学舎の横の駐車スペースでエルを待つ私達でしたが、待機が長くなるとわかりましたので、邪魔になるといけません。なので、ベンチのあるところまで歩き、そこで腰掛けていました。
「もし」
声を掛けてきたのは初老の紳士でした。
「はい?」
「ミス・アインツベルンのお付きの方でしょう?」
「ええ。あなたは?」
「ここの講師です。4月でもまだ寒い。そちらのお子さんには厳しいでしょう。これで温かいものでも」
そう言って手渡されたのは、何かのチケットでした。それで紳士はとあるお店の名と、方角を指差して教えてくれました。お礼を申し上げ、ベータとともにそちらに向かって歩きました。そのお店は学舎の敷地の真ん前に建つカフェでした。
お店に入り席に腰掛け、注文の前にウェイターへ先程のチケットを見せました。
「人から頂いたのですが、これはコーヒーの回数券のようなものですか?」
「コーヒーが良いんですか? このチケットはお茶専用ですよ」
ああ、ここはそういう国でした。それでミルクティーを2つと、サンドイッチを頼みました。何気なく、本当に何気なく注文を知らせに行ったウェイターの姿を目で追うと、奥のキッチンから覗く人物と目が合ったのです。
「彼は……そうだ、ここの生徒でした」
アルバイトなのでしょうか? 暫く待つと、その彼が結構量の多いサンドイッチとお茶を運んで来ました。それを見てベータが喜んでいます。
「お久しぶりです。アインツベルンさんのお供ですか?」
「あなたは……」
「スヴィン・グラシュエートですよ。フラット・エスカルドスと一緒だった」
「そうでした。顔は憶えていたが、名が出て来ず。すみません」
「いいえ」
「ベータ、先にお食べなさい」
「ありがとう」
この子も英国人なのですね。エルが言うには、わかりにくいブラック・ジョークとムッツリした顔を気にしなければ、基本英国人はとても丁寧で、他者に気を使う人が多いのだそうです。列も乱さずきちんと並ぶ人が多いですし、『Sorry(すみません)』という言葉も、日本と変わらないくらい頻繁に耳にしますね。
かつての私も、王という立場もありましたが『ムッツリ』でしたし、言葉には気を遣っていました。そこが日本人や今の英国人と似ているのでしょう。不思議と冬木にいても、こうして英国に来ても、然程違和感がありません。食べ物はその日の内の1食でも良いので、エルが作ってくれれば何の不満もありませんし、お茶も美味しい。何より後世の人々がブリテンをここまでにしてくれたのかと、感慨深いものがあります。
エルは長期休暇が取れれば、私ゆかりの地を巡ろうと言ってくれましたが、今の私はそこまでして失われた故郷を偲びたいとは思っていません。かつての仲間を忘れはしませんが、辛かった事も悲しかった事もすべては思い出です。それは薄情だからでなく、私個人の感傷で、エルに悪影響を与えてしまってはいけないと考えているからです。人は人を思いやり、お互いに触れて変わって行くものです。エルか『エル』の言葉でしたが、本当にその通りですね。
「スヴィン、9月から彼女が講師になるのはご存知でしたか?」
「ええ。ですけど降霊科だったかと。まさか現代魔術科も?」
「はい。週に数回、受け持つそうですよ」
「フラットのヤツ、知っていたな……?」
どうでしょうね? 彼のような騒がしいタイプは、私だけでなくエルも苦手だと思います。そしてそれはお互い様でしょう。ですので、そのフラットなる者が、エルのそういう情報を持っていたかどうかは怪しいと思いますよ。
「あなたは授業に出なくて宜しいのですか?」
「ええ。なまじ『典位』なんかを取っちゃったので、お役御免というか……。学籍は残っていますが、6月の卒業までこういう感じで暇なんですよ」
なるほど。
「それでアルバイトを?」
「も、ありますけど、故郷に帰るには早いと言うか……予定より早く卒業が決まっちゃったと言うか……。それで、ここは講師の先生方の溜まり場なんですよ。なので誰か助手で雇ってくれないかなって。あの、良かったらアインツベルンさんに聞いて頂けませんか?」
「サンドイッチの量が多いのはそういう魂胆ですか?」
「はい」
にっこり笑って白状した。至って真面目な青年ですね。また、ベータも怖がっていません。こういう好青年ならエルに紹介しても良いかも知れませんね。
「わかりました。結論は彼女次第ですが、私からの口添えはお約束致しましょう」
「頼みます!」
食後、私達は街を散歩して時間を潰しました。ちなみにあのお店で支払った代金は、サンドイッチ1人前分だけでした。腹ごなしに歩いた先には公園がありました。遊歩道とベンチ、後は芝生だけのとても広い公園です。そこのベンチに座ろうとしたら背もたれにプレートがあります。
「何でしょう?」
「メモリアルベンチだよ」
「え?」
「そのガーデンを造った人が1番景色の良いところに置く場合と、公園やガーデンが好きだった人の遺族なんかが、街にベンチを寄付したりする場合があって、これは寄付だね。こういうの、どこにでもあるんだよ」
ほぅ、良く知っていますね。そしてこうしてベンチに座り、のんびりと景色を眺める時間の贅沢さ。ベータも小鳥のさえずりに耳を傾けています。
「セイバー?」
「何ですか?」
「あの子達、もう、帰っちゃうかも」
天に帰るという意味らしい。
「……そうですね」
ベータ達は自分達が元悪霊だったとは知らないようです。ですが、エーテルで造られたホムンクルスであるとは理解している。その横顔は、幼き霊が昇天を迎え消え去る事を惜しんでいるように見えました。
「寂しいですか?」
「うん……」
かつての私が知る、アインツベルンのどの秘術とも異なるエルや本家の魔術。これが良い事なのか悪い事なのか、今の私には判断ができませんでした。
そろそろと思い学舎の方に戻りますと、エルとガンマがクルマの前で待っていました。
「退屈だったでしょう?」
『お待たせしました』という前にそう言われました。そうか、これを予測していてガンマと2人で行くと言っていたのか。しかも今になって、遠ざかるアサシンの気配が。彼らも来ていたんですね。
それから家に戻ったのですが、アルファ以外に誰もいません。ただエルが言うにはまだ居るそうで、より視え難くなっただけだとか。夕方、エルはパイを作り始めました。それを焼き上げ、こう言いました。
「あなた達のパイですよ。誰にでも憑依して良いので、一緒に食べましょう」
気を遣ってくれたのか、誰も憑依されている気がしませんでした。だけど、喜んでいる感情は伝わりました。
翌朝、私はキッチンにいたエルに尋ねました。すると背中を向けたままのエルは、朝起きたら天使達が既に居なくなった事に気付いたと話してくれました。
「エル……?」
「これで除霊完了です。今度はちゃんとした親元に産まれて来て欲しいですね」
振り向いた顔は笑顔だが、少し目が赤い。『除霊』という言葉が正しいのかどうかはわかりませんが、ここまでしてあげるエルの気持ちと願いに、私は何も言えませんでした。
なので私がエルに声を掛けたのは朝食後です。昨夜はタイミングが合わなかったので、昨日のスヴィンの事を報告したのです。
「う~ん……。これはライネスにからかわれましたね。それはそうですよね、自分が先月学園を卒業したからと英国の彼もとはなりませんよ。頭ではわかっていた積もりでしたのに、ついつい話を鵜呑みにして……。では9月以降仕事がなければ彼は?」
「そこまでは聞いていませんでしたが、故郷にすぐ帰れないそうです」
「なるほど。何か事情があるのでしょう」
それからエルは、何人かの人に電話を掛けていました。
「本当ですか? ええ……はい、はい。そうですか、ありがたい話です。ええ、とても。どうもありがとうございました」
何だったのでしょう? エルの顔色がとても良い。
「一体、どこへ何を?」
「いえね、まずは魔術協会事務局に。そこで時計塔卒業後の学生の進路全般と、就職先などの斡旋を時計塔が行っているのかどうかを確認しました。予想通り、そんなものがある筈もなく、ほとんどの卒業生は実家に帰って後を継ぐか、実家と縁の深い魔術師を頼って弟子入りするかでした。一部の学生が各科のどこかで就職先を見付ける場合があるらしいですが、それも余程優秀でないと誰の目にも止まらないものなのだそうです。時計塔の運営に関連する……例えば事務局のようなところは、数年に一回募集を掛けているそうですが、それらも理事かロードの推薦、つまりコネありきだそうで。そこでロード・エルメロイⅡ世先生がスヴィンを含む学生達の進路をどう考えているかをお尋ねしました。ですが、心配はしていてもやはり斡旋はできないらしく、それで私に一任するとの言質を頂きました。最後に掛けたのが降霊科の何人かの先生にです。私が懸念していたのは私の給料で人1人雇えるのかというところと、助手の平均的給与はいかほどか、などなどでした」
それはそうですね。
「それでどうでしたか?」
「連絡ミスなのかなぁ? 私、『色位』なので、最初から一級講師なのだそうです。ですので平均値ですが、年収として7万ポンド(1千60万くらい)は支払われるのだとか。ただし年齢が若くキャリアが皆無なので、最初の1年は4万5千ポンド(680万)くらいらしいです」
これは現代英国人の平均所得より遥かに多いらしいです。魔術の講師ですから、かなり特殊な専門職です。ですので、時計塔の受講料もそれなりに高いらしいです。また、学生のほとんどの家はそれを補えるほどのお金持ちであり、運営には魔術協会員からの莫大な寄付金なども使われているからだそうです。
「また、創造科や現代魔術科では客員講師となりますので、1講義幾らで算出されます。またこれも科によって微妙に異なり、学生の獲得数(受講数)で年度末にボーナスが出る場合もあるそうです」
まず、所属する科で基本の給与が決まり(これはこちらの大学などと同じらしいです。その大学事務局が基本給を決めるのでなく、キャンパス(科)ごとに予算が配分され、そこから独自に決められるのだとか)、それ以外の科の講義は、受け持った講義の数で受け取る金額が変化するという事です。
「それと、特典として助手3人までの給与が降霊科から出るそうですね」
おお、朗報ですね。リンがシロウを助手として時計塔に連れて行く並行世界がありますが、そちらの場合は彼女が特待生だから特別に認められている事で、普通は相当な寄付を行っている家の者でないと無理なのだそうです。当然ながら助手の給金はその学生持ちです。リンはシロウに支払えたのでしょうか?
また、学生には名家の子女が多い訳ですから、お付きの者を同行させて、寮に住まわせる事は可能なのだとか。勿論、そういう者は授業を受けられませんし、部屋代は当然主人持ちです。こちらのケースは真っ先にルヴィアを思い浮かべましたが、彼女の場合は倫敦に家を構えるのでしょうね。現にこちらのルヴィアは理事の娘ですから、市内に別宅があり、時計塔時代はそこから通っていたようです。今はプラハのどこかに家を構えているのだと思われますね。
「ただし、降霊科から給与が出る関係上、降霊科の講義でないと同行できません。例えば創造科の許可を頂き講義に連れて行けたとしても、彼の給与は創造科からは出ず私がその分を支払わなければなりません。また、できれば降霊科から選んで欲しいとの事です」
ああ……。
「ですがそこにも抜け穴がありました」
「それは?」
「『魔術師として特に優秀と認められる者、降霊科の今後の発展に寄与すると考えられる者』の場合は特例が認められる可能性があります。それで私がスヴィン・グラシュエートを助手にしたいと申しましたら、『彼は『典位』だから資格は十分にある。問題は素行不良という噂がある点だ。『典位』だよ? なのに現代魔術科の誰も彼を拾わない。そこは考えるべきだろう。それでも君が監督者として、彼の素行に対し全責任を負うと言うならこれ以上は言わないよ』、だとの返答を頂きました」
この意味は大きい。スヴィンの持つ位階である『典位(プライド)』は、エルの持つ位階『色位(ブランド)』のすぐ下で、上から3番目なのだそうです。そして現代魔術科のロード・エルメロイⅡ世は上から4番目の『祭位(フェス)』なのでした(大半のロードは『色位』なのだそうですよ)。つまり、スヴィンの魔術師としての才能や評価は申し分なしという事なのでしょう。
そして、エルには降霊科に幾つかのパイプがある。今の電話はその内の誰かでしょうね。だがエルに迷惑は掛けられない。
「わかりました。万一の場合は私がスヴィンを斬ります」
「斬るな! 斬っちゃダメでしょうが!」
「そうではありません。そういう風に脅しつけても釘を刺すべきだと言ったのです」
「とてもそうは聞こえませんでしたが、釘を刺すのは……」
「ええ。英霊という何をしてくるかわからない存在です。効果があると思いますよ?」
こうして私の提言は受け入れられたのでした。ですので今後の連絡先(電話番号)を確認する事や、4月中に1度面接をしたい旨などを伝えて欲しいと申し付けられました。ならば今日にでもスラーに走りましょう。
そこでインターホンが鳴りました。
「はい。どなたです?」
そう私が出ましたら、エルが呆れ顔でした。
「エル、何を?」
「いえ、先程の電話で……入金を確認したから、配送したと言われていて……」
起きて来たばかりの3人の子供を残して2人で外に出ますと、知らない男性が青いクルマを前庭に止めて立っていました。
「受け取りにサインを願います。それとこちらのお手紙を。中は名義変更を早々にとの内容です。書類関係はグローブ・コンパートメント(※)に入っております」
「あ、ありがとうございました」
サインを受け取った男性は歩いて帰りました。
※)アメリカ語とイギリス語とで極端に異なるのが、乗り物に関する単語だ。サブウェイ(Subway/地下鉄)が、アンダーグラウンド(Underground/愛称でTube)なんてのは朝飯前で、特に自動車用語が酷い。
カタログ→米『catalog』英『catalogue』
運転免許証→米『license』英『licence』
タイヤ→米『tire』英『tyre』
米国人は、タイヤを四六時中酷使されているなぁ、なんて考えたのだろう(黒人奴隷への皮肉が語源だと気付いても言っちゃダメだぞ)。
ハンドル→米『steering』英『steering』
ハンドル(Handle)は『把手』という意味で、ステアリングが『舵を取るもの』という意味になる。船舶用語が先にある訳だ。なので丁寧に表す場合は『steering wheel』が正しいとされる。だけど『steer』で操作という意味になるところだ。『ring』は環。つまり『steering』は言いやすいから縮まっただけだろう? と考えるのが妥当だと思う。ちなみにハンドルネームのハンドルは動詞で『~を(~として)取り扱う』という意味。
ボンネット→米『hood』英『bonnet』
英国人は米国人にこう言う。『歯が丈夫なんですね?』。ご年配の方で『bonnet hood』と仰る方がいる。意味は通じるが、正しいのかどうかまで筆者は知らない。ちなみに『覆うもの』はカバー(cover)だ。
トランク→米『trunk』英『boot』
語源は幌馬車から? コンピューター用語とゴッチャになりそう。ところで米国では俗語として助手席を『shotgun』という。それは幌馬車の助手席に座る者が必ず散弾銃を構えていたから。決してシートベルトのない時代、窓を突き破って飛び出たからではない(以前こう言って米国人にバカウケした。『俺ら弾(pellet)じゃねえよ』『けど、俺ら舐めると甘いじゃん(お菓子のペレットと引っ掛けている)』。簡単なカタコト英語でも、ヒネリがあるとウケるので恐れずじゃんじゃん使おう。
シフトレバー→米『stick』英『lever』。
変速機は『transmission』でエンジンと直結しているものだ。それを操作する『棒』だからどっちでも良いわと思う。シフト『shift』は『(場所や位置を)変える』という意味。なので型月のレイシフトは、霊的にも正しい使い方。
クーペ→米『coop』英『coupe』
米のこれはコープでなくクープと読む。意味は鶏小屋。狭いから? もし平均的アメリカ人が知り合いにいて、日本人がクーペを『rabbit hut』と言ったらどう思うと尋ねれば、『アメリカのクープは『K-car』より狭いんかい?』と、12人中1人は突っ込んでくれると思う。
マフラー→米『muffler』英『silencer』
英は『消音器』、米のそれは『exhaust pipe』を『取り巻く』から。首に巻くアレも『muffler』。元は女性用の防寒具である『muff/仏語のmoufle』から。なので温めるものという意味もある。それで『earmuff』なんて言葉が生まれた。
『exhaust』は『exhaust pipe』の略で、元々の意味は『(容器から中の物を)汲み出す(exhaust)パイプ(pipe)』。ラテン語から来たらしく、本来は液体に使う言葉だったようだ。それが自動車や二輪産業に取り入れられ、(エンジンから吸い出すので)排気ガスになった。
エンジン→米『engine』英『motor』
主に天然資源で動くのがエンジン、電力などそれ以外がモーターという観念が日本人にはあるが、欧州全般、動力発生機は内燃機関かどうかを問わず『motor』だ。その中でもドイツ人と英国人はそこに自動車やオートバイの意味も込めている。ちなみにオートバイは
『autobike』からだが、これは和製英語。矛盾しているが米国人でも『motorcycle』や『motorbike』を使う。また、モトはラテン語からで『動きを与えるもの』という意味。なので、ロケットエンジンですらロケットモーターとなる。ドイツ語だと『motorrad』。
ところでオンロードタイヤを履いたオフロード車をモタードと言うのだけれど、これはターマック(舗装路)8割、グラベル(ダート)2割を走らせる『supermotard』という米国から仏国の渡った競技の省略形『motard』から来ている。何言ってんだ、モーター(エンジン)は全部付いてるだろと最初は思ったけれど、そこで使われる競技車両も『motard』と言うからややこしい。だけどモタードというバイクは理に適っていて、1台で遊び倒したい人にはとても向いている。だからなのか中南米でとても人気があったりする。
またサイクル(自転車)・ロードレースで使われる競技車両は、元は『racer』だけど90年代から『road bike』と呼ばれるようになった。ややこしい話だけれど、これもアメリカの自転車会社が行った商業戦略に因る言葉の改悪だ。そのピークが世紀末から2000年代の頭で、個人的にランス・アームストロングは地獄に堕ちるべきカスだとずっと思っていたし(ドーピングがバレバレだったけれど、大統領選と同じでメディアが庇い誤魔化していた)、スポンサーだったアメリカ合衆国郵便公社(選挙でもインチキをやっていた)や、カスを庇ってグレッグ・レモンとの契約を切ったトレックや、ナイキ(ウイグル問題もあるし嘘CM問題もある)は絶対に許さない。
「いえ、誰かと来たのでしょう。ほら、そこに外した幌が。この屋根はMR-Sと同じで、ハードタイプが先に付けてあるだけのオープンカーですよ。日本で乗っていたロードスターの前の型です」
「ほぅ、言われてみれば前が違うだけですね」
「フフ……そうですね」
その後、エルはクルマの各所を見ていました。屈んで下まで覗いていたので入念ですね。そして私にデイトナを一旦出して欲しいと言いました。彼女は自分のバイクを出します。そこへ今来たクルマをバックで入れ、その前にバイクを戻してガレージの跳ね上げ式ドアを閉めました。
「驚きますね。こんな朝早くから……」
「買われたのですか?」
「ええ、数奇なご縁と言いますか……」
何とそれはランサーの元マスター、先代エルメロイの婚約者のクルマだったのです。
「彼女は生きて……」
「ええ。ここのエルメロイ先生はソラウさんを冬木には連れて行かなかったのです。ですので、今は他家に嫁がれています。このクルマはソラウさんのお兄様が、エルメロイ先生を失って悲しむソラウさんを励まそうと贈ったものなのだそうですよ。しかもそのクルマ、雑誌の個人売買で私が偶然見付けたものでしてね。それで電話を入れて即日に入金しました」
「それはまた奇縁な……。そうでしたか」
「ええ。そういう奇縁も感慨深いですが、お兄様のご注文なのでしょうね。装備に中々良い物が……」
それが屋根などなのでしょう。ですが、そこで屋内から声が届きました。
『お腹空いた~~』
それで慌てて屋内に戻った私達でした。食後、子供達はリビングに行きました。それを見計らってエルは、私に本日は出ないで残って欲しいと言いました。
「何故ですか?」
「本日はライネスがグレイとともにやって来ます」
「ああ……」
エルメロイⅡ世の内弟子であるグレイの事は聞かされていました。そして掛けるべき言葉を考えておけとも言われていたのです。エルは行動派で、またオフロードのバイクが得意でもあります。ですので、携帯電話も通じない山奥から何度も生還を果たしている。そして私の時代には電話なんて無かった訳です。つまり相手と必ず会い、話し合う他なかったのです。だからこそ、私に直接関係なくともグレイには真摯に向き合うべきだと。
「ブリテン王の復活を、純粋な人々は願っていた訳ですね。そして、その永きに渡る信仰がセイバーにも見返りとして来ています。ならばこそ、あの子をしがらみから開放するのはセイバーの言葉だけとなるのですよ」
「もしやウェールズなど、ゆかりの地に行こうと誘ったのは……?」
「悪しき因習が、まだ残っているなら終わらせましょう」
エルはそう言って片目を瞑ったのでした。
エルはダイニングテーブルで、昨日頂いた資料に目を通していました。私はエルが買ったという個人売買の雑誌を見ていました。まだ午前中ですが、清掃も洗濯も片付けも終わった間の空いた時間です。
「これは……?」
個人売買の雑誌のあるページで、ページを捲る私の手が止まりました。
「ああ、トライアル競技用の車両ですね。ライトもウインカーも付いていないのは競技用だからですよ」
「トライアル?」
「はい。幾つかの障害物を決められた方向から進入し、ガイドに沿って次の障害物へ向かって走る競技です。速さでなく足を着かずにクリアできたかどうかを競いますから、そんな風に飾り程度のシートで、ステップ位置も荷重移動しやすい場所になっています」
まず舗装路を走るレースがこの世に現れる前はダートを走る事で競い合い、それは騎士の馬から始まったそうです。戦への遅参はもっての外ですが、戦場への早参も困る。そこから生まれたのがラリーやエンデューロという競技で、馬がクルマやバイクに自転車と幅広くなると、競技も細分化され、より専用色の強いものに変化していったようです。
「アメリカはそこに速度を加味し、ジャンプセクションなどがある、オーバルコースでのモトクロスが盛んに行われました。これは観客が見やすいようにです。何事もエンターテイメント(娯楽)と見做し、興行ありきに持って行くのがアメリカです。競馬もカー・レースも、バイクレースもアメリカはオーバルで観客ありきです。それは金儲けのビジネスというだけでなく、その競技の知名度を上げ競技人口を増やし、それで食べていけるプロを生み出すという良い面もあります」
この英国では、一周回らない『行って来い』の競馬場(馬蹄形のように円になっていない)や、直線だけの競馬場があるそうです。
「そのモトクロス用の自転車がBMX(Bicycle Motocross)ですよ。一方、欧州では馬の時代と同じく、土の上を走るならラリーかトライアルです。中でもトライアルは馬術競技と同列視されるほどで、ゴルフと同じく『紳士の嗜み』だそうですね。ですから、ラリーもトライアルのどちらも、ゴルフのキャディのようにコ・ドライバーやマインダーといったナビゲーターが付きます。この英国では特にスコットランドで盛んだそうですが、英国の他にスペインでも盛んらしいです。専用のバイクは勿論、トライアル用の自転車も数多く造られています。『鉄の馬』という意味でなら、こういうバイクこそがそうでしょうね」
なぜ彼女がこうも詳しいのかというと、彼女の元である『エル』が子供用のモトクロッサーやBMXを物心つく前から与えられ、それでトライアルごっこをしていたからだそうです。エルが言うには、やはり子供の頃からこういう事をしていた『エル』のバランス感覚は素晴らしいらしく、そんな『エル』がスイスのエルヴァのために用意したというエルの実力も凄まじいらしいです。
それは何代も続く、魔術回路が豊富な子孫を持つ魔術師の家であっても、幼児からの英才教育は欠かせないのと同じで、バイクだけでなく音楽なども幼少から始めないと、本当の意味で伸ばせないものだからだそうです。
「エルマから聞いたのですが、スケートボードがやたら上手いそうですね。百分の一を英霊の能力でブーストした私とはかなり違い、エルヴァちゃんの遊び仲間としてお手本となるよう、端から『エル』を超える能力が与えられているようです」
何とも不思議な話ですが、そういう事らしい。そのエルと私はほとんど接点が無い訳ですが、今は同じ欧州です。その内、逢う機会もあるのでしょう。言わずとも、エルとスイスのエルは別人であり、『エル』とも違う。なのにその経験と積み上げたスキルを他者に分け与え、それなりに使わせるだけの知識と経験を付与できるところに、この魔術の異常さがある訳です。
そこから暫く本に没頭していた私ですが、その本の中でトライアル用のトラックを見付けて呆れたのでした。おそらく今の世界は昔よりも狭く、情報が早く届くのでしょう。トラックこそアメリカではありませんか?
「いいえ、東欧からロシアに掛けては昔からですよ。そういうテクニックを軍が兵に教えていたのです。そうでないと物資を運べない場所もあったからですね。アメリカのエルヴァやスイスのエルにモードレッドは、そういう用途に向いたトラックに乗って、エルヴァちゃんと過酷な場所に行っていたんですよ」
ああ……なるほどですね。
「そこまで厳しい場所に行かず……そうですね、森の中を進んで自然を楽しめるバイクはありますか?」
「ありますよ。最近はそれを『アドベンチャー・バイク』というらしいですが、冬木のような農道を抜け林道を走るなら『トレール・バイク』がお薦めです。それが『TW』や『SEROW』ですよ。他のメーカーが幾ら頑張っても『SR』というシングル・スポーツには勝てませんでした。それと同じで、このトレールというジャンルもヤマハ一強に近いです。その本にも輸出用の『SEROW』や『TW』が売買されています。手に入れますか?」
「置き場所に困りますよ」
ですが、エルがバンバンを手に入れたのは、その『TW』とタイヤサイズが同じだからでした。のんびりと走るには丁度いいようです。ならば、そういう気分の時は彼女に借りれば良い。
エルが話題を変えてこう言いました。
「ルヴィアの家でもそうでしたが、リビングを使わずにどうしてダイニングばかりに集まっていたのかわかりますか?」
「皆んなお料理好きでしたから、動線と言いますか、その利便性と居心地の良さからですか?」
「それもありますが、凛やルヴィアにそういう習慣を付けたのは私の目論見です」
「そう言われてみれば……あなたがあの家に入る前のルヴィアは、自室以外ならリビングを使っていたでしょうね」
「でしょう? あなたを参考にしたんですよ」
うん? どういう意味でしょう?
「それは?」
「私なりの『円卓』ですよ。人と話し合うのに『食堂』は一番向いています。テーブルが丸い事(平等)よりも、誰しもと忌憚なく話せる場(公平)がある事の方が効果があると考えたのです。そこで食事を摂り、お茶を頂けば口も滑らかになります」
何となくそうではないかと思っていましたが、そのモヤモヤがやっと晴れました。彼女なりの解釈で、円卓の良い部分だけを……。姉のアルトリアでなく、私のですか……。
そこから数時間経った10時過ぎにお客が来たのでした。それまでの時間のお陰で私の腹も決まりました。
「ようこそ、ライネス、グレイ、トリムマウ」
「ん、お邪魔するよ」
ライネスは私の顔を見て片目を瞑った。一方、玄関口で固まったのはグレイだった。私の横にセイバーが立っていたからだ。
「あ、あなたは……?」
「ようこそ。エルヴァの友人で共同研究をしているセイバーといいます。以後、お見知りおきを」
「あ、はい……。拙は……」
「グレイさんですね? 私と良く似た人がいるとはエルヴァから聞いておりますよ」
うぉい! 他人の空似で押し通すつもりなの? でも、セイバーには何か考えがあるようだった。少しドキドキするけれど、今回は彼女の考えに乗ってみよう。
「世には3人自分に似た人が居ると言いますが、これは中々……」
「い、いえ……拙の顔は……」
「お若いのでしょう? 私は童顔でして、こう見えても見た目以上に歳を経ています。あなたが羨ましいですよ」
「そ、そうなのですか?」
効いてるなぁ。そもそもグレイには、ある『結界』というか『封印』が3人の魔術師や魔法使いから掛けられていた。1人はキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ、即ち宝石翁だ。エルメロイⅡ世先生の内弟子であるグレイを、翁も気に掛けていて、彼女の持つ礼装の影響を抑えるような結界を彼女の周囲に張っていた。これを前回の倫敦行きの時に見破ったのが『エル』であり、私だったのだ。よって2つ目の結界は『エル』が張っていた。
確かにグレイは一族の悲願、『アーサー王の復活』に使われる『器(肉体)』である。そしてその『器』は、礼装の封印を解くたびに完成に近づく。なので『エル』は最初に赴いた時にグレイにだけでなく、礼装(アッド)へ重点的に『結界』を張っていた。そしてその疑似人格を触媒にケイ卿の一部を召喚し、半分ほど入れ替えてあった。これは宝石翁が座へアクセスして円卓を喚んでいた後だから、思った以上に簡単だったそうだ。これにより、グレイに掛けられていた呪いのような儀式と術は、内部(アッド)から崩壊していた。
また今のケイ卿はグレイの未来を危惧していた。なのでおそらく今のグレイは大鎌までは使えても、ロンゴニミアドは使わせて貰えないだろう。彼が絶対に許さないからだ。何より彼女が振るう意味がない。何故ならこの世界にはセイバーが居るからだ。
「まぁ、誰かに似ている、それも歳上が相手だと指摘されると気持ちの良いものではないでしょう。ですが羨ましいのは本当ですよ。あなたはエルメロイⅡ世先生の内弟子だとか」
「……はい」
「あの人は信用できます。これからも信じて着いて行き、彼からたくさんの事を学びなさい。私もエルヴァも応援しますから。その証として、私の礼装をあなたに見せましょう」
そしてセイバーはエクスカリバーをグレイに見せた。勿論、この段でこの家には『結界』が張ってある。
「あなたを縛る鎖は私が断ち切ります。あなたは何も背負わなくていい。それは私が背負いましょう。あなたは若者らしく今を、友人や師とともに歩みなさい」
セイバーは私がウェールズに誘った意味を理解してくれた。そうだ、そんな理不尽な願いは意味がない。このグレイの顔からこの世界のアーサー王はセイバーとは違う女王だったのは認めるが、ではその顔を似せていく術式は何を参照している? それは一族に残った記憶の継承でなく、おそらく『座』だ。極々細い糸のようなパスを護る陣が、ウェールズには今も残っている筈だ。それを壊そう。この倫敦にいる間に、グレイに絡みつくすべての鎖をセイバーとともに断ち切ろう。
この日より、グレイの顔はセイバーと似ているけれど、別人とわかるものへと変化していった。