ル)』は無いだろう。普通は『La(ラ)』と来ないか?
良い例として川がある。川は女性格なので、セーヌ川はラ・セーヌとなる。これが実に悔しい。私は『ル・レヴェイユ』と呼ばれるのが大嫌いだ。だからお姉様にエルマという名を名付けて頂いた。『Elva』を捻った『Elma』……その名は私の誇りだ。
『ヒトとは何か? ヒトを万物の霊長たらしめる根拠は何か? そこを考えながらこれからの『人生』を歩んで下さい』
そう仰ったのだ。この意味をお姉様に尋ねた事がある。そのお答えが────、
『考える葦かな?』
だった。この『人は考える葦である』とは、パスカル(言わずと知れたフランスの哲学者)がパンセという書物(遺稿集)の冒頭に記した言葉だ。端折らないで全部記せばこうなる。『人間は自然のなかでもっとも弱い一茎(ひとくき)の葦にすぎない。だが、それは考える葦である』だ。
この意味というか解釈は、概ね『葦のように弱い存在ではあるけれど、その思考や思索は宇宙をも内包する』となる。イザヤ書の『傷ついた葦』から連想された言葉らしい。だけど自然科学に目を向ければ、葦は暑い夏ほどよく伸び、その地下茎は1年で5mも伸びる場合があるそうだ。
だから『ヒトとは何か?』と問われれば、『経験だけでなく先人が残した書物なども活用して、知識を組み合わせ『知恵』となせる動物』となる。それ即ち『成長』だ。肉体だけでなく精神も心も成長できるものこそが『人間』なのだ。『エル様』は私達三人をホムンクルスとして鋳造されたのでなく、『人間』として造られたのだった。それがあの問い掛けの答えだ。だから『人生』と仰って下さったのだ。
お姉様はこんな私の考えを『正しい』と仰り、日本語での意味や変化なども併せて教えて下さった。葦とはその語感が『悪し』に通ずるので、『良し』と言い換える場合が多いらしい。なので葦には『あし』という読みと『よし』という二種類の読みがあるという。そして地名も縁起を担いでそんな風に変わる場合があったそうだ。
例えば江戸の外れ、隅田川の側にあった吉原は本来、葦原だった。けれど商人の町、大阪などでは『お足(勘定、代金)』に通じるからとそのまま残っている。芦原橋などがそうだ(『葦』は『蘆』とも書け、『蘆』を当用漢字用に簡略化したものが『芦』だ)。
それでその『悪し』と『良し』の両面を持っていても、地下茎のように他者と繋がって、天に真っ直ぐ伸びるのが人間だと教えて下さったのだ。こんな解釈、パスカルもビックリだろう。だけど私は『考える葦』という言葉が好きになった。そしてお姉様がますます大好きになった。あんな事やこんな事をお姉様としたいと思うのも、私がヒトに近い存在で、地下茎で繋がっていたいからに違いない。
こんな風にヒトは他者と繋がって常に考えるから真っ直ぐ伸びるのだろう。士郎先輩や士郎さん(美優ちゃんのお兄さん)と『衛宮士郎』の差もそうだ。その差はどこから生まれるのかと言えば、ズバリ『家族』にあると思う。もっと言えば家族構成と言うべきかな?
例えば美優ちゃんのお兄さんの士郎さんなら、美遊ちゃんの存在だ。絶対守らなきゃいけないと決めた大切な妹。その断固たる『命題』に、立ち位置でコロコロ変わる曖昧な『正義』やら、筋書きの単純な勧善懲悪アニメやドラマで定義される『悪』やらも立ち入る隙きはない。
ただ、あの人は美遊ちゃん以外に繋がる人が居なかったから、一時危険な状態に貶められていた。だけど『エル様』やお姉様に救われ、ここに来てからのあの人はよく笑うようになった。私としてはムードメーカーであるランサーの存在と、親身に話を聞くランスロットさんの存在が大きいように思う。今はルヴィアさんという応援してくれながら、手綱も引き締めてくれる人が居るのでなお安心だ。
対する我らが士郎先輩にはご両親も居れば、イリヤちゃんにクロエちゃんという二人の妹が居て、セラさんにリーゼリットさんも居る。つまり最初から地下茎が張っている。その中で私は特にセラさんの存在が大きいと思うな。もし桜が居なかったら先輩はセラさんとくっついていたんじゃないかとさえ考えているよ、私は。
そんな感慨を胸に抱きながら階段を昇り、地上階に戻ったら念話が届いた。
〈エルマ、坊主の名前の文字がわかったから送るぜ。諸星真一だとさ〉
これが念話上級者の凄いところだ。ランサーは視覚情報を念話のパスで送って来たのだ。それは文字放送しかない世界で、突然電波に映像を乗せて来たようなものだ。キャスターでも召喚できる彼を、姉さんはとても高く評価していた。しかし……何と言うか、ラムちゃんとボッコちゃんが手を繋いでパライソに行きそうな名前だよねぇ。間桐慎一さんにも似ているし……。
〈エルマ殿、あの者の母親は癌らしいですぞ。医療費が嵩むでしょうなぁ……〉
今度はアサシンだ。
〈エルマ様、少年の主な稼ぎは新聞配達でした〉
これは別のアサシン。
(母親の仕事はパート? 遺産や父親の残した保険などは?)
〈それが……我らが調べた限りは今のところ何も見付かっておりません〉
(そう……ご苦労さまでした)
そうか……。本当に母一人子一人だったのか。いくらセカンドオーナーに頼れたって無茶だよ、お母さん……。でも、それ以外に自分が入院する切羽詰まった状態だったから方法が見付けられなかったのだ。それに彼自身が未成年で、しかも年齢から福祉に頼ると児童養護施設行き確定だ。それは彼も避けたかったのだろう。だから一縷の望みを託して、凛さんに会うだけ会おうと考えたのだと推測できた。
彼……諸星真一くんは、そのあどけなさの通りで、年齢はまだ11歳の6年生だった。つまりクロエちゃんやイリヤちゃんと同じ学年だったのだ。着ていたツギハギな学生服は、彼の地元の公立小学校の制服で、彼は中学生でも高校生でもなかったのだ。そして話せば素直な子で、とても親思いな良い子だとわかってしまった。だからルヴィアさんが凛さんに支援を申し出、凛さんもセカンドオーナーとして受け入れると確約した訳だ。
それはそれで良かったのだが、私は母親の事が気になった。ステージがどのくらいなのか、現在どの程度進行しているのかは、アサシンでも探れなかった。また、現在の所有現金、貯蓄残高などもそうだし、がん保険などに入っているのかどうかも不明だ。もっと情報を集めるよう、現地に5人ほど送るべく指示は出したが先行きは昏い。
こうなると母親の癌を魔道で治す事も考えておくべきだろう。セカンドオーナーに頼って来た……その一点に私は賭けようと決心した。だからこちらの世界の先代御館様に連絡を取ろうと考えた。ただそれにはお姉様を通してスイスのエル様かエルヴァちゃんに頼むしか方法がない。だって私はこちらの世界のアインツベルンとは何ら関わりのない存在だからだ。