次回から本当の意味でのエルマ篇本編で、第四部のエピローグとなります。
実習室の前に架かっている時計を横目でチェックしながらタネを四等分した。それぞれを更に三等分して形を整えつつ空気を抜き、バットに並べた。それにラップを掛けて冷蔵庫に入れさせて貰った。袴田さんはブロッコリーを湯がき始め、同時に横のコンロでパスタ鍋を火に掛けた。それが沸く頃に間桐さんが戻って、パスタを湯がき始めた。
茹で上がったブロッコリーをザルに開けた頃にエルマも戻って来た。それでいつの間にかエルマは見た事もない高そうな包丁を握っていた。家から持って来たのかしら? ともかくその包丁を使って、卸し残った玉ネギを信じられない薄さにスライスしていった。玉ネギ表面の曲面に弾かれず刃はスッスと玉ネギに入って行く。だから切った断片はスライサーに掛けたより薄く、半ば透けていた。
それらを氷水を張ったボウルに浸けると、次はちぎりレタスをボウルに浸けて行ってた。それを終えるとエルマは袴田さんと二言三言話してから、間桐さんに目で合図を送った。相変わらずツーカーだ。それで炊飯器の蓋を開けて中を確認して、蓋を閉めれば即座にスイッチを入れていた。するとまた他班の様子を見に行ってしまった。さっきまでエルマが使っていた包丁はどこにもなかった。
けれど調理机の上にサイコロ型のスープの元が二個置いてあった。
「え?」
「最後に蒸し煮にするんだって。その時にお湯じゃなくスープで煮るんだって」
そう袴田さんが教えてくれた。煮込みハンバーグ? すると間桐さんが、
「餃子の蓋を閉める前に挿すヤカンの水が中華スープだったら? そういう発想らしいね。まぁ、平たいミートボールと思えばソースとも合うだろうしね。それにハンバーグって、焼いている途中に水を挿すとふっくら焼き上がるのよ。焦げ目も抑えられるし。ただ、ツナギに塩しか使っていないから結構崩れやすいの。だから煮込むというより短時間蒸して、残り汁をソースに使うんだろうね」
と教えてくれた。そう、『つなぎが塩だけ』というそこが疑問だったのだ。基本ハンバーグのツナギはパン粉・塩・卵・片栗粉・小麦粉の五種類だ。そこに補助として牛乳、補助兼かさ増しとしてお豆腐・おから・高野豆腐・お麩などが使われ、意外なところで一度炊いたご飯なんてのも使える。このご飯はツナギにもなるし、しっかり粒を潰しておけばご飯感も失くなって満足できるそうだ。
実は先輩は過去に何度か家を訊ねてくれた事がある。最初はスジは良いのに下半身が弱い私にと、自転車やウォーキングのハウツー本を携えて訪れてくれた時だった。その時に家に居た母やお婆ちゃんに『こういう風にしてあげたい』という未来を話してくれたのだ。それで母もだけど、お婆ちゃんが先輩を大層気に入ってしまって、晩ご飯まで先輩を引き止めたのだ。
お婆ちゃんは弓道の錬士六段だ。うちは代々弓道の家で、両親やお婆ちゃんだけでなく、亡くなったお爺ちゃんもひいお爺ちゃんも、その前のお爺ちゃんも皆んな弓道をやっていた。なので家には三射の道場がある。別にお弟子さんをとっている訳でもない。元気な頃のお爺ちゃんは教士の七段で、もっと大きな道場で教えていたり審査なんかをしていたそうだけど。
だけど仕事と時間の関係で、忙しい父より母の方が上手だし段位が上だったりする。なので今の道場は、お婆ちゃんが母や私を教えるための場で、家族全員の精神修養の場なのだった。そんな道場でお婆ちゃんと母は、ある日先輩を射場に立たせた。事前に話してあったようで道衣も弓具も先輩は持参していた。そして物怖じしないで正確無比に射る先輩にお婆ちゃんと母が惚れちゃった。
元々最初から気に入っていたから、その日も晩ご飯を用意していた。そのおかずがハンバーグだった。それは肉気が必要な私と、歯が悪いお婆ちゃんとの事を配慮した母の得意料理の一つだった。そうなのだ。家で分厚いステーキなどは出ない。だからこそのハンバーグなのだけど、先輩はお婆ちゃんにってそのご飯のハンバーグを教えてくれたのだ。手間を惜しまなければ餅米でもできるし、お餅バーガーも美味しいらしいとまで。
先輩がお料理上手なのは話してあったけれど、パン粉と卵を使って、玉ネギやニンジンにピーマンも入れる母にしてみれば、ご飯をツナギにするなんて初めて聞いた作り方だったので目を丸くして驚いていた。何よりそんなに脂が必要ないお婆ちゃん向けに、おからや高野豆腐を足すというアイデアに家族皆んなが感心していた。
おまけに衣を付けて揚げても美味しいだって。それで揚げる時はご飯に炒飯を混ぜたりバターライスを混ぜても良いとか何とか……。あ、それと量販店の餃子のタレはほぼポン酢なので(ここに気付くかどうかで、その人の味覚のレベルがわかるのだとか)、自分の家でいつも使っているポン酢にお好みのラー油やお酢を垂らす方が美味しいそうだ。酢醤油や酢胡椒も良いけれど、飽きてきたら塩だけも味変として良いらしい(ミネラルたっぷりの良い塩なら、胡椒を混ぜた焼き塩よりも美味しいらしい)。
『先輩、どこからそんな発想が?』
『ハンバーグはソーセージの中身に餃子や焼売のタネ、それと薩摩揚げにお魚のツミレ、さんが焼きなどからですね。ご飯ハンバーグは日本のライス・バーガーを知ってから色々試してみてです』
この時にツミレとツクネの違いも教えてくれた。ちなみにさんが焼きとはアジのなめろうを焼いたものなのだそうだ。母とお婆ちゃんは目が落ちそうなほど瞠っていて、とてもおかしかった。あ、それと臭わない餃子の作り方も教えて貰った。一段回目はニンニクを使わないで、豚ミンチとニラとショウガだけで作るそうだ。
え? っと思ったけれど、中国北部の本来の餃子はあの皮を楽しむものだから、具も薬味も少ないものらしい。水餃子ばかりなのも自家製の皮のモチモチ感やコシを楽しむためであって、立ち位置としてはウドンに近い食べ物なのだとか。だから西欧に伝わった類似のものも全部スープの具で、焼くという発想はないのだとか。
先輩は温め直しでない焼餃子は日本独自の発想で、ニラやショウガ以外にキャベツやハクサイ、ネギを多量に使うのも日本人の発想かも知れないとの事だった。それで第二段階だけど、ニラの代わりにミョウガを使うと良いらしい。つまり豚ミンチ、ショウガ、ミョウガだ。かさ増しは季節に応じて、春なら山菜、秋ならキノコを使っても美味しいという。
その代わりやたら高くつくらしく、裏返せば安く上げるために、少量で効果の高いニンニクが流行ったのではないかという話だった。先輩はこんな風に物知りで頭も良く、運動神経も抜群だった。仕草も優雅で格好良いし美人だ。おまけにドイツ系の人だから髪の色や瞳の色まで私達とは違う。唯一の玉に瑕を敢えて言うなら、少し身長が低いところだろうけど、実は内心その事を喜んでいたのは数人だけが知っていた。
先輩の言葉を借りれば『美人、賢い、運動が得意……などの一見ポジティヴに見える人と違った特徴は、苦労も一緒に付き纏います。幸い私は背が低いのでパーフェクトではありません。そこが救いですよ』となる。『ポジティヴに見える特徴』は上手く活かせないと障害になり得るそうだ。今まで人に言えない苦労があったのかも。それでもキリッとした姿は瞼の裏に焼き付いている。
間桐さんの説明を聞いた私は、『あ、それならイケる』と思えた。と言うか間桐さんもしっかり先輩の弟子だった。だけど家事炊事何でもござれな間桐さんも大概すごい子だと思う。『あれで3月生まれなのですから、見習わないといけませんよ』と、間桐さんの陰の努力と十代までは生誕月で差がある事を気付かせてくれたのもエルヴァ先輩だった。
その例え話がすごくわかりやすいもので、先輩は道場の女子更衣室で『男子ならバイクやクルマの免許を思い浮かべると思いますが、私は振り袖を着る成人式を思い浮かべました。学園を卒業して2年。そろそろ同窓会をと考える頃です。成人式後に軽く飲もうかという人も出て来るかも知れません。ですが早生まれの人はまだ飲めないのですよ』と、こんな風に話してくれたのだった。このお話は当時の3年生や2年生の先輩方も頷いていた。つまり仲間はずれが出てしまうという意味だからだ。
こういう普通は気にもとめない不思議な事を思い付くところがエルヴァ先輩だった。そしてエルマはそんなエルヴァ先輩と良く似ているし、さすが妹だなぁって思うような行動をよく取っている。それと家庭科の先生と仲が良いところもエルヴァ先輩と同じだ。先生は徹底的な『男女平等派』で『リアリスト』でもあった。『結婚したら二人の収入に応じて、家事・育児・炊事を分担するのは当たり前』という人だ。
だから文句を言う男子に『家事や育児がしたくないなら、家政婦さんを雇えるだけ稼がないと駄目よ?』とまで言うし、『平等って言っても人の尊厳に基づいた立場って意味だから。男女は骨格も身体の構造も思考方法も違う。そこを踏まえた上での平等よ? わかる?』、『そうやってフィフティ・フィフティな関係になるから、年老いてもお互いを思いやれるし、どっちかが病気になったり、事故にあっても支えられるの』なんて事まで話している。そうだよねぇ、健やかなる時だけじゃないものね。
また、『男女の前に個人の得手不得手はあって当たり前だから、そこもお互いに話し合い助け合わなきゃね』とも話してくれていた。そんな先生だから女子からは勿論、一部男子からも人気があった。そんなところもエルヴァ先輩に似ていて、それで先輩と先生は意気投合したのだと思う。
そしてやっぱり先生と似たような事をエルヴァ先輩も何度か話してくれていた。きっとエルマも同じ考えなんだろうな。あ、それと。先輩は音楽の先生とも仲が良かったけれど、そっち方面の才能はトロンメルが引き継いでいるみたいだね。本当、先輩は多才な人だったなぁ。やがて間桐さんもやるべき事はやったという感じで、他班の応援に向かった。
勿論エルマとは違う順だ。まるで弓道部での二人だった。きっと打ち合わせなんてしていない。遅れている班は1年生、簡単なアドヴァイスでサッとできる班は2年生、エルマや間桐さんを見習って他班の人へ『ここはこうだよ』と声を掛けている班は3年生、私にはそんな風に見えた。
「アサガミン。面白いね、このクラス」
私の名前が麻上美衣子だから、繋げて言いやすいのか袴田さんは1年の秋から私を『アサガミン』と呼ぶようになっていた。何か自転車用のメーターにそういうのが無かったっけ? 私達弓道部の2年生女子は出身中学に関わりなく皆んな仲が良いけれど、それは1年生の頃から重ねた時間があったからだ。袴田さんも1年の最初は、同じ中学の迫水澪さんとばかり話していた。
袴田さんは今はB組にいる迫水さんを『さこっち』と呼んでいる。これは中学時代かららしく、私の『アサガミン』もその延長で、エルマが言うにはある意味光栄な事らしい。と言うのは袴田さんはそこまで社交的なタイプではないし、誰彼構わずあだ名を付ける人でもないからだ。つまり私は気に入られているという訳だ。
ちなみに私の愛称は『ミィ』だ。これは幼少期からの愛称で、『ユナ(清水結菜)』に『ユカ(小島夕佳)』も私をそう呼んでいるし、『ミオ(迫水澪)』もそうだ。ただ、礼儀正しいアルトリアと、部での立場がある間桐さんとエルマの三人だけは私を今も『麻上さん』と呼んでいた。
まぁ間桐さんは実力も確かな弓道部現部長だから当然だ。愛称は名のままの『サクラ』だと皆んな知っているけれど、弓道場で部長をそう呼ぶのは副部長のエルマだけだった(道場を出ればアルトリアも間桐さんをサクラと呼んでいる)。これは1年生に対するけじめもあるけれど、同じ学年であってもレギュラー陣に対しては敬意を払うという弓道部女子の慣例みたいなところもあった。
これは『目上の人には敬意を払う』って当たり前の意味だ。弓道は難しい競技なので、補欠であってもレギュラーに入っただけで『凄い』となる。だから道場内での『名字+さん』は当然で、いくら親しくても愛称呼びは御法度だった。それを例外的に破ったのは後にも先にもエルヴァ先輩ただ一人だったのだ。
理由は『アインツベルン』という聞き馴染みのない姓がエルマと被るからだ。なのでエルヴァ先輩から当時の美綴部長へ自己申告して、名前呼びに変わったのだった。噂だけど『アインツベルン』は『アイ~ン(それ、日本のギャグじゃないの?)』と『ツベルクリン(BCG?)』を足して縮めた名だとか。
まぁ、とにかくそんな訳で今のエルマは、去年の例外の延長を払拭すべく、1年生には『エルマ先輩』でなく『アインツベルン先輩』か『副部長』と呼ばせている。これは偉ぶりたいからでなく元に戻したいからだ。そこを皆んなわかっているので、3年生も今までの『エルマ呼び』を止めて、『アインツベルン』か『副部長』とエルマを呼んでいた。それは裏返すと美綴前部長も含めた先輩方も、例外期間は1~2年としておきたいと考えたからだ。だけどこの例外は『良い意味での前例』にもなる。そこを踏まえた上での協力なのだった。
時計は逆算して、いよいよという時刻になっていた。戻って来たエルマはテキパキと冷蔵庫で寝かせておいたタネをフライパンに並べて焼いていた。油の代わりに牛脂とバターを使うのかと驚いたのも束の間で、適度に焼くと阿吽の呼吸で間桐さんが溶かしていたスープの元をフライパンに注いで蓋を閉めていた。ご飯が炊きあがったのがこの頃で、私と袴田さんはお味噌汁作りに専念した。
「どうしたの、エルマ?」
エルマがさっきから首を傾げて、ブラウスの右袖の膨らんだ部分をクンクン嗅いでいるのだ。
「ハンバーグ臭い。体操服を持ってくればよかった……」
わかるわぁ、それ。うちの班はそれで全員が自分の袖をクンクンと嗅いだ。エルマは芳香体質だから普段から自分の匂いに敏感だ。だけど洋食の焼き物と中華は絶対に匂いが移る。エプロンをしていようが三角巾を頭に巻いていようが絶対にだ。これは今晩、母にお願いして洗濯だなぁ。その前に5・6時間目を、この匂いの移った服で受けるのかとうんざりする。
来月は中華確定だから、正直ゾッとする。3年生のブラウスの、袖の臙脂のラインが皆さん薄いのは、この2年の調理実習を受けた経験からだと思う。要は洗濯のし過ぎなのだ。学年が上がるってこういう事なのかと、今更ながらに思う私だった。だけど記憶の中のエルヴァ先輩だけは色褪せず、縁のラインが色鮮やかだった気がする。編入生だったからかな?
お昼前の古典って本当に眠くなるわね。3年生の古典は鴨長明の『方丈記』だった。柳洞くん曰く、『仏教随筆とでも言おうか。読み応えがある』のだそうだ。2年は吉田兼好の『徒然草』だったけれど、こっちはエルヴァが好きらしく、3年で編入しているのに一分の内容を諳んじていたそうだ。
で、時計塔に行っていて学園生ではなかった1年だと、清少納言の『枕草子』を学ぶのだと聞いていた(私は学園の中等部は卒業していたが、カード回収の任務があったので、高等部はルヴィアとともに編入試験を受けて2年から入り直している)。これも古典の先生の好みなのだろう。私なんかはうんざりするのだけど(ルヴィアなんてチンプンカンプンだろう)、妹の桜は意外にも古典が好きらしかった。こんなの今まで知らなかった。
弓道でスジが良いらしい事と、結構お料理が上手らしい事くらいしか知らなかったのだ。それが姉妹に戻ると色んなあの子の姿がわかった。それがまた新鮮で嬉しかった。本当、『エル』やエルヴァに感謝だ。そんな桜が雨に烟(けぶ)る中庭の先に見える特別棟で調理実習を受けていた。
3年C組か。私はA組だとばかり思っていたから、これも意外だった。陸上部の例の三人とルヴィアはそのままA組なのはどうした事だろう。そして柳洞くんと衛宮くんが同じクラスだ。並行世界的にあるのかしら? だけど今まで見た『遠坂凛』は皆んな2年生だった。師匠から聞いた話でもそうだ。だからそれが当然と思い込んでいた。聖杯戦争……きっとあれが大きな分岐点となるのだろう。
まぁ、カードを追って魔法の杖で回収に当たるなんてのも大きな分岐点には違いない。だけどそっちは季節というか時期が違う気がする。もっと早い時期から分岐が起きている。その原因は、今まで学んだ事から推測するに『切嗣小父さまの選択』と『美遊のスリップ』にあると私には思えた。
神稚児でもある美遊なら世界への影響は大きいだろう。そこはわかる。では切嗣小父さまはと言うと、それは聖杯側がまるで意思を持つかのように選んでいるからだと思うのだ。そもそも御三家以外の令呪は誰が選ぶ? そこだと思う。そこのシステムにバグが出ているのだ。きっとアーチャーにとっての切嗣さんと、イリヤ達の切嗣小父さまは聖杯に懸ける思いのベクトルが根本的に違っていた。だから未来が変わったのだろう。
また、アーチャーの本当のマスターである『凛さん』なら、先生や師匠が時計塔を動かすだろうから、聖杯戦争終結後の事後報告も簡単にすんなり通ると思う。だけど先生や師匠と何の関係もない『遠坂凛』ならどうなるのだろうか。おそらく大師父が居ないだろう時計塔が『根源に行ける儀式だ』と信じ込んでいる。そんなのが途中で壊されたら?
それでもって、理事の何人かやロードの何人かが『英霊を召喚できた』冬木という実績ある霊脈を欲していたならどうなるのだろうか? そこの『私』は絶対に何らかのペナルティが魔術協会から降される。そしてそれに抵抗できるチカラが『私』にはない。その『私』を私に置き換えればどうだ? エルヴァや『エル』が来てくれなかったら、カード回収すらままならなかったのだ。そこまで思い返せば、夏が近い蒸した季節なのに背筋が一気に寒くなる────。
しかしこの教室からだと調理実習室が本当によく見えるわねぇ。同じ2階だから、ちょこまか動く桜やエルマが見えていた。どうもあの二人は自分達の班から離れて、他の班を手伝っているようだ。色違いだけどお揃いのエプロンにバンダナだから良い目印になって、イキイキと料理をしているのがわかる。
なお私は視力を強化していない。子供の頃から遠視気味なのだ。だから授業中はいつもメガネを使っている。だけどこうしてメガネを外せば結構遠くまで見えている。これも魔術師の家系に連なる者に良く見られる事で、ルヴィアもエルヴァも遠視気味だ。だからだろう。目聡いエルマが私を見付けて手を振って来た。
あ、こら。エルマ、桜まで呼ぶんじゃない! あ~~……。私は幸福で死にそうだった。こうやって離れた窓から手を振ってくれる妹って可愛い過ぎない?
「ど、どうした遠坂? 授業中だぞ?」
ん? あ、衛宮くん。しまった。無意識に隣の席の衛宮くんを叩いていた。今年は同じクラスなのはさっきも話したが、何故か今学期は隣の席らしい。どういう天の配剤かしら? しかも私と衛宮くんをチラチラ見るのは、隠れ衛宮ファンの森山さんだ。残念ね、森山さん。衛宮くんはとっくに桜のものよ。
「ご、ごめん。消しゴムを借りたくて」
咄嗟にそう言いながら、教科書で先生から見えないように窓の外を指差した。
「あ。桜達か……」
衛宮くんが小さく呟いた。でも、妹の彼氏も大概目が良い。ハンバーグを見て『グ~』だって。隣の席の男子がお腹を鳴らしたのを聞いたのは、小学生以来じゃないだろうか? それから暫く経つとチャイムが鳴った。私、柳洞くん、衛宮くんの三人がバラバラにお弁当を持って立ち上がった。
今までと同じで目指すは生徒会室なのだが、3年に上がって4階の生徒会室が少し遠くなった。三枝さんも居ない事だし(円盤投げの佐伯さんがBクラスなので女子の体育は陸上部率が高い。2年のA・Bクラスは弓道部の女子ばかりだ)、教室で食べようと誘っても良いのだけれど、それは柳洞くんと衛宮くんのルーチンを壊す気がする。何より二人には、ロシアにイリヤという遠距離恋愛の恋人が居る事は話してあった(魔術関連の事を話せないので、意識を逸らす意味もあった)。つまり皆んなそれぞれ去年より少し大人になったのだ。
この微妙な距離感による友情は昨年度の3学期からあったのだが、加速させたのは今ここに居ないルヴィアだった。ルヴィアは私が三枝さんを苦手なのを知っていて、3年に上がってから敢えてA組に残って陸上部三人娘と昼食を共にしているのだった。ただこれは、彼女自身が違う仲間と交流したいという気持ちも多少含まれている。ルヴィアは元々の根が社交家なのだ。
それに私やルヴィアが3年生になった訳だから、当然柳洞くんも3年生で、彼の生徒会長の任期は今年の9月までだった。それに後ろに良い2年生や1年生が入っていた。そんな事から私とルヴィアは結構暇になっていた。正規の生徒会じゃないのに、先輩風を吹かせるのはどうなのって遠慮もあったのだ。
しかもルヴィアは、この夏に高校を卒業するイリヤの妹のポリーナに、時計塔に行ったらエルヴァを訪ねろと知らせていたりもした。これは大きいと思う。今のポリーナにエルヴァの助力は絶対に必要だろう。だからその計画を知った私は、メールでエルヴァにポリーナの事を頼んだであった。
今のエルヴァは9月からの本格的な講師活動に向けてあれこれ準備をしている。既に助手を二人も持つ降霊科の一級講師だ。そのいきなりな一級講師の肩書にも驚くが、最新情報だと受け持つのは降霊科に創造科、現代魔術科だという。しかも助手の一人がなんと元現代魔術科で同じ釜の飯を食べた経験のある、奇才スヴィン・グラシュエートなのだった。
これって、セイバーを使い魔にしているからってだけじゃない。彼女、一体どれだけのものをロード達に見せたのか。きっとアインツベルン本家も大師父もエーデルフェルト本家も彼女を後押ししているに違いない。まぁそこは推して知るべしで、詳細は不明なのだけど、その政治力に私とルヴィアは呆れる他なかった。
ショックはショックだったけど、エルヴァなら当然だとも思えたし、凄いなと思えても羨ましいという嫉妬の感情は無かった。それは私とルヴィアにはプラハに行くという目標と、ロシアに眠る礼装を集めるという目標の二つがあったからだ。これもエルヴァや『エル』のお陰だった。なのでそんな恩人に嫉妬なんて烏滸がましい限りだったし、プラハでの生活が待ち遠しくてワクワクしているのも大きかった。
遅れて生徒会室に入れば柳洞会長手ずからお茶をいれてくれていた。しかもきっかりと生徒会室にある小さな食器棚には、私とルヴィアの湯呑やマグカップが、衛宮くんのと同じように置かれている。私がいつも使わせて貰っている机と椅子も昨年度と違い新役員のものだ。なのに柳洞くんは文句一つ言わないし、そっとお茶の入った湯呑を私の前に置くだけだった。
そんな彼にお礼を言いつつ、私はお弁当袋から取り出した、アーチャーから持たされたタッパを彼に渡した。賄賂でもインサイダー取引でもないのだけど、この瞬間がいつも後ろめたい……。対する柳洞くんは『寄進』を受けた托鉢僧のように私に手を合わせ、お経の一節を唱えてくれた。これも昨年度によく見たやり取りだ。
「済まぬ、遠坂。いつもいつも……」
「良いの、良いの。エルヴァからの慣例だからね。それに作ってくれているのはルヴィアのとこの執事さんだし」
タッパの中身は少し白っぽい新ゴボウと鶏肉の炒り煮と、本日のおかずであるピーマンの肉詰めが二つだ。アーチャーの話だとゴボウには二回旬があって、本来は冬なのだそうだ。だけど春から初夏に掛けて、この新ゴボウ、別名春ゴボウや夏ゴボウが出回る。洗ったら皮が白っぽいので誰でも見分けが付く。『一度はエルヴァが以前使っていた葉ゴボウを使ってみたいが、生憎冬木から出んと手に入らんらしい』だって。根じゃなくて葉っぱというか茎をフキみたいに食べるのだそうだ。
柳洞くんはエルヴァが置いていった七味を棚から取り出し、タッパのおかずに振り掛けていた。以前の柳洞くんはおかずに七味なんか掛ける人ではなかった。皆んな、何かしらエルヴァから影響を受けている。
「この執事さんの味付け、どことなく俺の味付けと似ているんだよなぁ……」
お裾分けのお裾分けを摘んだ衛宮くんの感想だ。彼も七味に文句は言わないなぁ。だけどまぁね、そういう味付けの芯みたいのはそうそう変わらないでしょうよ。私もルヴィアもそう思っているもの。つまりは選ぶ醤油なんかの調味料の銘柄というか味が似通っているのだと思う。ただ、ウチはマルガリータさんが居るし、衛宮くんの家にはセラさんが居る。そこが変化球となって飽きないのだけれど、衛宮くんの家は逆だろうね。きっと変化球は、意外と中華料理も作れてしまう衛宮くんの方だ。
「だけど肉詰めはちょっと違うでしょう?」
私は肉詰めを齧りながら衛宮くんにそう言った。どれどれと衛宮くんは柳洞くんに合図を送って、渡したタッパから一つを半分に割って口に放り込んだ。
「ポン酢だな?」
「そう。エルヴァの真似よ。だけどこれ、鶏のミンチだから鶏ゴボウと被るわね」
私のお弁当箱にはピーマンの肉詰めに、切り干し大根とニンジンの煮物、それとキャベツとハムと塩昆布を使った酢の物が入っている。ご飯の上にはいつものフリカケ。肉詰めは七味からしマヨ? そんなに辛くないし美味しい。そんな具合で味付けも変えてあるのがわかるから、鶏が被っても文句はない。
「戴くこちらとしては文句など全然ないし、仮にあってもそんな罰当たりな事は言えん。が、エルヴァ先輩の差し入れとは方向性がかなり違うと思うな」
と、柳洞くん。私もそうだろうなと思う。それは色味だ。エルヴァは女の子らしく色味に拘る。彼女の作るお弁当はカラフルなのだ。こんな肉詰めでも一切れか二切れはカラーピーマンを入れてくるし、ミンチにも細かく刻んだニンジンやブロッコリーの芯を混ぜるだろう。これはイリヤやクロエを想定する衛宮くんにしてもそうだ。いや、彼ならもっと違うおかずを作るか。
差し入れとはいえ、この鶏ゴボウは肉詰めの鶏ミンチとは別のモモ肉だから、材料費をそこまでケチっている訳ではない。そこはわかっている。でも、アーチャーの作るおかずは全般的に茶色いのだ。そして彼が良く利用するスーパーは、モモ肉とミンチが並んで置かれているのも私は知っている。
つまり、陳列棚に並んだパックの中に消費期限が近いから値引きになったものがあったとしたら、アーチャーは迷わずそっちを選ぶ人なのだ。特にこの鶏ゴボウのような味付けの濃いものなら間違いないと思う。きっとこのモモ肉は、昨日いっぱいが消費期限で、貼られたシールは3割引きか5割引きだったろう。つまり前日までに調理・加熱してしまえば、翌日のお弁当には大丈夫と踏んでいるのだ。
これはもう生い立ちから来るクセというか習性だろう。アーチャーは栄養バランスだけでなく、結構お財布事情に優しい料理を作れる人なのだ。だけど、養子とはいえ温かな家庭で育ち、セラさんの許可さえ得れば食材にお金を掛けられる衛宮くんと、天涯孤独で遺産を食い潰さないようにしていたアーチャー。これは結構大きな差だ。
(世界は異なれど、アーチャーにとっても柳洞くんはお裾分けをして然るべき相手なのも注目。近年、タイでは托鉢僧の肥満化が少し問題になっているらしいから、鶏肉が被っているのだと思う)
対して、予算を月ごとや週ごとにきっちり決め、育てるのが比較的簡単な葉物野菜や薬味は自分で育て、メインの食材にしっかりお金を掛けようと考えるエルヴァ。衛宮くんが見習うべきは、やっぱりエルヴァなのよね。それで、『エル』やエルヴァの兄であるアーチャーや、先生のシロウさんも家庭菜園を作っていたと言うから、それがエルヴァのルーツとなっている。この部分、わかる?
『エル』風にキツく言うと、聖杯戦争に赴く『衛宮士郎』はシロウさんや兄のアーチャーの生前を除けば、皆んな甘いのよ。荒唐無稽に見える目標にしたって、年齢を重ねれば変化するだろうから、若い間はどうでもいい事だわ。芯として『正しく生きる』事さえ固めていれば、それこそ他の事は『些末な事』なの。重要なのは『生きる』という事への貪欲さと執着を身に着ける事にあると私は思うわね。
誰とも特定できない誰かに救いの手を差し伸べたいなら、灌漑したり井戸を掘ったり、野菜の育て方を教えたり、美味しい料理の作り方を教えるのも正義だわ。先生の旦那様であるシロウさんはお通夜やお葬式で子や孫、曾孫まで集まって皆んな泣いていたという。ネイティヴのチェロキー族の教えにもある。
『生まれた時、君は泣き、世界が笑った。だから死ぬ時は、君が笑い、世界が泣く人生を生きなさい』
と。シロウさんはきっとそんな人生を歩んだのだ。そしてアーチャーと同じで過去の記憶を失っている。
『知恵を探せ、知識ではない。知識は過去だ。知恵は未来だ』
ラムビー族の教えだけれど、シロウさんはそれを知っていた。生前のシロウさんは、先生とアメリカで数年過ごし、横断したこと数十回だったそうだ。その後に世界を巡ったという。自分の芯を作り固めてから世界を巡ったのだ。そうさせたのが先生なのは言うまでもない。
なお余談だけれど、並行世界のアインツベルンを滅ぼすのは簡単なのだそうだ。『人体錬成の工房に納豆を持ち込めば半年掛からずに、それまでの研究成果が全部おじゃんになるから』。それはバイオテロだった。だから『エル』が納豆を食べる月は、鋳造しない事が事前にわかるそうだ。
またエルヴァが糠床を作り始めたのは菜園だけでなく、無意識に『菌』を避けるクセみたいなものがあった事を自覚したかららしい。これはエルマが教えてくれた。普通の魔術の工房と違って、アインツベルンのそれってラボみたいなものなのかしらね?
それはさておき、今のエーデルフェルトにも横手から裏庭に掛けて菜園があるし、裏にはビニールハウスまで建っている。お手入れなどは今でこそアーチャーとマルガリータさんが担当しているけれど、そもそもエルヴァがあの菜園を作ろうと言い出したのは、元々エルヴァに菜園を作りたいという希望があっただけでなく、マルガリータさんがロシア時代から野菜を育てるのが好きだった事、『庭に菜園を作りたい』とルヴィアに言い出せない事などをわかっていたからだ。
そして菜園がある程度になればアーチャーが興味を持つし、ある日菜園を見た衛宮くんにも良い意味での影響が出る。そこまで計算して申し出ていたとルヴィアに真相を聞いた私は、飛び上がるほど驚いた。そして計算通り、アーチャーがまんまと乗せられた。今はキュウリにナス、トマトがぐんぐん育っている。真一くんの部屋の窓からは菜園がよく見えるだろうから飽きないだろう。彼にも良い影響が残るようにしてあげないとね。