アルさんは『元バーサーカー』と言っても、その本質は『戦士』であり『知略家』でもある。聖杯戦争に出れば『キャスター』以外の全部に適正があり、中でも『アーチャー』としての腕前は、私のようなリタイアした『元弓道部員』レベルの話ではないし、数ある『得意なもの』の中に弓矢もあったというだけの単純な話でもない。ある意味でこの人は、ヨーロッパ式弓術を最初に極め、広めた先人達の1人でもあるのだ。おまけにその数ある得意なものは本当に多く、そのどれもに天賦の才を発揮し、師である『ケイローン』から『頂点である』、即ち『自分を越えた』と認められた人でもあった。そんなアルさんを導いたという『ケイローン』が、エルヴァの世界のルーマニアに居る。何度か会っているが、やはりその人も『これは』と思わせるに十分な人だった。
ところでこの本館の最上階から屋上部分にあたる四隅には、館そのものより少し張り出した小部屋がある。内部は上階と下階を階段で行き来できるメゾネット型の監視所だ。上階のバルコニーには、前に向かって据え置き型の重機関銃が2機ずつ設置され、後方のバルコニーには対空砲が置かれてある。下階の足元も一部開いていて、そこから死角を突いて館に忍び寄る者を狙い撃てる構造になっていた。ただ、どの重火器も魔術でロックされ、普段は認識できないようになっている。ここだけの話、ミサイルや装甲車なども隠し持っているそうだから、あの妹も大概だ。
そんな監視所の一角を任された私とアルさんだが、真下にはイリヤ達が使っている家の屋根が見えるから、当然と言えば当然の配置でもあった。ただ、この館の警備には専任のアサシン達が普段から就いているので、私とアルさんはスポットの増援でしかない。そんな訳で湯沸かしポットにはお茶が入っており、お菓子なども置かれてある。気を遣われながらの配属でもあった。
「こうも狭間(さま/城などにある鉄砲や弓矢用の穴/銃眼とも)だらけだと風が吹き込んで冬などは寒いだろう?」
「そうですね。この務めが只人であるなら厳しいでしょう。故の我らですよ」
世話好きそうな、やや初老の姿をしたアサシンが今夜は私達と一緒だった。『エル』に仕える百貌のアサシンは多い。魔導師と世界を渡り、そこで機会があればスカウトしている訳だが、それでも『通ずるモノ』を厳選しているので、現在本体は8人ほどと聞いている(もっと多いかも知れない)。その一人ひとりが百人弱に分裂して、目の前に居る初老の姿から若者、果ては子供の姿で仕事をこなしていた。その百人からに分裂できる能力こそが、この『百貌のハサン』の持つ『宝具』だった。
人であった頃はただの一人であった。しかしこの世に生を受けたその瞬間から多重人格であったという。それも解離性同一症という現代医学で表される症例に分類できない、オカルトチックな理由を持って。まず彼は肉体こそ一つだが、何の手違いか魂は十人分以上持っていた。しかもその一つ一つの魂が形成する人格が既に多重人格だったのだ。つまり一つの肉体を共有する者達が十数人おり、その一人ひとりが複数の人格を併せ持つ状態なのだ。おそらくこの十数人までが先天的な霊障であり、その次に来る多重人格は先天的なものと、後天的な修行で得られたザバーニーヤが混ざった状態なのだろう。
そしてそのどれもが、人格交換の際に肉体の変質をも成し遂げる『真性』のものだった。そんな小説にしか出て来ない奇異な症状を発する事で暗殺教団の指導者にまで上り詰めた男が、この百貌のハサンであった。『宝具』として認識してしまえば、意外とすんなり受け入れられるが、生前は修行で得られたザバーニーヤとして周囲には認識されていたという。
さもありなんだ。どんな女も靡(なび)くハンサムが、アルさん並みの大男に変貌して追手を蹴散らし、市場の人混みへ美女になって紛れ込み完璧に逃走してのけるのだ。そして『エル』が最大の敬意を以って『惚れた』と言い切るこの能力の真価はここにある。『生きた情報を、鮮度の高い内に必ず持って帰って来る』事ができるその能力は、現代の情報戦にはうってつけで、他の英霊とは一線を画すものだった。歴代のハサンは、その能力が『暗殺行為』に集約され、使い所の難しさはそこらの英霊と変わりない。だがこの『百貌のハサン』だけは現代でも、いや、この先の未来でも活きる能力を持っているのだ。
そんな事を僅か8歳で見破り、第四次終結後に遠坂時臣から正式に譲り受けたのが、主に冬木を守る『古参の百貌』だ。彼らを手始めに並行世界で仲間に迎えた百貌も、全員『エル』が直接説得して仲間に加えている。そして全員が『人と人としての対話』を通しての仲間だから、『エル』とアルトリア並みに絆が深いのも特徴であった。
彼らを仲間に加えると、『エル』は最初にあちこちへ配属させる。それである程度『集団としての適正』を見極めると、専任の任務を与え任せていた。例えばこの館のハサンは、エッペルハイムとドナウエッシンゲンの館の守護、並びに仕事場までの往復時の警護を専任していて、出張先での警護は滅多にないそうだ。そちらにはドイツ担当のハサンが居るし、場所によってはチェコに拠点を持つ、東欧担当のハサンが走っているそうだ。
「一箇所に留まらず、たまに冒険をしたいとは思わんか?」
アルさんの質問に応えるハサン。
「そういう希望は若い者から時折耳にしますが、我らは教団の根城も護っていた経験があります。ですので、こういう仕事も侮れぬものと理解しておりますよ」
『エル』が百貌のハサンを重宝がるのはこういう部分にもある。この忠節と『プロフェッショナル』に徹した姿勢、また各々が持つ職人魂は大変好ましいもので、私と相通ずる部分が多い。なので私はどの百貌とも友好的に接していた。
「ほぅ。君達は本部に勤める社員もみているのか?」
「いえ、見ていると言うか……何かがあってからでは遅いですから。御三方が悲しまれるのは見るに忍び難いです」
この御三方は『エル』にパミ、ミトの事だ。ここの担当が長い分、3人への親愛の情が深いのだろう。
本部は親族で固めているので悪事を働く者は居ない。しかし巻き込まれる可能性はある。そこをハサンは危惧しているらしい。外部の会社を調査しつつ、内偵も行っているビジネス関係に特化したハサンも居て、彼らや監査のボーデンとも定期的に情報交換しているという。その情報の価値は、何としても一族を守りたい『エル』やミトにパミにとっては千金を越えるのではないだろうか?
ただ、以前ジイさんがこっそり教えてくれた事がある。
『一族と言っても人の集まりだから、中にはどうあっても許せない事をしでかしてしまう者も居る。また、そんな奴が一族の他の者に迷惑を掛けないとも限らない。それを潰したり断種するのも総裁の役割なんだよ。あの子は子供の頃から、胸の中で何度も泣いている。人の倍の苦労を苦労とも思わず突き進めるのが天才なら、そこには倍の悲しみもあるものなんだよ。頭脳や魔術回路が倍という単純な話ではない。感性も感受性も倍なんだ。それなのに、子供の頃から全部背負ってきたんだ』
だから私は『エル』がどれだけ突拍子もない事を言い出しても、怯まず恐れず必ず言い返す。それしか受け止める方法が私にはわからないからだ。何より種の存続を誰よりも願う魔術師が断種を決断せざるを得ないその決断……。決して軽いものではないからだ。『エル』はその軽くない決断を、この総裁就任期間を通じて3回行った。内2回は、同族中の同族ラインハルト系に対してだった。あの時は荒れていたからなぁ……。それでもイリヤ達に悟らせないところは流石だが。
「私は良くわからないのですが、総裁を下りられたら、ここに上って何か主張したいそうです」
「『エル』が?」
学校に行こうなのか?
「何を主張するのだ?」
頭に『?』が浮かんだ私とアルさんだ。
「え~っとですな……。確か『エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス』でしたかな?」
は?
「少年、『Εν αρχηι ην ο Λόγος(En arkhēi ēn ho logos)』だ。ギリシア語だよ。日本語に訳すなら『始めに言葉ありき』だ」
私は手の平をポンと叩いた。新約聖書のヨハネの福音書からの一節だ。これは『エル』に本当の意味を教わったのでわかる。これは日本語が誤訳なのだ。確かにアルケーには『始まり』という意味もある。しかしその意味は多岐に渡り、この場合は『根源』であり、『宇宙(万物)の根源的原理』とでも拡大解釈する方がより良く理解できるだろう。そしてロゴスには『言葉』だけでなく、『真実』『真理』『論理』『理性』『概念』『調和』などなどの意味が含まれる。
だからこそロゴスとは神そのものであるから『神ありき』が正しいとなる。つまり万物の『根源には神がおわし』、私の生物学上の父の頭皮には『毛根も髪もない』となるのだ。ちなみにジイさんの事ではない。この世界に於ける遠坂司郎の父親は40代半ばにしてツルッパゲである。これが曲げようもない真実で、英霊になっておらねば、私も40代で相当薄くなっていたであろう。最近白髪が出て来たジイさんを見て思う。真実は残酷である……と。
それはさておき、そんなすべてを引っ括めたような存在なんて『神だろう』と思うのが西欧人で、『言葉だろう』と考えるのが日本人なのだそうだ。言葉とは名付けに使えば、それはそれに括る『呪』となる。そこから『言霊』となって、それに即した行動を取るようになるものらしい。それはあたかも第二の『起源』に近いものなのだそうだ。だから『起源に即した名付け』……『切嗣』など以っての外で、ジイさんの父親は封印指定されて当然の三流魔術師というのが孫に当たる『エル』の評価だった。
そしてこの聖書からの引用は、間違いなく『エル』が本音を隠す時の方便だ。だいたいアイツが小難しい事を話し始めたら、まず何かを隠したい時と相場が決まっている。以前もヒンドゥーに伝わる『教え』やら、徳川家康の遺訓やら、耳障りの好い言葉で誤魔化された。
念の為に言うが、ヒンドゥーに伝わる『教え』とはこうだ。
『心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。ここがわからないからお兄ちゃんはそのザマなんですよ』
うっさいわ! 多くの著名人が一部を入れ替え、似たような言葉を遺しているから、内容そのものは覚えておいて損はない。
『心はガラス、態度は生意気、行動は頑固一徹、習慣は壊れた玩具のごとしで、人格は焼け出されたあの日のガキのまんま。運命も人生も変わるわきゃない』
本当、ヤメて……。なお、遺訓はこうだ。
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり』
これを現代語になおすとこうなる。
『人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を歩くようなものだ。急いてはいけない。不自由なのが当たり前と考えれば、(意外と)不満は生じないものだ。心に欲(や甘え)が起きた時には、苦しかった頃を思い出す事だ。一時の我慢が、無事に長く安泰でいられる基本(秘訣)であり、(感情に任せた)怒りは敵と思え。勝つ事ばかり知って、負けを知らないというのは危険である。自分の行動について反省し、人のせいにしていては以ての外。物事は足りない方が、やり過ぎてしまった状態よりは優れているものだ』
こんなのをソラでスラスラ話すのだ、この妹は。そこを問うとこう返って来る。
『ホムンクルスとのハーフなんて、遺伝子構造も脳味噌も半分メカのサイボーグと変わりありませんよ。何なら今ここで、新明解国語辞典と三省堂国語辞典の1ページ目から交互に諳(そら)んじてみましょうか?』
こういうタイプに逆らってはいけない。罷(まか)り間違えば、オックスフォード英語辞典を『A』から『Z』まで全部語りそうだし、万一そうなれば一体何日何時間掛かるのか。考えたくもないが、きっとこちらに聞く姿勢が見えないと、態度が悪いと機嫌を損ね、宝具に仕舞われ(拐(かど)わかされ?)、コンコンと天の声を拝聴する羽目になるのだ(座に鳴り響く)。
そもそも魔術でも超能力でもいいが、この世で1番恐ろしい能力とは、相手の意識を奪い意のままに操る事を指す。専門用語は知らないが、とにかくこれが1番ヤバい。そんな異能と言っても良い特殊能力がコイツは得意中の得意なのだ。しかもその暗示や催眠は英霊にまで効く。窓ガラスに映る自分に喧嘩を売るクー・フーリンは何度見たか。『俺のハートは、とっくにお前に貫かれていた。好きだ、クー!』なんて訳のわからない事を、夜の校庭でリンを放っぽって叫び、クランの猛犬を追い掛け回す別の座を持つ『アーチャー』……。あれを見たダメージは未だ瘉えていない。
いや、笑い事ではないぞ? どんな魔術師であろうと、空間を飛ばして脳に直接送られる暗示や催眠は逃れられないのだ。大魔導師も数回ヤられているし、弟子の凜ですら『先輩には勝てない』と言わしめ、自分の家の霊脈に縛られるタイプの魔術しか使えない程度の者なら、例え魔法使いでも軽くあしらう。むしろ彼女は魔術回路や刻印を壊されなかっただけでラッキーだった(姉の方が壊さないでやってくれと『エル』に頼んでいた。あの姉は『エル』にはアルさんや私が居るのを知っていたからだが)。
「つかぬ事を尋ねるが、あのコソドロはどうなった?」
そうハサンに訊いたのはアルさんだった。先日『エル』達が捕らえ、ハサンに預けていたとは耳にしていた。
「ああ、『雄ウサギⅢ世』ですか。あの者は暫く我らで預かり『教育』致しますよ。その後に御三方へ」
『雄ウサギⅢ世』……コードネームだろうが、なんともまぁ変わった名だ。
「何でもミト殿の音頭で、今後もそういう特殊な者達を集め、『更生プログラム』を兼ねた新しい事業を起ち上げなさるそうです」
ほぅ……。
「悪人を利用するのかね?」
「有り体に言えばそうですね。ですが世の中には止むに止まれぬ事情で悪の道に入った者、そこでしか特技を活かせない者も居ましょう。そこを見極め活用したいとの願いがパミ様にはお有りのようです。そして忍び込みが巧いものは、得てして普通にも働ける能力があります。一攫千金を得るためなら、大抵の事は忍びもするし耐えもしましょう。ですが、だからといっていきなり『明日から真面目に生きよ』というのも、これまでの欲を満足させる生き方しか知らぬ者には無理難題。となれば、その能力を活かせ、千金に代わる何かを与えねば。そしてそれができますのは御三方しかいません」
「いよいよ君らだけでは足りなくなったか?」
「かも知れませんが、こうも複雑怪奇な世の中となりますと、我らだけでは至らぬ領域もあるのだと思われます」
「なるほど。そこも考慮してのスカウトであり人材育成な訳だ?」
と、これは私。そもそも『エル』自身が、その出生からして捨て子のようなものであったので、とかく彼女は子供の頃からどうしようもない境遇に置かれた子供を見棄てられず、何かと支援をしていた。その事業の果てに、何校もオーストラリアに寄宿学校を創設していた。耳に入り手が届く範囲の者しか支援できないが、それでも労働力として、或いは売春のために売られていく子供を何人も救けて来ていた。
パミも元はそんな『エル』の中の1人であったという。ならば、これはかなり深く考えた上での計画なのだろう。
「はい。砂漠の掟の一端を知るあなた様なら理解できると思います。厳しい世界で生きる者ほど、子供は大切に、それこそ部族全体で育てるものです。我らとて、どの子にも『ハサン』を名乗れるだけの者に育って欲しいと願っておりました。ですが大きくなるに連れ、得手不得手は明確になり、実行する者、それを手引き・支援する者、下調べを行う者と細分化されて参ります。そこで重要になりますのが、確実な逃走を手助けする者です。おそらくですが、そのような手助けが人としてのレベルで行える者を必要とされているのだと」
これは例えで、何も人を殺した後の逃走ルート確保が仕事ではないだろう。確かにその『仕事』とやらは見えて来ない。しかし『百貌』の持つ、何かには当て嵌まるのだろうし、何より『人を育てる楽しさ』を彼らに味わって貰いたいというパミの心が透けて見える気がした。
「その男は君達のアジトだろう? どこにあるのだ?」
「ああ、日本の冬木やロシアのニジニ・ノヴゴロドですと地上に大きな施設がありますからね。ここは道路を挟んだ向かいのジャガイモ畑が『エル』様の私有地でして。その畑の下に我らのアジトがあります。この館には何箇所か転移陣があって、そこから出入りしていますよ。一番近いところですと、ここの下階の出入り口の横です」
下階の出入り口の横とは、真下に向けて穴の空いたところだ。これも狭間(さま)には違いないのだが、下から見ると古城のトイレにしか見えない。いや、本当。その昔は城や館の出っ張った部分にトイレがあり、そこで用を足していたのだ。中には丸い穴の空いたベンチがあり、その下は外だった。つまり昔(中世から近世頃)の人は垂れ流しだった。なので全盛期の頃の城や館の出っ張りの下に立つのは厳禁だった。まぁ、石壁は茶色く染まり、脳が受け付けないほど素晴らしく芳しい訳だから普通の人はそんなところに行かないが。
なお、その中世より古い時代は木造の城から外に出て、そこいらの空いた地面に穴を掘って用を足していたそうだ。掘り返せば先人の排出物とコンニチワだから、ほのぼのした時代だ。それらが徐々に区画が決められ、ローテーションされ、畑として活用されるのは、中世になってからだ。おそらく西欧史に於いて、1番不潔だったのは近世のトイレが普及する前、17~18世紀頃だろう。
それまでは誰もがおまるを利用し、貴族でもない限り普段生活する部屋で済ませていたのだ。あの裾の長いドレスはご婦人がおまるを隠す意味もあったし、生理の時の当て布を隠す意味もあったそうだ。そしておまるがいっぱいになれば窓からバッシャーだ。今から棄てますよと一声掛けるのがマナーだったそうだが、下水もない時代だから、そこらの通りが臭くひどい有様だったそうだ。
ところが日本での17~18世紀頃は、どの家屋にも厠(かわや)があり、肥から堆肥を作って活用していた。風呂屋もあるし季節次第で川や海で身体を洗えた。驚くべき事に、実はこの近世の貴婦人より、褌一丁のオッサンの方が清潔だったのだ。
そんなクサそうな事を考えたのはアサシン達が畑の下で暮らしていると知ったからだ。確かに畑の下なら下水道は通っていないが、かなり大規模な工事が、それもかなり深いところで必要だったのではないかと思い至り、義妹の考えに圧倒されたが故の現実逃避でもあった。
「いいえ。基本となるトンネルを掘り、それを徐々に拡張し、壁や天井を整えていったまでです。こういう時に、分裂できるという能力はつくづく有り難いと思いますな。一人では億劫でも、仲間が居ればどうにかなります」
「確かに。その最初の一歩が自分だけでないとわかれば安心感は全然違うだろうな」
「はい」
そこに良い匂いをさせて別の者が現れた。彼の名は怪腕の……。
「違いますぞ。こやつはゴズールでなく、もう一人の大きい方です」
そ、そうか。見分けがつかん。しかし話を聞けば、彼はそのゴズールと2人で中華鍋を振るい、マトンの角煮入り特製チャーハンを作ってくれたのだという。
「ええ、夜食です。先に他の三箇所に配り終え、こちらにもと」
夜食と言ってももはや4時前だ。後少しで夜が明ける。無事是名馬ではあるし重畳ではあるのだが、こうやって徹夜で話し込んでいる自分に『これで良いのか?』と自問自答する私は根っからの貧乏性であり、同時に『何か事件が起きる事を内心で願う悪』だと自己嫌悪にも陥る。
「少年、複雑な顔をしとらんと食え。懐かしい味だ」
「え?」
ひと口食べて驚いた。イスラムらしく豚肉を使っていない、ネギとタマゴだけのシンプルなチャーハン。味付けも塩コショウと僅かな醤油だけだ。そこにマトンの角煮が添えられている。
「懐かしい?」
「覚えとらんか。たこ焼きも配ったろう? ニジニ・ノヴゴロドで君とイリヤが作ったチャーハンの味じゃないか」
ああ、あの時の? 私が自分を取り戻した時の事だ。中華スープの素も鶏ガラスープの素も無かったので、本当にシンプルに作った炒飯もどきだ。
「レシピはロシア組から?」
「はい、チャーハンはあちらから伝わったものです。マトンの角煮は『エル』様のレシピですね」
そうか、記憶が曖昧なまま作ったあんなものが、こんな風に伝わっていたのか。しかし、お見事だ。これだけの味付けで普通に美味しい。それは彼らも『ご飯』や『米』をちゃんと理解しているからだ。元々炒飯は、余ったご飯と余った食材や野菜くずを利用して作る調理法で、その味付けの奥義は『醤(じゃん)』と『塩』だけだ。後は食材と鍋がくっつかぬ程度の油と、何度も火を通した、使い込まれた鉄鍋があればタマゴを使わずとも炒飯は作れてしまう。
タマゴの代わりにマヨネーズなんて考えずとも、タマゴ・レスな炒飯のバリエーションを知り、数回作れば誰でもわかると思う。極端にパラパラしているのはタマゴ炒飯だけで、それ以外はエビのプリプリ感やレタスやキャベツのシャッキリ感でどうにかなる。重要なのはシンプルをモットーにスープの素は少なくして、素材の味を活かす積もりで薄味を心掛ける事だ。
何事もそうだ。複雑で難しいと思える事も、因数分解するようにバラバラにしてシンプルに考えれば、そこにあるのは実に単純で、そのほとんどが、キーとなる人物の育った環境や現在の環境で培われた、思い込みにも近い偏った思考から端を発している場合が多く感じる。要はその人物を弾けば丸く収まるのだ。それを見分けられるかどうか。しかしそんなものが一発でわかる者など居ない。だがシンプルに考えれば、見えて来る場合もある。それがくだらないまでの人生で学んだ事の一つだ。
きっと私が料理好きなのは、そういう新しい気付きと言っても良い考え方が浮かぶからなのだろう。狭間(さま)から見える畑の先に、朝日が昇るのが見えた。もう朝だ。契約は数十分後の6時丁度まで。次の仕事は明日の建機ショーと明後日のCM撮影だ。どちらも場所はホッケンハイム・リンクで、そこの警備だ。それにて今回のドイツでの仕事は終了だ。
6時になり監視部屋から出て1階まで降りると、『エル』がジョギングから帰って来たところだった。我が姉はまだベッドで丸まっているようだ。玄関の外では『じゃあね』なんて声が。半開きの扉から見えたのはチビとクロ、そして小さなイリヤにもう1人の『エル』とイリヤだった。
「おはよう」
『エル』に声を掛けた。
「おはようございます」
するとニコリと即座に返す。決して偉ぶらず、誰とでも気さくに挨拶を交わすところがこの子の美点だ。
「夜勤、ご苦労さまでした」
「自分と走るなどとは、器用極まりないな?」
「慣れですよ。本日はこのまま休んで下さい」
「わかった。そうさせて貰おう」
そうして私は門から出て、朝の散歩と洒落込んだのだった。アルさんを誘わなかったのは、先に朝食を食べたいと話していたからだ。あの夜食だけでは保たなかったか。そしてハイデルベルクの店が開く頃にケバブを買いに行くのだろう。あそこのケバブ・サンドは絶品で、アルさんも私もこちらに来れば時折利用している。薦めてくれたのは『エル』ではなくアサシン達だ。
「命綱とまで話していたからなぁ」
隣の森の小径を抜けると、舗装された農道を挟んで延々と隣街まで畑が続いている。大都市マンハイムから10kmも離れておらんのに、ここは田舎だ。もしあのジャガイモ畑が水田なら、暖かくなりつつある今頃ならオタマジャクシだらけだろう。畦(あぜ)の下にはザリガニだろうか。そんな日本の田舎が脳裏に浮かぶくらい、濃密な土の香りが郷愁を誘う。
夜通しの警備は宿泊客が居たからだ。そのお客も昼までに全員帰るだろう。その後にアサシン達は開放される。明日、明後日はドイツ担当と組む手筈で、そこにバゼットも入る予定だと聞いていた。
農道を30分ほどくるりと回るカタチで歩いてから、館へと戻る道に入った。こちらからだと裏門が近い。すると正面から赤毛の女性が走ってきた。バゼットだった。彼女も朝の運動の帰りだろう。
「おはよう」
「おはようございます」
「本日はオフなのか?」
「ええ。昨日までは近場でしたが、細かな仕事ばかりで……。ですが明日、明後日は久々の大口です。頑張りましょう」
そう言って彼女は握手を求めて来たので、私は自然に握手を返した。現在『エル』の下で働く彼女は、元は英国に本部を置く魔術協会所属の封印指定執行者だった。ナンバー1とも言われる腕を持ちながらも、アイルランドの寒村出身だった彼女には何かと厳しい環境だったようだ。その出身地はアイルランド北部のドニゴール県の端っこで、首都のダブリンに出るより国境を越えて、英国領北アイルランドの首府であるベルファストに出る方が近いというような事を聞いた憶えがある。
ベルファストと聞けば私は、アイルランド共和軍(IRA/アイルランド政府の持つ正規軍の略称もIRAになるので要注意)やアイルランド共和軍暫定派(PIRA)などの名とテロリズムが思い浮かぶが、『エル』が言うには実は風光明媚な自然に恵まれた土地でとても美しいところなのだそうだ。特に有名なのは北部の海岸や岸壁に浮かぶ柱状節理ジャイアンツ・コーズウェーだが、ケルト神話好きな『エル』は決して巨人が造ったものでも(その巨人の一人にフィン・マックールが居たという)、溶岩が冷える際に偶然刻まれた現象でもないという。
では何だ? 『エル』は言う。
『あれは大地に刻まれた自然界の記号を読み取って地面から生えてきた生物未満のモノが、その機能を散逸した残骸です。このケイ素系生命に進化できなかったモノの残骸は世界中のあちこちにありますよ。アメリカのモニュメントバレーやデビルズタワーなんかもそうです。巨木の切り株が石化したのでなく、疑似生命時代に地中からあのデザインで生えて来たのです。この疑似生命をケイ素系生命に人工進化できないものか、計算機として利用できないかと考えたのが『アイツラ』の一部と錬金術師の一部です。これは共時的な閃きでしたが。ボリビアのウユニ塩湖なんて水に塩を足して、六角柱の疑似生命を連結させようとした跡ですよ。南米はテーブルマウンテンが多いので選ばれたのかなぁ』
知らん。が、計算機とは?
『樹々というか水ですね。大地から吸い上げる水。そこから自然界の法則や記号を取り込むから、黄金比を体現したりフラクタル構造を発露したりする訳です。そして自然界の法則にある根幹は六角形なんですよ。昆虫の複眼も蜂の巣も、雪の結晶も樹木の導管も、皆んなそうです。だから本来の魔術は六元素だった訳です。五元素プラス二元素とは、魔術を滅ぼしたい勢力に堕ちた者達が提唱したインチキに過ぎません。それで計算機とはその樹々が大地の記憶を蓄積できるところから来た発想です。樹が化石になって圧力を受ければ、極一部を除いてほとんどが一酸化ケイ素や二酸化ケイ素に変質します。それらが結晶化すれば水晶やアメジスト、メノウやジャスパーとなる訳です。このケイ素が英語で言うシリコンです。どうして魔術師は占いを水晶で? どうして時計にも水晶が? CPUのウェハーは何から作られます?』
思わず『おお』と声が出た。占いは術者の能力もあるだろうが、ホシの、或いは大自然の記憶を読むのだろうか? 時計の方は発振が正確だったから利用されたに過ぎないだろうが、シリコン・ウェハーの話は、特質や性質を飛び越えたものを感じざるを得ないな。それと『エル』は水を随分強調していたが?
『現在、このホシに住まう私達は全部炭素系生物で水が必要不可欠です。そして微弱ながら水も記憶や記録を刻みます。手足が欠損した場合のファントムペインも水のなせる業(わざ)ですし、内臓の記憶も細胞が含む水のチカラです。そして真水よりもミネラルや少量の塩を含んだ方が効率が良い訳です。ですから食物もミネラルの多い方が良い訳で。お腹を満たすより五臓六腑に染み渡らせる事。食事の真髄はそこです。また、水は伝導体でもあります。このホシが持つ電磁力と、その種が持つ周波数、或いは個々の持つ周波数とのバランス、これらの調律が合った状態がベストなのは想像できますでしょう? その状態をして『響』という訳です。朝日の周波数を感じながら長閑で静かな田舎道を散歩すれば、運動で身体が目覚めるだけでなく、一つ一つの細胞に含まれる水が共鳴して活性化するのを感じられます。それが生命力に繋がるんですよ』
よくわからん神秘混じりのオカルト科学を、こうも明確に断言されると謎の感動が湧き上がるのも事実だ。本当にわからん子だ。しかしこの説を旅の暇潰しとばかり、2人のバゼットに開陳すると随分とウケたのも本当の話だ。
それはともかくこちらのバゼットだが、時計塔時代は仕事柄かなり乱れた生活だったようだ。が、純朴な性格と垢抜けない身なりは紳士気取りの英国人からは蔑みの対象だったようで、相当無理をしていたと『エル』からも聞いていた。『エル』を襲ったのも、どうやらそういう紳士気取りの者達にハメられたかららしい。なので『エル』は倒しても処分せず、仲間に引き入れる事にした。法政科を通して正式に譲り受けたのだから、前々から腕を認めつつ、気の毒だと考えていたようだ。
そんな悪意や蔑みから開放された今のバゼットは、『エル』達の下で伸び伸びとしている。『エル』の指導なのかミトの指導なのかは知らないが、今の彼女は髪を伸ばし始め、少しオシャレになっていた。今朝はスニーカーに運動着だが、女性らしい色香が漂うのは、身分ある女性の警護という特殊な仕事もあるからだった。ただ、仕事着は相変わらずスーツで通している。しかし以前のような英国物でなく、伊国のブランド物で身を固めていた。誰の趣味だろうな?
私やアルさんも登録している、ミトの持つイヴの人材派遣会社ではとても重宝がられ、エースとして働いているのが今の彼女だ。なので普段は出張が多く、顔を合わせる事など滅多に無い。海外に飛んだり並行世界に飛んだりと、本当に忙しそうだ。毎日顔を突き合わせていた、あちらでのメキシコの日々が懐かしいものだ。あの頃は記憶のバゼット通りに、髪が短かったと思うのだが。季節に応じて髪型を変えるのだろうか? それとももう1人と混同しているのか?
裏門を抜け、館の勝手口からメイドを呼び、ドリンクを2つ頂戴した。そして片方をバゼットに渡し、メイド達の休憩場にもなっている3人娘のバイク置き場である小屋の裏手のベンチに腰掛けた。
「少し話をしないか?」
「どうぞ。何かありましたか?」
「いや、何があるとかではないが、メキシコで聞いた話が面白かったなと」
「ああ、もう1人の私も交えた?」
「そうだ」
主に彼女達の趣味でもあるアルスター伝説に付いてだったのだが、生憎ここのバゼットもあちらのバゼットも聖杯戦争とは無縁なのでクー・フーリンのマスターになる事はない。しかしながらエルヴァが当のランサーを仲間にしているので、私の知る範囲のランサーの事を話してやった。すると結構乗って来て会話が弾んだ。それもあって2人のバゼットは仲が一層良くなり、あの旅を無事終えれたとも言えた。あちらのバゼットはいずれランサーと逢うかも知れない。しかし、ただ家事全般が苦手そうな女性だから、ランサーの興味を引くのは難しそうだ。ま、同郷の大英雄だから憧れが強いだけで、惚れた腫れたというのでもないようだが。
また、こちらのバゼットは意外にも言峰とそこそこ仲が良く、電子メールでやり取りしていたりする。アイツは味覚こそ破綻しているが、性格は温厚で至って真面目な……好人物と評する他ない男だ。出会って間もない頃、甲斐甲斐しく老いた父神父を手伝う姿は、この私ですら『これが言峰!?』と目を点にしたくらいだ。掃除も家事も完璧で、八極拳で引き締まった身体は『エル』が言うには10数年前と変わっていないらしい。あれで辛い物好きでなければ、かなりの上物なのだとか。
教会では結婚式も執り行うのだが、言峰目当てで世話好きな小母様方がお見合い写真や釣書をよく持ち込むので、結婚相談所のようになっているらしい。しかしやがて40を越えようかという年齢と、以前結婚していた点と(奥さんとは死別らしい)、この春から高等部に上がる娘さんが居るので再婚は難しいのだとか。なお老神父と娘さんの分の料理は2人で作っているという(バゼット情報)。
なお彼女のメール仲間には、ここのジイさんに獅子劫界離やナタリア・カミンスキー(本名はおそらくカミンスカヤ。こちらも仕事柄、男性姓を使っているらしい)、蒼崎橙子、遠坂凜(大魔導師と弟子の両方)などなど錚々たる顔触れが揃っていた。おそらく紹介者は『エル』とジイさんだ。
そんな訳で顔の広い彼女はイヴ以外の仕事もよく入り、今は相当羽振りが良い。それで服装や身なりが良くなった訳だが、純朴な部分は全然変わっていなかったと思い知ったのが、メキシコでの旅だったのだ。
「アーチャー、あなたとは色々話しましたが、どの部分が面白かったですか?」
「それは君達が調べていたというアルスター伝説異聞と、アイルランドのクルマ事情だな」
並行世界なので伝説が極端に異なるなんて事は無かったが、この2人が懐くクー・フーリン像がかなり違っていた。片や筋骨隆々の大男、片や妖精郷を守護するイケメン王子だった。実際は粗野で野蛮なところはあるが確かに顔は良い。魔術も巧いが釣りもキャンプも巧い、野性的な中に緻密な考えを持つ男だと教えたら、意外と喜んでいたのが印象深い。
一方のクルマ事情だが、英国と同じ右ハンドルの左側通行ではあるが、自動車メーカーが存在しないのと、国民性なのか、英国に頼っているのか、建設関係の業者がほとんど居ないので、バスはあれどそういうトラックや建機が走っていないのがアイルランドなのだという。また『市』は5つしか存在せず、ほとんどの行政は『県』単位で行われるので、ナンバープレート(EUプレート)がアイルランド独自の面白い事になっていた。
左端の部分は他国と同じだが、例えばダブリンなら小さな文字で『BAILE ATHA CLIATH』、その下に『05-D-12345』という具合の2行になっている。『BAILE ATHA CLIATH』はダブリンのアイルランド綴りで、ダブリン市以外のダブリン県で登録すればこの部分が『CONTAE BAILE ATHA CLIATH(ダブリン州)』となる。2行目の『05』は登録年度。この場合は2005年だ。次のアルファベットはダブリンの頭文字。他の県だと県名の頭文字と終わりの文字からなる2文字で、市は頭文字だけの1文字になる。ただダブリンだけは県も市も『D』だ。そして『12345』の部分は、登録した順番を指す。つまり希望番号なんてものはないし、一度登録してしまえば、売ってしまってもこのナンバーのままになる。だから何人ものドライバーの手を渡ろうと、同じナンバーだし、中古屋に並ぶクルマは全部ナンバー付きという事になる。味気ないが管理が行政できちんとされているので、事故歴も一発でわかるのだそうだ。
また売られるクルマは新車であろうと中古であろうと全部輸入車で、お隣の英国モノに限らずEU全般のクルマが半分以上を占め、残りは日本の、それもトヨタが多いそうだ(1番の売れ筋はカローラらしい)。けれど宿屋に泊まれば出て来る朝食は英国のものとほとんど変わらない。イングリッシュ・ブレックファーストもアイリッシュ・ブレックファーストもほとんど同じだ。だがフィッシュ・アンド・チップス(クリスプ)ならぬ、フィッシュ・アンド・サラダはギネス・ビールで衣を溶くアイルランドの方が美味しくて健康的だという。また夜の名物料理はラム肉が多いそうで、そういう意味でも英国とはかなり違うらしい。アサシンがそのラム肉料理のレシピをよく知っているそうだ。調べたのだろうなぁ。
「ですが臭みのないアイリッシュ・ラムでなければ」
「そうなのか?」
「はい。味付けが薄味なので」
塩だろうな。長い歴史の中でアイルランドは常に英国の下だった。なので塩が手に入り難かったのだろう。だからそういう臭みの少ない羊を育てるに至ったのだと思う。
「そういうアイルランド料理の本などは持っているのか?」
「いえ。それこそ『エル理事』かアサシンに尋ねる方が早いと思いますよ」
「そうか、そうだな。いや楽しかった。長話に付き合わせて申し訳なかった」
「いいえ」
彼女から空いたカップを受け取って、私達は別れた。裏門の横手にある連棟の一画に彼女の部屋がある。1階は前後に2台はクルマが止められるガレージで、2階から3階が居住区だ。言ってみれば長屋形式のアパートなのだが、ここにバゼットやボーデン、トリンキンなどが住んでいる。1階に自転車がぽつねんと置かれてある家にフリューゲルが小走りで向かった。大学に通う妹のためのランチボックスを届けに来たのだろう。血は繋がっていないし、トリンキンは『エル』を通しての主筋にあたるのだが、姉妹仲は良好だった。
その横はバゼットのところだが、こちらには紺色の『DB型Mazda 121』があった。知っている人は知っているだろうが、知らない人はとことん知らない、ここドイツでは『2CV』の再来とまで言われた90年代の名車だ。日本名は『オートザム・レビュー』。中古でいいというバゼットのために『エル』が探して来て、手直ししてから贈ったクルマだ。
が、その後ろにはもっとマニアックでとんでもないクルマがシートに包まって鎮座していた。バゼットが『エル』の下に入ったのは、『エル』が中3の頃だが、それから数年後、ノイント老から回って来た仕事をバゼットが見事にこなした。それに感じ入ったノイント老があるクルマをバゼットに贈ったのだ。それが後ろのクルマ、綺麗にレストアされた赤い『Volkswagen Karmann Ghia(Type 14)』の後期型(70年代のもので、ビートルと同じRR)だった。
こいつ、エンジンから内装まで中身がそっくり空冷の『Porsche 911』で、エンジンは水平対向4気筒からメカチューンされた930の80年代3.3リットル6気筒に換装されている(ノイント老は同じ3.3仕様で、黒いものを持っている)。エアコンも付いているしミッションも4速から5速になっているので、900kgちょいのボディをアウトバーンで240km/h以上まで軽く引っ張るという。ちょっとやそっとじゃ見掛けない、大変希少なクルマだった。映画の『Kill Bill』に出たクルマより性能が良いらしい。ただし故障の際はノイント老に預けて、イルマに診て貰う他ないのがネックだ。
『イルマが制作したお祖父様のギアのプロトタイプだと思いますが、それを贈るとは。お祖父様、余程バゼットが気に入ったのですね』
との事らしい。そんなだからオイル交換すら『エル』かミト、パミでないと難しいのだとか。だが、3人共良い車だと認めていても微妙に好みとは異なるらしく触手は伸ばさない。この辺りが彼女達らしい。特に『エル』は双子のイリヤのセラが免許を取った際に、最初に出たばかりのコペンを薦め、昨年暮れには987型ボクスターを推薦し、半額以上応援したという。これはイリヤが感激しながら話していたので間違いない。最廉価モデルでも600万だから半額だと300万だ。そうした理由は、小さい方のイリヤのセラにも用意する積もりだったかららしい。ただ彼女には手持ちの資金とこの世界での免許が無かった。なので一旦お預けとなっている。また、結構手の入った『MR-S』を惜しげもなくエルヴァに譲ったのも、ボクスターの方が上だと感じたかららしい。
なおバゼットの横のボーデンの1階には英国のロータス社による軽量スポーツカーやオープンカーが、隣の空き棟のガレージまで侵食してこれでもかと並んでいた。彼女もバイクに乗らず(乗れない事もないらしい)、そっち系のマニアだった。ただバゼットもボーデンも普段は本部に置いているBMWのセダンに乗っている事が多いのは仕事で愛車を失いたくないからだろう。
そんなガレージ付き連棟の向かいには林がある。その林を挟んで、イリヤ達の家とゲスト用の家が縦に並んで建っていた。その横の築山を越えた、池のある庭園に『エル』やミトにパミの家があるから、館はパーティー会場兼食堂兼ホテルであり、メイドの住まう一角と小食堂を除けば、普段誰も使っていないという、実に贅沢な建造物であった。