20、とある日 In Huntington Beach 01
結局、私が自動車の運転免許を取得できたのは11月に入ってからだった。中間試験後に学園祭を迎え、その後にあの並行世界だ。そこから戻って、新人戦に臨む1年生を指導しつつ、漸く試験場に通う時間が取れた。2年前のお姉様と同じだ。筆記は一発、構内実技も一発。ネックは路上時間だったのだ。
私は級友から見るとかなりアグレッシヴらしいけれど、お姉様ほどではない。生活圏内での移動は自転車(2年前に良いのを買った)で十分だったので、当初望んでいたようなスクーターの免許は結局取らなかった。これはおっとりした性格を持つ、親友の桜の影響もあったと思う。なぜなら高等部のこの3年間、私と桜はずっと同じクラスだったからだ。とは言え、卒業後の進路を考えれば自動車免許は必須だった。その理由は私と桜が狙っている大学が、同じ県内でもほぼ反対に位置する街にあったからだ。
そこは冬木より都会だけど、何故か冬木から直接行ける電車もバスも無かった。一旦隣の県の都市に出て、そこで乗り換えないといけないのだ。だけど私も桜も第一志望はその大学だった。私達が狙っているのは4年制の女子大(そこの英文科と国文学科)だけど、そこは短大もあるし、魔法使いの凜さんが生徒を騙っていた制服の可愛い附属高校や附属の中学、果ては小学校から幼稚園まで擁する県下随一の名門校だった。
この少子化で、経営上男女共学を余儀なくされる私立大学や私立高校が多い中、そこは幼稚園以外大学までずっと女の園を守っていた。それでも経営が問題ないブランド力と、卒業生に教師が多いという確かな実績、キャンパスは山手だけど、最寄り駅はオシャレな港街の繁華街にあるというのも、受験する女子には魅力なのだった。そしてこの大学は、自動車やバイクでの通学を許可していた。これが大きいのだ。
だけどここで考慮すべき問題がある。それが桜の誕生日だった。彼女が私と同じ18歳になるのは、年も明け合格発表も終わった頃だ。そこから免許取得となると、短い春休みは少々厳しい。なので春から夏まで、私が運転主として大学まで送迎する他なかった。それが理由の1。その2はお母様(アイリスフィールさん)、姉さん(英霊のイリヤスフィール)、倫敦とハンティントン・ビーチのお姉様方の結託で、私とトロンメルへと既にクルマが用意されていた(!)。以上の理由から、猶予は十分あるのに内心で少々焦っていたのだ。
まず、お母様も姉さんもお姉様方もクルマ大好き人間だ。しかも複数台所有する走り屋気質でもあった。お母様は相変わらずロードスターとエスニー(S2000)だし、姉さんも白いロードスター(ワンメイクレース用の1.6)をお持ちだ。時計塔に行かれた姉さんも、初期型の青いロードスターにお乗りだと聞いている(MR-Sや他の車両は私が宝具で保管しています)。それだけあのクルマが好きなのだろう。ただ、カリフォルニアのお姉様だけが、信じられないがトラックにお乗りだった。本当に信じられないが、お尋ねすれば生活必需品なのだという。アメリカは不思議なところだ。
それはさて置き、この影で動いていたであろう理由2に私(だけでなくアサシン達も)が気付かなかったのは、私が浮かれていたからだと言い訳をしておく。だって高3の春に中等部の新1年生として、イリヤちゃんとクロエちゃんに美遊ちゃんが弓道部に入ってくれたのだから。しかも今の弓道部にお姉様も衛宮先輩も居ないのだ。
『え? あの可愛い双子の中等部生ってアインツベルン先輩の妹さん!?』
『そうそう。高等部受験組のあなたは知らなかったようだけど、あの子達初等部時代から有名なのよ』
そんな1年生や2年生のお喋りを嗜める桜やアルトリアの声を耳にしても、私の春はフワフワだった。かと言って地に足が着いていないのでなく(成績も調子も良かった)、単に気分が高揚していたのだ。だけどお姉様方の考えだけは見抜けなかった。
ちなみに補足として。アルトリアは海外大学の受験準備と称して、春休みや夏休みに『エル様』の下へ帰っていた(要は相談と報告)。その結果、学園卒業後もこちらで暮らす事に決まっていた。なので卒業後の進路はこれと決めておらず、見聞を広めるためにカリフォルニアとチューリッヒでそれぞれ1年ほど厄介になるそうだ。この案に私も賛成だし、特に強く推していたのがお姉様に着いて倫敦に行ったセイバーさんと、チューリッヒのエルさんだった。
それはともかく話をもとに戻すと、このふわふわした感覚は期待や希望から来ている。クロエちゃんの手前、どっしり構えた風を装っていたけど、お姉様が倫敦へ行ってしまい、凛さんもルヴィアさんもプラハに行っちゃえば……。マルガリータさんにトロンメル、そしてイリヤ姉さんの4人だけだと、この広い館が途端に寂しい場になってしまった。勿論、裏庭に行けばランサーもランスロットさんも居るし、美遊ちゃんのお兄さんの士郎さんもプラハだからと、アーチャーさんはこちらに残っている。
2年の春はお姉様ロストで落ち込み、2年の終わりは凛さんもルヴィアさんも居なくなるんだと、ロスト前に落ち込んでいた。年下の子にはバレなかったけど、私の微妙な変化に気付いた桜が、よく泊まりに来てくれていたのもその頃だ。だけど3年の春からは、士郎さんに頼まれ美遊ちゃんを預かり、それに釣られて自分の部屋が欲しいクロエちゃんが、家族を説得してこっちに入り、それなら私もとイリヤちゃんまでがこっちに入った。以前のように賑(にぎ)やかで楽しい館になったのだ。それもあっての弓道部だったから、春先にふわふわしていたのだ。
だから『免許を取って、トロンメルちゃんと2人で乗りなさい』とキーをお母様から渡され驚いた。忘れもしない2006年6月、梅雨の頃の話だ。庭先に止まっていたクルマは、ホンダのフィット1.5S。色はプレミアムイエロー・パール。カタログでは2005年の12月発売モデルで、マニュアルの5速だった。
『大学通学用って合格前提?』
『どうしてマニュアル? CVTの方が運転が楽だし燃費が良くない?』
『ロードスターもあるんだよ(貸したくないって事)? 新車なら軽自動車で良かったのになぁ』
などなど色んな疑問が脳裏に浮かんだ。館のクルマはオーギュストさん達がフィンランドに送っちゃったので、ガレージはガランと空いていた。なのでお父さん(切嗣さん)も、近所のガレージ契約を解除して今はこっちにクルマを置いている(月1.2万)。現在この館の管理責任者には、エーデルフェルトよりマルガリータさんが正式に任命されていた。だからガレージ代は彼女が徴収している。そして早くから日本から出ない、日本で英語教師を目指すと宣言していた私が副管理責任者だった。これを受けたのは館を綺麗に維持し管理するなら、家賃も水道光熱費も税金も無料という、有り難い申し出がエーデルフェルトからあったからだった。
ところでトロンメルは、本気で音楽家になるつもりらしい。なので彼女も早くから進学をカリフォルニア大学アーバイン校(ハンティントン・ビーチから近い)か、ボストンのバークリー音楽大学に定めていると公言していた。ボストンなんてどうするのって思っていたら、どうもあちらのお姉様には伝手があるらしい。
感情をあまり表に出さない子だけど、内面は熱いモノがあり、他者への共感性も高ければ、感受性も高い。こういうのを私は、1年生の頃だと気付かなかったけれど、3年生ともなった今は、トロンメルは芸術家向きなんだなってよくわかる。ハンティントン・ビーチのお姉様とは、ずっとPCでやり取りしていて、共同で曲を書いたりもしているようだ。今も軽音楽部の部員でバンドも掛け持ちしている。ギターもキーボードもこなすマルチ・プレイヤーは、高2からDTM(デスクトップミュージック)にも手を出し(間違いなく顧問の先生の影響だと思う)、そちらでも曲を作っていた。
そんな音楽少女な同い年の妹は、機材を運ぶ必要があるからと私を差し置いてスクーターに跨り、自動車免許も夏休み中に取得していた。要領の良さの差なのか、選んだ部活から来る確保できる時間の差なのか、そこは負けた気になるので正しく判じてはいないのだけど。
「エルマ、フィット借りるよ~」
ムカつく~~~! 私はまだ無免許だ。なのにアイツは……。
「良いけど! 楽器のケース、ブツケないでよね!」
「はい、はい」
『はい』は1回でいい。練習スタジオまで機材を運ぶだけなら軽トラにでも乗ってろ。別に私もイジワルを言っているのではない。皆さんの好意で戴いた、大切にしなければならないクルマを、あろう事かトロンメルは既に何箇所もヘコましていたのだ。安全運転で事故もしないし、電信柱にブツケたりもしないのだけど、機材をとにかくあちこちにアテている。それもあの子でなく、バンドのメンバーが。知った顔の子ばかりだし、同じクラスの子も居るので強く言えないのが痛い。私もトロンメルも『アテないで』『注意してねと』とは言っているが、『女の子の細腕』『不可抗力』だけは如何ともし難いのだった。
「仕方ないじゃない。わざとじゃないんだし。そうプリプリしなさんな」
イリヤ姉さんだ。本日は日曜日。現在時刻は午前10時。先週はマルガリータさんと2人で台湾旅行に行っていて、昨日帰ってきたところだった。遅い朝食を摂った後、私と姉さんは食堂で先日行った、並行世界の事を話していたのだ。なお、マルガリータさんは本日料理当番の妹達の監督だった。中1でも秋ともなれば、朝食ぐらいあっという間に作っちゃう。おっかなびっくりだった初等部時代が懐かしい。
「でも、ああいう使い方なら軽の箱バンで良かったんじゃ……?」
「あなたと同じ年頃の女の子だよ? 箱バンはないんじゃないの? 何より誰が乗ったって、クルマなんて多かれ少なかれキズは付きものなんだしさ」
いえいえ、誰しもがあなたみたいにポンポンとクルマを買えないんですってば。この人はロードスターならNBとNCを持っていて、どちらもワンメイクレース用の真っ白なNR-Aだ。確かに細かいキズはある。だけどあれは走り込んでいる人の証という感じで、生活感のあるキズとはまた違うんだよね。また、お買い物用と称してデミオを買ったは良いけど、1年も経たずに売り飛ばして(強引にセラさんに売ったらしい)、出たばかりのスイフトスポーツを買っていた。これはどうもお母様も一枚噛んでいるという。この顛末にイリヤちゃんが『あれは酷い……』と嘆いていたとか。
「そうだよ。トロンメルのお姉ちゃんも、バンドの人も悪気はないんだしさ」
洗い物が片付いたクロエちゃんがやって来た。
「こっちに入るのは良いけど、イリヤちゃん達は?」
「マルガリータさんから洗い物のコツを教わってる」
「クロエちゃんは聞かなくていいの?」
「私は前に聞いたから」
春までは初等部時代と変わらないなんて思っていたけど(5年生頃を考えると6年生でグッと大きくなった)、秋になると私と身長がほとんど変わらなくなった。ブカブカだった中等部の制服が段々とサマになっている。それはとても嬉しい事なのだけど、私やトロンメルまでが数センチ背が伸びて、以前より胸が大きくなったのは意外だった。自分の身体なのに『エル様』の設計は凄いなぁなんて素直に思ったよ。今の私達は、あの頃のお姉様より背が高い。だけど、高3で制服を買い換える羽目になるとは……。そのままなのは体操服とスカートくらいなもので、ベストもブレザーも新調したから痛い出費だった。
「ふ~ん。で、話を戻すけど、そもそもさ。私は中古のステーション・ワゴンかライトバンで十分だったのよ」
「レガシィみたいな?」
意図を察したイリヤ姉さんが即座に返した。
「はい、そうです。でも……レガシィは良いクルマだけど、燃費が……」
「確かに、4WDだからね。最廉価モデルでも12km前後かな」
「でしょう? だから悩んで……」
ここでイマイチわかっていないクロエちゃんが異議を唱えた。
「どうして? 何でワゴン? お姉ちゃんと桜しか乗らないのに?」
この子はお姉様の教育なのか意外とクルマに詳しい。バンとミニバンを混同している訳でもない。単純に女の子の私が、どうして後ろが長いステーション・ワゴンを選ぶのかと考えたようだ。
「1年坊主のクロエさん。私と桜は部活だとどういう立場ですか?」
笑顔で言ったから別に脅しでも何でもない。これは穂群原を卒業しても弓は置かないという意味である。
「あ。失礼しました、先輩……。弓を乗せるため?」
「そう、そこの大学は弓道部もあるの。だから選んだんだよ」
七尺越えの弓を楽々載せられるクルマ。それも斜めでなく真っ直ぐ寝かせて載せられるクルマ。それはワゴンかバンしかあり得ないのだった(バンは貨物専用、毎年車検の業務用4ナンバー。ワゴンは人も考慮した2年車検5ナンバー)。別に最大積載量に拘りは無いし、顧客巡りをしたい訳でもない。だけど一時は本気でプロボックスを考えて、メジャーを持ってディーラーまで見に行ったくらいだ。女子高生が制服のままでやって来たものだから、あちらも驚いていたけれど、理由を話し最適なクルマを探していると話したら、営業さんが親身に聞いてくれた。
『確かに……弓を運びたいとなると、ワゴンかバンですね』
『ですよね? そこで御社のプロボックスが一番自分好みにアレンジしやすく、なおかつ通学に便利な装備が多いなぁって……』
『ありがとうございます。ですが正直、お薦めして良いものかどうか迷いますよ』
そんな風に小一時間話をして、カタログを貰って帰ったのだ。この時までの私は、お買い物用のセカンドカーはスバルR1のような小さな軽で良いかなと考えていた。だけど親切な営業さんが、『ダイハツのハイゼット・カーゴにロッドホルダーというオプションを付けると、室内の天井へ弓が通せるかも知れない』と、わざわざ電話を下さったのだ。これは朗報だった。乗り心地はイマイチかも知れないけれど(プロボックスも似たようなものだろうけど)、それもクッションでどうにかなる。それに初心者が乗るなら、こういうのから始めても良い。何よりお買い物も通学も1台で済む。外装が女の子らしくないけれど、返ってその方がイタズラ防止になるような気もした。だから半ばそうしようと決めていたのだ(だからトロンメルに箱バンでも乗っていろって言ったのはイヤミじゃない。私も『エル様』謹製なので、働く車は嫌いじゃないのだ)。
なのに、やって来たのはいきなりの黄色いフィットだった。これの意味するところはこうだ。
『弓具はあなたの宝具に仕舞えば良いでしょう? 横が桜ちゃんなら問題ないんだし。女の子なんだから可愛いのに乗りなさい』
わかりますよ、それ。だけど、私は桜の前で魔術を使いたくないんです。桜とはそういうの抜きでの友人で親友だから。毎回毎回、並行世界の桜の事で私がどれだけ悩んでいるか……。でもこれはお姉様も同じで。あの教会の地下には遠峰薫先輩が被害者としていつも居る……。今回は墓場のオーブだった。
そんな複雑な事情に背景があっても、タダで戴いている手前、文句は絶対に言えない。また私は、ヴィッツやマーチよりフィットの方が好みだった(お姉様と『エル様』の影響でホンダに悪い印象がない)。センタータンクも貢献しているけど、フィットはとにかく床面の剛性が高い。だからビジョンがあるなら足回りも決めやすく、1.5リットルながら十分にレーシーな走りが楽しめるクルマだと思っていた。だけど、それなら最初からシビックを買わないか? そう考えるのが私だった。現にハンティントン・ビーチのお姉様はインテグラもお持ちだ。走りを求めるなら断然あちらだろう。
だけどだけどだけど! 何が車格以上に中が広く人も荷物も積めるだ! 弓、載らないじゃん!? ああ……ハイゼット・カーゴだったらトロンメルがキズつけても、ここまで気にならなかったのに……。
(この2006年9月にインテグラの国内生産が終了。アメリカでも夏に終わっていて、お姉様は昨年の夏にアキュラ・ブランドの方を手に入れられていた。これとは別に古いアコードもお持ちだというから、ピックアップ・トラックだけの人では無かったのだ。なお、私はひょんな事から、翌2007年にこのDC5型インテグラを手に入れた。タイプRでなく5速のiSだ。この涙目な前期モデルは何を隠そう、冬木の小さな販売店で売れ残っていたものだった。それをこの日の話が頭にあったイリヤ姉さんが偶然に見つけて手付だけ払って確保してくれていたのだ。だから無事免許の取れた3年の冬、私の所有するクルマはエターナルブルーパールのインテグラと、ダークブルーマイカメタリックのプロボックス(バンのF。何だかんだ言いながら4WDにした。エンジンは1.5Lのガソリン(1NZ-FE)で、ヴィッツのRSと同じ)になっていた。なのでフィットはトロンメル専用になり、後に一旦凍結し解除後にイリヤちゃんやクロエちゃんが乗るようになった)
「妹って自分の意思を通すのが難しいね……」
「わかる、それ!」
いつの間にか、イリヤちゃんまで。それに頷く美遊ちゃん。でも、美遊ちゃん。私の話しているのは『女姉妹(おんなきょうだい)』の事だから。あなたのお兄ちゃんは、世間を思えばかなりさっぱりしているぞ?
私の周りの女の子も女の人も、皆んな優しく、物わかりの良い人ばかりだ。だけど、時折その優しさが仇となるんだよね。贅沢な悩みだとは思うけど。さて、妹達の勉強をみてあげようか。
『ルビーや。何でこやつはここに居るんじゃ?』
『エルマちゃん、返しそびれたんですかねぇ?』
ルビーがアサシンと盗みに入って、そのまま有耶無耶になっとったからのぅ……。
『私が居たらマズいですか?』
『今更仕様があるまい。ま、これからは仲間じゃ』
『ですね~』
そんな訳で先週からルビーが増えたんじゃ。凛とルヴィアがそれぞれのルビーとサファイアを持って、プラハに行ってしもうたので仲間が減ったのを馴染み(エルマ)のルビーは寂しがっとった。まぁ、この春からイリヤも美遊もここで暮らしてくれるようになったんで、元に戻ったとも言えるんじゃが、何分あの2本は子供がマスターなだけにどうにも幼い。不思議じゃが。しかし新しいルビーはエルマのルビーと同期したからか、話が合うようじゃ。儂もそこまで気を使わんで済むのは楽じゃった。なのでエルマも返すのを諦め、一緒に暮らそうと言ってくれおったんじゃよ。
ところでクロエとイリヤが昇級してからこちらで暮らすようになったのは、凛やルヴィアが居らんようになって寂しがるエルマを気遣ってくれたのもあるんじゃが、アイリスフィールがこの夏に赤子を産んだからでもあるんじゃ。成長期の子供が夜泣きに起こされるのも堪らんが、さりとて赤子に文句は言えんしな。また赤子の世話で、母親であるアイリスフィールも勿論じゃが、セラやリーゼリットが忙しくなるのも目に見えておった。よって士郎が署に近い寮に入りおるのをこれ幸いに、1人一部屋持てるこちらはどうかと、アイリスフィールが身重の頃からルヴィアに相談し、許可を貰っておったのが真相なんじゃ。お陰さんでエルマが落ち込んどったのは一時だけで、すぐに元気を取り戻した。また、新たな妹となった赤子との距離感も、今くらいが丁度良いようじゃ。
『学生の間は学問と運動が第一じゃ。赤子が可愛いのは当然じゃが、上の娘達へ勉学に集中できる環境を与えるのも親の役目ぞ。味噌汁の冷めん距離なんじゃし、独立心を促す良い機会と捉えられんかの?』
そんな風に儂も口添えしたんじゃよ。またそれは正解じゃった。クロエもイリヤも優しい子じゃ。ここで暮らすもう一つの理由は、生きた英語が学べるからでもあったんじゃ。つまりは妹であるエルヴァや友人となったユリアーナ、加州でエルヴァの庇護を受けとるパミと、通訳(ルビー達)を介さんで話したいという心から来ておったんじゃ。また、英語を足掛かりにドイツ語を学びたいという希望もあった。それは特にクロエだったんじゃが、三つ子の長女と言うのもあるが、あの向上心は立派なもんじゃな。
ルヴィアも凛も出て行きおったが、エルマとトロンメルにマルガリータや、儂にルビーもマルチリンガルなんじゃよ。英語もドイツ語もお手の物じゃ(儂はロシア語も、ウズベク語やカラカルパク語、失われたタルタリア語も話せる)。そこで日曜は英語の日と決めて、皆んな英語で話すようにしたんじゃ。すると面白いようにイリヤとクロエのヒアリング力が上がりおった。普通の家庭ではまるまる英語の日なんて設けられん。ま、向かいの家でも出来ん事はないが、それより今は赤子じゃろうしな。やはりそれぞれの成長に合った環境作りは大切なんじゃよ。
さて。トロンメルが出て行き、エルマ達が部屋に籠れば儂らも廊下に出る他はない。そんな行く宛もない儂らを呼んで誘ってくれたのがイリヤのルビーと、美遊のサファイアじゃった。ここで少し説明しようかの。この一角が客間なのは知っとると思うんじゃが子供達3人の部屋は横並びでな、クロエの部屋が元エルヴァの部屋、イリヤの部屋が元エルマの部屋、美遊の部屋がその横の空き部屋じゃ。なお、元凛の部屋は美遊の部屋の隣になる。空きを一つ挟むところに凛の性格が出ておるな?
それはともかく、美遊がここでメイドをしておった頃の部屋は、もっと離れたルヴィアの使っておった部屋に近い。では、エルマはと言えば、あ奴はトロンメルの部屋の隣に越しおった。マルガリータの部屋の並びじゃから、要は子供達の部屋と廊下を挟んだ反対になる。この理由が面白くてな。実は元エルヴァの部屋から並んだ3部屋は、窓から向かいのアインツベルン邸が樹々の隙間から見えるんじゃ。勿論、向こうからは結界もあって見えづらい。しかしエルヴァの部屋からは屋根と張り出したベランダ、即ち元イリヤとクロエの部屋が見えたんじゃ。つまり、姉として妹達を見守っておったんじゃな。そして逆に凛は気を遣っておったんじゃ。
この事実をクロエ達に話したのはエルマのルビーじゃった。エルヴァが居らんようになって荒れ掛かったクロエを、エルマやトロンメルが一所懸命宥めておったからな。これは見棄てておけんと教えたんじゃろう。それからクロエは大人しゅうなった。元々活発であっても利発な子じゃ。自身をコントロールできれば大人顔負けの子じゃからなぁ。まぁ、そんな訳で儂らはイリヤのルビーの誘いで、イリヤの部屋、つまり元エルマの部屋で話しておったのじゃ。
ふよふよと漂うルビーが3本にサファイアと儂。話すテーマはここと、この近隣の世界で起きていた、あの『エルヴァ』の『世界システム乗っ取り事件』じゃった。
『私が思うに、2012年以降から緩やかに始まるはずだったと思うんですよねぇ~』
『それはどういう理由からでしょう?』
『インターネットですよ。インターネットが人類が本来持つ、『外部と繋がり真実を知りたい』という、欲求や好奇心を刺激拡大し、果てはインスピレーションに代表される霊的直感を高めるからです』
『あなた、本当に私? 何を言って……?』
呆れとるのはイリヤのルビーで、答えとるのがエルマのルビーじゃ。もう1本の新しいルビーも並列化しとるから、エルマのルビーに賛同しとる。すべては宇宙からやって来る大いなるメッセージ、その情報をシャットアウトするための偽装じゃった。一部特権階級に拠る人類奴隷化など表層の問題でしかないんじゃ。
『いえ、ですから。その霊的直感を高められると困るから隠されていたんです。私達はその直感を損なうマインドコントロールを解く役もあるんですよ? だからあなたのマスターのイリヤさんも直感が冴えていて、クロエさんに持っていかれた魔力を補うアイデアが出る訳で』
うむ。元々『自然の触覚』である故に、その霊的直感は常人の数倍から数十倍はあるじゃろう。しかし、友人達と同じ様にアニメやマンガにウツツを抜かしておれば、その能力も錆びておったろう。そこをエルヴァが、そうではないと目覚めさせたんじゃ。じゃから真に正しいものは何なのかを、小学生時代から掴んでおった。これは美遊も同じじゃ。
『イリヤのルビーに美遊のサファイアよ。子供達をケアし、足が竦まんとするあの者達の背中を押し、正しき道へと促さん立場にあるお主らが型に嵌まってどうするんじゃ? イリヤの直感から来る正しさを知っとるから、クロエもエルヴァも従うんじゃぞ? 何より英才教育を受け一番わかっとるエルヴァがイリヤを立てる意味を考えよ』
『どういう……?』
『うむ、心して聞け。誰が悪だ誰が善だではないんじゃ。この世界だけでなく数多ある並行世界の全宇宙、そこに於ける知的生命体共通の意思が、生きとし生けるものにある種の言霊の如く、願えば叶う状態を作り上げるのじゃ。つまり人々が正しければ正しい世界になり、欲に走れば悪徳が蔓延る世界となるんじゃな。よって正しきものを見詰めて生きる生命体を大昔のアインツベルンは願った。時を隔てたその結晶がユスティーツァであり、アイリスフィールであり、イリヤなんじゃよ。お主も並行世界で見ておらんかったか? 世界によって善なる者が悪しき者になっておったり、またその逆の立場になっておったりと。そういう具合にな、本人の望まぬ役を宇宙の総体意思が与えたりするものなのじゃ』
儂の経験則から言うと、どうも体温の低い者ほど、その意思に踊らされるようじゃ。蟲だった儂もそうじゃし、人であるのに爬虫類のような冷血動物ではないかと目される一連の者どももそうじゃ。侵略宇宙人である、侵略異界人である、進化した恐竜とヒトとの交配種である……その解釈は様々あろうが、もっと大きな枠で考えねば本質は見えん。あれらは押し並べて悪であらねばならん存在なのじゃ。なぜならそう総体意思に望まれたからなんじゃよ。もっと言えば、ヒトに限らず他の善良な知的生命体の精神的進化のための捨て石なんじゃな。そういう役を大いなる意思から振られておるのにも気付かず、ロボットのように悪事を働いておるのよ。哀れなものじゃ……。
『ゾウケン君はどこでそういう知識を?』
新しく来たルビーにも、イリヤのルビーに美遊のサファイアにも話しておらんかったな。話したのはエルマとルビーにだけじゃった。
『魔術師じゃからというのもあるんじゃが、300年も前の話じゃ。儂は今で言うウズベキスタンの辺りに住んでおってな。その頃は白ロシアより東からアラスカ辺りまで、様々な大きさの巨人とヒトが混在する巨大な国があったんじゃ。それをタルタリアと言ってな。そこからの知識は周辺の地方にまで伝わっておったんじゃよ』
これが言えたら良いんじゃが、今はまだ早かろう。
工房の灯りを消して、通りに面したショップ側に行くとエルヴァが店仕舞いをしていた。夜間ずっとスモールライトで照らされる、ウィンドウの最新作は先月出来上がったばかりのダブルネック・ギターだ。
このショップを開いて1年半が過ぎた。そう儲かるビジネスじゃないけど、常連も付いて何とか食っていける売上はある。
「エルヴァ、戸締まりは済んだ?」
「はい。家に戻りましょうか」
「ああ」
家はショップの真裏で、工房の横手にある。エルヴァと僕が夢見ていた、玄関横にサンルームのある素敵な家だ。そしてそこには、もうすっかり大きくなったパミが待ってくれている。パミは愛しい人のお腹を気遣いながら、エルヴァをダイニングの椅子に迎えてくれた。食事の用意もとっくに整っている。僕達はすっかり3人の生活に慣れきっていた。
エルヴァの魔術師としての目下の目標は、あの空間のエルヴァに自由を与える事と、彼女の存在をより強固にして自由な生活を与える事だった。かれこれ2年越しの研究課題だ。だけどその存在は、想像以上にあやふやなものだったらしく、一存在として現実世界に固定化するのは困難を極めていた。僕はもう覚悟を決めていた。一応僕には見分けがつくけど、2人は同一人物なんだ。これを法で禁じられた多重婚とは言えないだろう。だって臨月の近い奥さんに代わって、このところの僕は彼女のお世話になりっぱなしだったんだから。
とは言え、こういうのはお年頃のパミには話せないし、庭を挟んで母屋で暮らすモニカにミアータ、リンやシロウにも話せない事だった。だから内心で僕は、今のままで良いのではないかと考えていたりする。また、あの空間のエルヴァも、それで良いと話しているんだ。だけどエルヴァが諦めない。意地になっているのかと思ったけれど、あっちのエルヴァがそうではないと教えてくれた。
それはホムンクルス鋳造に於ける根幹の問題と直結し、この世界を構成する魂という要素の根源的な問題(役割り)に直面する事でもあったからなんだ。だから、もしかしたら生涯に渡る研究になるかも知れないとの事だった。
『そんな難しい事を?』
『ええ。私もお手伝いしていますが、自分の事だという問題は別にして、まぁよくもこんな難問を見付けるものです。これはアインツベルン千年の成果を覆すかも知れない課題です。それだけの価値がある研究なんですよ』
人造の肉体(容れ物/器)を用意し、そこにエルヴァから分かたれた彼女の人格をコピーして入れるくらいなら意外と簡単にできるんだそうだ。だけどその方法は彼女が断っていた。自分というパミの中の仮想世界にのみ存在している、霊体とも言えない形骸のみのエーテル体を、まるまる現実世界に持って来る……。そんなのは『宝具』の領域で、実現はほぼ不可能に近いらしい。
『それならどうして人造の肉体の使う方法を断ったの?』
『人付き合い(人間関係)がややこしくなるからですよ。彼女も今のままが良いって本当は理解しているんです。でも、きっかけは私だったにせよ、これは研究者として挑む価値のある課題でもあったんですね』
そういう事だった。それを聞いて以来、僕の肩から力がスッと抜けた。いや、僕はアメリカの古いドラマ『Bewitched』に出てくる旦那さん、『Darrin Stephens』の気持ちが良くわかった。そう思った理由は、時々エルヴァが入れ替わっている事に気付いたからなんだ。エルヴァにしても彼女に申し訳ない気持ちがあるんだと思う。だからそこは理解するよ。だけど僕とセックスしたいからという魂胆も透けて見えるんだよね。
『ヤキモチじゃありませんが、フンボルトだけ楽しむのはズルくないですか? お腹の子をいたわりつつ愛し合いたいと思うからこそなんです。たまに彼女と入れ替わるのを許して下さい』
そんな風に言われたらどうしようもない。こんな風に彼女達は一事が万事、仲が良く正直で、歪みなく貪欲だった。そんな彼女達と一緒に居ると、通常じゃ味わえない気苦労もある。だけどそれはエルヴァと歩む人生の中では避けて通れない事なんだ。そしてそれは不快じゃなかった。物事を正しく見て相手にも自分にもオープンで嘘を吐かないだけなんだ。今回のこれはその事をつくづく思い知らされた。
食後エルヴァが相談に乗って欲しいと言ってきた。
「何だい?」
「多分、お腹の子は1月に産まれます」
「本当に!?」
パミと僕は驚いた。だって彼女、一度もドクターに掛かっていないんだ。ある日突然『受胎しました』なんだよ? そりゃ検査キットもあるから自分で調べたりもできるんだろう。だからその時は『やったー』と喜べた。でもそれ以降も全然ドクターに掛からない。ただ日増しに大きくなるお腹を撫でては自分で様子を診ていた。
そして1ヶ月毎に窓から漏れる光だけで、僕にデジタルカメラでヌード写真を撮るように懇願していた。それまでヌードなんて撮った事が無かったので随分驚いたけれど、これはある程度溜まってPCのモニターに並べると意味がわかった。生命の神秘が感じられて、とっても面白いんだ。これがあったから僕も父親になるんだと実感できたと言うか。
「はい。お祖父様か長老の誰かが医療スタッフを揃えて取り上げて下さると思いますので、12月の半ばにスイスに行ってきます。赤ちゃんと一緒にハンティントン・ビーチに戻れるのは来年の1月末になりますから、それまで留守を任せて良いですか?」
「出産には立ち会えないの?」
「多分、無理だと思います」
「そうか……なら、待っているよ」
寝室で聞いた話だと、本当は立ち会えない訳ではなく、ショップとパミをしっかり見ろという意味だった。パミに疎外感を与えない事、軌道に乗りつつある今がショップにとって大切な時期である事、ここも念を押して話してくれた。こんな風に彼女はいつでも真剣で真面目だ。
「子供は男の子です」
「へ?」
「名はレオパルド。愛称はレオですよ、パパ」
「は? どういう……?」
僕はここで彼女が視たというビジョンの話を初めて聞いたんだ。会長と名付けで揉めないと駄目らしい。いや、揉める事でビジョンが完成し、お腹の子の幸せの形が決まるのだとか。
「出産も儀式なの?」
「あなたのお祖母様に聞いてみて下さい。きっとそう仰いますよ」
また、エルヴァはこの家を建てる時に、庭の隅にガラス張りの温室を作らせていた。それが今はビニールと骨組みだけの温室も拡張接続されていて、そこではチャイニーズ・キャベッジ(白菜)やキャベッジ(キャベツ)、ベルペッパー(ピーマン)、エッグプラント(ナス)、ジャパニーズ・ラディッシュ(ダイコン)などなどの野菜を育てている。ペリラ(シソ)や、チャイニーズ・チャイヴ(ニラ)、リーク(スプリングオニオンとも。ネギの事)などはプランターだ。
どれもこれも全部が日本の野菜だった。種子の輸入は場合によると違法なんだけど、これらはエルマからパミ経由で入ったものだ。家族で消費する分には良いだろう。何よりほとんどが芯や切り屑から育て直したものだった(リボーン・ベジタブル)。それでこんな彼女に感化されたのか、モニカやミアータも野菜を育てるようになったんだ。ある意味、とても現代の魔女っぽい行為だと僕は思った。
『モンサントなんかの、遺伝子組み換え野菜を子供には食べさせられません』
彼女はベジタリアンでもヴィーガンでもないけれど、とっても健康への意識が高い人なんだ。だけど『エルマ→パミ』ルートでの魚の密輸はどうなんだと思わなくもない。でも彼女が調理する魚料理は魚に慣れない人でも十分に美味しいだろうし、僕のような何でも食べるタイプには発見の連続であり、全部が喜びだ。良くもまぁ、ここまで料理好きな人と巡り逢えたものだと感動しかないんだよ。