学園に到着した私は、先に霊体化したまま職員室に乗り込みガムテープやビニール紐を頂戴していた。今慎二は口にガムテープ、身体にはビニール紐がグルグル巻きだ。
「君、鬱憤……溜まっていたんだな?」
実体化して声を掛けると、紫色の長髪を靡(なび)かせた小顔の女性は、顔を少し赤くしてプイッと横に向いた。過去数回、造形美溢れる彼女の尊顔を拝した事があるが(つまり魔眼を直視した)、元が女神というだけあって、眼帯で両目が見えずとも美人であるのが想像できてしまう。ただ、その横顔は鼻筋とおでこの間に窪みがなく、そのまま真っ直ぐ伸びていておでことの境目がない。石像などを思い返して欲しい。これがギリシア系の特徴だ。なので慌てずにしっかり観察すれば、バーサーカーもどういうところの英雄か何となくわかってしまう。だが同じギリシア神話に出て来る人物だとしても、メディアなんかは民族が違うのでこの鼻筋の特徴はない。しかもあの耳が語るように、スラブ系の特徴も表に出ていないので、1番謎に等しい人物だ。
私はライダーに、気絶させた慎二を担ぎ上げて貰った。勿論、慎二を縛ったのはライダーだ。私はリンに念話でライダーを確保した事と、間桐慎二を捕らえ現在帰路にある事を伝えた。それからライダーと少し会話をしながら歩いた。
「重いなら代わるが?」
「いえ、重くは……それより」
「君の本当のマスター、間桐桜は私のマスターである遠坂凛の実妹だ。幼い頃に桜は間桐へ養子に出された。理由は臓硯が年月を掛け、そのように仕向けたからだ。では何のために? 最大の目的は間桐と並ぶ、聖杯戦争を司る御三家の一角、遠坂家を枯らすためだ。最後に聖杯を掴むのがたった一組なら、同じ冬木に根城を持つ遠坂家を真っ先に潰しておくべきだからな。次に考えられるのが、焦りだな。間桐は代を重ねるごとに魔術回路が洗練されるのでなく、逆に枯れて行った。もはや慎二には魔術が使えんのだろう? そのための魔導書だろうからな」
ライダーは驚いた様子で私の方を向いた。
「ライダー。桜を救けたいというのは私と私のマスターの願いでもある。これは君の願いとも一致すると思うのだが?」
経験則というか勘というか。神の血を引く者は天の摂理に組み込めはしても、記憶まで操作できないのではないかと考えたのだ。そこまでの権限を世界も持っていないと。そう気付かせてくれたのが、ライダーでありバーサーカーだ。私の知る限りこの2人は毎度毎度、どの世界であろうとそれぞれのマスターに対する情愛が深く忠誠心もマックスだった。いつが始まりであったか思い出せない、終わりなき抑止の仕事だが、何度も繰り返す内にライダーとバーサーカーだけは信用に値すると感じていたのだ。
バーサーカーにそれはないだろうとの意見もわかる。しかし相対してみると通ずるモノがあると言うか…………。もし彼が言葉を話せるのなら、じっくりと語り合いたいというのが私の密かな野望だったりする。だって、そうだろう? ギリシア最強の英雄が語る人生訓など聞いてみたいと思わんか? 試練に立ち向かう時の気持ちとか、私は断然聞きたいぞ。ま、後にその野望は叶ったんだが……。
洋館街の1番山側、崖の下に建つ遠坂の家に着いた訳だが、この家は奥に長く、崖との間に小さな公園くらいの広さがある中庭があった。しかしながら敷地面積が大きそうな館が土地を食い潰しているので、中庭はあれど衛宮や間桐の家より狭く感じる。これは崖が家に迫って見えるからだろうし、家屋が正面と側方にある道路に面しているからでもあるだろう。
対する衛宮の家は寄棟屋根の高い武家屋敷ではあるが、道場や離れを含め全棟平屋だ。外塀も目線の高さより高いので、母屋の一番高い屋根しか見えない。それが見る者の想像力を働かせ、より広く感じさせるのだ。実際無駄に広く、区画を分けて毎日小まめに掃除しないとどうしようもない。まず1人だと、1ローテーションに1ヶ月掛かると見て良い。しかも築ン百年の家だから、維持費がやたら掛かる。年間を通すと私学である穂群原の授業料より、維持費や税金の方が高いのだ。そうなるとマトモな人間なら役所へ相談に行き、民生委員などと相談し土地家屋を売却して、もっと小ぢんまりした家に引っ越すものだ。そうすれば相当金が浮いただろう。
しかし私という人間は、ジイさんとの思い出を優先しあの家に住み続け、藤ねえの言うがままに穂群原を受け、ジイさんの残してくれた遺産を食い潰していた。バイトなど焼け石に水もいいところだ。中庭で野菜を育て、家の修繕も自分で行い、トイレの改装まで一部を除き自分でした。汲み取りから水洗になったのは、私やジイさんが住むもっと前だと思うのだが、いかんせん和式だった。なのでそれを洋式にしたのだが、便座部分を業者に頼み、タイル張りなどは自分でやったのだ。後でタイル張りの工賃を知って呆れた。便座交換があるので数万で済んだのだ。
こういうマヌケな思い出が多いので、私は衛宮士郎に出逢う度に話している。『家を売って、もう少し楽に生きろ』と。生活に追われるから思考が偏る。偏った思考は、幼い頃に懐いたユメに固着し、後天的に持ってしまった精神疾患を悪化させる。いつ頃からか、そこに気付いてしまった。だが、悲しいかな話してわかる衛宮士郎は居ない。自分で頭を打つけんと人は変わらぬものなのだろう。
話が横道に反れた。間桐の家もこのような効果を外塀や樹々に持たせていて、正面玄関のある門のところまで行かねば中が見えない構造だ。そしてこの洋館が手前にドームと言うか、特徴的な円筒状の部分があるので、実はL字型でもっと横に広い家だと気付き難くなっている。そういう視覚効果を狙って建てたのだろう。昔、慎二に庭を案内して貰った事があるが、横手の庭には石碑や噴水があり、その先に日本庭園と平屋の日本家屋があったのを憶えている。茶室にしては大きいので、今にして考えれば、臓硯が離れ的に使っていたものなのだろう。そしてその日本家屋と洋館の裏に広大な裏庭があった。それが遠坂の家の土地がすっぽり入るくらいの面積があった。こういうところからも考えてみるに、セカンド・オーナーとは何だとなる。冬木に於いて実際に権勢を誇っているのは間桐なのだ。
遠坂はリンが居なくなれば終わる。間桐も臓硯と桜が居なくなれば終わる。いや、臓硯が居なくなれば桜は魔術師にはならないか、リンを頼って新しい暮らしを始めるだろう。対するアインツベルンは資金が続く限り、次々と魔術師を造り出せる。最終的に残るのはアインツベルンだけで、聖杯戦争に於ける御三家はとっくに破綻していた────。
「結界を張ったから今よ、入って」
カチャリと開いたドアからリンが顔を覗かせそう言った。私と慎二を抱えたままのライダーは、玄関に入りドアを閉めた。リンは慎二を別室で降ろさせ、一度活を入れて起こし再度強い暗示を掛けて完全に意識を奪った。実に漢らしい。
「君、それも中国拳法なのか?」
「はい? なにそれ? ああ、今の活? あれは空手よ」
驚いた事にこの世界のリンは、母方の祖父からの薦めで幼い頃から空手をやっていて、彼女の話によると現在二段だった。
「今は大丈夫だけど、私は赤ちゃんの頃、かなり危ない状態だったらしいの。そこもあんのよ、妹がいるのは」
そういう事だったのか……。
「ライダー、間桐の家は地獄だった? 天国だった?」
「サクラにとっては地獄でした」
リンは真顔で一つ頷き、慎二の様子も聞いていた。そこから居間に移動し、桜の身に起きた事や慎二が行った行為などを、再度詳しく尋ねていた。この時、桜の様態をライダーは包み隠さず訴えていた。リンと桜の関係を知ったが故に、ここがチャンスだと見たのだろう。対するリンはとても落ち着いた顔でライダーの話を聞いていた。頼もしいと言うより、不気味だ。内心では相当怒っているのは間違いない。
それでも淡々とライダーの話に耳を傾ける姿勢を崩さないのは、どうやら『自主的に動いた結果なのか』『恐怖で縛られ、命令された結果なのか』『暗示を受けているのか』を探っているようだった。これは慎二に過不足なく罰を与えるためだと思われる。リンの中では臓硯の罪は確定しており、それは死を以って贖うべきものと既に決定している。しかしだからといって、すべてのケースであの家全部が悪と断ずるのは早い。リンも間桐家を滅ぼそうとまでは考えていないだろう。『自主的』なら致し方ないが、『命令』や『暗示』なら情状酌量の余地はある。特に本人に記憶がない後者のケースなら。
一時の怒りに任せて一緒くたに断罪するようだと子供と同じだ。これはどの世界のリンもそうなのだが、十代でこういう冷静な判断を下せるところがリンの魅力であり、素晴らしい美点だ。自分に置き換えて考えてみて欲しい。過不足なく罰を与えるには、それらを調べるために二度手間、三度手間が掛かるのだ。なかなかできる事ではないのがわかるだろう。
話は少し変わるが、罪と罰と聞くと、私は真っ先に砂漠の掟を思い浮かべる。砂漠に於ける罰則が苛烈なまでに厳しいのは、彼の地が灼熱の世界で、1人のミスが大勢の死に直面する場合が多々あるからだ。部族ごとでのテント暮らしだから、姦淫に厳しいのは想像できると思うが、水のない乾いた土地ゆえの掟はもっと厳しい。豚肉厳禁なのは首のない生物だからと言うより、暑さに弱く、病気に罹りやすく、なおかつ屠殺したらしたで、肉が痛みやすく、病原菌の繁殖が早く、水がないので内蔵処理も難しく、食べられる部分が思った以上に少ないからというのもある。厳寒な土地も掟は多く厳しいものだが、砂漠よりマシなのは暑さより寒さの方が人は順応し、幾分冷静に物事を考えられるからなのかも知れない。
水がない土地というものは本当に厳しい。そのためだけに女こどもは何kmも何十kmも歩き、水を汲みに行く。そのために部族同士で相争う。人も家畜もまず水ありきなのだ。生きるための飲料優先だから、風呂もシャワーもない。トイレも専用の小テントの地面に溝を掘りそこで用を足すしかない。大なら左手で砂袋から砂を掬い、それで尻の汚れを取るしかないのだ。驚くべきはメソポタミアで、ローマの最盛期の如く、彼らは水洗トイレを持ち、海綿で尻を拭いていたという。後年のギリシア時代でもそこらの砂利だったのにだ。なお、紙が庶民に普及する前の昔の日本は、籌木(ちゅうぎ)という木のヘラで尻を拭ったそうだが、ロープを跨いで尻を拭うのは少し昔の中国の田舎か、アフリカのごく一部だけだった。ではそれ以外は紙かというとそうではない。まず紙は水がないと漉(す)けないし、伐採できる木がないと作れない。何より作れても物書きに使う方が優先される。なので西暦前と同じようにそこらにあるもので尻を拭っている。ある統計では世界人口の半分は、現代でも紙以外で尻を拭いているのが現実だ。
そして砂漠の民も大抵現代でも砂だ。ところが地面の砂は直射日光を浴びて熱い。小テントの中の砂であっても地熱で熱くなる。だから砂袋というものがあるのだ。この砂袋はエジプトであろうと、サウジアラビアであろうと、誰しもが持ち歩いているし、正規軍であろうと反乱軍であろうと持っている(使用後は太陽が殺菌してくれるのでそこらに撒く)。もし旅行でそういうところに行く機会があるなら、2枚重ねのトイレット・ロールと、濡れティッシュなんて持って行くと驚かれる事請け合いだ。
っと、何の話だ。失礼、話がだいぶ横道に反れた。元に戻そう。私が自分の考えに浸っている間も、リンはライダーに質問を重ねていた。
「リン。これでもあるのかないのかわからん、間桐との盟約とやらを守るのかね?」
「守る理由はないわね。何よりその『盟約という情報も出処が怪しい』ってアーチャーは考えるのでしょう?」
「そうだ」
「私も同じ。そういうところからも、長年に渡って偽情報で撹乱して来ていたのね……」
「なら、桜と君は年子だろう? 義務教育を終えた15歳なら、本人の意志で養子縁組を解消できる筈だ。なおかつ、肉体の表に見える傷などは随時撮影して虐待として訴訟に持って行ける。もしできるなら、非処女である事も証明できれば間桐を表から潰せる」
「そうね。できるできないは本人次第だけれど。ともかくそのためにも桜をここに連れて来ないと」
それで私とライダーとで桜救出に赴いたのが未明の事だ。寝ている桜をライダーが間桐の家から運び出し、表で待機する私と合流。そのまま遠坂邸に連れ帰った。その後は更に桜を深く眠らせ、ライダーの証言を参考に魔術を使いながら桜を診察した。
「やっぱり、心臓に何か居る。コイツが臓硯……」
家宝の宝石について、私はリンに診察前から話してあった。
「リン」
「ええ。ライダーも覚悟を決めて」
「わかりました」
そうして私は桜をその手に掛けた。私自身も解析を掛けつつ、リンの指示の下、異物を心臓ごと投影した剣で貫いたのだ。手応えあり。隙かさずリンが宝石に籠もった魔力を使って心臓を再生。2分後、咽(むせ)ながら蘇生する桜。成功だ。眼帯の下部からライダーの涙が零れていた。これは本気の涙だろう。『神話』や『伝承』とは『そうあって欲しい、そうであるべき』という他人の勝手な願望だ。ゴルゴーンの末娘の涙はどこまでも透明で、ちっとも濁ってなどいなかった。
「アーチャー、1度学園に行っておきたいの」
桜の休む部屋にライダーを残し、階下に降りた後の会話だった。
「リン?」
「ええ。慎二もこちらの手の内。現在トイレに行かせた後、再び眠らせてある。だからこそよ。50年分早まった事による『余波』が、もう起きている」
キャスターの正体と、拙い記憶から来るクズキという名は知らせてあった。と同時にセイバーのマスター候補、衛宮士郎の事も。また早まった事によって、御三家のマスターが若過ぎるという点も指摘してあった。だからこそリンは、『余波』という言葉を考えついたのだろう。私としては逆の意味からリンが心配だった。キレ過ぎるし行動が早過ぎるのだ。
「学園にかね?」
「キャスターなんでしょうね。キーは」
「どういう意味だね?」
「葛木先生は私の担任なの。それで先生の居候先は柳洞寺で、そこの住職さんの息子が今の生徒会長でもあるのよ。しかもあなたが指摘した『大聖杯』が洞穴にあるという円蔵山は、まさにその柳洞寺が建つ山なのよ。キャスターは『運』を持っているわ。いえ、葛木先生が『運』を運んだというべきかも」
私としては衛宮士郎に固執しながらも、感情的に動くイリヤスフィールがどう出るか、言峰がランサーを使ってどう動くのかにあったのだが。
「ならば、なおさら……」
「うん。こういう時期なんだから、アーチャーは使い魔を使ってそれで学園を見張れって言いたいんでしょう? 心配してくれてありがとう……でもね、キャスターなんでしょうね。毎回壊されんのよ。だから学園がどうなっているかを、1度だけでもこの目で確認しておきたかったの」
待て。どういう意味だ?
「まさか、学園に結界のようなものが?」
「ええ、張られている」
そしてそれはライダーではなかったのだ。昨夜、私はライダーのそれを阻止できた筈だ。となると学園への侵入を警戒していた別の者の網に、私とライダーが掛かったという事か。
「キャスターか?」
「確証は無いけれどそう考えてる」
「……そうか」
警戒すべきと頭ではわかっているのに、何故か私はその事に対して不穏な気持ちにならなかった。ともかく時間が時間なので、身支度を整えたリンを護衛すべく、私も霊体化して一緒に登校した。
〈睡眠時間が短いが大丈夫か?〉
(眠いわね。だから様子を見たら帰るわ)
リンはその言葉通り学園には一歩も入らず、外からの探査魔術だけで納得たのか、踵を返してしまった。
〈あんなので良かったのか?〉
(ええ、十分よ。キャスターが幾ら優れた魔術師でも、自身が学園に来れなきゃわからないわ)
〈ん?〉
(下足室のロッカー、トイレや廊下の清掃用具入れの上、職員室に準備室に各教室の時計の裏……そういう場所に使い魔の代わりになるものを設置してあったの。つまり『耳の延長』よ。アーチャーにはこの十年何をしていたと叱られたけれど、学園に入ってからは、私なりに手を打っていたの)
〈なるほど。ではそれに異常がないかどうかの調査だったと?〉
(そう。こんな真冬だから、風邪を引く事もあるだろうし、体調不良になる場合もあるでしょう? 学校なんてテストの点が良く、素行不良がなければ良いのよ。だから私、気分が乗らないなら結構休んでいるから)
話を聞いて私は感心した。この世界のリンが自分自身に課しているのは、成績順なら一桁台である事のみであって、トップである事や皆勤かどうかは特段拘っていなかった。ここは心理的に大きいのではないか? と言うのは、拘るとは縛るという事に他ならないと思うからだ。そして私自身の体験からも言えるが、その縛りがあるから一人暮らしの自分に湧き上がる甘えを律せるとも言える。実は召喚後から私は余り掃除をしていない。やったのは洗濯槽や風呂場の排水溝くらいだ。トイレは便座も綺麗だし、マットやスリッパも定期的に交換してあるのが丸わかりの状態だ。ガスコンロも換気扇も掃除が行き届いていて、シンクはピカピカだ。だけど料理をしている気配はある。キッチンのゴミ箱に、スーパーの惣菜の空きパックがあったから、時々そういうものも利用しているのだろう。
それだけに頼るならどうなんだと思うだろうが、買い物の際に『時々、一週間に1回くらい』と話していたし、『揚げ物を家でしたくない』とも言っていたので、かなり綺麗好きなのだと思われる。また、冷蔵庫の中身の少なさは『買い置きで食材を傷めたくないからだ』とも話していた。外食をする場合もあるが、基本は家での自炊で、贅沢は好まず、どちらかと言えば少食で粗食なのだそうだ。
ここまで聞いてどうだろうか? リンが結構立派だと思わんか? そこで私は何かを見落とすか、勘違いしているのではないかと考えた。そしてヒントがあった事を思い出せた。『祖父から空手を習っていた』という言葉だ。母方の祖父と話していたから、おそらくは禅城なのだろう。それで思い付いた事を学園からの帰り、リンに尋ねた。
「君、遺産管理などはどうしている?」
「何、どうしたの急に? そっちは母方の祖母が紹介してくれた税理士さんや弁護士さんと相談しているわ」
言峰は関わっていなかった。奴が廃棄したのは、第四次聖杯戦争に関するもののみで、財産や遺産はその管財人に任せていたのだ。年若くして孤独になった者と、親身な相談者が身近にいた事。この差は想像以上に大きいと思われる。リンの事を『遠坂凛』らしいと思いつつも、『違和感』をも感じていたその優秀さは、きっと『心のゆとり』から来ている。つまりこのリンは、父親の幻影や家名に縛られず自分の感じたままに学業も魔術も行っている。だから『好ましい』のかと納得した。
「あ。あいつ、また遅刻だ」
リンのその声で、坂の下から歩いて来る学生服の男に気付いた。私は咄嗟に霊体化した。リンに気付いたらしき学生は、リンに手を振っていた。身長は180cm前後。筋肉もあるのだろう。腕がパンパンで学生服はピチピチだった。おまけに何かの格闘技でもやっているのか、顔は絆創膏だらけで、耳は潰れ拳には拳ダコだ。
「オイッス、遠坂。なんで坂を下りて来るんだ。休校だったのか?」
「急用を思い出してね……。まぁ、ぶっちゃけサボりなんだけど」
「マジで?! お前がサボり……」
「女の子には色々あるの」
「あ~、野暮だった。送ろうか?」
「大丈夫よ。そっちこそ早く行かないと。藤村先生にまた叱られるわよ?」
「だな。じゃ、気を付けてな」
「うん、じゃまたね。衛宮君」
はぁ~~~ッ!? 今のガタイの良い、赤毛の角刈りが衛宮士郎だと言うのか?! 学生の頃の私と似ても似つかん。いや、現在の私とも顔付きが違う。あの眼……囚われていない。奴には衛宮切嗣の呪縛がない。どうしてだ?
「リン、今のアイツは?」
「彼よ。アーチャーがセイバーのマスター候補と話していた衛宮君は。ありゃ、徹夜で道路工事でもしていたのね」
「道路工事?」
「うん。ウチの店子なのね。居住料に学生割って利かないしさ。ま、その分、霊脈使用料は取っていないのだけれど……」
「はぁ!? するとアイツはセカンドオーナーにスジを通しているのか?」
つまり、魔術師であると知っていたという事だ。
「うん。小学校の高学年頃かな? 6年生頃よ。ちゃんと挨拶に来てくれたのよ。でも……その時の彼、養父が勝者だったとか、そういう前回の事は話していなかったわ。多分、騙したとかでなく、そこは知らなかったような気がする。それに魔術の腕もからっきし。だから私もアーチャーに店子だって言わなかったの。ああ見えて不良じゃないし、生活のために頑張っているって感じで、至って真面目な人なのよ。害も何も無いわ。それと桜が通っているのは、そのPTA会長の思惑もあるだろうけど、衛宮君って桜の恩人でもあるのね」
は? 恩人?
「うん、あの子が中3の時にね。何をしていたんだか、新都で数人のワルに絡まれたらしいのよ。そこをバイト帰りの衛宮君が全員ノシて救けた事があってね」
「格闘技でもやっとるのか?」
「みたいね。アーチャー、それと彼の養父の遺産って現金でなくあの大きな家だけって感じなの。そうなると維持費や税金が出て行くばかりだわ」
『そんなに大きな家なのかね?』という質問で、こちらへ疑念を抱かせないようにするのを忘れない。きちんと『中庭に道場、道場裏に馬を引くスペースがある広大な敷地の武家屋敷』と聞き出せた。ここは道場裏に『流鏑馬(やぶさめ)』という馬上弓術用の馬場か、遠的用の弓場が今も残っているようだ。となるとあちら側の道路は拡張されておらず、市(当時は町か村だろうが)に買い上げられても居ないという事だ。もしかしたら重要建築物か何かに指定されていて、自分ではどうする事もできない状態に陥っている可能性もある。それが故のバイト人生だとするなら気の毒に思えてならんな。
というのは、毎年税金は支払っている筈なのだから、本人も学習している筈なのだ。また身近に土地家屋や税金の知識を与えてくれる人があるなら、何か約束があるとか、制約があるとか特殊な事情でも無い限りあの家を売却する事を考えるからだ。
「そんな風に、彼はバイト三昧なのよ。だから触媒を探す時間なんてないでしょうし、交友関係も知り合いも、敢えて言うなら柳洞寺関係者が怪しいかもねっていう程度で、とても聖杯戦争参加者には思えなかったの」
とそんな風にリンは教えてくれた。コートに手袋だった事もあって、令呪があるかどうかもわからなかった。だからこそ、この先は思い込みや先入観に囚われるのが危険であると改めて認識できた。
家に戻った私達だが、リンが休みに自室に下がった後、私は先程会った衛宮士郎の事を考えていた。あの高身長から察せられるのは、ここのジイさんはヤツの一時的な治療に鞘は使っても、経過が良好になった時点で取り出していたという事だ。その後、自分に使っていたのなら……ジイさんは私の記憶より1~2年長生きしていた可能性がある。おそらくそれが根本的に私とは似つかん奴に変えたのだろう。奴はきっと『正義の味方』など求めていない。もっと違うものを探し求めている。私は俄然、奴に興味を惹かれたのだった。
私は世界中を旅したわけではない。ごく一部の地域にしか行かなかったし行けなかった。観光旅行を楽しむなんて、できる立場になかったし、そんな金持ちでもなかった。それでも見聞は広めるべきだとヨーロッパだけでなくアメリカ大陸にも行った。ところがそういう出先で決まって次の仕事が舞い込み、気付けばアラブの熱砂の上に立っていた。そしてボランティアでは追っ付かず、最後はとうとう反政府軍に仲間入りだ。どの記憶を探っても必ずそうなって、世界に祈る羽目になる。英霊の座に時間の概念など意味を成さない。だが、私の中の最初の衛宮士郎も最後の衛宮士郎も、全員同じ道を歩む事に関して、自分の意志以外の何かが働いてはいまいか、との疑念はずっと懐いていた。奴はそんな『大いなる意思』とは縁遠いタイプに思えた。他者の思惑で動かず、自らの自由意志で『運命という名の不自由』を遠避けられるタイプに思えてならなかった。そう思ってしまうほど衝撃的な奴だったのだ。
そんな事を考えながら、私はリンに頼まれた通りライダーと桜の休む部屋をノックした。すぐさま返事があり、私はリンから預かった丸薬のようなものをライダーに渡した。魔術回路の働きや神経系を活性化させる薬と、栄養剤のようだ。寝顔の桜は血色が良いように思えた。次にライダーを伴って慎二の部屋を訪れた。こちらはライダーの『多少魔術が使える』という自己申告があったので、夢遊状態のまま薬(栄養剤のようだ)を飲ませた。その後、目覚めたらしき桜から声が掛かったので、念話でリンから許可を得て、おじやを作った。と言っても具にタマゴを使っているのでタマゴ雑炊が正解だ。ちなみにお粥は米から炊き上げたもので、おじやは雑炊と同じく炊いたご飯から作るものだ。ではおじやと雑炊の違いはとなると、具の多寡は関係なく、語源から来る下拵えの違いらしい。雑炊は増水が本来の語源で、ご飯を一度洗い、ぬめりを取ってから再度炊いて味付けるものなのだ。
病人食という先入観、お鍋のシメという固定観念から、どうしても意味のない優劣を懐いてしまう調理法なのだが、実はおじやも雑炊も、少なく貴重なご飯をいかに家族全員で食べるのかを考慮した、工夫の末に産まれたものなのだ。そんな雑炊を甲斐甲斐しいライダーに支えられてやって来た桜に食べて貰った。
「美味しい……」
「それは良かった。お代わりは薦めないが、ゆっくり味わって、まずは滋養を取って欲しい」
「あの……?」
「何かね?」
「遠坂先輩のサーヴァントなんですよね?」
「ああ、アーチャーだ。後でマスターから、より詳しい正式な話があると思うが、今後は共闘というカタチになる。宜しくな」
「……はい。それで兄は?」
「別室で眠らせてある。これは奴に残る暗示という名の呪いを解くためでもある。最低5日は眠らせておく」
「そうですか……」
「ああ、その罪を一刀両断しても意味はない。罪を罪と認識し、反省できる良心を取り戻してから断罪させて貰う、というのが我がマスターの考えであり方針だ。また君が独立するにせよ、こちらの遠坂家に戻るにせよ、今後の支援を全面的に行わせて貰うとの言葉をマスターから聞いている。君はもう助かったのだ。だから安心して体調を整えて欲しい」
下げた食器を洗いながら、私は衛宮士郎と接触すべきだと考えていた。