結局、凛さんとルヴィアさんが諸星真一くんを正式に私達へ紹介したのは翌々日の夜だった。エルマがこれまでの生い立ちや、現在の状況などをアサシンやランサーを使って念入りに調べあげ、凛さんとルヴィアさん達に報告するまでにそれだけの時間を要したのだ。また平行して真一くんの冬木市への転入届や公立小への転入手続きを、私とエルマとでする必要もあった。何故なら今のエーデルフェルトにはオーギュストさんもメイドも居ないからだ。
そのための委任状なども必要なのだが、緊急入院して動けない母親が書けるはずもない。なのでこれらは後からの提出で良い事になった。それは彼の地元の役所が親身になって動いてくれた結果だった。また、そうなるようにエルマだけでなく、イリヤ姉さんもゾウケンくんも動いてくれた。エーテル出力したゾウケンくんとイリヤ姉さんは、何と真一くんの地元まで行って各種の手続きをしてくれたのだ。
その際にルビーも連れて行き、病院にルビーと数人のアサシンを行かせて、こちらの手続きと入院保証金のようなものも支払わせたらしい。そして最速の英霊は各種書類を持って、冬木と真一くんの地元……(四国の徳島県だ!?)を昨日だけで三往復もしたという。エルマが持たせた特殊なポーチに書類や判子を押し込んで霊体化したランサーは、邪魔になる車両も突き抜け、マッハを遥かに超える速度で明石海峡大橋を駆け抜けたという。
速度に限度が出るのは実体だからで、霊体化すると制限は自身の思い込みという思考のみとなる。その思考を振り払えるから彼は妖精郷の守護者になれたのだろう。まして魔力はエルマがガンガンに送っている訳だ。しかもエルマは元サーヴァントだったランサーに嵌められた聖杯の枷を取り払い、彼をセイバーさんのような自由召喚された存在とほぼ同等にまで高めていた。
つまり今のランサーは、サーヴァントだった過去の自分を刹那の間も与えず斃せる速さと強さを手に入れていた。もう一度言う、『秒殺』では無いのだ。ストップウォッチの針が一つ動く前に事は終わるという意味だ。私も英霊に魔力を送ったり、地球の自転や地磁気を魔力に変換してストックしたりは出来るけれど、生憎、エルマ程の魔術知識がない。やっぱりエルマは凄かった。
「リン?」
「わかってるわ、ルヴィア」
私は部屋の扉をノックした。返事の声はボーイソプラノだった。入ってみるとテーブルの前の椅子に座らず、椅子の横でじっと立っていた。
「立って待っていたの? そこにお掛けなさい。私がこの冬木の当代セカンドオーナー、遠坂凛よ」
「ぼ、僕は……」
私は少年の言葉を手の平で制し、ルヴィアを紹介した。
「先に彼女を紹介させて? 彼女はこの屋敷のオーナーで、私の友人。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトさんよ。当然私と同じ魔術師だけど、私と同じで君の味方だから」
そう言ってからルヴィアに合図を送った。
「ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトですわ。この家は私のようなガイジンばかりですが、皆んな日本語がわかりますので困った事があれば何でも仰って下さいましね」
そのタイミングでエーデルフェルトのメイド服に身を包んだエルマが入って来て、流れるような手付きでお盆から少年の前にカップソーサーを置いた。纏めた髪には帽子風の幅広いヘッドカチューシャ。当然ながらスプーンの位置も検める。エルマとトロンメルが元メイドなのは知っていたが、ここまで洗練されているとは気付かなかった。
次に私、その次はルヴィアに。そうして一周回ったエルマは、また少年のところに戻り、今度は順にティーポットから香りの良い紅茶を注いだ。そして砂糖と薄切りになったレモンの入った器を置いて、頭を下げて出て行った。横に座る友人は少し息を飲んでいた。なのでチラリと横顔を見たら、『本領発揮すればここまで出来ますの?』と感心した顔だった。あんた、それをエルヴァに聞いて、知っていたからメイドを全員帰したんじゃないんかい?
私は彼女の豪胆さに呆れた。ま、それだけルヴィアはエルヴァを信用していた訳だ。そしてそれは私も同じだった。
『さて』と私は少年に視線を移動した。暑くなって来たこんな季節に、真っ黒な折襟の学生服とぶかぶかな半ズボン。知り合いの卒業生にでも譲って貰ったのか、肘は光り、袖口は擦り切れている。お尻もテカテカだ。だけどそれは彼にとっての正装であり、セカンドオーナーに会うためだからと母親に言われているように感じた。身長はイリヤやクロエより少し高いみたいだが、あどけない顔は年相応で、とても小学生らしい。年上の私達を前にしているから緊張しているのだろう。膝の上に置いた学生帽をギュッと握り絞めていた。そうして会談が始まった。
真一くんという少年は会ってみると、母親の躾けが良いのか至って真面目な子だった。それに何より、自分の事より母親の病気の事ばかり心配していた。6年生にもなれば詳しい説明を聞かずとも、母親が大病である事はわかるのだろう。それに伴う医療費なども。だから彼は自分を買い取ってくれと、セカンドオーナーの私に土下座せんばかりに懇願して来た。
親を早くに失くした私にはキツい話しだ。正直、身につまされる思いだった。だから癌がどうなるかはわからないが、できる限りのバックアップをすると約束した。ただし条件はある。それが魔道をきちんと学ぶ事だった。自分の身を守るためとは言え、今のように勝手に発動されては神秘の漏洩甚だしい。それこそ事情があっても見逃せない事態に陥りかねない。
だから当面は見習いの書生として私が預かる事に同意してもらった。それは魔術のコントロールを覚える事と、魔術師の守るべきルールと仁義を学んでもらうためだった。だから弟子にするかどうかは、母親の容態が少しでも良くなって正式な許可を得た後、適正をみてから決めると話してあげた。
そして転校してもらう事も話した。これは地元に残っても入院中の母親の助けにはならないし、私達が彼をサポートし辛いからだ。覚えて貰わなきゃならない事はたくさんある。なのでそこはきちんと説明した。また母親の様子もこちらから派遣した人(アサシン)に逐一報告してもらう手筈だとも伝えた。
それからアーチャーに部屋を案内させ、本日からランスロットさんの小屋でなく、こちらで住まうようにさせた。これは魔術的にもその人となりも、生活から見えて来る事が多いからだ。それとこれが一番重要なのだが、彼を孤立無援にしてはならないという思いが私とルヴィアには強くあったのだ。ケースは違うが、並行世界の『衛宮士郎』のような、或いは『遠坂凛』のような情報が隔離された状態にしてはいけないと思ったのだ。
そう思ったのは、自分でも薄っすらそういう気はあったけれど、ゾウケンの強い助言があったからだ。その理由が真っ当で納得できるものだったから受け入れた。と同時に自分を含め、並行世界の『遠坂凛』は甘いと唸らざるを得なかった。つまりゾウケンは何十年も掛けて遠坂没落の策を練り行使していた事を告白してくれたのだ。勿論、この世界の事でなく、並行世界での話しだ。
そしてそれらは、いつかエルヴァが私に指摘してくれた話しとほぼ合致していた。今は杖となり改心したゾウケンだけれど、あいつは幼い桜を『蟲蔵』という名の薄気味悪い修練場に放り込んでいた。そこは決して魔術師の工房ではない。その身を蟲に喰らわせる悍ましい場所だったのだ。
あの時、虫は友達と言って憚らないエルヴァやルヴィアと降りて見た、桜に集る蟲どもの光景は忘れない。先生とエルヴァが居たから桜は助かったのだ。エルヴァ達が居たから凄惨な聖杯戦争がほどんど犠牲を伴わずに済んだのだ。ただ、あちらの父は母と離婚してしまったが。それでもあの世界の私と桜はこの先も仲の良い姉妹として育って行くだろう。私はエルヴァへの感謝を忘れなかった。
そんな世界からエルマが持ち帰った間桐臓硯の成れの果て……醜い一匹の蟲に残った魂を、ルビーを元にして造った杖に押し込んだのがゾウケンだった。なので今のゾウケンは頭脳は明瞭で、若い頃の崇高だった精神を取り戻している。だからこそ父が当主だった頃の『穴だらけの遠坂』の話しには、呆れも悔しさも通り越して項垂れる他なかった。
過去のゾウケンが憎々しいからと立腹して、この問題を避けて通れば私の負けだ。何故ならゾウケンは私達のために、今までどれだけ陰で動いてくれていたか。それを見逃す私やルヴィアじゃない。エルマの願いがあったからだけじゃない。ゾウケンは自らも動いてくれた。今も真一くんの身に起こり得る事を事細かに想定した上で奔走してくれている。
摩滅して本来の目的を忘れた臓硯は最悪でも、それを思い出せたゾウケンは一途にピュアで、子供や弱者の味方だった。というかゾウケンは素直で賢い女の子と真面目な男の子に肩入れするタイプだった(女の子の部分にまるまるエルマが当て嵌まる)。それにエルマが言うには、ゾウケンが幼かった頃の姉や兄、妹や弟とも関係があるらしい。また、日本に来てからの後半生とも。後半生の方はエルマも言葉を濁していたけれど。
それで何が言いたいかというと、今の私は間桐臓硯として今もピンピンしていてそこの桜を虐待しているであろう、どこかの並行世界の蟲爺は許せないが、ゾウケンに関しては最早仲間だと思っている。だから父が空け、臓硯が広げた『遠坂の穴』を客観的に観る事が出来ている。だからその『穴』に関して項垂れたのだ。
そしてその『穴』とは世間一般の常識にもならない当たり前の事だった。私には母方の祖母やかつては祖父も居り、きっちりと常識を学んで来た積もりだ。それでも亡き父の教えが足枷となって抜け出すのに暇が掛かった。そこを気付かせてくれたのがエルヴァだった訳だ。何の事かというと、『祖母の居ない並行世界の遠坂凛』についてだ。
エルヴァに言わせると、並行世界の私はかなりのファザコンらしく、父への依存が少しオカシイのだそうだ。
いくら父の決めた事だ、遺言状もあると言っても、血の継りもない神父が僅か7~8歳の子供である私の後見人になれるはずが無い。それを行政が認めるはずがない。財産があろうと不労所得が定期的に入って来ようと、行政は他人でなく、まず親族などの血縁者を探す筈なのだ。
つまり父の遺言……言峰綺礼が後見人となるというのは、おそらく私が15歳か18歳になった後の話なのだ。両親を立て続けに失ったのだ。そうなると普通は親族に預けられるか、児童養護院に預けられていた筈だ。だけどそうならなかったのは────、
『そこにこそ付け入る隙きがあるんじゃよ? 勿論、神父の昏い残虐心の仕込みもあろうが、儂は別の世界では、この深山町洋館街の町会長だったのじゃぞ? 『魔術は秘匿されるべきもの』『他人の家で暮せば修行の時間が取れんようになる』『一人で生きて行けんで遠坂六代目と言えようか?』などなどのな? 思考に嵌まるよう仕向けておったと考えん方がオカシイぞい。じゃろう、凛?』
つまり桜の養子縁組は後継者確保や来る胎盤、新たなる間桐の聖杯の事もあったろうけど、そこの私の思考がある一定のパターンに嵌まるようにするための布石でもあったのだ。またそういう『誰にも頼らない』という心理状態に持って行くための噂話も間桐臓硯なら広めて当然と、ゾウケンは言い切ったのだった。
それもストレートな言葉は広めない。茶飲み仲間やPTAの会合などで噂好きの老人や御婦人を対象に、『世話焼き老人』のフリをしてポソッと呟くのだ。後の尾ひれ葉ひれはスピーカー役が勝手に肉付ける。やがてそれは私の耳の入り、ますます意固地になって『一人であるべき』という嵌った状態に自分から飛び込んでいく。
幸い祖母の居た私の後見人は言峰神父じゃなかった。だからこそゾウケンの話す内容が怖いくらいに迫って来た。
『ヤツ(言峰綺礼)の隠しとる趣味・嗜好を探るのは簡単じゃ。それに考えも自己暗示なのか破綻しか有り得ん無意味な型に嵌まっとる。ならば『遠坂凛』を孤立無援に置く良い駒でしか無いわ。そういう駒をな、様々配置し、仕上げで一手積みになるようにする。それが醍醐味というものじゃよ』
その仕上げが第五次聖杯戦争だった訳だ。ただ、第四次の世界から杖になったゾウケンは、間桐慎二と桜の結婚を望んでいたという。ただしそれは最上で、間桐慎二と桜がそれを望まなければ、適当に魔術師の血を引く男を桜に充てがう積もりだったらしい。
『仮にじゃが、おヌシからセカンドオーナーという地位を取り上げれば、遠坂に何が残ろう? 儂はそれを桜に譲る積もりじゃったよ。何故なら万一にも儂が聖杯で永遠の命を得たり、悪の廃絶をなしたとしてもじゃぞ? 子孫は残さねばならんし、血を分けた慎二には苦労せんで生きていって欲しいと願っとたよ。そしてな、幾ら魔道に生きようとも、我が子をあっさり養子に出すか? 儂はな、時臣のそういう自分で調べもせん無知蒙昧さも嫌っておった。じゃから桜には『棄てられた者』の恨みは晴らさせてやる算段じゃったよ。儂とて桜の幸せは願っておった。じゃからここのな、衛宮の小倅と桜はお似合いと思っとるよ』
まさに『ガーン』だ。殴られたような気持ちだった。いや、居眠りしているところを叩かれ起きた気分と言った方が正しいだろう。まぁ、そんな話しがあって以降、私はゾウケンの事を信用している。それに何より今のゾウケンは、私のロシア語の先生でもあったのだった。
諸星真一くん歓迎会の当日は土曜日で公立学校は休みだった。学園は私立なので2002年4月6日から開始された完全週5日制は導入されていない。ただ世間の風潮や学生の志向は読んでいて、1992年に導入された第2土曜休日や、1995年に導入された第2・第4土曜休日の隔週5日制を変形させて取り入れていた。
例えば小学部は基本隔週5日制だが、中等部は第2土曜日だけが休日となるなどだ。ところが高等部に上がると、これがコース毎に変化する。おまけに熱心な部活に入れば土曜練習は当たり前だ。そしてエルマの所属する弓道部は、年間を通せば全部活動の中で一番練習日が多いので有名だった。
サマータイムの季節になれば朝練・居残り練習も当たり前だし、大会前となったらレギュラー陣の休日自主練習も当然のようにある。かくいうエルマも4月の新人戦からこっち、ずっと弓道漬けの日々だった。それは姉さんや遠峰先輩が卒業した事で抜ける気力を引き締め、自分が女子の副部長を拝命したのでモチベーションを維持する目的もあったようだ。
事実、昨年度部長だった美綴先輩が率先して今年度部長の桜の補佐をしているから、桜もエルマも十分に増える1年生の面倒を見てあげられたようだ。さすがに昨年度のような『誰も辞めなかった(姉さん効果)』という訳には行かなかったようだけど、残った1年生のレベルは結構高く、的前に立つ日も近いような事を話していた。
そんな弓道部の次に練習日が多いのが私の所属する軽音部なのだった。正確には私がメインで所属する二つのバンド『H.G.B(穂群原ガールズバンド)』と『台風一家』の練習が多いからなのだが。それに事情もある。他の生徒が登校せず授業もない休日の土曜日の方が捗るからだ。
なので真一くん歓迎会の日も、私はギターを背負って学園に行っていた。本日も雨だけれど、私のギターバッグは全天候型の防水仕様だ。これは近藤先輩に薦められたものだけど、軽音部の人は大抵この防水タイプを選ぶ人が多い。今まで余り数も種類もなかったけれど、有り難い事に近年少しずつ増えていた。それを私は色違いや柄違いで3種類持っていて、気分で使い分けていた。
この日もそんな中からピンク色のものを背負って、姉さんが雨の日に着ていた明るい迷彩柄(デザート?)のポンチョを被って自転車を漕いでいた。湿気も多いし雨具で蒸れるから梅雨の時期は嫌いだという人がほとんどだと思う。だけど普段から運動をしていて絞り切っている人の中には、雨は雨で情緒があって好きだという奇特な人も居る。
身近な代表が姉さんだった。学園坂の途中に紫陽花が密集して生えているところがあって、姉さんがそこをよく眺めていた。褐色美人がスポーツサイクルを止め紫陽花を眺める姿は確かに絵になる。だから昨年は自分のデジカメで姉さんをたくさん撮った。それで姉さんの許可を得てエルマにもデータを分けてあげた。『歓喜』とはああいうのを言うのだろう。エルマの目尻には涙が溜まっていたのだから。
それはともかく、姉さんが紫陽花の前で立ち止まったのは他にも理由があった。それはその密集地帯の奥が竹林なのだけど、そこにカラスの巣があったからだった。姉さんは『ハシボソガラスですよ』と話していた。今どきのカラスはどこにでも居るが、山との距離が比較的近い日本では圧倒的にハシブトガラスが多く、街中でゴミを漁っているのも近年はハシブトガラスばかりなのだそうだ。それで、やはり山に囲まれた冬木市もハシブトガラスが多いらしい。
ところがあの紫陽花の裏にはハシボソガラスが生息していた。珍しいのかと言えばそうでもない。ハシボソガラスもどこにでも居るからだ。だけどこの冬木ではかなり珍しい事だったらしい。それとハシブトガラスは日本と中国から東南アジアが主な生息地だが、ハシボソガラスは北欧と東欧、ロシア西部を除く北部地域に広く生息していた。それはシベリアから西欧諸国にまでだ。
なので魔女や魔術師とセットでイメージされる黒いカラスは、ハシボソガラスなのだった。誰もそんなの知らないだろうし、見分けもつかないし気にも止めないと思うが、姉さんの目には止まった。だけれど姉さんは使い魔にはせず、季節が変わるまでの間、少しばかりの餌を与えていた。カラスは3~4月頃に巣作りを始め、5~6月に産卵するそうだ。雛が巣立つのに1ヶ月は掛かる。雨の間、餌は中々手に入らないと思う。自分を魔女だと言って憚らない姉さんはそんな人だった。
そして今年も紫陽花の裏の竹林には新たなハシボソガラスが巣を作っていた。そこには姉さんが冬木に残していった蟲が居て、巣を外敵から守っていた。だから新たなハシボソガラスの巣は竹林に三つもあった。同じ一族かどうかは知らない。だけど私の顔を見ると『ガ~ッ』と啼く。ちなみに『カーッ』と濁らず啼くのはハシブトガラスの方だ。全部姉さんからの受け売りだけれど。
なお姉さんが口ずさんでいた『カラスの勝手でしょう~♪』という歌が本当は『七つの子』という題で、ドリフの古いギャグだと知ったのは、私が無意識に口ずさんで先輩に指摘されたからだ。当然ながら鋳造されて2年も経たない私は原曲の完全なメロディーと歌詞を知らなかった。ホムンクルスあるあるだ。誰も共感しないだろうけど。
また余談だが、紫陽花の裏手の竹林は結構広がっていて、もう少し下にある住宅密集地の裏手にまで広がっていた。その住宅密集地はそういう分譲地だったのか注文建築の家ばかりだった。それでそこは学園の先生方が半分以上を占めるくらいお住まいだった。姉さんは、それを知っていて使い魔を放っていたっぽい。
と言うのは、◯◯先生の奥さんがお姑さんにイビられているとか、△△先生の息子さんが国立大に受かったとか、そういう噂話にやたら詳しかったから。それに昨年姉さんの担任だった先生は、この春から急に彼女が出来て真面目にお付き合いしているらしい。またイビリの姑さんもこの春から途端に良い人になったらしいと聞いた。怪しくないか?
だけどそういうのが良いんだろうね。誰にも迷惑を掛けず、気取られもせず、こっそりと良い結果だけを残していく……。これも『正義』のあり方の一つだよ。そして同じエゴなら、こっちの方が断然人に幸せを運んでいるよね? それと、この『姑さんの嫁イビリ』。恋人もいる多感な高3の女の子の正義感を煽るのには十分だった。おそらく姑さんは姉さんから『改竄』を受けている。残りの人生は『良い人』で一生を終えるだろう。ただし、本人が自分を自覚しているかどうかは限りなく怪しい。
と言うのは『罰』として『改竄』を加えるのなら、本人の人格は表に出せないようにし、植え付けた『善人』に乗っ取らせて行動させるものだからだ。本人の『本心』は魂の牢獄でニセモノの自分が行う善行をただただ見せ付けられている。そういう事をするのが『エル様』だった。だから姉さんも……と、私は思っている。本人にもエルマにも絶対に言わないが。
でも、だからと言って姉さんが酷薄な訳ではない。ああいう人だから、ご結婚されても旦那様を立て義実家を立てるだろう。何より姉さんは家事も炊事もプロ級だ。あの『腕前』にケチを付けられる人は居ないだろう。付けられるのは『無知』か『痴呆』のどちらかだ。
また吉川先輩のお家の方も恥を知っているなら、たかだか数百年の歴史しかない武家の家系でアインツベルンに楯突く事はないと思う。アインツベルンと名乗って千年、その前も含めると三千年以上だ。地方豪族が荘園を守るために武士と名乗り出す前から、いや、日本が皇室を懐く前からアインツベルンはこの地上に根を張った魔術師の名門なのだ。姉さんは気付いていないけれど、吉川先輩の伯父さんや伯母さん、お母さん(※)に飛行機のチケットを贈ったのは誰だったのか? もう、言われなくてもわかるよね?
※)蓋を空けて見ると、吉川先輩のご家族もご親族も私の想像と違ってとても良い人達だった。そして姉さんの人柄と完璧な家事を正当に評価し、心酔するほど買ってくれていた。後に九州の本家では、歴代のお嫁さんの中で最高峰じゃないかという話まで出たという。だからあちらでも人種を越えて、大層気に入られ可愛がられていたのだとか。
その本家への顔見世旅行は、男性陣が仕事なので、姉さんとお母さん、伯母さんの女三人旅だったらしいが、あちらの方々とも姉さんはたちまち意気投合し、古い日本の鎧を着せて貰ったり、吉川家に伝わる真剣まで持たせて貰ったという。どんだけ気に入られたのだ、姉さんは?
でも、まぁあの家事スキルだ。ものを知っている人ほどケチを付けるどころか、この腕前は主婦レベルじゃないと気付いて何も言えなくなるだろう。おまけに古いしきたりなどにも詳しいし。また私の方も、まさかこの世界の御館様とマアエモさんがご夫妻を演じ、衛宮のお二人のお株を奪ってまで姉さんを本気でバックアップしていたなんて結婚式が終わるまで知る由もなかった。そもそも嫁姑問題が起きるような低レベルの人間性しか育めない家、身内の人間性に問題があるような人をあの姉さんが嫁ぎ先に選ぶ筈が無かったのだ。
(仮に嫁イビリがあったとしても姉さんが屈しないのは勿論だし、姉さんほどの魔術師に敵う一般人は絶対に居ないだろう。姑だけの場合なら周りを抱き込まれ、姑は一人『敵』に回され孤独に生きるしか道は失くなるのがオチだ。それと魔術師の家で嫁姑問題が起きた話を聞いた事がない。それは魔術の本場は海外だから、日本独特のイビリがまず無いというのもあるけれど、最大の要因は『家』と『魔術』に理解のない者は確実に消されるからでもある。この辺りはゾウケンくんに訊くと詳しいよ)
魔術師の人生にはお金持ちになる方程式を見出す事も大切だけど、人であるならば幸せになる方程式を見出す事も大切だ。その両方を掴める人こそが名門の一員なんだね。私とエルマはそれを大いに学んだのだった。なお、吉川先輩は長男でなく三男だから実家の跡継ぎではないし、自分の家族を得た後はお嫁さんを手伝えるように家事も炊事もお母さんから叩き込まれていた(先輩のお母さんは本当に素敵な方だ)。だから大した稼ぎもないのに踏ん反り返るそこらの男と根本から違っていた。
なので姉さんも本気で恋をしたのだ。そしてそれは吉川先輩も同じだった。姉さんを信じて4年も離れ離れになる事を良しとした。その間に姉さんに見合う男になると決めて。私はこれをエルマから聞いた時、未来の義兄に惚れそうになったよ。あの近藤先輩も『吉川先輩、凄ぇ』と絶句していたからね。
なおこの話には続きがあって、冬木に長くお住まいの家の人は『間桐』『遠坂』という昔からの家とは別に『アインツベルン』という家の名を覚えてしまった。言うまでもなく『間桐』は先代ご隠居さんの名前で知られ、『遠坂』は凛さんのお父さんでなく遠坂神社に連なる家で知られていた。そこに『アインツベルン』が加わったのだから驚きだ。姉さんは新たな御三家を冬木のお年寄りに叩き込んじゃったのだ(※※)。
※※)吉川家も名家として有名だが、吉川先輩の実家は冬木市から少し外れていて、正確な住所は隣の市だ。市と市の境と言っても良いような場所だから、バスも3回は乗り換えないと深山町に行けないそうだ。だから吉川先輩は雨の日も風の日も自転車通学だったのだ。(変速なしの自転車だよ?)
また結婚後に姉さんが住む事になった伯父さんの家は吉川先輩の実家とも離れていて、その隣接市の山手にある。ただ市の中心部、商店街や駅まではクルマで15分くらいだから、そう不便な場所ではないらしい。だけど朝方は窓にクワガタやカブトムシが停まっていたり、ご近所が飼っている雄鶏に起こされたり、夏は網戸にすれば風がピューピュー通り抜けエアコン要らずだし、夜通しカエルが鳴いていたりと、エルマが言うには凄いところなのだそうだ。
離れから裏門を出ると、ご近所の畑を挟んでその脇道から既に登山口(?)で、軽自動車で5~7分も走れば吉川家の農地らしく、姉さんはそこで野菜や芋を育てていた。しかもその畑から先の山と尾根続きの二山、計三山が吉川家のものだった。春は山菜、秋はきのこ狩りを楽しめるそうだ。これまたエルマが言うには吉川家の山と誰もが知っているのでご近所の人は山に入らない。それに吉川家から馴染みの猟師さんに狩猟の許可を出していて、シーズンになると、鹿や猪などのジビエも手に入るそうだ。そんな風に山が広いのでちょっとした工夫で魔術に必要な薬草や毒草が育てられるし、なんなら小遣い稼ぎで大麻でも芥子でも植え放題だとエルマはいう。学園の英語教諭のクセにそんな物騒な文面をワールドワイドに乗せて来るな。
また、そんな畑や山があるというのに、姉さんは敷地内の離れの脇にも菜園を造って葉物野菜を育てているというから、街に出てのたまのお買い物は自ずとお肉とお魚ばかりになるらしい。これは1年分の野菜を育てているという意味でなく、有名な道場だから門下生やご近所がしょっちゅう差し入れてくれるからだ。朝起きて母屋の玄関を掃こうとしたら、採れ過ぎた野菜が新聞紙の上に積み上がっている事もしばしばなのだとか。
もっと田舎なら鍵が開いているだろうから、お裾分けが土間へ勝手に置いてあったりするのだろう。だけど母屋には真剣なども置いてあるので、普段玄関は鍵が掛かっているらしい。姉さんに言わせるとそういう野菜は単なるお裾分けでなく、お供え物的な意味合いもあるっぽい。吉川家が地域の守護神みたいな?
そんな訳だから、姉さんは結婚2年目からもっと珍しい野菜を育ててご近所に配り始めた。その頃のエルマもマルガリータさんも姉さんからのお裾分けでかなり助かっていたそうだ。
それと、母屋の台所には蛇口が二つ並んでいて、片方は市の上水道、もう片方は井戸水なのだそうだ。『冷たくて美味しい』とは姉さんの弁で、井戸水を沸かしてお茶をいれると最高らしい。ここまで来ると『田舎』と言っても良いのかな? 市街地にスッと出られる距離なのに長閑という何とも不思議なところだと思う。
けれど野生児である『エル様』の記憶を持つ姉さんにとっては、その適度な田舎具合はとても居心地の良いところだったようで、生き生きしていたとエルマは言う。結婚から何年か過ぎた後にエルマがメールで送ってくれたのだけど、長女の灯(あかり)ちゃんを抱っこする笑顔の姉さんはとても幸せそうだった。
(エルマは一時、姉さんちに入り浸っていたらしい。だけどその分、幼稚園のママ友会代理出席や運動会のお手伝いなどを強制され、学園の教師+弓道部の両立でヒ~ヒ~状態だったと後で知った。姉さんも主婦となったらエゲツないよね。だけど手伝えば丁寧にお礼言われ、帰りはお土産の野菜を持たされたそうだ。また泊まれば美味しい晩ご飯が待っていて、お泊りが日曜から月曜に跨げば、必ずお弁当を持たせてくれていたらしいからエルマ的にも幸せなのだ思う。と言うのはあれだけ『お姉様、お姉様』と言ってた奴が、灯ちゃんにメロメロで、パソコンのデスクトップもスマホの待受も、全部灯ちゃんに変わっているとイリヤちゃんが教えてくれたのだ。それは美夕ちゃんの時もそうだったらしく、灯ちゃんマニアにしたのは姉さんや吉川先輩と衛宮夫妻(切嗣さんとアイリスフィールさん)達で考えた作戦だったらしい。転嫁であろうと何であろうと子供好きなのは母性がある証拠。良い男性を見付けなさいという意味だ。確かにそんなので自分の子供となったらどうなるんだろうね?
また、ママ友会も蓋を開ければ幼稚園で仲の良いママさんとまったく関係なく、旦那さんからDVを受けている人や、義実家との間が上手くいかない人、ご近所の常識ない人から迷惑行為を受けている人などが姉さんによって集められていて、その方々の問題を姉さんが相談に乗っていたのだとか。主婦なのにそんなボランティアをやってたのかと驚いた。
(灯ちゃんが幼稚園の頃の姉さんは、お腹に長男の武志くんが宿っているのにも関わらず、弓道部のコーチも続けていて、ネット通販でお手製の赤ちゃんグッズも販売していたそうだ。それには伯母さんやお義母さんも呆れてものが言えなかったという。しかも長年続けている株の儲けもコンスタントに入るし、霊脈の儲けもかなりあり、銀行には倫敦時代の給料がほとんど貯金されている。それらは伯父さんと吉川先輩が稼ぐ吉川道場の収入より遥かに多かった)
だけどどうやらそれらの人々は皆んな道場に某方かの関係ある人達でもあった。見過ごせなかったのだと思う。しかも姉さん、それらの問題に逐一指示を出し、ほとんどエルマとアサシンに解決させたらしい。
どんな風にしたかって? そりゃDVや困った隣人、義実家などの人間関係なら暗示に掌握、改竄のどれかに決まっているでしょう? 金銭なら仕事を紹介したりするだろうし。在宅ワークもエルマが色んな方法を知っているからね。もっと追い込まれているなら相談者(債務者)も債権者も両方掌握して、何らかのペナルティを与えた上でチャラでしょうね。
ただDV旦那や困った隣人が暴力団絡みなら、姉さんよりエルマが怖いな。旦那を中国やロシアに売ってその金銭を奥さん渡したりする可能性があるからなぁ。だいたい指定暴力団の構成員が一人二人消えても犯罪の証拠がない限り警察は調べないし、報道もされない上にお役所も探そうと思わない。まして国籍が怪しい人物と分かれば放置だろうね。世の中そんなものだよ)
私が軽音部に出ていた間、エルマも弓道部に顔を出していたのだけど、それはワルキューレ七人衆の中の一人で、残る六人は家に残って凛さんを手伝ったり、マルガリータさんとお料理の仕込みをしたりしていた。こういうところでこんな風にカードを使うのかと、本日休みで先にお手伝いに来ているイリヤちゃんと美優ちゃんが感心していたそうだ。
一方、クロエちゃんはと言うと、アサシンを三人ほどとっ捕まえ真一くんを探っていた。『とっ捕まえ』とは何も不穏な事でなく、ただ声を掛けて、ある事ない事を言って一時的に仲間にしただけだ。それでどういう原理か、気配遮断したアサシン三人に囲ませるとクロエちゃんの気配も消えるのだった。よくそんな『効果』を発見したものだ。後で知ったエルマも驚いていた。
ただしこれはかなり難しい面もあって、とにかく自分を取り囲むアサシンの三角形から一歩も出られないのと、声も出せないところだ。だけどクロエちゃんはそれをこなし、真一くんのみならず、アーチャーさんやマルガリータさんにもバレなかったという。結果、クロちゃんは真一くんを信用するようになった。そういう事をしないと仲間に迎えられない慎重さは、果たして良い事なのか、悪い事なのか……。
先にホームパーティがあると皆さんに宣言していた私は、午後3時には部活を上がらせて貰った。この時に近藤先輩から手紙を預かったのだが、その内容に付いては後で話そう。ともかくギターをバッグに仕舞い、私は『お先』と音楽室を後にした。下足室のロッカーでポンチョを取り出した私はギターバッグを背負い直してからポンチョを被った。
駐輪場に行く途中で弓道場の小窓を覗けば、1年生を指導しているエルマが見えた。いつかの姉さんみたいに優しい声じゃない。声がかなりキツい。でも、下級生に怪我をさせないためだというのはよく伝わった。部長の桜が優しいから、あれで良いのだろう。私に気付いた衛宮先輩と美綴先輩が会釈してくれた。なので私も会釈を返してその場を離れた。
駐輪場からどこのホームセンターでも売られている6段変速を、7段変速に改造してあるママチャリという名の愛車を取り出し、守衛さんに挨拶しながら校門を出た。ここからの下り坂は漕がなくてもスピードが乗るから要注意だ。しかも今日は雨。後輪は路面の水を巻き上げ、背中に跳ね上がる。ブレーキもバンドタイプの後ろ側は効き目が悪いと来た。
だけどこの自転車は姉さんの手に拠って前のシュー(ゴムの部分)が、シマノのロードレース用に換えてあった(7段に改造したのも姉さん)。なので前だけはやたら効いてグググッとブレーキアーチが撓(たわ)むくらいだった。そんなだから雨の日でも怖くなかった。けれど前輪のリムは、この効きの良いシューのせいで相当削られていると思う。
その事は事前に姉さんから注意を受けていた。効きが良くなる代わりにリムが3年保てば良い方だと。最悪はシューが減る前に、ブレーキアーチやフレームが歪むかも知れないと。それがママチャリのポテンシャルであり、40km以上で走り続けるロードレーサーとは根本から違うのだった。
姉さんに教えられた通り、雨の濡れた路面では直線でしかブレーキを掛けず、そのブレーキも後輪に荷重が掛かるようにする。そして十分減速してからカーブを曲がる。また曲がる途中で自転車はそこまで倒さない。それが一番安全でコケない方法なのだった。姉さんは楽器を背負う必要のある私にそんな事を教えてくれた。それは学園に通う間だけでなく、卒業しても守り続けるだろう。
家に帰って食堂に入ると、6人のエルマが脚立に登って飾り付けをしていたり、厨房で料理を仕上げるマルガリータさんやアーチャーさんの助手に入ったり、オーブンから自家製ケーキを取り出したりしていた。この分割行動がどうにも解せない。私はこんなのが出来るのは『エル様』ただ一人と考えていた。だけれどカードを使えばエルマにも出来るとは。となると、私もカードを使えば一人でバンドが出来るのかな? まさかね。
「手伝いましょうか?」
私はマルガリータさんに声を掛けた。
「いや、いい。もうほとんど出来上がりだ。それよりも君も着替えてパーティに備え給え」
何故か返事はアーチャーさんからだった。だけど厨房と食堂のカウンター越しに小声でこう忠告してくれた。
「雨で蒸しているせいだと思うが……トロンメル。君、この距離でもグレープフルーツの香りが強烈にするぞ?」
私はアーチャーさんに目でお礼をして慌てて二階の自室に入った。クローゼット前の鏡に映る私は顔だけじゃなく耳まで真っ赤だった。アーチャーさんをデリカシーが無いと考えるのは見当違いだ。彼は本当に申し訳無さそうに、とても小声で忠告してくれただけだ。それはわかっている。だから深呼吸して気分を落ち着けようとしたら、鼻からムアッとグレープフルーツの香りが吸い込まれた。
「どこか甘さの感じられる香りだから救われているけれど、これで酸っぱいだけの香りだったら辛いなぁ……」
そう一人ごちて、私はバッグからギターを取り出し棚に置いた。バッグを軽く拭いて、それから着替えに掛かった。ポンチョは首元が締まるので制服は濡れていないが、フードがあっても髪は湿気っていたし前髪やサイドは濡れていた。これはシャワーだけでも先に浴びた方が良い。そう考えた私は入浴セットと、洗濯する衣類を持って地下に降りた。
ランドリー室にはメイドが洗濯時間中に休めるテーブルと椅子が置かれているのだが、そこでテーブルに突っ伏してぐっすり眠るエルマが居た。何番目なのか何人目なのかは知らないけれど、大活躍だものなぁ。真一くん、感謝しなよ? こんなお姉さん、中々居ないぞ? 私はエルマに声を掛けずにお洗濯ネットに衣類を仕分け洗濯機を回した。その間に浴室へ行ってシャワーだ。
浴室から出た私は、少し暑いのを我慢してTシャツの下にブラを付けていた。再び地下に行くと計算通り洗濯機は止まっていた。だけど蓋を開ければ洗濯物が一切無い。これがコインランドリーなら下着泥棒かと慌てるところだけど、目の端は寝ていたはずのエルマが居ない事を捉えていた。それでボイラー室に行けばやっぱりエルマが私の衣類を干してくれていた。
「いやぁ、ゴメン。せっかく休んでいたのに」
「ううん、良いよ。良い気分転換になったから。一人だけ学園は無茶だったかなぁ。さすがに疲れちゃった」
うん? 距離の問題なのかな?
「そのカードは距離が問題になるの?」
「慣れもあると思うけど、七人全員出しての一人だけ遠隔……イケると思ったんだけど、やっぱり五人くらいに減らさないと厳しいみたい。実は『エル様』、カードを渡す時に説明書を付けてくれていてね。全員出した時は遠隔を混ぜるなってあったんだよ。ワルキューレは伝承通り、やっぱりセット扱いなんだね」
へぇ~。
「人数を減らすとイケるの?」
「うん。そっちは何度も試していて、五人以下なら全員居場所がバラバラでも大丈夫だったんだ。アサシンを四隊に分けて、それぞれに私が着いてね。ギターもそうやって集めたから」
なるほど。五人目は学園な訳ね。色々試しているんだなぁ。
「じゃあさ、誰が本物のエルマなの? 遠隔で『操作』するってそういう事だよね?」
エルマは顎に人差し指を当てて教えてくれた。
「そこで『ラインの黄金』だよ。私の精神も肉体も宝具が反転して、ルビーと一緒に宝具の中に収まるんだと例えたら想像できる?」
「あ~、そんななんだ?」
「例えだよ? それで中に入ると意識と直結したモニターパネルが7枚目の前にあるみたいな? だけどこんなの私一人じゃ操作不可能じゃない。そこをルビーが補ってくれている感じかな?」
この時の私には、分身を見てもまだ誰が誰だかわからなかった。ただ本物のエルマ自身とワルキューレだと髪の色が少し違うと感じるだけだった。だけど夏を過ぎたら、七人のワルキューレがそれぞれ見分けが付くくらい『個性』が違っていた。その『個性』を演出するフィルターを使うようになると、前より操作がスムースになったそうだ。だけど七人全員をバラバラな土地に行かせて操作するのは困難で、やはりそれは無理らしい。
なのでエルマは基本五人までしか出さないよう心掛けるようになった。そうするとその五人は一人は日本、二人目はロシア、三人目はアメリカ、四人目はEU、五人目はアフリカというとんでもない遠隔操作が秋頃には可能となっていた。またこの状態でエーテルで別の自分を出力する事も可能になっていた。
何だかんだ言いながら、エルマはおチビちゃんや美遊ちゃんのお手本たらんと、カードの性能を引き出す工夫と練習を怠らなかった訳だ。
「トロンメル? パーティはカジュアルで良いけれど、もう少しちゃんとした格好に着替えなさいよ?」
「はい」
せっかくブラを着けても同じで、結局お小言を頂いた。でも私は素直に返事した。エルマに逆らって良い事なんて何一つ無いからだ。なお先輩から頂いた封筒には二種類の手紙が入っていた。一つは先輩からで────、
『梅雨が明けたら、楽器屋巡りしようぜ。それと爺ちゃんがデートしたいって。興味あったら相手をしてやってくれ』
とあった。『はい?』と思って、もう一通の手紙を見たら、本当にお爺さんからだった。
『いつも孫の啓司と仲良くしてくれてありがとう。トロンちゃんは自作のスピーカーに興味はありますか? もしよろしければ来る6月12日の日曜日に横田材木商店に来られませんか? 横田君のお父さんが自作スピーカーの視聴会を開くので、ご都合が良ければ是非ご参加下さい』
え? お爺さん、横田先輩のお父さんとオーディオ仲間だったの? 自作かぁ、面白そうだな。12日なら空いてるし、真一くんも転校先の学校に慣れる頃だろう。エルマを誘って行ってみようかな?
と言いつつ私は一人でも行こうと決めていた。だからパーティが始まるまでに着替え直して、近藤先輩に電話した。
『そうなんだよ。うちと横田材木は曾爺ちゃんの代からの付き合いになるのかな? 第一次世界大戦の頃からアマチュア無線仲間でさ。あそこのオーディオ好きも、うちの爺ちゃんが先輩の爺ちゃんに並三ラジオ(三球ラジオ/回路構成がシンプルな真空管ラジオ。第二次終戦後に流行り、工作好きなら小学生でも作れた)を作ったのが始まりだったって聞いてるよ』
その横田先輩のお爺さんもご健在で、近藤先輩のお爺さんと仲が良いそうだ。お爺さんが自作したスピーカーも横田材木商店で買った木材らしい。だけどお父さんの代はお父さんがロック好きのギター好きで、横田先輩のところはクラシック鑑賞が趣味と少しズレてしまった。なので接点は余りないらしいけれど、近藤先輩と横田先輩が同じ軽音部で仲が良いから、お爺さん達は喜んでいるそうだ。
そして横田先輩のお父さんはフルレンジ一発の不思議なスピーカーをたくさんお持ちらしい。
「フルレンジ一発?」
『そう。ほとんどフォステクスというメーカーの磁力が強いタイプでさ。それでバックロードホーンとか共鳴型(TQWT)っていう筒みたいなスピーカーを作ってるんだ。え~と……そうそう、長岡鉄男という人が設計したスーパースワンとか、ネッシーとかそんな名のスピーカーだ』
私はその名を聞いてピンと来た。いやバックロードホーンに共鳴型(※)、フルレンジ、フォステクスというワードでそうじゃないかと予想は出来ていた。もう亡くなった方だが、一応オーディオ評論家に分類されるその方は、独自のスピーカー/オーディオ論を持ち、その支持者やファンは多い。よってそれら支持者を長岡教とも言うそうだ。
そして何故私がその人の名を知っているかと言えば、『エル様』が私に先輩みたいに話してくれた事があったからだ。それでスケッチブックに『メダマオヤジ1号』というスワン型の改良品を描いていた。バックロードは『エル様』に言わせると低音が下から出るところがダメなのだそうだ。それは定在波の発生源になるからだ。そしてこの定在波がズームレンズで良く出るフレアやゴーストのように音を濁らせる。なのでそちらを先に除去する方が音はクリアに聞こえるのだそうだ。
また、バックロードでも音の遅れは気にならないレベルだし、設計とチューニング次第で『キレ』は出せるものらしい。ただ音の出口を幾ら綺麗に仕上げても『管クサさ』は残ってしまうという。それは内面反射で余分な倍音が乗るからだと仰っていた。そこを『味』と感じられるなら、室内楽に長岡式クラスのバックロードは合うそうだ。だけどホールを揺るがすようなオーケストラに向いたスピーカーは『この世にない』らしい。
※)まずスピーカーユニットは振動板が前後する事で音を発生させている。だけど音は前からだけでなく後ろからも出ている。バックロードホーンとはその後ろの音を利用する方式の一種だ。後ろの音は前の音と位相が真逆になる。つまり前の音と混ざると打ち消し合うのだ。だからユニットを箱に閉じ込める(密閉)。だけどユニットと離れたところに穴を空けると低音が強調されて出て来る事に気付いた人が居た(バスレフ)。バックロードとはその後ろの音を前に持って来る『管』の事で、それをより効果的に使うためホーン形状にしたものをバックロードホーンという。
共鳴型はバックロードの管を長く取って、低音を強調する方法だ。一升瓶に息を吹き込むと『ボーッ』と音がするあの原理の応用だ。もっと言えばパイプオルガンのあの大きな管の応用でもある。なので音源が片端に寄っているのか、ハーモニクスの話にあったように何分の一にあるのかで音の周波数をコントロールできる。バブル期の高級CDラジカセにあった低音増強装置もこれだ。
『TQWT』はその管をホーン形状にしたいいとこ取りの方式だが、難点はやたら箱が大きくなるところである。
『『ニーベルングの指環』での雷、あれをドガシャーンと響かせている『盤』がそもそも存在しないのですけどね』
と『エル様』は仰った。それとジャズやロックにバックロードは全然合わないらしい(その代表機種がタンノイのオートグラフやウエストミンスター)。特にベースとドラムがダメダメなのだとか。音が粘って離れないのだそうだ。そこはもう『JBL』や『ALTEC』のような、カラッとしたカリフォルニアのユニットを普通の箱に入れて聞けば一目瞭然(一耳瞭然)だと仰っていた。特にウーファーがフロントホーンになったエンクロージャー……『ALTEC』ならA7やA5の『828』、二発の『817A』、『JBL』なら二発の『4550』と一発の『4560』。ああいうPA用の音離れが良いらしい。
不思議だけれどバックロードと違いフロントホーンは音離れが良くキレるそうだ。そこもあっての天井コンクリ・ホーンだったらしい。ただ箱鳴りで全方位に定在波の源を発するのが難点だから、『エル様』は独自設計のバスレフ型バーチカルにしたのだそうだ。また、そのシステムの中低域用にフルレンジの『D130』を入れているのはブラスホーンが生々しくなるからで、高域用にプロ用の『2402』や『2440』でなくコンシュマー用の『075』や『375』を選んでいるのはあまりキラキラして欲しくないからだそうだ。
これはどういう意味かというと、コンシュマー用がない『2445』などの円盤型もそうだが、プロ用は『エル様』の耳には煩く感じられるそうで、それで中高音域には敢えてプロ用を避けているのだという。けれどウーファーは逆にズンッと来てスッと消えるプロ用が良いのだそうだ。そこが『音離れ』なんだろうね。なお、設計の古い『D130』にはプロ用がなく、楽器用という別の道を進む事となった。
なのでヘッドは『Marshall』でも良いが、オリジナルキャビネットに『D130』か或いは楽器用の『K130』を4発入れると、腰が抜けるような音がするらしい。そりゃ、38cmもの大きさのスピーカーユニットが4発も入っていたら迫力満点だろう。おそらくギターよりもキーボードに合うのだと思う。
そんな『エル様』はフェノール樹脂を含浸させたリネンをダイヤフラムに持つ『2470』や『2482』が、一番スコーカー向きのドライバー・ユニットかも知れないと考えているらしい。とは言え『LE85』でなくプロ用の『2420』をツイーターにして『D130』と無理矢理な周波数でクロスさせた、悲鳴を上げそうな2Wayも捨て難いとも仰っていた。
この『D130』を『4560』エンクロージャーに押し込んで、『2420』にはウッドホーンを付けると、中域に偏るけれど迫力がかなり出るらしい。また高域が無い分全体的にマイルドだからジャズやロックはもとより、缶詰録音のような戦中のクラシックは返って聞きやすいのだとか。
まぁ、とにかく色々試している人だ、『エル様』という人は。だからクラシック用とジャズ用、ロック用でスピーカーやアンプを変えないのは、『カウル付きのバイクで山に行くくらいあり得ない事』となる。なので『エル様』の中ではスピーカーを何種類か持つのが正解なのだろう。
けれど誰もがそんな贅沢はできない。なので私は、せめて好きなジャンルに合わせたスピーカーをメインに決めたら、サブはモニター用を基本とした、例えば『YAMAHA NS-1000M』や『NS-2000』、『ONKYO Monitor 2000』や『Monitor 900』などから選ぶべきなのかなと思う。
フルレンジ一発で勝負だと考えるのはミニマムを愛する人が多い日本人ならではの発想で、バイクの単気筒エンジン好きに通じるものがあるという。だからオフロードバイク好きな『エル様』は『その気持ちもわかる』と話されていた。そんな意味で、この人もやはり再販された『DIATONE P-610M』や、中古の『Pioneer PE-16』を手に入れてスタンダードやジャズ・ボーカルを聞いていた。
と言うか、リンダ・ロンシュタットとネルソン・リドルが組んだ三部作を掛けながら、一緒になって歌っていた。たぶん『What's New』は姉さんよりウマく、当のリンダよりエロい。そんな人が『Sweet Memories』を全部自作の英語歌詞で歌っといて、『聖子さん、ヤバい』と呟いたとかなんとか……。
そこは措いても、フルレンジの端緒はどこの国も館内放送などのアナウンス用だ。『DIATONE P-610』も『Pioneer PE-16』も、古くはウエスタン・エレクトリックの『775(後にALTECでも発売。薄型になってパンケーキという愛称も得た)』などは列車のアナウンス用だったという。きっと英語の子音が綺麗に聞こえるよう工夫されていたのだと思う。
イリヤ様が以前、オーディオ仲間? バイク仲間? ともかく親しくしているお爺さんから『ミュンヘンオリンピックの館内放送で腰が抜けた』というお話を教えて下さった事がある。そのスピーカーはシーメンスだったらしいが、やはり子音が明瞭で、テレビを通してもしっかり聞こえたそうだ。
だけど『エル様』はそれを『館内のスピーカーとマイクの設置位置が良かっただけじゃないの?』と話していた。無駄な反響を出さないスピーカー位置、余計なノイズを拾わないマイク位置。それに尽きるのではないかと。つまり定在波やノイズを抑えられるなら大抵のスピーカーは良い音に感じられるという事だ。そこにプラス、雰囲気を出す低域と、位置を明確にする高音だ。その意味で、バックロードホーンや共鳴型(TQWT)は『エフェクト型』として面白味があると仰っていた。
『あ、エフェクトなんだ?』と、私はそこで長岡式の意味が漸くわかったのだった。虚像ならぬ虚音が多いから実音に妙な倍音が乗る。だから嘘臭く聞こえる場合がある。だけれど、その虚音のエフェクトがあるから雰囲気はグッと出る。そうなって来ると、良いか悪いかはまったく聞く人の好みであり、軸足をどこに置いているかでしかない。
フェイズとコーラスとショート・ディレイの何が好みと言っているようなものだ。だから『エル様』は長岡式の『味』と表現していたのだ。きっとその『エフェクト』をハーレーやバーチカルツインのエンジンのように考えていらしゃるのかも知れない。そう考えると多趣味というのは視野を広げるのに大いに役立っている。しかも『敵』を作っていない。トントさんが憧れたのは『エル様』自身もそうだけど、『そこ』かも知れないな……私はそう思ったものだ。
だからその視聴会に参加しよう。自分の視野を広げるために。そう考えて私は先輩に視聴会へ出席する旨を伝えたのだった。
酢飯を団扇で仰いで冷ましていたら、カウンター越しにクロエがひょっこりと顔を出した。
「もう来たのか? まだ、早いぞ?」
「何言ってるの? 最初はその子にあまり気を遣わせないようにって、今夜はこっちの人達だけの歓迎会でしょう?」
そうだった。ジイサンやアイリスフィール、美遊のところの士郎も含めて『ややこしい』からと今回は見送ったのだった。食材などはその少ない方の人数で計算しとるのに……本日の調理はマルガリータが中心だとなるとどうにも気が抜けていかんな。
「なら、クロエ。何故君は?」
「そんなの偵察に決まってるじゃない」
君はどうして凛みたいに腰に手を当てて、そういう事を言うのかね? 君の姉は凛ではないぞ。そういうところはエルヴァを見習って欲しいものだ。
「ねぇ、お寿司なの?」
「手巻き寿司を少々な。これ以外にハンバーグやカツもある」
「多目に作ってありますから、後で届けますね」
と、私に被せてクロエに答えたのはマルガリータだった。そんなクロエに二言三言エルマが何かを話し、クロエは帰って行った。その後姿をエルマがじっと見ていたので気になった。
「何だったのだ?」
「う~ん、気になっただけだと思いますけど……クロエちゃん、勘が良いからなぁ」
そこはわかるが、君らも何か隠しているだろう? 特にエルマ、君が怪しいぞ?
「エルマ。君、何か隠しているのか?」
「隠すというか……確証がないからいい加減な事が言えないだけ」
「何だ?」
そこで秘密厳守と約束を交わし、エルマなりの推測を話してくれた。