工房での『エル様』は、あの真っ白いメイド姿だった。その時は頭巾もちゃんと被って髪を上げていらした。『この先輩メイドさんは、まるで自分が私達を鋳造したかのように言うんだんぁ』なんてボンヤリ思っていたら、段々感覚が目覚めて来て、『こ、この方が造物主じゃないの!?』と驚いたのが、学習装置に入る前だった。
それから数日経って、素っ裸の私達は真新しい下着と新品のメイド服を与えられ、それを着るように同じメイド服の『エル様』に言われた。そして休憩室のようなところへ案内され、マアエモ様やルオン様といった『先輩メイドさん達』に紹介して頂けた。
それからはひと月くらい『エル様』とはお逢いしなかった。すると先輩方から箱を渡され試着しろと言われた。それがあちらでの穂群原高等部の制服だったのだけれど、着替え終わったら『地下の駐車場に行け』と促された。すると地下には制服姿の『エル様』とアイリスフィール様、そして初等部の制服を着ている美遊様がお待ちだった。
アイリスフィール様の運転とマアエモ様の運転で(クルマは2台だった)でどこに行ったのかと言えば、それが新都にあるスーパー・トヨエツの本店だった。この冬木に住まうアインツベルン家は、私達の造物主である『エル様』が当主で、欧州に散らばる各アインツベルン百家に、その家々の傘下(眷属)をも統べる第11代アインツベルン総裁、その人だったのだ。
だけど日々のお買い物はスーパーで済ませるという、とても庶民的な方だった。クルマから駆け降りた美遊様が、タタタッとカートとカゴを用意して、私とヴンダーに預けて下さった。そして手の空いたトロンメルを引き連れ、他の乱れたカートやカゴを直すお手伝いをさせていた。
『え?』と思った。そんなのお店の人がするでしょうと。だけど美遊様はそれを黙々とトロンメルとしていたのだ。トロンメルも頭の中が『ハテナ?』だったと思う。だけどそれが『エル様』の姉としての、美遊様に対する躾けだったのだ。
『美遊が人様を思いやれる子に育って欲しいという願いも当然ありますし、乱れた状態を糺そうとする子になって欲しいのも事実です。ですがその先にある、『スーパーにとっての人件費』『パートさんやアルバイト学生にとっての生活費やお小遣い』などなどを考えて欲しいのと、更にその先にある『人は何故働かなければならないのか?』を考えて欲しいからですね』
それを初等部の低学年(当時2年生)でしかない美遊様に、『感じ取って欲しい』『考えて欲しい』と仰ったのだ。それが1年前の春、まだお姉様と出逢う前の事だった。何か言いたげなアイリスフィール様に、マアエモ様は溜め息を吐(つ)きながら首を横に振っていた。
家に戻り、マアエモ様と食材を運び、ルオン様と冷蔵庫に買った食材を納め終えれば、その間に着替え終えた『エル様』が私達三人にお料理を教えて下さった。それがラグー・ドゥ・ポール……、いわゆるポーク・シチューだった。ただし市販のシチューの素は使わないが、ブイヨンの素を使ったり、先にフライパンで筋を引いた豚肉をオリーブオイルとかバターで軽く焼いてから煮込んでいくというものだった。
私達は『エル様』の指示でニンジンやセロリを可愛く切っていた。あんな風に3cmの大きさのまん丸にニンジンを切ったのは、後にも先にもあの時のシチューだけだった。そしてニンジンだけを小さなお鍋で湯がいて、セロリと一緒に炒められた。野菜の余った部分は全部擦り下ろされ、そこに串に切ったタマネギを加え、バターを落としたお鍋で炒め、そこに牛乳と白ワインを加え、焼き目の付いた豚肉を一口大に切ってそれも加えていた。
そうして出来たシチューを美遊様やアイリスフィール様とご一緒に、私達もご相伴に預かったのだが、とても美味しかった。後でマアエモ様に教えて頂いたのだが、美遊様はニンジンやセロリが苦手だったのだ。だからまん丸に切ったニンジンを先に塩茹でして、バターで炒めたのだ。そうすると香ばしさは残り、型崩れもせず、ニンジンの甘みが感じられるのだそうだ。
セロリも先に少し炒めておくとあの香りがマシになるという。タマネギと同じだ。辛味を飛ばし甘さだけが残るようにしたのだ。このシチューをトロンメルが来た頃、マルガリータさんと相談した上で、高校生向きにアレンジして出したら、凛さんとルヴィアさんに褒められた。
トロンメルはアレンジが気に入ったのかお代わりしてくれた。そしてお姉様も少しだけお代わりして下さった。ちょっとバターが多いから仕方なかったかな。だけど『美味しかったですよ』と褒めて頂けた。
そんな事を思い出してニヤニヤしていたら目の隅にヴンダーが座っているのが見えた。え? あの子、私の隣だったよね? んで、その隣に首を回したら、慎二さんが座っていた。だけど椅子はヴンダーが座っていた時より離れていた。なるほど。エーテルのゾウケンくんは目をパチクリさせていたから、慎二さんのこの行動(座席交換)は突然の事だったのだろう。
大学生の合コンじゃないんだよ? 私は現役の女子高生だ。なのでこの後の女子高生らしい反応をどう返せば良いのか、頭の中を幾ら検索しても出て来ない。出て来るのは『肩を抱かれたら手の甲をつねる』『腰に腕を回されたら、空いている方の腕で相手の股間を殴る』『引き寄せられたら相手に近い方の肘で股間を潰す』……って、何を私の脳に入れてくれているんだ『エル様』は?
だけど慎二さんの心理はもっと複雑だったようで、その後夜8時の解散まで『和やかに談笑し』『どこまでも紳士的』だった。つまり少し離れた隣の席で、ジョークを混じえながら場を盛り上げる会話に終止し、私に無闇に近づこうとしなかったのだ。片付けも、私とヴンダーを積極的に手伝ってくれた。なので本当にアーチャーさん達は休めたろうし、ここで道具の番を兼ねて泊まってくれるランサーにランスロットさんも感謝の言葉を投げていた。
だから衛宮邸へセイバーさんを見送った後、遠坂邸までの帰り道は慎二さんと並んで歩いてあげた。2004年(平成16年)5月1日、先負の土曜日。この日は朝から夜までずっと晴れていた。なので満月では無いけれど、月がハッキリくっきりと見えていた。
「月、綺麗だね?」
会話の緒(糸口)として、単に同意を求めただけ? それとも夏目漱石の逸話からの引用? え~と……。
「慎二さんが見ているのは月の一面だけです。そしてそこには酸素がなく、生命が活動できない死の星です。むしろ朝も昼も夜も絶え間なく回り続け、緑豊かで風が吹き、生命を育んでくれるこのホシの方が美しくないですか?」
「え? あ~……、そうだ……ね?」
ゾウケンくんは自分のおでこをペチッと叩いて『嗚呼』と呟いていた。帰ったら慎二さんへの解説をお願いしますと、私は心のなかで思ったのだった。
食事後、入浴を済ませた私は仲間と離れてロビーに行き、フロントでルームサービスを頼んだ。それはフルーツの盛り合わせだ。昼間のお姉さんの活躍に報いたいと思ったからだった。そんな注文を終えて部屋に戻ると、お姉さんはパミやミトと談笑し、子供用の浴衣を着た『私』はデジカメで撮影した画像やビデオカメラで撮影していた映像を、ノートパソコンに取り込んでチェックしていた。
モニターをチラリと見れば実に良く撮れている。この撮影能力は毎回『タネ』に与えているので、前任の『エルサ』も上手い。もしエルヴァとエルサを比べたなら、誰でもこの撮影と編集能力の差に気付くだろう。まぁ、そこはエルマやトロンメルらがエルヴァの手助けをするだろうけど。
野付半島で見掛けたエゾジカやオジロワシが綺麗に撮れていた。それだけでなく、知床横断道路でのヒグマもバッチリだ。この子も凄いな。あんな緊迫した状況でこんなにも冷静に撮っていたのか。これは明日の知床五湖やカムイワッカ湯の滝が楽しみだ。
翌朝、ホテルから朝の運動と散歩を兼ねて埠頭の方まで歩いた。ここウトロ地区は埠頭のところに、巨大な奇岩が幾つかあり一番大きな奇岩をオロンコ岩という。その岩にあるトンネルを潜ると、ウトロ崎という岬や遊覧船の埠頭が存在するというかなり変わった景観を持っていた。
そのオロンコ岩を脇にある階段(200段くらい)をエイホエイホと登ると、少し平らな頂上に出る。ここから視える朝のオホーツク海が良いのだ。本当は足元の積雪に注意しながら登る冬場が良いらしい。すると朝陽に輝く流氷が一望できて、この世のものとは思えない景色なのだとか。
まぁそういうのはカムチャッカでもクリル(千島)列島でも見ている。この列島の最北端、カムチャッカ半島の真下にアトラソフ(阿頼度)島とシュムシュ島(占守島)、パラムシル(幌筵)島が並んで見えるのだけど、目立つのはアトラソフ(阿頼度)島そのものである、海抜2339mにも達するアトラソフ(阿頼度)山という活火山だ。
どんなところだと言えば、活火山なので大変危険な島だとしか言えない。またこの島は海底火山の山頂が海面にひょっこり出ているようなものだから、誰もが想像するように富士山(※)みたいな形をしている。つまり遠目だと利尻島や利尻山にそっくりなのだ。
だけれどのどかで楽しい利尻島と違い、アトラソフ(阿頼度)島はいつ噴火してもおかしくない、有毒ガスを吐き散らかす地獄だ。一応ガイドを雇えば行けないこともないのだけど、私は二度と行きたくない。悪いことは言わない。バイクや自転車で利尻島を一周してミルピスで喉を潤す方が億倍も楽しいから。
※)富士山の本来の名は、『二つと無い見事な山』という意味から『不二山』『不尽山』とされていた『山』に縁起の良い漢字を当てたものだ。そしてこの山こそが『史記』に記された仙人が住まうという伝説の山、東方の『蓬莱(山)、方丈(山)、瀛洲(えいしゅう)(山)』のどれかとされている。
一応、蓬莱説が強く、次に方丈だろうか。瀛洲は大噴火を起こす前の阿蘇山という説が有力だ。また『史記』などが示す『倭人』は蝦夷ではなく、蓬莱信仰の果てに日本に流れ着いた古中国人だったという説もある。これは徐福伝説(宮下文書)や富士宮伝説(竹取物語伝説)などを調べると何となく見えて来る。
そもそもこんな面白い岩が何らかの信仰を持たない筈がない。そして縄文時代という長い時代を思い返せば、それはどこもかしこも各地に散らばった少数部族が、長い時間を掛けて衝突と融合を繰り返し、もっと大きな集団となっていく時代だったと考えられる。
つまり簡潔に言うと、この地は先住のアイヌ族(縄文以前、陸続きだった時代に歩いて北海道に来た)と、ニヴフ族(主にサハリンなどに住んでいたロシア系黄色人種の少数民族。別名ギリヤーク)が邂逅した最初の地が、このウトロやこの後に行く、根室なのではないかという考えだ。
そのお互いの見張り場、若しくは会合場所がチャシ跡であり、そういうのを作る技術がなかった頃は、こういう岩場を利用したのかも知れない。オロンコ岩(ウトロ崎)の隣がチャシコツ崎(チャシコツのコツは跡をコツと読む)だから、こんな風に考察している私のようなアマチュア民俗学者は割と居るようだ。
「見ない顔の奴らだ」
「何か言っとるぞ?」
「お前、行って何用か聞いてこい」
「い、嫌だよ。怖いじゃん」
そんな風に始まって融和・融合を繰り返し、人が増えすぎ、残ったものが今のアイヌの祖先となり、新天地を求めた者が木彫りの船で海を渡り、陸続き時代に先に東北で土着していた人々と出会い、そこでもまた融和・融合していったという気がする。きっと、恐る恐る相手と身振り手振りで意思疎通を図っただろう。私の想像する縄文人は人の死を悼み、弔う心を育めた人達だ。そんな軽々に部族衝突を起こして戦争をしたとは到底思えないのだ。
オロンコ岩から降りてトンネルを潜ると道路の左手にも奇岩があり、その小さい方をゴジラ岩という。ゴジラの名称がついた岩は石川県の珠洲市や秋田県の男鹿半島にもあるが、ここ知床のウトロの岩は他が頭部だけなのに対して七分身あるから角度に拠っては『おおっ』と感嘆すること請け合いだ。
そんな奇岩の裏手にも埠頭や漁協があり、漁協の裏手が漁港だ。この漁協の前の道をホテル街の方へ戻ると、建物の並びの端にへばりつくような出っ張り部分がある。4月下旬から10月頃までの期間限定で漁協の女将さん方が開く『ウトロ漁協婦人部食堂』だ。漁協の仕事が優先なのだろう、朝は8時半からで夕方は4時半で閉まる。
元々は売店と簡単な食事(ラーメン)を提供するスタンドだったが、現在はその20席弱のカウンター席に、ウニ丼、イクラ丼、ウニ・イクラ丼、三種盛り丼目当ての観光客がズラッと座る人気店だそうだ。
「開いてないね?」
「まだ7時前ですからね。それにホテルに戻れば朝食ですよ?」
「三種盛りを試したかったなぁ」
「イクラとサーモン、それと鮭フレークだったと思います。今回は無理ですが、頼むならウニ・イクラ丼です」
「そっかぁ……それは昨日散々食べたしなぁ」
お姉さん、三種に期待を寄せ過ぎだ。でもシマエビをペロッと平らげていたし、エルヴァさんの話だと、あちらのお姉さんもセラさん達を伴って聖杯戦争中はお寿司にお好み焼きと、毎日食道楽だったとか……色んなイリヤが居るもんだ。そんな訳でお店を通り過ぎ、国道334号線を越えると、タタタッと地元の人のバイクが走り去った。
それを見て目に色を変えたのがミトだ。それは『HONDA CD125T』だった。彼女が買った『CB125T』のビジネスタイプだ。どうしてミトが『CB125T』を求めたのか? 私が薦めたからじゃない。このエンジンは『CD125T』とは型式が異なるが、ドイツでも知る人ぞ知るエンジンで、ミトはこのエンジンの載ったある機種でバイクを学んだからだった。
そのバイクがMC13型レブルが販売されていた頃にドイツに輸出されていた、『HONDA CA 125 Rebel(1995~2001)』なのだった。彼女はその最初に買った『CA125レブル』を今も大切にしていて、走行距離が伸びたからどうにかしたいと考えていた。だから同じエンジンの『CB125T』を買ったのだ。
ドイツで登録できるならそうすると思うが、それが無理なら『CA125レブル』に載せ替えるだろう。その事がわかっていたから、輸入(国外持ち出し)に関して何も言わなかったのだ。この124ccの名エンジン『JC06型』は設計変更で、その後排気量が拡大され、233ccの『MC06E型』というバリエーションとなった。
この『MC06E型』がMC13型REBEの前の『250Tシリーズ(LAカスタムなど)』に採用された事で、MC13型REBELへの継続採用を経て、かつてのシロウさんの愛車だった『CD250U』というビジネスバイクにまで採用されるに至った『超』の付く名エンジンで、『CMX250(C)』という名のアメリカ版レブルは、1985年から2016年まで実に31年間も販売され続けたのだ。
シロウさんもホンダ党のマアエモ・ママも『これは良いものだ』と褒めるから、私も日本版レブルは複数台持っている。当然新品も持っているし、中古も数台ある。フロリダの別荘ではママやイリヤも使っているから3台ほど置いてある。ただ、アメリカ版も欧州版も『CB125T』とほぼ同じデザインの、野暮ったいヘッドカバーだけはイマイチだ。
けれど、日本版のレブルは1990年のマイナーチェンジでとてもスマートなヘッドカバーに変更されている。しかもホンダはこのバイクの事を『アメリカン』とは一切謳わなかった。区分けは『スポーツバイク』で、その実態はシティコミューターなのだ。だからめっちゃ乗りやすい。
特に1994年以降最終型までの右サイド・マフラー2本出しは日本人目線だと、マフラーが細いから『え~?』っとなるだろうけど、私目線だと『カッコ良い』となるので、この日本製マフラーを付けている。『そのマフラー、どこで買ったの?』とたまに聞かれるので面白い
ただ惜しむらくは『CB250T』や『CJ250T』の後継エンジンなのに、旧タイプほどには『味』は感じなかった。だけどこのMC13型REBELは、日本だとそこまで人気がなかったので、中古価格は安い。自分好みにカスタムしたい人は選んで損のないバイクだと思う。特に初期型同様にツインキャブに自分で改造できる腕の持ち主にはお薦めしたい。そこに集合管を着ければ、21psがホイッと24psくらいに簡単に上がるから。
ただ過度な期待は禁物だ。しょせんビジバイにも使われる低回転型のエンジンだからキャブがVE26型2基だった頃でもカタログでは22psだったのだ。だけど中低速のトルクが割りとあるから街中だと本当に乗りやすい。シティコミューターと言ったのはその意味だ。
シフトチェンジが無意識でできる人なら、カブみたいに走れるし燃費もそこそこなので、スポーツスターを出さずにココアからマイアミまでの約200マイル(約320km)をレブルで走った事は何度もある。最長はそこから160マイル(260km)先のフロリダ州南端の島、キーウエストまでだ。片道580km。途中マイアミで1回給油すれば行けてしまう。往復1160kmも2回の給油で大丈夫だ。
何が言いたいかというと、このMC13型REBELは実に北海道ツーリング向け(※)なのだ。見てくれはアメリカンだからシートが厚くてお尻もそんなに痛くならない(私は)。そして景色を見ながらホケ~ッと走れると良い事尽くめなのだ。
※)『北海道ツーリング向け』……好きな人ならこんなバイクを想像した事はないだろうか? 私はある。それはMC13型REBELのエンジンMC06Eを流用した、250ccアルプスローダー(アドヴェンチャー)バイクだ。後ろは16インチでも17インチでも良いけれど、前は19インチ、出来れば21インチの、セローのようにオフロードタイヤを履かせた旅専用のバイクだ。
それで前後17インチ・ホイールに簡単に交換出来るオプションがあればなお良い。『SL230』に足りなかったのはそういうところじゃなかったのかなと思う。セローを売っても良いと思える+αが足りない。乗りやすいしあれはあれで好きなんだけどね。それにMD33型エンジンは耐久性もあるし汎用性が高いと思うから、最初に『SL230』に使ったのは正解だと思う。
だからこそ第二弾でMC06E型エンジンを改良したツーリング・モデル『ジャパン・アドヴェンチャー』を出して欲しかった。この意味は高速道路でもサッと流れに乗れる加速力を得るには、二気筒の方が有利だろうし振動が減るだろうと思えるからだ。VTRのMC15Eエンジンはコストが掛かるだろうから、MD33型エンジンの改良型で出ないかな? そしてオプションで、布製の『サイド/パニア』や『トップ/リア』のザックを出して欲しい。サイズ可変で中敷きの板以外は自分で作って、防水スプレーも自分で振って、防水カバーは可愛くてオシャレなのを用意してあげるから、スパイダーネットの下で好きに被せてみたいな。
車内デザイナーでも良いし、公募でも良いと思う。防水カバーとレインウェアのデザインを揃えて、雨の北海道でも安心……そういう展開は出来ないのかな?
そう思う理由はバイク屋さんで売れ残っていた『NIGHT HAWK250(MC26)』の新車を2001年頃に20万台で買えたからだ。その時にコイツをアドヴェンチャーに改造できないかと考えたのだ。で、実車の寸法をノートに書き起こし、あれこれ考えた。そうしたら、最初からシロウさんが乗っていたという『CD250U』をレストアした方が大きな荷台もあって旅バイク向きだとわかってしまったというか……。
それにナイトホークにテントやテントマットなんかを括り付けたら、『これを駆って走る女って、丸っ切り夜鷹(江戸時代の低級娼婦)じゃん』と思ってしまったのだ(スイスの女性は16歳から、職業に娼婦を選べる。その選択肢があるという事はつまり公認という事だ)。だから改造計画は凍結した。
(私はカワサキの『KLE250 ANHELO』というバイクが割りと好きなのだけど、あれは早すぎた250クラス・アドヴェンチャーだった。後にカワサキは『VERSYS-X 250』、スズキは『V-Strom 250』という『行って来い、北海道』と言わんばかりのバイクを出した。ホンダには『XL125V VARADERO』という美味しい
モデルがあったけれど日本向けな250ccは出してくれなかった。奇しくもヴェルシスやVストローム250の登場はVTR終息と同じ2017年だ)
だけど、景色を楽しみながらのんびり走る分には、このエンジンはやっぱり良い。乗り慣れたおんぶセローと、買ったばかりの『TW225』との3台体制で慣らしを兼ねて、四国まで走って2週間ほど旅をしたのも懐かしい。高1の夏休み、普通二輪免許取を取ってひと月も経たない頃だ。なので途中で夏休みが終わってしまった。
学園? そんなのエルヴァやミントにお任せだ。あの時はソロ・ツーリングだったので、そこらのお風呂屋さんに入り平気でテント泊もした。食事も地元で食材を買って自炊していた。宝具があるからと、高知の山の中のキャンプ場では朝っぱらから秋カツオ(旬は8~9月)を捌いてタタキにしていたよ。
鶴野小父様が言うには、この『ホケ~ッ』感が『GL500』や『GL400』にはあるのだそう。『SR』は良いバイクだけれど、その『美味しい筈の味』が旅を邪魔するらしい。私はその『味』が旅を盛り上げてくれる気がするのだけど、この辺りは個人の受け止め方の差だし、小父様はそう社交的な方でもない。静かに自分だけの旅を味わいたかったのだろう。それゆえに『GL500』を選ばれたのだと思う。
大学をサボって5月の終わり頃からお盆前の8月半ばまで掛けて北海道を満喫したという。ライダーハウスは愚か、キャンプ場もそこまで整備されていなかった時代だ。皆んなテント持参で野宿をしていた頃の話だ。だからこの5月末のフェリーでの出発も計算の内だったと言う。
ゴールデンウィーク(昭和の話なのでそこまでの連休ではない)が開けて、お盆が始まるまでの約3ヶ月は運賃が少し下がるのだ。そして一般の人は蒸し蒸しする梅雨を迎える6月、北海道は最高の季節を迎える。梅雨前線が来ないから連日カラッと晴れ上がるし、北欧と同じで日の出が早く日の入りは遅くなる。6月中旬の日の出は朝4時前、日の入りは夜8時過ぎだ。
つまり行動時間をタップリ取れ、北海道を満喫できるのだ。そしてコースは道南のフェリー港から道央を抜けての道北エリア海岸線北上ルートだった。こうすると石狩からずっと左に海が見える。また寝ようと思えばどこでも野宿できた。ただ食料品だけは街に出ないと買えなかった。どこにでもセイコーマートがある時代じゃ無かったのだ。
稚内ではフェリーで礼文島や利尻島にも渡ったそうだ。宗谷岬では2泊もしたという。数少ないユースホステルやライダーハウスでは洗濯で半日潰れたけれど、そこで知り合えた旅仲間との思い出は何年過ぎても思い出せるという。皆んなで輪になって『俺たちの旅(中村雅俊だ!)』を歌ったとか。昭和だ~!
けれどバカには出来ないよね? バブル前だからまだまだ大手資本が入らず、商業的な観光地にされていなかった頃の北海道だもの。そもそもそこまで社交的でなくシャイな小父様が他人と肩を組んで歌えたのだ。そのマジックが旅の醍醐味でであり、効果の高さだろう。稚内からも左に海を眺めながら、今私達がいる知床まで走ったという。
途中、サロマ湖までの左海状態から脱し、網走湖湖畔で眠り(むっちゃ眠かったらしい)、その翌日に『天に続く道』から逸れて『さくらの滝』を見に行ったという。そこでサクラマスが遡上するのは6~8月だと知って旅の行程を考え直したそうだ。『出先のゆうちょは心強かった』とは、けだし名言ではないだろうか?
(この世界は2004年だが私の世界は2005年。郵政民営化関連法案を阻止する理由はないが、現首相と一部官僚がアメリカからオーダーされていた内容は既にすっぱ抜いて息の掛かった新聞社やTV局で報道済みだ。なので解散総選挙は無いだろう)
だけどその後の知床半島はクルッと回っただけで、本日私達が行こうとしている知床五湖は当時誰も知らなかったし(整備されていなかった)、カムイワッカの滝なんて今のような砂利道すらなく、獣道だけの秘境の奥の秘境だったそうだ。地元の人には『熊だらけだから行くな』なんて言われたそう。まぁそもそも『GL500』では行けそうもなかったのだけど。
その後小父様は野宿しながら野付半島から摩周湖まで行き、阿寒湖を抜け、三国峠、層雲峡から旭川に出たそうだ。途中、キタキツネを8回も見て、限定解除の苦しさが報われた気がしたらしい。けれどエゾジカは見飽きたそうだ。昔はそんなに居たのかと驚いた。
その旭川の郵便局でお金を引き出し、旭川ラーメンを食べたという。そこから富良野を通り(※)、日高から釧路に出て、湿原を堪能し、そこから根室へ足を伸ばし、再び釧路に戻り、その先は左海状態を心掛けて走った。だから襟裳岬にも行ったそうだ。
風景は特別『何もない夏だった』らしい。これがジョークであり、ネタだったと種明かしされても気付けなかった。ジェネレーションギャップが凄まじかった。
※)その頃はまだ白金の青い池は無かった。この池は1988年の十勝岳噴火の際に、泥流を堰き止めるために設置したブロック堰堤に、雨水や川の水が自然と溜まった池なのだ。ただ上流にある、美瑛・白金温泉の成分が流れ込んだ結果、後年ああなったのだそうだ。なので美瑛町を通るこの頃の観光客は、皆んなケンとメリーの木は絶対に外さなかったという。
そして決まって何人かが『この木なんの木(オアフ島にあるモンキーポッド)』と歌い出し、何人かが『オ~オ、ローレル~』と言うそうだ。人の記憶とはいい加減なものだ。だからケンメリの木が知られるようになったのも愛のスカイライン(通称ケンメリ)発売年の1972年でなく、1976年の地図のない旅編CM以降だよと、マニアックな小父様はきっぱりと断言されていた。
『そもそもさ。あの木をケンメリに木だって言い出したのは誰? 僕の印象だとそのバージョンの白より、もっと前の『30-44』ナンバーの青いスカイライン・クーペの方が印象深いね』
なんでナンバーまで憶えているんだ、この人? とまれ『電通が介在し、観光協会と何かあったんだろうね』という言葉は正しいと思う。
また、富良野のラベンダーは開花のピークが7月だ。花畑を見てキャーキャー言うのは私達女の子だけで、小父様は『ふ~ん』と通り過ぎただけらしい。仮に満開だったとしても『一瞬の綺麗だなぁで終わっていただろうね』との事だ。日高は牧場の多い南部を走ったから往年の名馬を見学できたし、牧場の傍で眠ったりも出来たそうだ。
苫小牧ではフェリーを見送り、室蘭で『やきとり(豚串)』を食べ、洞爺湖でも数泊し、函館では塩ラーメンを食べたそう。だけどこうも仰った。『ラッキーピエロ? その頃にはまだ創業していなかったんだよ、エルちゃん』このジェネレーションギャップも猛烈にショックだった。カラオケではグレイを歌うくらい若々しいのに。
その先は松前藩の領地を巡って北上し、積丹(神威岬)や小樽を巡って江別市から滝川市、旭川市から名寄市、美深町(マイルドセブンの丘。こちらも有名になったのは1978年のCM以降だ)を抜けて宗谷岬に再び戻ったという。『もう一周したかったよ』と小父様は言う。この旅だけで『GL500』の走行距離は2万km近く回ったそうだ。
(一言で異常。北海道ツーリングは普通、2~4千km走ったという人が多いと思う。それは社会人だと休暇が1週間から10日が限度だからだ。だからひと月で北海道を1万km走ったという大学生が居てもおかしくはないとも言える。となるとふた月で2万kmもわからなくはないのだが、お尻はどうなっているのだと私でも思うからね。また、行って走った人にしかわからないと思うが、とにかく代わり映えしない景色は眠気を誘う。北海道もロシアと同じで、『寝てるな、この人』というクルマが多い。で、季節の良い北海道ではロシアではまず見ない、居眠りバイクをたまに見掛ける。私も立ったり座って腰を捻ったり、肩を回したり、ヘルメットの中で叫んでみたり歌ったりと、眠気対策は何でもやっているが、とにかく眠くなる)
『人生というか人生観が変わったね。だから雁夜にも家には戻るなと言えたし、息子達にも魔術師以外の生き方もあるんだよと言えた』
だから、小父様は本当は引っ込み思案で顔見知りだったのだ。だけど北海道に行ってボンボンだった性格や生活が少しマシになったそうだ。ただ、この小父様は余所の間桐鶴野とは最初から違った部分もあった。それが穂群原学園庭球部(テニス部)の主将だった点だ。そしてどこぞの間桐慎二と同じく女の子だけには優しく、やたら取り巻きが多かった。
しかもその人気は中等部生からも高く、そんな『追っかけ』みたいな中等部生の中に遠坂葵……つまり、凜のお母様がいらした訳だ。そういう理由で雁夜さんは、『憧れの先輩の弟だから、先輩の情報を引き出すために話す仲になった後輩』程度の存在だったらしい。
そしてこの世界の雁夜さんは、鶴野小父様の計らいで、学園卒業後は完全に間桐の家と離れたから、臓硯との接触は一切なかった。そもそもその前に慎一さんが居たから遠坂に養子縁組を申し込む必要もなかったのだ。だけど臓硯の死後、慎一さんは時臣小父様の弟子に入ったし、桜ちゃんと婚約を交わしている。『縁』とは何だとつくづく考えさせられるね。
ともあれ小父様は今もお元気だし、風来坊だった父ともウマが合うのか、仲の良い酒飲み友達だ。また、子供だった慎一さんとはタンデムで四国に行っているし、慎ちゃんは近場ばかりだったらしいけど、慎一さんが免許を取る年齢まで成長すれば、慎一さんの練習も兼ねて親子三人で何度もツーリングに出掛けていた。これがバイクと出逢えた間桐鶴野小父様の人生だった。
そんな訳で、父も日本に来た後、かつての『セイバー』だったアルトリア姉さんやママ達に練習を見て貰って、教習所に通って一応大型バイクの免許だけは取っていた。
朝食の後ウェアに着替えた私達は、チェックアウト後隙かさず国道334号線を北上し、知床横断道路に入る手前で道道93号線に乗った。ここから遠音別(おんねべつ)村まで行けば、知床五湖を観光できる駐車場まで行ける。大抵のバイカーはここで道を引き返す。と言うのはこの先の道道93号線は、途中でアスファルトが失くなり、カムイワッカの湯の滝までの約11kmが砂利道になるからだった。
天気は最高。本州は花曇りの季節で、ところによっては雨らしいが、北海道だけは天候が全然違っていた。あちこちに『熊注意』の看板が立っている。というか、ノシノシ歩いているのを数回見たし、真横を通り抜けたりもした。もう誰も驚かないし、私の後ろの『私』も身を乗り出して熊を撮影していた。
無事、知床五湖フィールドハウス前の駐車場に到着した私達は、バイク駐車料1台1日200円の料金を支払って遊歩道の入り口がある知床五湖フィールドハウスまで行った。そこで悩みつつ相談した。
『実はこの遊歩道はガイドさんを頼むと3時間くらい掛かります。金銭は問題ありませんが、時間がね……。断ることも可能ですが(※)、どうします?』
※)まだショートコースの高架木道が整備される前の事で、環境省からヒグマ対策としての要説明が義務化されていなかった頃だ。要説明になったのは2011年から。ただしそれも季節に拠る。環境保全がまだまだな頃だったので私は遊歩道に入るとナイロン袋を取り出して、それを配りながら皆んなに説明した。
『目に付いたゴミはこれに詰め込んで下さい。自分の世界の冬木で処分しますから』
そうして私達はゴミ拾いをしながら遊歩道を歩いた。再びフィールドハウスにまで戻れば、時刻は11時だった。ガンドでヒグマを追い払うこと2回。内1回はお姉さん、転身していた。この姿は一度並行世界で見ているが、エルヴァやクロちゃんとも違っていて良かった。ちなみにゴミ袋は、全員いっぱいだった。
だけど観光客は思ったより少なく、遊歩道もこのフィールドハウスや他の施設もガラガラだった。なお売店以外、レストハウスも無かった頃なので『こけももサイダー』もなかった。お腹が空き始めたけれど、ここは我慢だ。この後、水分補給をして、お手洗いを済ませてから私達は出発した。お姉さんは売店でお菓子を買い込んでいた。
アスファルト部分を少し走ると直ぐに砂利道が見えた。周囲には誰も走っていない。ここで私はバイクを取り込み、セローなどを3台出した。その間にミトやパミも自分の宝具の中のオフロードヘルメットに入れ替えていた。走り始めるとわかると思うが、この『砂利』というのはあまり良くない。クルマの轍にハンドルが取られ、ふらふらするのだ。
それなのにお姉さんを後ろに乗せてミトは軽快に走っていた。私も後ろの『私』が落っこちないよう気を配って操縦した。パミは立って操縦している。本当は立つのが正解だけど、パッセンジャーが掴まれないから座って操縦しているのだ。なので轍回避が煩わしい事この上なしだった。だけど湯の滝のすぐ近くにセローや『KLX250』、『SL230』を止められた。お姉さんは『お湯なの?!』と、バイクを止めるやいなや歓び勇んで走って行った。
だけど川の縁で、靴を脱がないといけないと気付いて呆然というか、(´・ω・`)、こんな顔をしていた。めっちゃ可愛いんですが。こんな人も18歳頃は『やっちゃえバーサーカー』とか本当に言っていたのだろうか? いいや、きっと巫女の姉と同じで、黄身が潰れて殻が少し入った目玉焼きと、焦げたトーストを義弟に出したクチだ。
湯けむりが立ちこめるほどではないけれど、硫黄の匂いがする。カムイワッカ、神の水。つまり聖水は臭かった。その後私達はオフ車でウトロまで戻り、近場のお店でラーメンを頂いてから『オシンコシンの滝』を見学し、『天に続く道』まで出た。そこで記念撮影をし、バイクを最初のツアラーに取り替えてから再び記念撮影をした。
さて、今度は国道244号線を通って、野付半島とお別れして、風蓮湖の横を抜けて根室半島だ。その前に国道44号沿いにある根室市春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンターに寄れたらなと考えている。何せ今回の度は『北海道を満喫するぞ』じゃなく、『なかなか行けない道東を楽しむぞ』なので風蓮湖と海を隔てる砂州の原生林、春国岱も外せないのだった。
アイヌ語のエゾマツ林を意味する、スンコ・クタイを繋げて『春国岱』とは不思議なネーミングだ。切るところが違うじゃないの。まるでウンコ・クサイが『雲黒斎』となったようだ。これ、絶対に百人に一人くらいは言ったよね? この『春国岱』には自然観察のためのトレッキングコースが五つ程用意されていて、私達はその内の2コースを巡る1時間ほどのお勧めコースを歩いた。
もう少し季節が早ければ越冬を終えたゴマフアザラシが外海に帰って行く姿が見られたらしい。真冬は流氷に乗ってオホーツク海のもっと北から南下して野付半島や風蓮湖で越冬するそうだ。ゴマフアザラシ自体は何度も見ているし、泳いでいるところも見た。実は南半球のペンギンくらい、北半球でのゴマフアザラシはポピュラーなのだ。
「今日は歩いてばかりね」
「嫌ですか?」
「ううん。子供の頃はこんなに歩けなかったからね。楽しいわ」
良かった。予定通りトレッキングを終えた私達は、ネイチャーセンターに幾ばくかの寄付をした。だって入館無料なんだもの。その後、再びバイクに跨って、予約してあったホテルに入った。ハッキリ言って、ビジホに毛が生えた程度だ。だけどこの程度で十分だった。
その理由はこの根室が北海道の中でも上位に位置する僻地だと理解していたからだ。田舎という意味では無いし、仕事もないような過疎地域とレッテルを貼りたい訳でもない。ここ根室市は半島の真ん中辺りにあり、そこで国道44号線が終着するのだが、国道以外の道道は、道道142号線を除けばどこにも行けない構造の、ほぼ袋小路のような半島だからだ。
その原因は根室市春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンターの真ん前にある、かなり大きな温根沼の存在にある。この沼が見事に北海道を本土と言いたくなるくらいに半島を切り離していた。こういう場所は海外にもあり、どこも寂れた町以下の村だ。だけれど国道が通り、JRが走っている段階で根室は凄い。だからビジホでも存在するだけ立派となる訳だ。
それとこの半島。お住まいの方には申し訳ないのだけど、朝日の昇る岬じゃない。どうも『出口』っぽい。霊脈と言うか、ここいらの地脈と言うか、色んな『圧』を逃すための。私的にはユーラシアから千島列島を伝わって(※)、北海道から本州を通って九州まで行くレイラインの内の一つが、またグルっと日本を巡って最後に出て行くのが根室半島だと思うのだ。
※)その場合の『入口』は知床半島、大雪山、十勝岳を通る千島火山帯。もう一つは那須火山帯に属する後志火山群。なので積丹半島の神威岬も『出口』だなと行けばわかると思う。いや『西』に伸びる岬だから、『日の沈む方角』でイメージしやすいと思う。だけどより『沈んでいく』のは東の納沙布岬だ。
大雑把に話しているが、これは科学的にも正しい部分があって、それがプレートなのだった。日本は世界的にも稀なプレートとプレートがぶつかり合う場所で、この北海道から富士山のある、圧が一番高いフォッサマグナまでが北米プレート、そこから西(南)がユーラシアプレート、そのユーラシアプレートを下から押し上げているのがフィリピン海プレート、そのフィリピン海プレートと、最初の北米プレートの二つを同時に押しているのが太平洋プレートなのだ。
こんな押し競饅頭(おしくらまんじゅう)を何千何万年もしていたら、それは地球も皮膚が撓(たわ)むし(山や地溝に海溝)、膿も絞られて出て来るだろう(噴火※)。だけどそんな風だから、日本は地脈が東西でバラバラなのだ。ところがこれは物理的な『バラバラ』であって、霊的にはガッチリと繋がっている。
※)それぞれのプレートの質量や組成の違いで圧の掛かり具合は異なる。なので伊豆諸島などは太平洋プレートに押し負けたフィリピン海プレート上にある。
つまり地脈は分断されているが、霊脈はガッシリと日本列島中を駆け巡っている。と同時にプレート内を巡るレイラインも別にあって、西日本にある冬木でどうして英霊召喚が行える霊脈があるのかと言えば、ユーラシア大陸の霊脈と繋がっているからなのだ。
この部分をもう少し詳しく言うと、まず各プレートは地球にとっての手足みたいなものだと考えてみて欲しい。だけど地球は地球であって動物じゃない。そして何万年、年億年と掛けて手足を入れ替えるのだ(プレートテトニクス)。それでゴッツンコした陸地は、地面や海水の下のプレートと同じく、地脈や霊脈を血管やリンパ管のように繋ぎ変える訳だ。
更に地球はどちらに周り、太陽も星もどちらから昇るのか、北半球ではどう風が流れるのか。こういうのもレイラインと関係あるから、すり鉢状になっていて(外に吹き出したマナがガスのように溜まる)、地熱の高い(※)冬木が召喚術にも適していた土地であったとなる。
※)地下のマグマが近いのでなく、膨大な地下水脈があるから、温められた熱が地上に伝わりやすい。それと同じ理由でユーラシアプレートを巡るマナを吸い上げ(利用し)やすいのだ。その湧き上がるマナの大元を我がアインツベルンがロシアで抑えた訳だ。大聖杯解体が患部の切除なら、霊脈そのものの調整は人体を内蔵から整えるようなものだ。
こういうのは幾ら魔法使いを出せた遠坂家でも単独なら無理だ。私はそれを事業に展開できる能力があった。そしてほとんどの魔術協会は、どこもかしこも、このユーラシアプレート上に存在している。天然ガスのパイプラインと同じだ。元栓を握った者が勝つ。
そして私は北米プレート、カリブプレート、南アメリカプレート、アフリカプレートのほぼ100%と、オーストラリアプレートとインドプレートの一部の元栓を自分の世界では握っている。魔術師がそんなに居るわけではないし、各種の協定もあるから収入はそんなに増えない。
けれども調査の副産物は莫大な利益を生んでくれるし、電気の代わりに魔術で一族全体の各家を灯すなんて馬鹿げた使い方も可能となった。要するにどこであろうと大魔術を行使できるだけのマナを確保できたという事だ。だけどこれらは元の世界での話だった。
そしてここの冬木からレイラインを辿って調査すれば、こちらのアインツベルン一族は、ユーラシアプレートの大霊脈は確保できていなかった。だからバーサーカーをあんな面白い召喚方法で召喚したのかと納得だ。さて、『こんな話』を聞かせるに足る者がこの世界のアインツベルンに居るのかどうか?
話を聞いた限り、ここの『エルヴァ』は中身がエルヴァぽいから、限界があるだろう。では、アーデルハイドとなればどうだろう? メイド達の電池化だけでなく直列でなく並列で負担の分散化、即ちメイドの安全確保を優先していたという彼女……。一度会う必要があるなぁ。
それで、もし私みたいにプレート全部の元栓を握って、地球をしゃぶり尽くしてやろうとまで考えられないなら、この根室のような場所を2~3教えてあげよう。ここは北米プレートの霊脈が、北米大陸へ還る場所なのだ。つまり地脈としてはカムチャッカからアリューシャン列島(※)を通じて、イエローストーンとも繋がっているし、霊脈としてはスノーフィールドとも繋がっているのだ。
※)今更言っても仕方ないが、ロシア皇帝アレクサンドル3世がアメリカにアラスカを売った事でアリューシャン列島もベーリング海もほぼアメリカの領土となっている。なのでカニ漁、サケ漁と簡単に言うが、獲った場所がどこだったかで、支払うべき税金をどこに納めるかが、結構わかり難くてややこしい。そんな訳でイヴはアラスカにも支社を持っていたりする。
なおベーリング海のカニ漁は、コンスタントにカニが罠に掛かってくれるので、マグロ漁より儲かる。だけれど漁業権と税金はかなり踏んだくられる。それでも、かなり高給で船員を雇ってもペイできるだけの利益は上がる。それに船員のほとんど(昨年で80%)はアサシンだ。またあちらのランスロットさんやお兄ちゃんがイヴ人材派遣会社を通じて時々船に乗っている。
2ヶ月も船に乗れば1年は遊んで暮らせるから、アサシンは全員ローテーションの半強制乗船だ。だけど誰も断って来ない。ランスロットさんは陸に上がればカナダの採石場で、超大型トラックで瓦礫や砂を運んでいる。この分だとセイバーへの賠償金を後20年くらいで償還できるかも知れない。
つまりぽつんと大きな送電鉄塔が立っていて、電力会社が監視していない状態と言えばわかるだろうか? そういう意味で根室半島は『美味しい場所』なのだ。ただし盗電(盗マナ)は難しい。地脈側への細工を怠れば、各地で噴火などが起きかねないし、霊脈側への細工もこのレイラインからのマナを利用している人達(魔術師とは限らない)に迷惑を掛けかねない。
今回私が神の子池や、オンネトー湖を避けたのは、まず神の子池が水が湧き出て『循環』している本物のパワースポットであり、神秘を知る人にはかなり重要な場所だと思えたからだ。魔術師でもない限り普通は誰も使えない。けれど利用している人は居るように思えた。だからその人達に敬意を表して物見遊山は避けたというのが本音だ。
一方オンネトー湖は、美瑛の青い池が人工なら、こちらは天然の噴火で堰き止められてできた湖なので、マナが流れ込まないし流れない構造になっている。つまり鬱血した状態な訳だ。観光地として普通の人が訪れるのは自由だが、私には見る価値もない死んだ場所だから避けた。
そしてこういうのを知る私達がちゃんと見れば、世に言う『パワースポット』はデタラメな場所が結構あるなぁと気付く。まぁ、それでも騒がれる『心霊スポット』よりもマシなのだが。あれは酷い。TVで放映されたり、ネットで挙げられるスポットのほとんどは、ただ時間の流れで廃れた(思念や気配が消えた)だけの場所ばかりで、まず間違いなく何の霊現象も起きないと断言できるからね。
確かに中にはひと目見て『ああ、そういう事か』という『天然で人避けの術』が発動している場所もあるのだが、それらは天然であるだけに私達が見れば一目瞭然だ。樹木の並び方、枝の張り出し具合、風の流れ方……私達はそういうのを観察し、紐解く事で、人除けの術を手に入れて来た。だからそういう『心霊スポット巡り』は『わかっている人』と一緒に時計塔の学生が学術研究で巡るもので、一般人には意味がない。
何故ならあなた方はそもそも『見えないし、感じられないのでしょう?』。それに『霊魂の存在』を端から否定しているし。だけどいかにもな場所に元が日本人だった死者の霊は現れないと断言できる。と言うのは日本人は他の国の人と違い、独自の神秘観や死生観を持っているからだ。
それは神道前からあり、神道が成立されて以降もそんなに変わらなかった。仏教も国教にまでされたのは伝来された初期のみで、後年は精神的に取り込まれただけだった。基督教なんて日本人が培った精神から見れば、その二元論的発想が、感覚が古いと見做されて大勢には受け入れられなかった。
キリシタン禁止令も逆の目線で考えれば、その単調な善悪二元論が、朴訥で真面目な人を惑わす元だと考えられたから禁止されたのだ。ハッキリ言って西欧のそれは他国を支配するための精神改造ツールであって、宗教としての内容は日本人が思うそれよりも遥かに稚拙でくだらないものだ。
本来この点を遠坂やマキリは聖堂協会に訴えなければならなかった。それを訴え、日の本(ひのもと)を守った秀吉はもっと評価されるべき偉人だ。秀吉が宣教師を追い出し、家康がキリシタンを禁止したのは、宣教師達が人買いであり奴隷商人だとわかったからだ。
その他民族を奴隷化して自らは楽をして生きようという汚い精神性が、西欧の王侯貴族の精神性そのものなのだ。だけど私もこれらを知っていてもあまり公言できない立場にある。そもそもアルトリア姉さんやセイバーの耳に入ったら大事だ。だから話題にはしないのだが、第11代アインツベルン総裁としては別だし、私個人としてはもっと別だ。
だから神道の一部に残る、神道成立以前のアニミズムや原始宗教を少し脇に置いて、縄文人の死生観などを紐解くと、本来の日本人が持つ、この精神性の高さは奇跡だなと本気で思う訳だ。そしてそれをある程度見抜き、焚書などで前時代の精神的遺産を消し去ろうとしたアメリカは、目の付けどころがエゲツナイと思う。
それはさておき、話を戻すとその精神性の高さから日本人は『やられたら過不足なくやり返し、未練も恨みもその場で終わらせる』ものなのだ。だから悪人の『お里が知れる』訳だ。さて、そんな精神性を持つ人が、死後幽霊となって彷徨うものだろうか?
他国ならあり得ると断言できるし、日本国内で死んだ外国人や、その精神性を学べなかった渡来人なら二世になろうが三世になろうがあり得るとも言える。けれど大方は速効で『魂の還るべき場所』に帰って行く。今世は魂を磨く場だとか、死後あの世で今世の採点が行われ、その試験に受からないと精神生命体に至れないとか、『それって第三魔法じゃないの?』とか、そういうのはここでは措いておく。
ともかく先のプレートの話もそうだが、日本は特殊な場所なのだ。『日本列島世界縮図論(日本雛形論)』や日本から見た場合の『月面世界鏡像論』も『あながち間違っていないかも』と私でも思うときがあるから。だからこそ千人超のアサシンという『英霊(幽霊)』を従える私が言う。日本には想像するような心霊スポットは無いし、迷う幽霊もほとんど居ない、と。
ただ、並行世界や平行世界からの『影(侵入者・迷い人)』は条件次第で見えてしまったり、声が聞こえたりするからそちらとの混同は起こり得るし、善悪二元論でモノを見る教育を施されてしまった人達が大半を占める、アメリカや欧州では迷える霊はそこら中にうじゃうじゃ居るのも事実だ。
もっと言えば昔ながらの生き方をしているガチのネイティヴ・アメリカンや、オーストラリアのアボリジニ、あまり白人が持ち込んだ娯楽に染まっていないアフリカの人達は、恨み言くらいは言うかも知れないが、死んでも彷徨う事はない。それは宗教観や精神の根本が異なるからだ。
なので砂漠やオアシスで幽霊を見掛けたら、『一神教はこれだから』と思わざるを得ない。そもそも何でもかんでも『ジン』で済ませ、分類したり体系化できない点はおかしい。それはつまり、今までその程度の研究しかなされて来なかったという事だ。
起きた事は起きた事。見えたものは見えたものなのだ。錯覚や見間違いを疑う事は大切だが、どう考えても『起きたり』『見えた』なら否定から入っても仕方ない。あの聖堂協会だって秘蹟(神秘)は否定どころか存在を認めているのだ。でないと神の秘蹟すら否定する異端者になってしまう。
だから聖堂協会のそれと似たような理由で、人が人同士の軋轢を避ける意味でも、宗教観や死生観は他人に語らない方が良いだろう。私達魔術師も『根源を得る』という目的はあっても、研究費稼ぎはなおざりにもおざなりにも出来ないから、現世利益は重要だとして、お金儲けに神秘を活用する人は結構いる。だけど絶対に口外はしない。それも人間関係をスムースにするためだ。
特にビジネスに於いての人間関係は重要だ。嫌われては、魔術を使って相手の意志を捻じ曲げる手しか使えなくなる。そういう神秘の漏洩を引き起こしかねない手はできる限り避けたいのは誰だって同じだからね。
さてチェックイン後に浴場に行けば、ガラガラだった。こういうビジネスホテルに近い地方のホテルは、余程の観光地でない限り、ビジネス目的の利用客がメインだから、男湯と違って女湯は存外空いているものなのだ。それに何より宿泊料金がリーズナブルだ。なので朝食のみのところが多い。
まぁ、夕食は近場のお店で商談したり、地元の味を堪能したりするのが出張の楽しみであり、格安旅行の醍醐味だからね。ところがこのホテルは、先に前もって断わっておかないと、自動で夕食が付いて来るシステムだった。それがこの時間だともう開いていないだろう、根室市の喫茶店での超有名ご当地メニュー『エスカロップ』だった。
実は私、名前は知っているし、作り方も知っているので、何度か家で作っていた。けれど根室は初訪問だったので本場のエスカロップは初めてだったのだ。エスカロップとは簡単に説明するとケチャップライスかバターライスの上にトンカツと生野菜や付け合せを載せて、デミグラスソースを掛けたプレート料理の事だ。
どうして根室? と思うが、これはお手軽にサッと食べられる料理を地元の漁師(※)が、とある洋食店に客として要望を出した事で考案されたものらしい。最初はケチャップライスの『赤エスカ』に子牛のカツ(シュニッツェル)を載せたものだったらしいが、他店が真似する内に改造されて行き、バターライスの『白エスカ』が生まれたり、子牛のカツがトンカツになったりと変貌していったそうだ。
※)根室の漁業と来れば先ずはハナサキガニ(花咲蟹)漁だ。タラバガニやアブラガニと同じ、ヤドカリの一種でカニではない。だからなのか身に脂質が多く含まれるので、食べると甘みを強く感じる。特にこのハナサキガニは見た目の大きさ以上に足の身が多く、食べごたえがあるので好きな人には堪らないだろう。
ただしタラバガニ以上に脂質が多いので、カニミソまでが脂っぽ過ぎ、そちらは食用に向かない。ただ鉄砲汁などの味噌汁のダシ取りや具には良い。また、昔からこのカニは食べ過ぎるとお腹をこわすと言われているらしい。ものの本に拠ると、ウニ、イクラと並ぶコレステロールが高そうな痛風源食材なのだそうだ。
カニの次に有名なのがサンマ漁だ。だけど年々漁獲量は減っていっている。生で100~120円。冷凍物で80~100円。開いた干物でもそのくらいだから、安過ぎるのだ。私からすると生で200~250円、冷凍150~200円。干物は200円前後が小売値として妥当なラインだ。そんなの高過ぎて生活が厳しいよ、給料も上がらないしという意見は、日本が『同盟料』をぼったくられ、アメリカに貢がされている事を知ろう。郵政民営化(貯金目的)や、各種年金が行方不明なのもそういう事だぞ?
私? 当然ガーリックライスにシュニッツェルだ。そのシュニッツェルにしても子牛が手に入らなければ、チキンを揚げ焼きしたり、ポークのミルフィーユカツを揚げる場合もある。ソースもデミグラスよりも、少し酸味を効かせたトマトソースが多い。このようにシンプルでアレンジしやすい洋風丼だから、根室市内だけでなく市外にもリスペクト系やインスパイア系のお店があったりする。
そして私……と言うよりエルヴァだな。あいつがこういう洋風ワンプレート料理や、丼ものを作るのが得意なのだ。しかも激安で作るところが恐ろしい。例えば豚こま肉を溶き卵に通して、衣は小麦粉とキメの細かいパン粉にして揚げる。これを白ごはんの上に並べて、中華の白あんを掛けるのだ。何という料理か名前は知らない。
一応分類するなら中華あんの掛かった、西日本のカツライスの一種なのだろう。それと金沢のハントンライスのようにバターライスのオムライスを作り、そこにブリやタラの切り身のカツをトッピングし、少し甘めのトマトソースを掛けたものを美遊達に出してくれた事もある。
このオムライスに揚げ物(主にトンカツ)、本当、エルヴァはこういうのが上手かった。『この世で一番美味しい丼ものは中華丼か親子丼』だと言い切っていたし、そういう系統の料理研究から派生して、『賄いものに新しい料理のアイデアの芽がある』と話していた事もあった。また福井県のボルガライスにある精神性が素晴らしいなども話していた。その精神性とは『あるものを自由に組み合わせて使う』事だ。
ボルガライスのボルガは、ロシアの母なる川ヴォルガ川(ニジニノブゴロドの傍を流れカスピ海に注ぐヨーロッパ最長の川)の事らしいが、あの川の流域で福井県から旅行に行った誰かが何でも乗っける料理を見た事から思いついたらしい。確かにあの辺りからウズベキスタンに掛けて米どころだけれど、おそらくその料理はお米でなく蕎麦の実をお粥状にして使った混ぜ蕎麦(カーシャ)に、具をトッピングしたものだ。
これがウズベキスタンやカザフスタンで見掛けたと言うなら、そちらはロシア風ピラフに具を乗っけたものだ。だけどそんなのはどうでもいい事で、得られたインスピレーションと料理の方程式を打ち壊そうとする精神性が良いのだ。だからエルヴァは、『賄いものに新しい料理のアイデアの芽がある』と言ったのだし、ご当地洋食や喫茶軽食メニューも侮れないと言ったのだ。
この彼女の言葉は深い。私も似たような観点から喫茶軽食は研究したし、プレート料理や丼ものも色々作った。だけどアオレアール程ではないけど、白いご飯に何かを掛けるという食べ方に、少しだけ抵抗感を覚えるのはどうしようもない。そもそも私はご飯の上に焼肉をバウンドできない。白飯は白いまま食べたいのだ。そういう意味で、エルヴァは少し変わっている。
で、ホテルのエスカロップだが、味は普通に美味しかった。と言うかこの手の洋風アイデア・プレートは、まず外れがないのだ。それはソースで味が決まってしまうからだ。沖縄でタコライスを食べて、『こんなものか?』とちょっぴり思ってしまうのも、アレの具がメキシコのタコスで、西欧料理とは異なるからだ。
あれならフライドチキンを載っけて、チリコンカーンをぶっ掛けた方が美味しいし、わかりやすい味だと思う。だいたい日本国外のアイデア・プレートのご飯は、マッシュポテの代わりの付け合せでしかない。つまりメインはステーキやカツであって、ご飯じゃないのだ。
ボリビアのシルパンチョなんてそうだ。ご飯の上に薄い揚げ焼きしたようなステーキを載せ、そこにサルサ(ソースの意味。ただし野菜分が多い)を掛けた料理だが、ご飯は少ない。そこの比率が少し変わるのはハワイのロコモコだ。ご飯の上にハンバーガーのパティを載せ、目玉焼きを更に載せた学生向け時短料理が発祥のこの料理は、絶対に日系の誰かが考え出したものに違いない。
世界中を見渡せば、お米をとことんまで主体に置く民族は日本人しか居ない。『食べる人が蓋を開けるまで調理は終わっていない』、こんな事を以前エルヴァは話していた。それに彼女は、伊丹十三式オムライス(タンポポオムライス)を明太バターライス(ご飯はダシで炊いていた)で作ったようなヤツだ。
当然私は思った。『私より日本人の血が濃いのではないか?』と。だけどそれは彼女のアレンジ能力を認めての事で、私がプレート料理や丼ものに懐疑的なのは、また別の理由があっての事だ。つまり私は白いご飯は白いまま頂いたいタイプだからだ。
(このように私はプレート料理全否定派ではない。子供の頃からバラエティ溢れる料理が好きだったから、『お子様ランチ』の凄さも認めている。と言うか少食だった私がご多分に漏れず、『お子様ランチ』はペロッと食べるので、ママ達と外食に出れば『お子様ランチ』ばかりという時期があったのだ)
だから私は焼肉屋さんでのバウンド食いが未だにできない。お高くとまっている訳ではないが、行儀よくしようと心掛けているのもあるし、器を汚したくないのも当然ある。だけどそれよりも白いご飯が好きなのだ。何よりも口中調理で残る味を、確実にニュートラルへリセットしてくれるのは、水と白ご飯以外にないのだ。
それと私は沖縄に行けば、『おかず』付きの『みそ汁定食』をライス少なめで頼むタイプ(定食や幕の内弁当が好きという意味)だから、熱々の白飯で温められる野菜が悲しくて、タコライスは苦手なのだった。海鮮丼は酢飯でなくとも平気だから、切り身が温められても何も思わない。なのに野菜が温められてしまうのは我慢ならない。ここは自分でも不思議だ。
それはともかく、お姉さんはエスカロップを「へぇ~」と言いながらパクパク食べ、ミトはカツをスプーンで少し持ち上げ、その下にあるバターライスを見て『ふ~ん』と言い、次いで『この料理のテーマは時間短縮?』と言った。パミは『発想がハワイのロコモコっぽいね?』などと本質を突いていた。
さすがはイヴの本社社長(CSO/最高経営戦略責任者)と副社長(CEO/最高経営責任者)だ。見るべきところはきちんと見ていた。この二人には親子丼と、ここ根室のもう一つの隠れ名物『スタミナライス(※)』を食べさせてあげたい。何と言うだろうか?
※)安直な名だから日本中に同名異種、同名別種の料理が存在する。旅好きな人からすれば『本日の日替わり』や『幕の内弁当』のような『ワクワクする』びっくりメニューなので隠れ名物となっている。その内容は『ご飯の上にトンカツを載せ、その上に野菜炒めを掛け、更に目玉焼きか生卵をトッピングしたもの』だ。そして私はこの料理を知らなかったし食べた経験もなかった。
だけどその名を知っていたのは、旅情報誌に時々取り上げられたりするからと言うのもあるが、実は二人のママとアルトリア姉さんがこれを食べて知っていたからなのだった。この三人、聖杯戦争を通じて意気投合し、今もず~っと親友同士でツーリング仲間なのだ。それで北海道ツーリングで体験した事をお土産話で聞かせてくれた。それで『スタミナライス』を知った訳だ。この記憶はエルヴァも持っているだろうから、『エルヴァ風スタミナライス』を一度食べてみたい。
(この北海道ツーリングでのバイクは、マアエモ・ママは前から持っていた『HONDA CBR1100XX SuperBlackbird』だったのだが、ルオン・ママは、出たばっかりのカッパーブラウンが眩しい『SUZUKI GSX1300R Hayabusa』だった。つまり北海道ツーリングは1999年の事で私やイリヤが中1の頃だった。これはママやお母様が遅れた思春期を迎え、夜な夜な峠を疾走り始める1年前の頃だ。『少し変だ』と兆候を感じ取ったアルトリア姉さんの発案に、新車を買ってウキウキだったルオン・ママが乗ってのツーリング計画だったのだ。そんなアルトリア姉さんは初代の『YAMAHA YZF-R1』だった。150psの化け物SSバイクでの北海道だ。腰、痛くなるぞ? しかもアルトリア姉さんはこの時大学の四回生。それまでアルバイトで貯めたお金を全部『YZF-R1』に注ぎ込んでいたから、旅費は王様持ちだったらしい。美人三人が揃って当時の世界最速バイクだったから、宗谷岬では『何かのキャンペーンか』とバイカーが集まって来たそうだ。なお2年後、イリヤやママの思春期が終わった頃にアルトリア姉さんは、初代の『SUZUKI GSX-R1000(K1)』に乗り換えた。『YZF-R1』が勿体ないが、実はこれも姉さんなりの『厄落とし』である点に注目だ。だからイリヤはこの『厄祓いを完了したK1』を欲しがったのだ。私がバカみたいに『YZF-R6』に拘ったのも、『YZF-R1』が家族の厄(危機)を持って行ってくれたからというのもある。普通はそんなのないと言えるけど、アルトリア姉さんがそういう『祈り』を『YZF-R1』に込めてしまった。ほぼ無意識だと思うが、姉さんはそういう『儀式』を自然と行える人だった。だからセイバーとの付き合い方は、他の英霊と違って細心の注意が必要なのだ)
さて、明日は根室半島チャシ跡群の見学と、納沙布岬からの貝殻島(シグナリヌイ島)、水晶島(タンフィーリエフ島)や秋勇留島(アヌーチナ島)、萌茂尻島(ストロジェヴォイ島)、志発島(ゼリョーヌイ島)の観察、それと北方原生花園の見学だ。おそらく歯舞群島の一番外れ、多楽島(パロンスキー島)とその遥か先に浮かぶ色丹島(シコタン島)は望めないと思う。
だけどこの色丹島(シコタン島)は、ビザと許可証を持っていれば、樺太(サハリン)からの定期船で日本人でも行けてしまう(ロシアのウラジオストク経由だから旅費が高くつくし、日本政府が許可しない場合もある)。しかも定期船は季節ものだし、一週間に2回しか来ないので、宿泊先の確保と帰るまでが大変だ。
なので私は上陸しないで、そのまま定期船で帰った事が1回だけある。お薦めしない旅スポットだ。そもそもこの島は形が変だ。水でところどころ溶けた味付け海苔か欠けたかまぼこ板のように妙に四角いのだ。その四角さは島は何となく丸いものと思っているこちらのイメージとの乖離が大きく、私はそこも好きになれなかった。
だが、好きになれなかった最大の理由は、この島の小さな湾や入江などの沿岸部が、軒並み死んだ魚や腐った海藻が漂う、悍ましい海だったからだ。長年の生活排水でこうなったのか(人口は知れてるのに?)、小さな工場から出る排水でこうなったのか(水産加工場はあれど化学工場なんてないぞ?)、そこは謎だけどとにかく色丹島は周囲の水質汚染が酷い。
それは水産加工場から出る生ゴミだけの問題でなく、このかまぼこ板のような形が、島の周囲の潮流を大きく動かないせいもある。そしてこの島はロシアの支配下に入る前は日本のクジラ漁の拠点でもあった。だから沿岸の海底に溜まるヘドロには、今のロシアの加工場からの生ゴミだけでなく、昔のクジラの内蔵なども堆積しているのかも知れない。
『この島は止め石だ』
天然でそうなってしまっていた。そんなところに人が住み、周囲の海を汚してしまっていた。ここまで来ると『霊脈にも少なからず影響があるかも?』、そう思った。だから恐ろしくなって上陸を諦めたのだ。そんな風に私に『待った』を掛けた原因、それがチャシ跡(チャシコツ)と関係あるような気がしてならない。
決してここが『出口だから』という単純な理由から来る『部族を越えて死者の御霊を送る場』ではなかった筈だ。つまり『大祓』のような儀式を捧げる場ではなかった。止め石の色丹島とも関係があるのではないかというのが私の考えだ。それを明日確かめよう。スタミナライスとともに。
『な!? 通い婚じゃと?』
「そうなる可能性が高いかなって、仮の話しだよゾウケンくん」
儂が驚いたのは眠る前のエルマの話の内容が、エルマと慎二の話しでなく、『エル』とあちらの慎二の話じゃったからよ。しかも通うのは『エル』の方なのじゃ。エルマが言うには、これの意味するところは、別に『エル』が愛人を囲っておるとか、やましいところがあるからではない。あやつは常に『命を狙わておる』からなのじゃ。
つまり慎二を守っておったのじゃ。じゃから何度も慎二からの求愛を断っておったらしい。面白いものよな? 相手は幼き日よりアインツベルン百家を率いる総裁ぞ。天才という言葉も生易しい。しかして欧州で事業を展開しながらも、冬木で学園に通う幼馴染でもあった訳じゃ。
これまでも見聞きしておったが、如何程の術を持つ人形師なのであろうなぁ。ならば慎二を守ると言ったその言葉に二言はあるまい。鶴野も慎一もそれを確信したから、眷属に入ったのじゃろう。そうなんじゃ。あちらの間桐はアインツベルンの眷属なんじゃ。儂らの知る凛がルヴィアの家の眷属に入ったのと同じようにな。
なお、『眷属』という言葉は意味があるようで、実はその実態は不明じゃ。ここは凛とルヴィアから聞いたんじゃが、ある意味で儂のような古い魔術師の目を晦(くら)ますための『ハッタリ』『デタラメ』でもあったからじゃ。じゃが凛とルヴィアの場合なら、まずルヴィアは一族全員を黙らせた上で凛に援助ができよう。
つまりは大義名分じゃ。それを得るための方便でもあったのじゃ。また、この眷属契約を凛とルヴィアに薦めたのはエルヴァじゃった。要はエルヴァは、あちらの間桐が『エル』が率いるアインツベルンとの眷属契約を交わす効果の高さを熟知しておったから薦めたのじゃな。して、『エル』は見事にアインツベルン百家を黙らせたんじゃ。
これでこの話の肝所がわかったであろう? 眷属契約とはつまり『それを交わす者達同士で決まるもの』なのじゃ。破った場合の罰則も、交わした者同士が決めるもので、他者がどうこうは言えぬものなのじゃ。つまり古株の魔術師ほど『眷属契約』という言葉の重みに竦み上がって、その本質を見誤る……要は騙しの方法なんじゃな。
そこの儂は慎一に殺されとるそうじゃが、話を聞けば『仕方あるまい』と納得できるものじゃったし、何より『何としても間桐を拾おう』と考えてくれた『エル』には感謝しかないの。さすれば、慎(マコト)を気に掛けとる理由も良く分かる。では、あの慎二はどうじゃろう。もはや一人前じゃが、エルマとの事もある故、目を掛けてくれよると嬉しいのじゃが。
深夜。パチッと目が醒めちゃった。自己分析するに、きっと自分で自覚する以上に今日のバーベキューが楽しかったからだ。つまり興奮状態がまだ引けていないのだ。ベッドのヘッドボードに置いてある目覚まし時計を見てみると、時刻は予想通り2時ジャストだった。
日本人がよく言う『草木も眠る丑三つ時』な訳だけど、この意味を裏返すと『眠り』を必要とする通常の生命体は、この時間帯に睡眠と休息が必要不可欠だという事だ。そしてその休息時間の深度は、地球と太陽の相対位置と密接な関係があり、私達もその関係性から来る『法則』に従って生きているという事だ。
この睡眠と休息というルーチンを、ホムンクルスという人造生命体に最初に埋め込んだのは誰だろう? 一つ一つの細胞に『休止(ストップ)と待機(アイドリング)』という似ているようで全く違う命令を与えられる『頭脳』……その始まりが『フラスコの中の小人』からだったというのなら、アインツベルンは文献に『小人』の事が書かれるようになる前から、この理論を完成していた事になる。
私は扉を閉めて、部屋を出た。階下に降りて少し水を飲みたいと思ったからだ。夜中に起きてこうして出る時に、自室のドアがカチャリと音を立てるのを確認しながら閉めるのは既にクセになっている。これはゾウケンくんやルビーが眠ると空中を漂うからだ。その時にドアが開いていたり、窓が開いていたら大変なのだ。
おチビちゃんは『不用心だから夜は窓を閉めなさい』と躾けられている。階段を降りながら思う。
(カレイドステッキが女の子限定アイテムなのは、ステッキ個人の嗜好性? いやいや。契約者が女の子の方が、用心深くて不用意な事をしないからでしょう?)
ゾウケンくんは従来のカレイドステッキと違ってゼルリッチ様の設計とは大きく異なっている。主体性はどこまでもゾウケンくんにあるから、実は『自動◯◯モード』というのが苦手なのだ。だから私はルビーをメインで握り、ゾウケンくんをサブと言っちゃ失礼か。ブレーンとして携行している。
普段は私の後ろ髪に隠れているから、お姉様からは『チカ』や『チャッピー』とアダ名を付けられていた。またルビーを混じえた私達三人を『W3』と仰ったりもしていた(※)。『エル様』はゾウケンくんを先日『グババ』と仰っていた。だけど私は楽器音痴でベースなんて弾けないぞ?
※)『チカ』……光速エスパーに出てくる、主人公の肩に乗る鳥型のロボットだそうだ。光速でしょう? 吹っ飛ぶよ?
『チャッピー』……宇宙少年ソランに出てくるリスに似た生物。ソランとはテレパシーで意思疎通を図るらしい。ちなみに私は説明されるまで、キャラどころか作品そのものを知らなかった。だけどゾウケンくんは『鶴野が夢中で観ておったのぅ』と呟いた。ステッキに改造したばかりの頃の話だ。そこからゾウケンくんはどんどんと頭が冴えて来たのだ。その事に感謝はするけれど、お姉様、チョイスが古過ぎないか?
なお『エル様』の『グババ』発言は私にもわかった。歌が良いからといって、トロンメルが『マクロス7』のCDを何枚か持っているからだ。トロンメルがCDを持っている事を知ったお姉様は、その日の夕方、マルガリータさんを手伝いながら『ジタンの香り』がどうとかっていう歌を口ずさんでいた。誰か、これわかる人いない?
この夜中に目が醒めて、『少しお水を』となった場合、あなたは何を選ぶ? お茶とかミネラルウォーターという人も居ると思うが、概ねは水道派が多いんじゃないかな? 違う? ちなみに『エル』様は水道派だ。だって蛇口から出る水をそのまま飲める国って世界的に見てもかなり珍しいからだそう。とってもリッチな気分が味わえるんだって。
だけどお姉様は意外にもお茶派だった。これはご存知のように高3に編入されてから始まった事で、ペットボトルの『さんぴん茶(沖縄のジャスミン茶)』を愛飲されていた。その影響で私やマルガリータさんの意見もあって、今もエーデルフェルトの家には『さんぴん茶』の2リットル・ペットボトルが冷蔵庫で冷やされている。
だけど、ここの凛さんは自家製のレモン水やピーチ水を冷蔵庫に常備する人だった。それも高3になってからだ。昨年はそういうのが無かった。時期が時期だから作っていなかっただけかもと思っていたら、春休みから作り始めたと教えてくれたのだ。
『エル様』も────、
『一張羅のようなソーサー……セーブル焼きとかですね。ああいうのでお茶を楽しむ姿より、こういう自家製レモン水を常備している姿勢の方が『優雅』に感じますね?』
と、仰っていた。私もそうだと思うし、こちらの凛さんもルヴィアさんも少し眉をしかめただけで、姿勢に関しては認めていた。そんな凛さん手作りのレモン水をコップに注いで頂いた。美味しい。美味しいしさっぱりする。ところで私はこういう夜中の小用は電気を点けない事が多い。点けてもコップを洗う最後の段だけだ。
なのでキッチンはともかく、横のダイニングも暗いのだが、そこにエルサさんが座っている事に驚いた。
「エルサさん……?」
シンと静まり返った中での声は、自分が発したとは思えないほど耳に響いた。
「ああ、エルマさん。真っ暗なのに」
あ。驚かせてしまったかな。
「お水を頂きに。要ります?」
「はい、頂きます」
コップにレモン水を注いでエルサさんに差し上げた。美味しそうに喉を鳴らし、彼女は『フ~』と息を吐いた。
物語的にはこの章で第四部を終え、次の第五部で全体を終える予定です。