話は先生からの、凛さんや士郎さんへの簡単な質問から始まった。ほとんどは凛さんへの質問だったけれど。
「あなた達の願いや希望はわかったし、想像もできるわ。その上での質問だけど、その世界がどうなったかは想像している?」
「えっと……? まさか、滅んだり?」
「では、滅ぶとしたらどういう理由が想像できる? あまり深く考えないで良いから」
ここで士郎さんがムッとした。誰だって自分の世界が滅ぶ理由なんて想像したくない。何よりこの質問は、まるで滅んだ事を既成事実化、または前提化して投げかけている。
「落ち着け、士郎。リンはお前達の覚悟を確認しているんだ。この先を聞く勇気があるのかどうかをな」
そうシロウさんが静かに言った。
「まぁ、ちょっと話を曲げすぎたか。まず結論から言うと、凛、あなたの桜は今も健康に生きているし、元の世界も無事よ」
「あ……あぁ……」
先生の仕切り直しの言葉で、凛さんはポロポロと涙を流し、士郎さんは安堵のため息を吐いた。
「けれど、あなたとあなたの士郎の2人は二度とその桜には逢えないわ」
「ど、どうしてですか……?」
先生が目を伏せた。
「話を全部聞いた上で判断してちょうだい。その上で責めるなら、私を責めてくれていいから。まずあなた達の世界は本来、アンリ・マユと一体化した桜の暴走で冬木が壊滅し、世界から剪定事象と判断され、そこへ抑止……つまり守護者が現れて、滅ぶ運命にあったの。それが私の視た結果であり、弟子の凜が確認した事実だったのよ」
私は『エル』やアオレアールを見た。2人とも知らなかったらしく、大きく目を瞠っていた。息が苦しくなりそうな私の手を、フンボルトが握ってくれた。
「だけど、もう1人の魔法使い、孫の京(ミヤコ)がその世界を発見したのが、私や凜の前だったの。わかる?」
この言葉だけで瞬時に、何があったのかを理解したのが『エル』であり、次いでアオレアールだった。2人はほぼ同時だったけれど、私は3秒ほど遅れた。
「そういう事かぁ……」
『エル』の呟きにアオレアールと私が頷いた。
「エルヴァ、どういう事だい?」
「フンボルト……。凛さんや士郎さんの受け止め方だと思うけれど、お2人の世界は先生や凜が確認のために観測した時点で滅びが確定していたの。けれど、その剪定事象が何らかの悪影響をその他の並行世界に及ぼすと読んで……いいえ、悪影響が出ていたから京さんが、先生達が観測する前の時間にその世界に入って、編纂事象に変わるよう促したのだと……。だからそこには桜さんだけじゃなく、きっと別の凛さんや士郎さんも居て……。要は時計塔での実験で、こちらに飛ばされる未来が消えたんです」
「ええ?!」
フンボルトの、この驚き方だとまだわかっていない。だから堪らず私は訊いた。
「せ、先生、お2人は居ないものとして消えるんですか?」
「大丈夫、消えはしないわ。京の報告を聞いて、凜が手を打ってくれたから。その代わりと言ってはなんだけど゙、守って欲しい条件が幾つかあってね。一つが、その世界に入らない事なの。つまり凛も士郎も帰れないって事なのよ。わかるでしょう? これはあなた達が消えないためなのよ」
それを聞いて士郎さんが憮然としたけれど、声を荒げる事はなかった。凛さんも落ち着いた態度だ。この2年で随分変わった。
「あの子は違う歴史の中で生きている訳ですね?」
「ええ」
「私達が入れないのは、そこで生きる私達が居るから……。これって入ったポイントが、第五次聖杯戦争前か最中ですか?」
「京が入ったのは1月の頭かららしいわ」
「そうですか……。どこで選択を間違えたんだろう……」
「何も間違えていない。そんな先の事なんて誰にもわからないわ。そっちに特化した魔術師か、魔法使いでない限り。今でこそ魔法使いの弟子を何人も持っている私でも、あなたくらいの頃は何もわかっていなかった。学園時代なんて思い出すだけで、穴があったら入りたいくらいよ」
あれ? 『学園時代』って、そんな過去を話すなんて先生にしては珍しい。というか1600年も前でしょう? 憶えてられるの?
「誰だって今まで体験した事のない大きな出来事が目の前で起きれば、その先の事や、その裏にある事にまで頭は回らないもんだ。ましてや、若い時分は特にそうだ。50代、60代になってやっとそういうのが見えて来る人が半数を超える」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ。だから目上の人の話はきちんと聞くべきなんだよ」
これはシロウさんと士郎さん。
「シロウさんにはそういう人が身近に?」
「居たよ。藤村雷画さんを初め、あそこの兄さん方や、バイト先の店長や担当、パートのおばちゃん、八百屋や魚屋のおっちゃんとかな。自分から目を開けば、周りには十分教えてくれる人が居たんだ。お前も藤ねえ頼みでネコさんとこでバイトしてたクチか?」
「あ、はい」
「それが悪いとは言わないけれど、それも交友を固定化して狭めてしまうことに繋がる。結果として自分をも狭くしていた訳だよ。オレは中学の時から新聞配達をして、学園時代はスーパーのバックヤードで魚を捌いていた。深夜の道路工事もしていたよ。飯場のオッサンなんて結構物事を知ってるぞ?」
「どうしてそんなにアルバイトを?」
「死んだ親父の遺産が、家以外ほとんどなくてな。それで中庭を畑にして。『料理人』を目指したのも食いっぱぐれないと考えたからなんだ。あの災害で死んでいたかも知れない身体だ。だから救けてくれた親父には今も感謝している。けど、オレは『正義の味方』なんてのには憧れなかった。将来世間の役に立つ仕事に就ければ良いなと考えたし、皆んなが笑顔でいられる世界になれば良いなとも思っていたよ。けど『誰かを救けたい』なんて考えた事は一度もない。『正義の味方』なんてものは後から付いて来た結果であり、他人からの評価だ。お前もそう考えられるようになって来たから、リサイクルの仕事をしようなんて考えたんだろう?」
「そうです」
「キッカケは2番目……『エル』達の兄貴から話を聞いたからだろう?」
「はい」
「ま、変われて良かったけど、気付くのが遅いよ。な? 『エル』?」
シロウさんが『エル』に振った。
「見えないところで『死ぬしかない運命から救う行為』は幾ら美しくとも、評価は『1イイネ』です。その被災者全員に100万円ずつお見舞金でも配ってみなさいな。何百人分の『イイネ』が貰えるか。するとメディアも取り上げ、更にウチの商品が売れ、配った金額以上の見返りがあります。更にインタビューでこう答えます。『困った時はお互い様。人として当たり前の行為です。私への評価はどうでもいいので、願わくば皆さんも身近な誰かが困っている時は、手を差し伸べてあげて下さい。私はそういう優しい世界が来れば良いなと思います』。自分の持っているパンを千切って分けるより、最初から人数分のパンが用意できる方が社会的には正義であり、協力者も賛同者も増えるものです。『困っている人はいねが~、死にそうな奴はいねが~』ってナマハゲみたいにうろつく奴は、頭がオカシイんですよ」
シロウさんがニヤッとした。
「辛辣だけど、コイツの方が正しいんだぞ? 偽善だなんだの言ってもそれは貧乏人の僻みだ。確かにオレだって『金がすべて』だなんて思っていないし、そういう考えは間違っていると思う。けど、想像を絶する金持ちって、正義というお題目を唱えるだけの奴より、遥かに多くの命を救えるチカラがあるんだ。そしてそれを、コイツは自らが偽善(趣味)と言いながらも子供の頃から振るっていた。『助けた人』の述べ人数で言ったら、親父や生前の『アーチャー(エミヤシロウ)』なんて足元にも及ばないよ。恐らく千人も行かないと思う。そもそもその2人は救けた人数より、その手にかけた人数の方が多いかも知れない。ところがコイツは億に届かん人々を『助けている』。そして、そういう慈善活動は英雄視されないんだ。感謝も信仰も会社に向くからな。何が言いたいかっていうとだな、そういう才覚を子供の頃から持っている奴でないと土台無理だって話なんだ。そして今まさに死にそうな目に会っている人と出会う機会なんて早々ない。そんな奇跡を体験したからと言って、自分もそうなりたいなんて、余りにも安直であり得ない話なんだ。それは茨どころか自分の人生や愛する人を棄ててしまう修羅の道に他ならない。願うのは構わないさ。いざという時に動ける心構えも、ないよりあった方が良いだろう。だから、ここの親父が弟子にしてくれたのも、その心構えを養って凛を守れって意味だ。応援するから前を見て生きろ。ここで幸せになれよ」
シロウさん、くどいな……。そう思い始めたら『エル』が言った。
「年寄りは説教くさいから嫌ですね」
「あ~……、くどかった?」
「はい、お孫さんの前でなければ『黙れジジイ、ボケてんのか』と言うところです」
「言ってんじゃねぇか……」
怒るかなと思いきや、京さんはクスッと笑っていた。後で聞くと『お爺ちゃんにズバッと言える『エル』さんが凄い』と感心したらしい。そこからここでの人間関係に思いが行き、『仲が良い』と思ったそうだ。
「士郎さん、凛さん。ともあれ私が京さんに着いて行ってゲートを開きます。そうすればお2人が行けずとも、アサシンを送ってそこの桜さん達の生活を映像で撮れます」
『エル』の提案でそういう風に決まった。それをして未練がましさを増長するとか、余計な辛さを与える元になるのでは、と思いたくないけれど……。だけど最初は必要な事かも知れない。そして先生からビッグな発表があった。
「あなた達2人は、京の活躍があったにせよ、ここに流れる事で運命を変えられた。幾つかある条件の一つをクリアしたわ。そこで、『エル』を口説いて出資させなさい。そしてこれを元に、凛、あなただけの『宝石剣』を完成させなさい。無事完成したら、弟子の1人をあなたの師匠として付けてあげる」
「ええッ!?」
凛さんは目を剥いて驚いていた。
「本当ですか!」
「ええ。ただ今のところは誰になるかは不明よ。なにより完成させないとね?」
「あ、ありがとうございます」
凜に提出した宿題の答えや、先生がやっていた過去の諸々(コトネさんを助けられたかどうか)に関しての聴取が及第点だったのだろう。それに凜が裏からかなりプッシュしたのは想像に難くない。何より『実験中の事故』だったとは言っても、こうして世界を渡っているのだ。そこを高く評価されたのだと思う。夜は更けた。パミちゃんと京さんや凜が2階に上がり(すっかり仲良くなっていて一緒に眠るそうだ)、フンボルトもギターの設計図を詰めたいと工房に行った。こうなると彼は今晩、工房で泊まりだろう。あちらにもシャワーはあるし、着替えや簡易ベッドがあるから良いのだけど……。10歳も年下の若奥さんを放っぽって。お祖母様やお義母様が泣くぞ? 先生は『先に休む』と『エル』の宝具の入り口に向かった。その先生について凛さんと士郎さんも自分たちの部屋がある母屋に帰った。玄関まで見送って、士郎さんに声を掛けた。
「シロウさんはくどいところがあって。気分を害されたらすみません」
「気にしてないよ。俺と凛の事を心配して言ってくれたのはわかっているから」
「そうよ、エルヴァ。それに私にしてみたら朗報よ。あの設計図はお弟子さんの凜が書いてくれたものね。有り難い事だわ」
気を悪くしてなくて良かった。それに『エル』からの出資がすんなり決まったのも良かった。彼女はこちらの世界に多大なあぶく銭を持っているからね。500億ドル(日本円で5兆以上)もの大金を、近日中に振り込むと確約してくれたのだ。私は『凛さん』を姉のように感じているし、実際そう思っている。そして『魔法使いの凜』は友人であり、『特別』才能のある子だとも思っている。だから身近な傍に居た私は気付けなかった。『凛さん』もそういう『才能』を秘めていた事に。凜の応援があったにせよ、先生を納得させ、『エル』が無駄な投資にならないと踏んだのは、それを見抜いていたからだ。
そこに気付いた私が、家に入ってリビングに戻れば、シロウさんと『エル』にアオレアールが、お酒を引っ張り出して一杯やっていた。肴は冷蔵庫のあったチーズとソーセージ。それは良いのだけど、お酒はフンボルトの秘蔵しているコニャックを開けていた。
「それ、お父さんからの戴き物!」
「と言っても、レミーマルタンX.O.ならいつでも買えるでしょう?」
『エル』め、軽く言うな。1本100ドル(1万2千円くらい)超えるんだぞ。ちなみにコニャックとはフランスのシャラント県にある、ブランデーの産地の事だ。有名な産地は他にジェール県とランド県にまたがるアルマニャックなどがある。どれもワインで有名なボルドーのあるジロンド県に近い、フランス南西部の県だ。そんなワイン(主に白)や果実酒を蒸留し樽に詰め熟成したものを、全般的にブランデーという。それでは品質保障が保てないのと、産地を守るためにコニャックやアルマニャックを名乗って良いのはどこそこだけという厳しい審査基準がある。シャンパンもシャンパーニュ地方産の発泡性ワイン(醗酵中に二酸化炭素が自然と混ざる)のみが名乗って良いもので、同じ製法でも他の地方は名乗ってはいけない。なのでそちらは発泡性ワイン(スパークリングワイン)として明確に分けられている。後から炭酸を混ぜるは炭酸ワインと言って、擬物(まがいもの)とされるのが欧州だ。(このシャンパーニュ地方のとある盲目の修道士が、シャンパンの完成に生涯を懸けた。その人の名がドン・ピエール・ペリニョンだ。その名を現代も受け継ぐ高級シャンパン・ブランドがあるが、それは製法や熟成、地方が三位一体となった希少性から来ていて、決してタワーにしてパカスカ飲んで良いものではない)
このように欧州では、お肉やチーズ、ワインなどに厳しい基準があるのは普通だ。なお、V.S.O.P.(Very Superior Old Pale)やX.O.(Extra Old)は等級に近いものだけど、通常は熟成年を指す(コニャックとアルマニャックの場合。ただし熟成年の基準はメーカーによって多少ばらつきがある)。
「ほら、これを代わりに置いて行きますから許して下さい」
いつもの宝具の空間から『エル』が木箱を取り出した。
「げっ」
思わず下品な声が漏れたのは、それがあちらのお祖父様が持つぶどう畑で造られた、アインツベルンのラベルが貼られた白ワインとブランデーのセットだったからだ。好事家の間では1本8千ユーロ(100数万円)以上で取り引きされている、幻のお酒だ。
こちらのお祖父様もワインは造っているが、ブランデーは無かった。それにワインとしてはオーストラリアのカール様の持つブランドの方が有名だった。
「……良いんですか?」
「どうぞ」
「何か肴を作りましょうか?」
「お構いなく。あなたは、お腹の子のためにも早く寝なさいな」
そう言って『エル』は鯖の味噌煮缶と割り箸を出していた。サバ缶でレミーマルタンって新しいな?
「使い魔は?」
「ありません。外に向けての結界だけですね」
「あの子、フンボルト君に嫌われるのを恐れてなのか、使い魔を使わないみたいですね」
エルヴァが寝室に下がった後、リビングに結界を張って、シロウさんやアオレアールと密談を始めた。
「起きてこないか?」
「暗示を掛けましたから、今夜は朝までグッスリですよ。フンボルト君は熱中するタイプだから、彼も戻らないでしょう」
「そうか。悪いな、『エル』」
次の仕事先が決まった。その世界への案内人も発見者もお孫さんの京さんだ。来週早々に元の世界へ一旦戻って、仲間の英霊を率いて出発だ。
「そこが?」
アオレアールだ。
「そう。アイツラの残党が、この時空面での逃亡先に選んだ世界です」
シロウさんが申し訳無さそうな顔をした。
「本当にドラゴン・スレイヤー(竜殺し)になっちまったな?」
「8歳のあの日から、そういう運命だったのでしょう。あの1年を無駄とは考えていません」
「そうか。学生の頃は勿論、魔法を得てからもわかりやすい奴だったが、英霊になると途端にわからない奴になった。何ともだよ」
「それも仕方ない事ですよ。先生もタダでシステムには組み込まれないでしょう。先に自分から『大いなる意志』とコンタクトを取った。そこでしょうね」
人類でなく、宇宙の『生きよう』という意志を汲んで動く。先生は出逢った頃から『ガイア寄り』だった。だから『王様』とも話せる仲だと言えるのだけど。だけど『真の正義の味方』は、アラヤの最上位だった。なのでこうして先生に内密で、表立って動けないシロウさんから依頼を受ける場合が今までも度々あった。
これが凜なら板挟みになって動けなくなる。それでお弟子さんの数名が案内役と行かずとも、私がゲートを構築するまでの運び屋をしてくれていた。だけどそれも厳しくなる一方だった。ところが今回は京さんが運び屋を買って出てくれた。京さんに、腹を割って話せている段階で十分偉いと言えるだろう。
「歳は離れているが、あいつとはウマが合うんだ。次男の時嗣と孫の京は、オレの話をよく聞いてくれる」
本当に仲が良いのだろう。そしてこの話をアオレアールが居る前で話しているのは、彼女の方からもアサシン軍団や三国時代の英霊の一部を出してくれ、その指揮を執って貰うからだった。
『呂布と魏延は二つ返事でした』
それで快い返事を既に聞いていたのだ。また、先に寄った日本でエルマからランサーを借りる確約も取れていた。
「シロウさん。必ずアイツラを一掃しましょう」
「知的生命体でも人類じゃないと踏んだら容赦ないな?」
「ええ。私は現代の『スパルタクス』です。『圧制者は滅ぼす』に限ります。それが神であろうと悪魔であろうと。双方納得ずくの契約と対価なき搾取は許されません」
「リンを敵に回してもか?」
「敵にはなりませんよ。『大いなる意志』も、それがわかっているから『調停者』に据えたのでしょう? ともあれアルさんや王様の無念をそこで断ち切ります」
「わかった。頼んだぞ」
「はい」
それだけで秘密会談は終わった。後は実行するのみだ。
良し。これで手配は済んだ。後はカミさんの気を来週いっぱい惹きつけるだけだ。
朝の目覚めが異様なほどに良かった。時計を見れば6時間も寝ていなのに、疲れも眠気も一切ない。こういう爽快な目覚めは1日得した気分になる。とは言え、隣のベッドにはフンボルトが居ない。やっぱりなぁ。顔を洗ってリビングを抜けると、何やらキッチンから良い香りが漂って来た。だけど今は工房へ電話だ。なお、お店の事務所と工房、家のリビングは内線電話で繋がっていて、外線の番号はお店用と家の2つがある。
『ハロー』
「モーニン。フンボルト、朝食はこっちで摂る?」
『モーニン、エルヴァ。いい塩梅に区切りがついたからそっちで食べるよ』
ここからだと歩いていける距離に『Carl's Jr』と『McDonald's』があり、自転車で39号線まで出れば朝食向きな『IHOP』に『Jack in the Box』、『In-N-Out Burger』、新しくできた『Five Guys』などのバーガー・ショップも並んでいる。それでも家族揃って家で食べるべきだと思うし、彼も私と同じ考えだ。けれど、工房に籠もった翌朝は自由にして貰っていた。彼は『IHOP』の『split decision breakfast(モーニング・コンボプレート)』がお気に入りで大抵それを注文して食べていた。卵2つの目玉焼き、カリカリベーコン2枚、ポークソーセージ2本、大きなハッシュポテト、ドリンクにパンケーキが2枚のセット(女性には多い)は、州や都市によるけど10ドル前後だから家で食べる方が断然安い。だけど、それで彼がリフレッシュできるなら安いものだ。それに男性にはそういう時間が必要なのだ(それをして燃費が悪いとか、メンテ時間が多いと言ってはダメ。夫婦円満の秘訣だよ)。
「じゃ、作って待っています」
『うん。ちょっと走ってくるから40分後くらいかな』
「はい」
去年からかな? はっきりしないけれど、『グーテン・モルゲン』を使わなくなり、『グッド・モーニング』を飛ばして、家族間では『モーニン』で通すようになっていた。アメリカナイズされてるよね。
「モーニン、『エル』。朝食、作ってくれているの?」
ダイニングからキッチンを覗くと、立っていたのはシロウさんだった。
「おはよう」
「おはようござます。もしかして?」
「ああ、昨夜というか……。結局、リビングのソファーで眠っちまった」
あらあら。きっと目覚めてすぐにシャワーをササッと浴びたのだろう。こうして朝から朝食を作ってくれるのは嬉しいけれど。
「眠りが浅い?」
「『エル』は年寄り扱いするけれど、若い頃からの習性だよ。『お兄ちゃん』もそうだろ?」
確かに。盛り付けや配膳を手伝っていると、やがて皆んなが起きてきた。挨拶を交わしつつ、出来上がった料理を並べていると、何食わぬ顔で先生も座って待っていた。わかっていても、そういう転移は驚かされる。
メニューは目玉焼き1つにカリカリベーコン1枚、小さめのハッシュポテトにトースト、そしてサラダにスープとオレンジジュースだ。最近のカリフォルニア民は食品への添加物に煩く、どんどんと品質の良いものがスーパーで並ぶようになった。野菜も無農薬とは行かないけれど、オーガニックに近い数日内に使って欲しいというものが並んでいる。シロウさんのモーニングは、私が買ったそういう野菜を使ったサラダとスープ、そして無添加のベーコンと健康な鶏が産んだ新鮮な卵を使った『いつもの料理』だ。
「良いものを使っているよ」
「段々とそういうのが手に入りやすくなって」
「アメリカで今は150種類くらいか。日本だとまだ1500種類以上あるからな」
何の話かと言うと食品添加物の種類だ。敗戦国日本はアメリカからそういう添加物を大量に買わされ、添加物だらけの果物や肉を買わされている。そして少しでも見栄え良く、日にちが経っても色よく見えるよう添加物だらけな野菜が、農家や卸業者が出荷しスーパーに並んでいる。枝肉も添加物の溶液に浸けられ、その解体される前の牛や豚や鶏が添加物だらけの餌を食べて育つ。癌も高血圧も糖尿病も、各種のアレルギーも、第二次世界大戦前まではほとんどなかったというのを知らない日本人は多い。英国の料理は不味いと言うけど、あの国の添加物は50種類以下だ。どこの国が世界を牛耳り、『アイツラ』がどこに多かったのかがこれでわかるだろう。アジアはそうやって病気と薬の実験場となっていた。
再生している最中のアオレアールには申し訳ないけれど、農林水産省がいつまで経っても中国からの輸入をストップしなかったのは、アメリカに居る『アイツラ』がアメリカ政府を動かして圧力を掛けていたからだ。それももう終わった。なお、この2006年、中間選挙で民主党が歴史的大敗を喫していた。それはほとんどの議員が中国からの告発でスパイだったとバレたのと、温暖化などの環境問題が『アイツラ』のオーダーに乗ったリベラルやメディアの嘘とバレてしまったからだった。また、これはアメリカだけに限らない流れだった。どこの国もそうだったのだ。日本の場合だと与党の重鎮がほぼ辞職し、新人議員が増えた。野党に至っては解党に追い込まれていた。
朝食が始まる頃にフンボルトが帰ってきた。シロウさんは彼の分だけ卵を2個使い、ベーコンも3枚、そして大きめのハッシュポテトを出してくれた。パミちゃんを学校に送り出した後、先生が『エル』の用意した宝具の入り口に帰り(どういう家なのか? きっと和風なのだと思う)、フンボルトが『エル』とアオレアールに予定を訊いた。
「今日の予定は?」
「私は銀行に行って、その後、京さんとサンタモニカに」
『エル』はお買い物らしい。
「私はマルホランド・ドライブに」
アオレアールの返事にシロウさんの目が光った。やっぱり知っていたか。『Mulholland Drive(マルホランド・ドライブ)』とは、映画のタイトルでもあるけれど、本来はロサンゼルスの北西、ハリウッド・ヒルズの下から少し北上した山手から始まる山間道路を指す。サンタモニカ山脈を巡るその道路は景色のいい場所として知られ、ビバリーヒルズでなく、こちらに邸宅を構えるセレブもチラホラ居た。そしてそのグネグネとうねった道路は地元ライダーのメッカでもあったのだ。ただし事故も多いし、警察もウジャウジャだ。
「オレも行こうかな」
「切符を受け取りに?」
「コラ、『エル』。口が悪いな。マルホランドに行くなら、それなりので行きたいな。おい、お前なら『SR』以外にも持って来てるだろ? 何か出せよ」
ヘルメットやグローブの用意もないのにどうするのと思ったら、シロウさんは『エル』にウェアとヘルメットを、どこかに渡った時に使えるよう預けてあるらしい。
それで『エル』が玄関の外で出したのが、見た事あるような、ないような不思議なバイクだった。フルカウルのそれは、下半分がカウルのデザインに添ってレッドゴールドにメッキ(? 塗装か不明)にされ、カウルの上半分とシートカウルにタンクのトップは、飴のようなメタリックグリーンだった。そのタンクのサイドはシルバーのメッキで鏡面だ。そしてそこには漢字で『川崎重工業汎用機』と渋い書体の立体エンブレムが貼られていた。
「カワサキ?」
「はい。北米版『ZZR600』の昨年モデルです。それは元から中身が『ZX-6R(ZX600J)』なのですが、私はエンジンを欧州版の『ZX636A』に換えています。今の『ZX636C』より乗りやすいですよ」
不勉強なので知らなかったけれど、カワサキの『ZX-6R』には600cc版と636cc版があるらしい。しかしすごい趣味のバイクだ。カウルの横に大きく『ゑる』なんて平仮名と梵字(たぶんこれも『える』だと思う)で描いてあるぞ。『隼』みたいで外人にウケそうだ。しかも墨で書かれたように『掠れ』がある。きっと元の文字を書いたのはイリヤ姉さんだ。跨がらせて欲しいなと思ったけれど、タンクにお腹がつかえてハンドルを握れないと思いとどまった。
「珍しいですね、あなたがカワサキって?」
「ですね。学生時代はヤマハばかりで、サーキット用と保管用もヤマハやホンダばかりでしたから。ですけど日本の4社は、昔から満遍なく集めていましたよ」
「そうなんですか?」
「ええ。これ」
『これ』と言って見せてくれたのは日本のナンバープレートが付いた火の玉カラーのゼファーだった。これも火の玉部分がキャンデイアップルレッドでそれ以外はメタリックな濃いカッパー・ブラウンだった。これが後年私が『Zephyr 550』を手に入れた最大の動機だった。余りにも目が惹きつけられる美しさだ。
「それ98年頃に買っておいた『Zephyr 750RS』なんですね。それの『ZⅡ』仕様キットを塗り替えてあります。大型を取った高3からそれで、『XJR400R』はナンバーを返して今は森の館で保管しています」
「そうだったんですか。あなたがカワサキから選ぶなら『ZRX1200R』かなと思っていました」
「ああ、『ZRX』が好きなのは知っていたんだ? 好きなのは『ZRX』は『ZRX』でも『ZRXⅡ』の方ですよ」
ビキニカウルのない丸目のネイキッドだ。それも400。
「『1100』や『1200』はテールのデザインがイマイチです。コレクションはしていますけれど、今後も乗らないでしょうね。ゼファーも『Χ』でテールがよくなったでしょう? トントにあれを薦めたのは私ですよ」
そうなんだ?
「ところでこのバイクもそうですが、写真のバイクも足が届くんですか?」
「お互いチビですものね。その『ZZR600』で820mm、最新の『ZX-6R』が835mmだったかな? ライダーブーツを履いてやっと爪先です。ですけど最近出た『ER-6n』で785mm。対する『Zephyr 750RS』はノーマルで780mmですよ。踵ベッタリとは行きませんが、オフ車を思えばどうにかなりますよ。『SEROW』より低いのですから」
オフ車と言われて納得した。問題は車重だけど、万一の時は筋力強化でもするのかな? シロウさんがエンジンを掛けた。青い集合管はチタンだろう。凄い音だ。その音が聞こえるのか、またお腹を蹴られた。屋内に戻るとフンボルトは居なかった。寝室で仮眠だろう。お店を開くにはまだまだ早い。なのでお茶を入れ、ダイニングでお話をした。
「エルヴァはあまりバイクに興味がなかったんだっけか?」
「はい。好きか嫌いかと聞かれれば好きな部類に入ると思いますが、クルマほどには」
「なるほど。バイクは移動手段のひとつだけど、かなりのスキルを要求される上に趣味性がやたら高いからな。ロードかオフかの前に、クルマみたいに気を抜く瞬間がない。緊張していなきゃならない時間が長いんだ。しかもさっきも言ったように、それなりのスキルが必要だろう? 免許が取れたからって、誰しもに適正があるとは限らないからな。一番上手くなる方法はとにかく乗る事だけど、そんな時間を取れる人がそんなに居ない点も難儀だ。プロのレーサーより、白バイにバイク便や郵便局の職員の方が乗っている時間が長いし街中の走りを知っている。次がそれなりの距離を走る通勤ライダーだろうけど、それも原付きか二種のスクーターばかりだ。だからそこから先に行く人が少ない。また、クルマで30年無事故無違反だという人でも、リターンしたら事故を起こすのも、若者に事故が多いのも、向き不向きもあるけれど、乗る時間が圧倒的に少ないのと、身を守る方法を軽んじているからだ。自分の国の道交法を知らないとか、中途半端にしかわかっていない人は他国と比べて日本の場合は少ない。それでも事故が絶えないのは、法定速度の意味を考えていないのと、自分だけは例外と思い込むところにある。バーサーカーに突っ込むのも、信号無視してトラックに突っ込むのも、同じく『間抜け』なんだ」
「ご自分が良くわかっていらっしゃる」
「ウルセーよ」
『エル』の『突っ込み』だけど、実はシロウさん、バーサーカーに突っ込んでいない。と言うか、確かイリヤスフィールと戦っていなかったように聞いている。
「ちなみにイリヤや『エル』に免許を取るのは良いけど、原付きに乗るなと言ったのはオレだ。これも筆記だけで済ませる事を疑問視していたからなんだよ」
姉のイリヤは高1の時、『エル』と走っていて、円蔵山の展望台を出たところで転倒した。その事故現場に真っ先に駆けつけてくれたのがシロウさんだった。そのモンスター(お祖父様から免許取得のお祝いで贈られたドゥカティ)は、ガードレールの下を抜けて、崖下に落ちて炎上してしまった。それを拾い上げてくれたのもシロウさんだった。
何でも今みたいに、免許を取り立ての頃、2人に薫陶を述べた責任があったかららしい。ただし、私はこの記憶に関して、少し怪しいと睨んでいる。『エル』の思い出と、倫敦のエルヴァが持つ記憶と私の記憶では何かが違う気がしてならない。
「シロウさん。シロウさんは操縦の時、何に気をつけていらっしゃいます?」
アオレアールだ。
「乗車前点検や安全装備は当然として、焦っている時や景色を見るゆとりが自分にない時、疲れている時、眠い時は絶対に操縦しない事だな」
実に御尤(ごもっとも)な意見だ。
「ですよね。それが事故を未然に防ぐ事にも繋がりますものね?」
「そうだよ。起きてから反省しても遅いんだ。だから予測運転が大事なんだけど、もっと言えば自分の体調や、その日の天候なんかも予測をする上での重要な要素なんだ。例えばバイクに憑依して以前の操縦者の経験を読み取り、悪いところは捨て去り、良いところだけを抽出して我が物にしたとしても、事故る時は事故るものなんだよ」
だから思い出話は中古ばかりだったのか。単にお金がなかっただけじゃないんだ? けれど良い事を話してくれている。
「新車は買わなかったんですか?」
「生前という意味なら若い頃は1回だけ新車を買ったよ。時計塔に居た頃に『YAMAHA BT1100 BULLDOG(5JN)』っての。後で『MT-01』が出たけど、メンテ的にシャフトドライブの『BULLDOG』がありがたかったな。カミさんと世界を渡るようになったら、あちこちで色んなバイクを買っては売ったけれど、途中で中古で良いやってなった。だから元の世界に置いてあった『BULLDOG』が余計に大切になったよ」
それはそうだろうな。一箇所に留まらないんだから。
「エルヴァ、その『エル』の『Zephyr 750RS』がド派手にカスタムされたのもクルマから目立つようにだからな」
「そういう理由?」
「そうです。去年ぶつけられましてね。それは『Zephyr 750RS』でなく『SEROW 225』だったのですが。中古のハブと、特注したリムとスポークを合わせて手組したんですよ」
自転車じゃないんだぞ? なのに手組み?
「ああ、17インチ化です。古いのをモタード仕様に」
ああ。それは面白そう。
「それを組んだ翌週に事故ですよ」
「ええッ? あなたが?」
目が見えない(既に違反だけど、そこは目を瞑ろう)から、周囲に結界を張っていたり、宝具を展開していつでも逃げられるようにしている彼女が?
「片側二車線の道路だったのですが、反対車線の一方通行入り口から飛び出て来た逆走車が優先道路側のクルマと接触して焦ったのか、中央分離帯を越えて突っ込んで来たんですよ。止まるかなと思ったら、アクセルを思い切り踏んでいて。前進して逃げたつもりが、要らないところでハンドルを切って斜めにこちらの後輪をヒットです」
反対車線。それも一方通行逆走車の飛び出し……。片側二車線なら冬木でも結構大きな道路だ。
「怪我は?」
「そこは何とも」
「しかし、酷いですねぇ? そんなのどうしようもないですよ」
「おまけに無保険。シベリアで稼ぐか、カニ漁で稼ぐか、臓器で払うかを選ばせました。するとイカれた親と押し掛けて来たので、親子ともどもシベリア送りです。バカですよ。こちらは示談に応じるつもりでしたのに。なので誠意を見せて謝罪すればまだしも、無保険がバレるのが嫌だったらしく、脅しに来たんですよ。しかも思考を読めば、背乗りした成りすましです」
バカだ。『エル』を脅すなんて。自分から罠に掛かりに行っているようなものだ。若い娘と舐めた結果が行方不明。そして誰も捜索してくれないという……。そのくらいの『掌握』なんて、『エル』にはお茶の子さいさいだろう。まして相手は密入国者。本当、どうしようもない。
お話が終わると良い時間になったので、バイク組は出て行き、『エル』もバイクで銀行に向かった。京さんに手伝って頂きながら、私はお店を開けた。そこから1時間後に『エル』が戻り、クルマを出して京さんと買い物に出掛けた。この水曜日、ボストンからリンさんとリサさんがやって来て、夕方ミアータさんが帰って来た。いよいよ明日の木曜日は『Thanksgiving Day』だ。なのでパミちゃんは明日から日曜まで休みになる。またお店もこの日はお休みだ(お店は基本定休日なし。いつも来月の休日予定日という札を前月に出している)。ところが翌金曜日の『Black Friday(ブラックフライデー)』は、そこそこ売上げが見込めるので今年もお店を開く事になっていた。ただしお店番はフンボルトと士郎さんだ。私はパミちゃんとゆっくり過ごさせて頂く予定だったけど、どうなるのかな?
何故なら、人数が増えたので4人のメイドさん達が張り切り過ぎないか、そこが心配なのだ。