廊下を進んでダイニングに行けば、ママにイリヤに美遊、皆んな揃っていた。『ごめん』と謝って食事が始まった。チラリとイリヤを見たら、リビングのソファーに積み上がっている箱をアゴで指した。セラ達が受け取ってきた制服だろう。そっちに解釈したか。でもこれは私が悪かった。
「マーヤさんの事だよ。戻ったの?」
「ううん、会ってないから知らない」
「そう……」
これには説明が必要だろう。まず、この家のメイドはご飯を私達とは食べない。2階下の自分達だけの食堂で食べている。最初イリヤは、『家族なのにおかしいよ』とお姉ちゃん達に言った。だけどエルお姉ちゃんはこう返した。
『そちらでセラやリーゼリットと一緒に食事を摂っていたのは、クロちゃんの記憶を視て気付いていました。『使用人も家族の一員だ』という考えは否定しませんが、それはイリヤちゃんの家の方法ですよね? ここでは家族と使用人は明確に分けられています。朝は5時から11時までの6時間。夕方は5時から7時までの2時間。合計8時間で雇用契約を結び、きちんと毎月の給金を支払っています。3食の食費に各人の個室、共有の食堂やキッチンにリビング、メイド全員が十分入れるお風呂もこちらで用意したものです。それで何も全員が5時前に起きる必要もありません。こちらへの朝食の準備程度なら1人か2人で十分です。なら残りの人は午後を3時から開始して、お買い物に出てくれても構わない訳です。結構フレキシブルですよ? 要は1日8時間働いてくれればそれで良いだけですから。それに交代制ですが週に2日は休めますし、事前の報告があれば長期休暇も認めています。それでベースが時給換算で千円。つまり1日8千円の×22日です。昇給もありますし、賞与や労働保険もあります。トントやコティは学生ですから、働けない時間も多いですし、ベースも低いです。ですが授業料や学業に必要な備品の代金もこちら持ちです。さて、イリヤちゃん? あなたの家ではセラやリーゼリットに毎月いくら支払っていました?』
これでハッと気付かないと嘘だ。もし払っていないなら、『家族だ』という言葉は詐欺の言葉になってしまう。それにお姉ちゃんは、保険や休みの事もちゃんと考えていた。部屋も狭いところに2人も押し込めるのでなく、1人ひとりに、その2人の部屋より広い部屋を用意していた。
それに『家族』のためにキッチンは対面式にし、リビングとダイニングがくっついた『日本式』にしている。これは特に美遊のためでもあった。本当ならリビング(家族が寛ぐ空間)とダイニング(食事を摂る場所)は別室にするものだという。と言うのは、キッチン(厨房)やランドリールーム(洗濯や繕いをしたり、アイロン掛けをする部屋)はメイドの戦場で、家の者が入っていい場所ではないからだ。なので本式のダイニングにはメイドが使う厨房に通じる扉と、家族が使う扉と2つあるのだそうだ。
『それもヘンだよ? そんなお城みたいな家なんてどこにもないよ?』
エルお姉ちゃんが首を振り、イリヤお姉ちゃんが優しく言った。
『でもね、そういう家もあるのよ。それが本国のアインツベルン……私の生まれた家だったの』
イリヤが私を見たので頷いた。赤ちゃんの頃の記憶だけど、雪で閉ざされたあの家はそういうお城みたいな家だった。イリヤは凄くショックを受けていた。だけどパパとママはイリヤには普通で居て欲しかった。だからこんな『自分の知っている範囲が世界のすべて』と勘違いするような子になった。並行世界の家で泣いていたのも、これがあったからだった。
対してここのパパとママは、美遊に日本の一般的な生活も知っていて欲しかっただけだ。だからこの階だけこういう造りになっている。だけど海外にある別荘だとそこの生活様式に合わせて余暇を楽しんでいる。それは『郷に入れば郷に従え』という事だ。そういう風に、美遊は国際人として育てられていた。だから出逢った頃から、美遊はドイツ語も英語も話せた。
そしてこうなると、イリヤの言葉は『勘違いが前提』の『狭い範疇を自分の常識と思い込んだ』、痛い言葉になってしまう。発端となった最初のメイドの事なんて、まかり間違えば『非人道的』な方法の押し付けに過ぎなくなる。だってどこの誰が雇い人と顔を突き合わせてご飯を食べたい? それよりもサッサと仕事を終え、ゆっくり寛いで食べたいだろう。それでお風呂に入って、仲間と少しお話して眠りたいだろうと思う。
ちなみにエルお姉ちゃんもイリヤお姉ちゃんも、高等部に上がってからは基本自分達で3食用意していた。でも朝ご飯や学園に持って行くお弁当は用意できても、それぞれ部活や習い事(※)や勉強があるので、晩ご飯が用意できない日もあった。そういう時はメイドに事前連絡して、こっちで食べていた。だからこのイリヤのエピソードも、お姉ちゃん達が上で食べていたある日の事だった。
※)お稽古事。イリヤお姉ちゃんは生徒会長(1年の秋から3年の秋までの2年間)であり、弓道部の副部長でもあり、書道部の副部長と華道部と茶道部の部長を兼任していた。それは学園の外でも書道(五段)と華道(免状持ち)を習っていたからだ。また、この華道の先生からは茶道も習っていた。一方、エルお姉ちゃんは空手と合気道とバンド活動があった。空手はスイス時代から学んでいて今は三段だ。しかも武道が好きで古武道も自分で調べて学んでいた。合気道を中等部時代から始めたのも、古武道を学ぶ一貫だったらしい。おまけにバンドの方はほぼ人形で、ここに割り振られていた『意識』が主に47番、つまり並行世界に流されたエルヴァお姉ちゃんだったのだ。
ちなみにドイツのミトお姉ちゃんは楽器も演奏できるけれど、そちらよりバイクが好きで、お稽古事はクラシック・バレエだったりする。なので人形の1人が一時モスクワに住んでいて、本気で学んだそうだ(エルお姉ちゃんも1人香港に住まわせ、中華料理を学んだらしい)。対するパミのお姉ちゃんはクラシック音楽が好きで、長年ピアノを続けている。腕前はエルお姉ちゃんより上だとエルお姉ちゃん本人から聞いている。
ところで(2番めの)アーチャーのお兄ちゃんがここまで出ないのは、別の場所で暮らしているからだ。それがどこかと言うと、並行世界で一家惨殺事件が起きた家があったところだ。あそこは土地が分譲で、家は土地購入者が自由に建てられた。そこをどういう運命か、エルお姉ちゃんが角から三区画分買っていたのだ。
どうも遠坂や間桐と関係ない、一般の会社が売りに出していたらしい。それならアインツベルンが買っても問題ないだろうという計算だ。それに平和裡に第四次聖杯戦争が終わったここは、土地の価格が値上がりするのが見えていた。だからお姉ちゃんは、冬木のあちこちに土地や家屋を持っていた。神社に近いアサシン達の寮となっているマンション3棟もそうだし、深山町の洋館街にある角家(第四次で時計塔のウェイバー先生がライダーと潜伏していた家の裏になる)もそうだ。
それでその惨殺があったところに家を建て、魔除けとしてアーチャーのお兄ちゃんが暮らしている訳だ。実際、エルお姉ちゃん曰く、霊脈の流れはそうでもないけれど、街の道路や下水道、周囲の家の構造から、運気が悪くなりやすい場所だったそうだ。なのでその角の1区画を庭にして、残る2区画で運気が上昇する構造の大きな家を建てた。名義は巫女のお姉ちゃん(でも、土地もそうなら建築費や税金やら何やらは、全部エルお姉ちゃん持ち)。普段はこっちで暮らしている巫女のお姉ちゃんだけど、時々『義弟』の様子見と言って、あっちで泊まったりしていた。
これには色々な理由があった。まずパパもママも巫女のお姉ちゃんをとても心配していたからだ。エルお姉ちゃんが救けたは良いけれど、聖杯に潜むアンリ・マユに身体を食われ、魂だけの存在になっていた。今はエルお姉ちゃんの魔術で出力されたエーテルで身体を構成できるけれど(※)、エルお姉ちゃんの宝具に取り込まれた事で受肉のクスリが効かない状態でもあった(これはアルさんやお兄ちゃんも同じ)。となれば、お嫁にも出せないと親として心配になるのは当然だった。なので巫女のお姉ちゃんはパパとママを安心させるために、『いつか受肉したら、旦那さんと暮らすのよ』と言って家を建てたのだった。それで安心できるのかと疑問は残るけれど、少なからずママは安心したそうだ。
※)私とイリヤが4年生に編入して間もない頃、アメリカの別荘でアルさんとアーチャーのお兄ちゃんが、稽古(模擬戦闘)中に庭に置いてあった新品のモーターホームを壊してしまった事があった。エルお姉ちゃんがパパとママのためにと用意したものだ。巫女のお姉ちゃんは2人に代わって土下座して罰を受けると言った。それで10月から12月末の3ヶ月間、巫女のお姉ちゃんは巫女のお仕事を休んだ。それはエーテルが白猫の姿になっていたからだ。そしてこのお姉ちゃんもイリヤお姉ちゃんも、後から来た小さいお姉ちゃんも大の猫ギライだった。
だけどこの人はへこたれない。アンリ・マユに身体を溶かされても耐えた人だ。なんとその猫の姿で、毎夜毎夜イリヤお姉ちゃんの部屋に潜り込み、布団に入って眠るのだ。このイジワルにも理由があって、本当ところは猫に拒絶反応を見せない私のイリヤを見て『何か変』だと思い、『これって憶えていないけれど後天的なもの?』となって、イリヤお姉ちゃんの猫ギライを直してあげたかっただけだった(巫女のお姉ちゃん 談)。だけどそれでイリヤお姉ちゃんはますます猫ギライになってしまった。そして本人は猫が平気になっちゃった。
『でもね、この罰の恐ろしいところは猫にされるところじゃないのよ?』
イリヤお姉ちゃんの言葉だ。実はこの家の美遊の部屋には猫が数匹居る。そこにエルお姉ちゃんは、猫になった巫女のお姉ちゃんを毎夜放り込んでいたのだ。盛りの時期でもない、去勢手術も終わっている、なのに雄猫達は巫女のお姉ちゃんを襲いに掛かるのだ。だから空間転移で、さしものエルお姉ちゃんも頭の上がらないイリヤお姉ちゃんの部屋に逃げていた。それが真相だった。
『モーターホームなんて、お金があるんだからまた買えば良いのよ。それなのに、ここまでするのかって……』
とは言え、内装も何もかもが特注で、数年掛かりで造ってもらったらしい。しかもお値段は億に届くという。それはねぇ……。だけどこんな風に、巫女のお姉ちゃんとイリヤお姉ちゃんは、意外と言っては失礼だけど、思った以上に仲が良い。だけど時々口喧嘩もしていて、『化け猫』『誰が化け猫よ。あなたの部屋で毛玉を吐くわよ』、なんて事を言い合っているのを私は数回見ている。
なお、巫女のお姉ちゃんが猫だった期間、専用の餌(ご飯)を作ったり、シャンプーをしてあげていたのは、これまた意外だけどエルお姉ちゃんだった。
そしてこの『猫の問題』を長い間気になっていた私は、つい先月エルお姉ちゃんに尋ねた。
『ちぃ姉さんを見て思うでしょう? 徐々に変わって来ましたが、体の成長が止まると心の成長も止まるって。巫女の姉さんは素直で優しい人ですが、それってつまり、子供の部分がまだまだたくさん残っているという事でもあります。ですが本人もそこには気付いて、日々成長しようと心掛けています。だから義姉として、元マスターとして、お兄ちゃんやアルさんの罪を被った訳です。では、クロちゃんは何が気になったのか? それは姉さんの『ここまでするか』という言葉でしょう? 実際、私に詫びて謝罪し罰を受けるのは、巫女の姉さんでなく、当事者のお兄ちゃんやアルさんです。この良かれと思う行動が、『周囲に流されやすい衛宮士郎』や『一時の感情で恩師や友人を殺してしまった大英雄』を甘やかし、ひいては『子供の感情のまま、お姉ちゃん振りたいイリヤスフィール』に無益な『自己満足』を与える結果となる……そこを危惧して過酷な罰を与えた訳です。ですが猫は3ヶ月の契約です。クロちゃん? この世には僅か数千万で自らの命を断つ人もいます。それも、その人の生命の値段ではありませんよ? 『自らの価値を決める』ために自殺するのではありません。どう足掻いても工面できない立場に追いやられ、残される家族を思いやり、苦渋の決断の上で命を断つのです。計算しやすいように1億を9千万にしましょう。巫女の姉さんが1日で100万円も稼げますか? 狭い感情でなく、法を基準に考えてみて下さい。いくら謝っても、家族だからとタダにはなりません。謝罪が受け入れられるのは、慰謝料などを弁済した後ですよ?』
私は『あ!』っと言葉に詰まった。ゴメンで済むなら警察はいらないってアレだ。
『ですが、それを巫女の姉さんが代わって支払う必要も本来ありません。アルさんでもお兄ちゃんでも、仕事を振れば数年で返せます。そこを巫女の姉さんがしゃしゃり出て来たものだから、ややこしくなっただけです。そしてそういう風に暴走しがちな巫女の姉さんを、グイッと引き止める役がアルさんやお兄ちゃんにはあります。ですから猫にしたのはアルさんやお兄ちゃんに反省を促す意味もありました。ところが釣りの時の外道(河豚など)のように、シロウさんが猫を抱きしめ『イリヤ~!』って……』
この『シロウさん』は大魔導師のリンの旦那さんの事だ。そしてこの人は『イリヤスフィール・コンプレックス』という新しい病気を抱えていた。それは何かと言うと、あからさまに私とイリヤとで態度が違うのだ。エルお姉ちゃんは細かな髪型以外、見た目がほぼイリヤお姉ちゃんだから、『何だ、お前かぁ』で済むのだけど、肌の色が違う私は完全にアウトオブ眼中だった。お呼ばれしたら、極端な場合だと私の分のおかずがイリヤのところにあったり、そうでなくとも一切れ二切れ、イリヤの方が多いとかザラだった。差別とかでなく無意識でそうなるのだ。それでリンに殴られ、ハッとなって普通の優しいお兄さんに戻る。
物怖じしないお姉ちゃんなら、『おい、タコ宮イカ士郎! 姉さんの方が多いのはなぜだ? こんな差別主義者が判じる正義って何だ! 言ってみろ!』と平気で言う。そしてシロウさんはハッとなってお姉ちゃんに謝る。エルお姉ちゃん曰く、『すべての衛宮士郎は狂っている』だった。
それはさておき、この街には他にもアーチャーが居る。小さいお姉ちゃんとやって来たリン(凜)のサーヴァントで、4番目の座を持つアーチャーだ。ちょうど5年生に上る前の春休みだった私とイリヤは、『社会見学』として大魔導師のリンに誘われ、その1月半ばから2月半ばまでを繰り返す世界にエルお姉ちゃん達と行っていた。そこでリン(大魔導師)から、もう半年以上過ぎたのにどうして私達が帰れないのかの理由を明かされた。先に私が尋ねていたんだけどね。
『魔法使いが2人も居るのに(大魔導師と弟子の凜の事)、半年過ぎても私達の元の世界がわからないって嘘でしょう?』
答えは残酷だった。おかしな話だけれど、世界が修正力を働かせて、別の私とイリヤを代役として立てていたのだ。
『そんなのルビーやサファイアにできると思う? あの杖にできるのはあなた達を逃すくらいでしょう? じゃあ、誰が代役を用意したか。ズバリ、あなたの妹よ』
『イリヤが?』
『そう、この半年であなたも考えたでしょう? 自分が本来のイリヤスフィールだった。ならあの子は『エルヴァ』じゃないかって』
そう、それを何度も考えた。でも違うような気がした。
『ええ、違うわ。あなたの妹で間違いないけど、ポテンシャルは『エルヴァ』並にある。そんな子が胸の聖杯に祈っちゃったのよ。『家族を悲しませないで』って。時系列的には謎もあるけれど、相手の宝具を受けていたのでしょう? ならそれらを魔力に戻して、小聖杯に溜め込んでいた可能性もあるわ。何よりそういう純真な願いには、協力してあげたいとあなたも思うでしょう?』
今ひとつわからないところもあるけれど、どうやらカードにエーテルを纏っていた頃の私は、イリヤとは『魂』こそ違うけれど、『魄』で『身体』と『小聖杯』を共有していたカタチになっていたらしい。そこにあっちの世界のリンがお腹に描いた呪刻だ。私とイリヤは普通の双子以上に繋がっていたのだ。
『だから、残酷だけど今居る世界で生きなさい。それが2人の未来に繋がると私は思うわ』
それで私はこの話をイリヤにもわかるように噛み砕いて話し、お姉ちゃん達の『妹』になって生きると決めたのだ。
「あ~!」
晩ご飯を終えるとママは隙かさず、小さいお姉ちゃんの制服が入った箱を開けていた。
「可愛い~。ねぇ、イリヤちゃん? ちょっとお袖に手を通してみて?」
「え~、ママ、勝手にダメだよ。借りるなら小さいお姉ちゃんが帰って来たあと。その時に『いいよ』って言ってくれたらね?」
何とかイリヤが断っていた。それを見て美遊がニコニコしていた。これが今の私達の家族だった。
昨夜は参った。『そう来たか』という感じだった。今私達はフェリーのデッキに出てストレッチと軽いランニングをしていた。何に参ったかと言うと、バイキングでの『エル』の取った作戦にだ。受付でチケットを渡し、ドリンクはビールをオーダーした。それでお皿を受け取るのだけれど、たくさん並ぶ数々の料理を自分のお皿に積み上げるセイバーと同じように『エル』も取っているのだ。
『ちょっと、『エル』。あなたそんなに食べられないでしょう?』
『セイバーに回す分ですよ。いくらお代わり自由のバイキングでも、3回も4回も取りに行けば目立ちます』
なるほどと思いつつ、私より背の低いこの2人がてんこ盛りだと十分目立っている気がするんだけど……。テーブルに着いたところでビールがやって来た。先にミニ三脚に付けたカメラで3人のショットを撮り、次に乾杯のショットだ。
『セイバー、おかずの代わりはあなたのお皿で2回まで。ご飯も2回くらいに抑えて、後はカレーにしなさい。その代わり、明日の朝食も2回食べさせてあげますから』
『わかりました』
朝食2回?
『フェリーで1回、船を降りたら竹瓦温泉で朝風呂を頂いて、その後にセイバーにはササッとどこかでモーニングでも』
『おぉ、『エル』……あなたに感謝を』
そうして大浴場もササッと終えて、サッと眠った。やっぱりバイキングって、わかっていても食べ過ぎちゃうのが難点だ。それを見越しての朝風呂な訳ね。それで朝の運動を終えた私達はバイクウェアに着替え、荷物を『エル』に預けた。フェリーは別府港に入るところだった(2005年当時、神戸発は大分港でなく別府港着だった)。さぁ、ヘルメットとグローブを持って、愛車と朝の挨拶だ。
昨日見知ったライダーさん達にお別れの挨拶をして、私達も船を降りた。温泉は6時半開店で、『エル』は最初から予定に入れていたようだ。今夜泊まる旅館は由布院だ。チェックインまで時間があるから、大谷渓谷をオフロードで走る予定だ。もし時間があるなら邪馬渓まで足を伸ばして青の洞門を通っても良いし、玖珠近辺の林道を走っても良いだろう。大分県は別府や由布院などの温泉だけでなく、材木や椎茸でも有名で、その作業のための林道があちこちにある。中でも邪馬渓から玖珠に掛けて林道が多い。だけど何と言っても大谷渓谷だ。ここは水深数cmから10数cmの浅い奈女川を、バイクやクルマで走れるとオフロード好きに有名な場所なのだった。
どう走っても走行距離は知れているので、オフ車に乗り換えるまでは大分自動車道や国道はともかく山間部を走る県道は避けた。その理由は今がまだ3月上旬なので積雪の可能性があったからだ。だから朝風呂の後、別府市内の『なんとか地獄』を数ヶ所巡って、適当な喫茶店で休憩した。セイバーのモーニングのためだ。『エル』は内心、関サバや関アジの食べられるお寿司屋さんか、とり天の美味しいお店に連れて行ってあげたかったらしいけれど、こんな朝の9時台から開いているお店なんて無かったのだった。
その後、国道500号を北上し、宇佐の辺りで国道387号に乗り換え、大谷渓谷を目指して南下した。この道中の先頭は『エル』で、次が私、そして最後尾はセイバーと走行順を入れ替えた。至って平和で見掛けるクルマも軽トラックが多く、時間帯と使う道のせいか、すれ違うバイクはどうも地元の人達だ。
『ライダー同士でサインを送るのは、お互い、あるいは片方がツーリングをしているという前提があってこそと思います。ですのでどう見ても商用にしか見えないバイクや、125cc以下にサインを送るライダーは滅多に居ません。『浮かれているって思われたらどうしよう』って迷いますからね』
これはシロウ(大魔導師の旦那様)の生前のエピソードを聞いた時の『エル』の感想だ。どうも学園時代の彼は、そういう営業用や商業用のバイクを中古で手に入れては手直しして乗っていたらしい。『現役の学生時代、誰からもピースなんて貰った事がない』なんて言い出すものだから、どういう事かしらと思えば、そういう恥ずかしいと思う心理が働くからではないかという『エル』の指摘だった。これは私も納得だった。
それに本日はこれからオフを走る。そしてオフ乗りはお互いをバカにしないし、上から目線でものを言わない。なぜなら排気量はどっこいどっこいだし、お互いのバイクがキチンと走っている人ほどボロボロだ。そしてそれで少し走ってライディングフォームを見ると腕が丸わかりになる。所詮排気量なんて、クルマと同じでその人個人の懐具合を婉曲に自慢しているだけで、腕とは何の関係もない。エキゾチックカーに乗って自慢しても、アクセルワークが下手ならスピンして即事故だ。そしてそういうのはアクセルのふかし方一つでわかる。フッ……最強の戦士を召喚できても、私が強い訳じゃないって事だ。
だけどオフロードにそういうのはない。灯火類を付けているなら、別に林道をモトクロッサーで走っても良いと思うし、農業用やトレールバイクで走っても良いと思う。だって林道は林道であるだけに『飛ばせない』し、『肺一杯に山の空気を吸い』、『景色を楽しむ』ものだからだ。
幸いにも到着した大谷渓谷の入り口には誰も居なかった。だから『エル』の開いた宝具の入り口から中に入り、そこで『Z』を止めると、預けてあったオフ用のウェアや装備に着替え、自分の『KLX250ES』に跨った。ヘルメットは『arai』か『SHOEI』か忘れた。知り合ったばかりのまだまだ子供だった『エル』が、オフロードを始めた私のために用意してくれたものだ。
元は赤だっと思う。それの内張りを剥がして、ベンチレーションとして働く『風』の魔術礼装と衝撃吸収の魔術札を仕込み、外にデフォルメした、マンガチックなバーサーカーを描いてくれたものだ。色もイラストも剥げボロボロだ。耐用年数もあるし、そろそろ塗り替えるか新しいのに買い替えたらなんてイリヤには言われるけれど、どうにもこれが気に入っていて、内張りを他の物を流用して張り替え、これまで使ってきた。オンロード用なら、バイク毎に使い分けたり買い替えたりしているから2個も3個も持っているんだけどね。
セイバーもそうだ。彼女のも『arai』の真っ白なのに、『エル』が描いたイラストがプリントしてある。パソコンで絵を描き、シールで印刷したらしい。これは手抜きでなく、デザインが凝っているからだ。白地の上に後ろから前に流れる、太く青い線は矢印のようにも見える。その真ん中には黄金の切っ先が。これが矢印に思わせるのだ。そしてそれはまさに『聖剣』の切っ先で、両耳付近の左右のサイドには『Excalibur』のデザイン文字が入っていた。それで頭の後ろの、ちょうど襟足の部分には、剣を天に突き上げるセイバーの姿を象った小さなシールが貼られていた。こういう事をしてくれるから『宝物』なってしまうのだ。
それで『エル』本人は『宝物』をこういうオフでは使わず、『TW』や『SEROW』と一緒に普段の街乗りで使っている。それが古い『BELL MOTO3』や『SIMPSON M30』などだ。それでサーキットに行けば『風神』の描かれたフルフェイス。ゼファーの時は、自分がモデルになったマンガのようなイラストだ。
3人がオフロードの装備と車両で宝具の外に出た。この世で1番便利な礼装がこの宝具で、この世で1番最強な魔術が人心コントロールと空間転移だと私は思う。何でも仕舞え、出口も入り口も任意の場所にできる倉庫。隠蔽も秘匿も、記憶を消せば無かった事になり、逃亡も脱出も思いのまま。
こんなのを代々追い求め、積み上げてきた本家。根源って何だろうと、割と本気で思っている今日このごろだ。