先生はパディントン駅を見て『サイド・ワールド(Side World)』と呟いた。これの意味するところは『横の世界』だろう。英語だと並行も平行も『Parallel』で済ませる場合がほとんどだ。けれどそれがレールのようにどこまで行っても交わらないものなのか(並行)、時間軸や様相など、ある特定条件を同じくするのに異なるものなのか(平行)で、私達の捉え方はまったく異なって来る。
いや、それは日本人など一部の人種だけだろうか。と言うのはこういう概念(違い)を、どれだけの人間が持っているかだからだ。もっと言えば、その概念を持つ人のパーセンテージが増えれば、言語(単語)レベルで変化するからだ。先生の言ったこの場合の『サイド』は『Side by Side(並行)』でなく、『Next to(横にある)』や、ともすれば『Nearside(すぐ近く)』というニュアンスを含んでいるように感じた。『Parallelism(平行)』のように相対位置も含んでいたかも知れない。私的には『Concurrent(同時)』という事象を省いて表現したところに感じ入った。何れにせよさすがは現代魔術科のロードと言ったところだろう。
『偉そうに何だお前』だって? わかるよ、それ。けれど恐ろしい事に、『並行』『平行』『併行』『平衡』といった同音異義語を理解して使いこなしているのは日本人だけなのだ(概念的にはアジア圏の人は理解している)。つまり『平行世界』と『並行世界』の区別が英語圏の人だとまずわかっていないという事なのだ。というのはどちらも英語では『Parallel World』となって区別していない。それは単語のないところから明らかだ。そうなると『並行』と『平行』は違うものだという発想が出て来ない。そしてそれは時計塔の幾何学が得意な講師もあまり変わらなかった。だけど先生はそれを『言い表す言葉がない』にも関わらず、『頭の中では区別している』事を私に『Side World』という短い言葉で伝えたのだ。
「どう見る?」
「ここは結界内ではありませんね。異界、異空間といった範囲の限られた限定的な場でもない。さりとて『Concurrent Parallel World』でも『Side by Side Parallel World』でもないようです」
並行世界と平行世界を私なりに区別して表現すると、先生はニヤリとした。
「私の仮説ですが、アルビオンに眠るドラゴンが持つ、『世界を越える能力』の抽出、或いは再現に成功した?」
「『能力の高い幻想種は世界を越える事があった』というアレだな? むむ……確かに。そう考える方が自然か」
「或いは化石となっても、その異能だけは一部残っていた。その異常現象の一端に触れていたのが『ドクター・ハートレス』ではないですか?」
「なるほど。妖精と考えるのでなく、現象と……」
「はい。お祖父様ならそれくらい考えますし、利用しようとします。その世界をレール・ツェッペリンに提供し時計塔のサイド・ビジネスとしたのではないかと」
「ふむ。そう考える根拠は?」
「答えは現代社会。これは『この先、神秘の隠蔽が難しくなる』という先生が論文で鳴らした警鐘に沿ったものです。レール・ツェッペリンにしても朗報でしょう。だからこそ敢えて線路の拡張を買って出たのでは?」
「つまりこの世界の最初の探索や調査にも乗り出していたと?」
「はい。オークションの延期もそういう風に考えると納得できます。切っ掛けは、世界を席巻する『現象』でしょうね」
「そうだな。そう考えられるな。おかしな介入も入る余地すらない」
この間、オルガマリーもスヴィン君もポカ~ンだ。対するセイバーは既に警戒レベルをかなり上げていた。
「ええ。お祖父様、いよいよメルアステアを潰すのかも……」
「ど、どういう意味だ?!」
「動物科(キメラ)は時計塔が残しても、メルアステアは許されないという意味です。鉱石科乗っ取りは個人的に汚いと思っても、まだ内部の……園庭での『どんぐりの背比べごっこ』の延長です。ですがハートレスを人身御供にした、他の組織との結託は、時計塔という幼稚園を壊しかねない」
「幼稚園言うな! クソッ(Fuck)! 辛辣だが納得してしまいそうになる!」
だけどメルアステアの野望は第四次聖杯戦争前からあり、冬木へ赴こうとする先代エルメロイ先生を必死に止めていた降霊科(ユリフィス)や鉱石科(キシュア)の講師の声を届かなくし、エルメロイ先生はおろか婚約者であったソラウ・ヌァザレ・ソフィアリまで唆(そそのか)していたという痕跡まで私やエルマのアサシンの調査でわかった。当然その事はライネスや先生にも報告済みだ。
「グレイが居るので先生はセイバーの正体をご存知でしょう……セイバーは竜種の因子を持ちます。そしてスヴィン君を助手にしなさいとアドヴァイスを下さったのはアインツベルン総裁のお祖父様です」
スヴィン君の獣性魔術は対キメラになり得る。いや、それだけではない。お祖父様が彼を買っていたのには、何とも言えない理由があったからだった。まず、スヴィン・グラシュエート君は礼儀正しく、人柄も問題ない上に頭の回転も早い。身長は175cmくらいなので欧州人としては低い方だが、超絶と言っても良いくらい美形なのも凄い。そんな彼は家柄もそこそこ良いらしく、本国ではかなりの名門なのだとか。
その本国がどこなのかを私は聞いていないのだけれど、『Svin Glascheit』という綴りから察するに、おそらくはラトビアだ。どこだそこと思った人は、上からエストニア、ラトビア、リトアニアと並ぶバルト三国の一つと言えば思い出すだろうか。そしてバルト三国はフィンランド湾やバルト海を挟んでフィンランドの真下にあり、政治的にはソビエトやロシアの影響下でも、文化は北欧、それもフィンランドとは深い関わりがあった。
またそこはエーデルフェルト家の息が掛かった土地でもある。現にルヴィアからモナコ出身のフラット君の名や、ドイツ出身のカウレス君の名は出て来ないが、スヴィン君の名は時々だけど時計塔時代の思い出を語る中で出ていたのだ。(ただカウレス君の姉であるフィオレさんとルヴィアの妹さんが親友だし、後年ルヴィアや凛が学園卒業後にプラハで学友となってからは頻繁にその名が出るようになった)
それでルヴィアのスヴィン君評も、やはり『礼儀正しい』『魔術の才能がある』『頭の回転が早い』『家柄も良く、美しい男性だった』と、ほぼ私と変わらない感想だった。
要はお祖父様、エーデルフェルト家のアンテナを使って、スヴィン君の事を前々から知っていたらしいのだ。つまり時計塔卒業後に行く宛もないなら、お祖父様がスカウトする予定があったという事だ。となると、いきなり辞められても困るので、数年私の助手をしてくれれば、就職先は決まったも同然だったのだ。今後はお祖父様と直接の接触も増えると思う。
だけどそんな真面目な彼が、数人は居るらしいエルメロイⅡ世先生の頭を悩ます学生の1人に数えられるのは、外部の人間には信じられない事だろう。その悩みの原因は、彼が時々理性を飛ばすからだった。それも2パターンあって、1つは獣性魔術を使っていて怒りに身を任せた時、もう1つはグレイの香りを嗅いだ時だった。でもこんなの、『獣性魔術』を裏返して考えれば、香りやフェロモンでなく魔術回路に関係があるのではないかと誰でも想像がつく。『何かを得るとは何かを失う事』だ。彼の代まで練りに錬られて遺伝していった魔術回路は、彼の思考や嗜好にも多大な影響を与えていた。そう、それだけだ。
多分だけど、彼はグレイの事を好ましく感じていても、恋愛感情はそこまでないだろう。同じ教室に通う学友、同じ師を仰ぐ仲間、イコール友人と捉えているだけで、グレイの人柄に惚れきって結婚したいとなど、今の2人の距離だとちっとも考えていないと思う。何より彼の尊敬するエルメロイⅡ世先生の面子や手前もある。エルメロイ教室の雰囲気を壊さないためにも、おかしな行動は取らないように自分を戒めるだけの知能も当然持ち合わせている。スヴィン君はそれっくらい常識人なのだ。
なのにグレイの前では妙な行動を取ってしまう訳だ。記憶が飛ぶのでなく理性が飛ぶ。つまり自分の行動が変だと、理性が飛んでいるその時はわかっていなくとも、後になって自覚するのだ。これはメンタルの弱い人だと、自己嫌悪で死にたくなる案件だ。未来ある、しかも助手に選んだ彼を憂いて、そこを私なりに考察してみた。
まず、『獣性魔術』があったとしても……仮に他者より優れた強化魔術が使えたとしても、犬並みの嗅覚を人が得るのはほぼ不可能だ。鼻腔の奥の上(上鼻道)にある、嗅神経や嗅繊毛がどれだけ強化されても、人の範疇を越える事はないのだ。なのに自分を見失うほどオカシクなるのは、彼の鼻腔粘膜から脳に伝わる刺激が、魔術回路を司る神経と密接に繋がっているからだ。言ってしまえば回路の暴走だ。その魔術回路の暴走が、神経を伝わり脳へとフィードバックし理性を飛ばす訳だ。
では最初のトリガーとなる刺激は何だったのか? それこそがグレイの体臭でありフェロモンだ。ところが彼はセイバーの前だと至って普通なのだ。となると世界がどうとか、その身に帯びた魔術がどうこうの前に、スヴィン君がグレイとセイバーを別人判定している事になる。
だから私はその事をグレイに告げ、スヴィン君のそれは本人にはどうしようもない、ある種の疾病だから堪えて欲しいとお願いした。その上でスヴィン君側で対処できる手がないか、私も探ってみると話したのだ。つまりは鼻栓の代替品探しだ。そしてそれは結構身近にあった。それがセイバーの存在そのものだった。グレイと2人だけだと暴走して大変な事になるのがスヴィン君だけど、そこにセイバーが加わると、彼が暴走しない事を偶然発見したのだ。
これで無事解決とは言わないが、一時的な問題は解決した。けれど根本的解決を目指すなら、ここから考えるべき事はまだまだ多い。私の想像だけど天然と人工の違いなのだと思う。人によりけりなのは重々承知だけど、膨大な花が咲き誇るラベンダー畑に立っても、『凄いな』と思うだけだ、私は。けれど、それがラベンダーの香りを謳ったトイレの芳香剤ならどうだろうか? 更にそれがある種のアレルゲンになっていたなら? そしてそんな強烈な香りを放つ芳香剤を、ラベンダー畑に一つだけポツンと置いてみたら? 本当のアレルゲンではないから、そう気にはならないだろうと考えたのだ。
それでセイバーの髪の毛を数本頂いて、魔術的処置(主に増幅)をしながらキーホルダーの中に詰めてみた。これの効果が、身体が海綿状になって血を吹き出して死ぬくらい覿面だった(十二国記から、覿面の罰の事。倫敦に持って来ていた)。そのキーホルダーを持ち歩くようになってから、スヴィン君はグレイの前でも暴走しなくなったのだ。
『思い付いてもサクッと出来ないものなのだ、普通は。なのに君はこうも容易く……』
この呟きでわかるように先生は感謝の言葉とは裏腹に、その顔は結構不満そうだった。だから言ってやった。魔術で先生にしか聞こえないようにして。
『坊主、大きくなったのは身体だけか? 心もでかくならんか、情けない。しかも、娘はコストも掛けず身近なもので解決した。川の水を余が集めた時の事を思い出せ。余は坊主を褒めたろう? 若き仲間を労(ねぎら)わんでどうする? ン?』
めっちゃ嫌そうな顔でプルプルしていた。そして私の声が届いていないスヴィン君とグレイは、とても不思議そうな顔をしていた。けれど……。
「拙にはわかりませんでしたが、アインツベルン先生、師匠に何か?」
「うん? ああ、はい。気になりましてね。エルメロイⅡ世先生は、そろそろプライベートなⅡ世を望むべきだと」
吹き出したのはスヴィン君と先生だった。私は『大王』や『若かりし頃のエルメロイⅡ世先生』は何人か知っていても、ここの2人はよく知らない。一応、第四次聖杯戦争の事はお父さんから聞いたけれど、その範囲でしか知らないし、その時のライダー陣営がどうしていたかなんて事も知らない。だから水質調査をしたという情報は、また別の並行世界で知った話であって、記憶を奪われている私にとっては、『エル』の世界でも水質調査があったかどうかは知らない。
けれど同じ女だからわかる。グレイが一途に先生を慕っている事を。そして先生みたいなタイプは彼女との機会を逃すと、残りの人生はずっと御1人様確定だ。『大王』にお尻を捧げたのでないなら、過去は過去、今は今と割り切らないと未来は来ない。
『そろそろ振り切っても良いんじゃないですか? それとも大王にお尻を?』
「そんな事はしていない! ……まぁ、だが自分の未来も見ておくべきだな」
そんな風に小声で返された。
「……つまりあれか? あの段階でメルアステアは君達の敵に認定されていたのか……?」
「いえ、その『段階』は先生の想像よりもっと以前……グリーンパークでです。つまりこれまでメルアステアへの処分を保留していただけで、疑いどころか完全に敵認定していました。ぶっちゃけますと、白い方の彼女がそう断定していたのです」
「そんな頃から……そうだったのか……」
そう。お祖父様がGOサインを出したという事は、ゼルリッチ翁も他のロードや理事に学園長も『致し方なし』と認めたという事だ。事態はもはやそこまでになっていた。つまりそれだけの根拠となる証拠やこのままのさばらせた場合の時計塔に対する悪影響を明確に示し、そのドクター・ハートレスを手駒にしてメルアステアが接触した外部の組織とも話が通って終わったという意味だ。
だから私はアニムスフィアの姫、オルガマリーとその従者をセイバーとグレイに任せつつ、周囲に気を配って先を歩いた。そんな私の気配に気付いてスヴィン君も鼻をスンスンと鳴らした。駅前の通りを横断する際に、道路には何も走っていなかったし、人も居なかった。太陽は真上だが、本当の昼かどうかは怪しいところだ。
「アインツベルン先生。何だか嘘くさい空だと思いませんか?」
鼻をスンスンさせていたスヴィン君がそう言った。
「うん。思う、思う。匂いも人工的ではないですか?」
「はい、先生も鼻が良いんですね?」
「でないと、食材の良し悪しがわからなくなりますからね」
そもそも『この世界』では今何時なのか? もう列車の発車時刻ですら意味不明だ。構内に入ると電気は灯っていて、売店も開いていた。旅行カバンの中から『お菓子を買っておいて』という念話が届いた。買うのは良いが、にこやかな店員は身体が透けていて、背後にある棚の商品が見えていた。会話する声も周波数を変えたようなデス・ヴォイスだ。
「やられた。降霊科(ユリフィス)も……」
「ロードの仕業と思いますよ?」
スヴィン君なりの考察だろう。
「ですね」
正しいような気がした。しかし子供はお菓子が好きだな。そしてこういう売店でもスーパーでも、それなりにお菓子があるのは万国共通と思うが、押し並べて欧州はチョコレート菓子が多い。それで子供向けはEU圏ならキャンディーやグミだろうけど、ここ英国での定番は少し変わっていて、フライングソーサー(Flying saucer)というお菓子だ。カラフルな円盤型のモナカとでも言えば良いのかな? 中にはラムネの粉のようなもの(シャーベット/ソルベ)が入っていて、シュワッと口当たりが良いから誰からも好かれている。
けれど日本のバラエティー豊かなお菓子を知っている身からすると、無難すぎて少々物足りなく感じてしまう。ポテチ(英国ではクリスプス。チップスはポテトフライの方)はスーパーにはあるけれど、スペース効率の関係からか、こういう駅の売店にはない。かと言ってタブレット系も英国にはない。
ちなみに英国のポテチ最大手は『Walkers』だ。このメーカーは米国で言うところの『Lay's』で、親会社はともに『Frito-Lay』というテキサスの会社だけれど、フレーバーはソルトとチーズ&オニオン、ソルト&ヴィネガー程度と保守的で米国より随分少ない。なお、ソルト&ヴィネガーよりもすっぱムーチョの方が美味しく感じる。のり塩やカラムーチョがない時点で米国もダメダメ。
なお、敢えて誰とは言わないがメキシコでカールの『ナチョスあじ(2002年限定)』を皆んなに配りながら食べていた女が居る。この女、インドでは『インド風カレーあじ(2002年限定)』や『カレーがけ』を亀田のカレーせんべいとともに配って感想をリサーチしていた。けれど結局カレー味の何かがイブから出る事は無かった。理由はわかる。きっと歯を磨いても口臭に残るからだ。カレー大好きな日本人と、体臭が既にスパイス臭いインド人だから気にならないのであって、ドイツ本部では不評だったのだろう。カレーにハマったルヴィアも口臭だけはやたら気にしていたからね。
(後にカールは関東圏から消え、『カレーがけ』はこの世からも消えたのだけど、私はその時に『エル』が悲しむ顔が頭に浮かんだ)
苦笑いを噛み殺してお買い物を済ませた私達は、構内を改札の方へ向かって歩いた。天井から時刻表がぶら下がっているのが見えた。列車名は『ZEPPELIN Ⅱ』。いつの間にやら『Ⅱ』になったらしい。頭の中で『Whole Lotta Love』が鳴り響いた。だから私はカバンを置いて、ギターを低めに構えたフリで、例のリフを弾く真似をした。ここで先生なりスヴィン君なりが、ジョンのベースラインを取ってくれたら、ボンゾの降霊が出来たかも知れない。無理だけど。
けれど、脳内でプラントのヴォーカルが入ったところで、なんとなく私はここが捨て置かれた『フラットアース』なのではないかと考えた。つまりこの世界を『アイツラの設置した予備』だとの考えが頭に浮かんだのだ。だけどアイツラは『現象の彼女』が滅ぼした。そこでお祖父様達がこの世界の再利用を思い付いたのではないか? そういう気がした。そしてメルアステアとの決戦はここなのかも知れないと気持ちを引き締めた。
切符というかチケット代わりは招待状だった。それを改札の人に提示し、再度ホームに止まっている列車の最後尾に立っていた係(車掌じゃないと思う)にも見せた。予想通りオルガマリー・チームと先生達と私達は同じく客車だった。つまり一両に3室という事だ。このチーム分けは事前に予測していた事なので、先生と話してスヴィン君は先生と同室に代わって貰い、私の方でグレイを預かる事にした。
部屋に荷物を置くと、私は子供達を出した。
「み、密航ですか?」
拙子、列車で密航とは言わんで。言うんやったら無賃乗車や。
「セイバーともども使い魔枠です」
私はきっぱり断言した。魔眼のオークション会場なのだから、事前申請は必要だけれど、そういう『枠』があるのだ。ならセイバーを心の中で使い魔とは思っていなくとも利用しない手はない。だからベッドは既に6つ置かれてある。一両を三等分した部屋なのだ。進行方向右側の窓際は通路だ。なのに個室にはそれなりに広いリビングとバス・トイレシャワールームなどがあり、寝室にはベッドが6つもある。レール・ツェッペリンは移動するオークション会場だから、独特な空間拡張があるとは聞いていたがこれは中々だ。
何より軌間(軌道の幅。左右のレール間の事)を物ともせず、線路なきところも走ってしまうのがこの列車最大の神秘だった。私としては落札した魔眼と眼球の入れ替えよりも謎だ。まぁ宙に浮いているのだろうけど。そのまま宇宙に出られるなら『Galaxy Super Express』だなぁ。
「セイバー、ホームの先頭まで行って来ます。直ぐに戻りますから」
そう言い残して、私は列車を降りホームを歩いた。何をしているのかと言えば先頭車両を見たかったのだ。駅員か列車のパーサーかは不明だけど、ユニフォーム姿の男性が、発射は20分後だと私に声を掛けてくれた。目の光以外は真っ黒という事は無かった。けれどメーテルのコスプレをしておくべきだったかと一瞬思った。到底スヴィン君がスチール・ボーイ(鉄郎)とは思えないけれど。
やがて色の違う車両まで来た。この2~4両目は乗務員用だろうか? 客車より少し車両が長く見えた。そして先頭車両は、お約束通り蒸気機関車を模したものだった。それも客車の1.5倍くらいの長さがあるから、こちらは乗務員用よりもっと長い。けれど独特な鎧状の鉄板の後ろが水のタンクと石炭という事はないようだった。というのも、霊脈からマナを吸い上げ機関が動くと知っていたからだ。だから鉄板の切り欠き部分にもスチーム・ボーイ(機関士)の姿は見えなかった。
私は5両目に乗り込み、内部の通路を歩いて自分の車両に戻る事にした。途中食堂車やラウンジ車、ビリヤードやルーレットを楽しめる車両(娯楽室なのか本物のカジノなのかは不明だけれど、通路側から窓で内部を覗けた)はあったのに、オークション会場は見当たらなかった。きっとそちらは4両目よりも前にあるのだろう。
ちなみに列車は17両か18両編成で、最後尾も乗務員用だ(車掌室?)。これは改札からホームに出た時に、この最後尾の車両から前が『急に色が変わった』と思ったからだ。しかし返すがえすもいい加減な招待状だ。日にちと大雑把な出発時刻、それと今回の旅というかオークションに掛かる日数くらいしか書かれていないのだ。普通はもっと、こうグッと来る内容を書かないか? 例えばこんな風に……。
『風光明媚な◯◯を巡るオークション旅行です。貴方をお出迎えするのは、今回も豊富に揃えた出品物だけではありません。特産品の××を使った◯◯料理や△△料理、車窓からのダイナミックな景色は××ワインとともにご堪能下さい。スタッフ一同が貴方様をお待ちしています』
あ~……お料理と行き先から先に考えてしまうと、なんだか町内会のバス旅行みたいだね? けれどそこまで書かなくても良いけど、せめて何両目の何号室だとか最低限の情報は書いていて欲しかったよ。だってそれがホテルや旅館の情報にも等しいのに。それを駅の改札で、しかも口頭で伝えられるってどんなだ。ノックして部屋に入った私は、期待の目で私を捉えるセイバーに告げた。
「残念ですが、駅弁はどこにも売っていませんでした」
「な? なんという事だ……」
セイバーは崩折れて、片膝を着いた。それを見て驚いたグレイが、慌ててセイバーを支えた。優しい子だ。演技中のセイバーも優しい目でグレイを見ていた。やがて天井に埋め込まれたスピーカーから『Ladies & gentlemen……』と出発に向けた案内放送が流れてきた。その言葉はとても耳に心地よい女声アナウンスだった。
『Attention Please~』とか『Departing passengers~』なんて英国ではあまり聞かない。少なからず『Attention Please~』は聞いた憶えがない。あれはシネマ英語ではないだろうか? 私は思い出し笑いをしてしまった。
「エル、どうしました?」
「失礼。随分と明瞭な音声だと思いまして」
そうセイバーに答えた私だが、思い出し笑いの原因を説明するのは難しい。これは元の世界での姉であるイリヤに『エル』として聞いた話が背景にある。彼女は道の駅で様々な年齢層の人とバイク仲間になっていて、そんな中に大人し目な、シブくてダンディなハーレーお爺さんが居た。それでこの人が大のオーディオ&クラシック・マニアで、音響にやたら詳しいのだ。
『ドイツが本当に凄い国なんだと思った最初は、ミュンヘン・オリンピックだったな』
ミュンヘン・オリンピックは1972年開催だ。昭和で言うと47年だ。戦後の混乱期を乗り越え、高度成長時代がピークを迎えたこの時代は、前々年(1970年)に大阪万博を終えた事で、本当の意味での国際社会を庶民が意識し始めた時代でもあった。
『若いイリヤちゃんには信じられないだろうけど、僕達おじさんの世代だと帝国時代から残るテレフンケンやジーメンスは垂涎の的だったんだ。トーキーを支えたオイロダイン(映画館のスクーンの後ろにセットするスピーカーセット)なんかを、個人で輸入して8畳の部屋に置いたりしてね』
クルマやバイクだけではない。オーディオの世界にもこういうエンスージアストが居たのだ。好きな指揮者は、ヴァルターでもフルトヴェングラーでもトスカニーニでもなく、クナッパーツブッシュと言い切るマニアックな人。イリヤの友人にはこんな風変わりな人が実に多かった。
『そのオリンピックは放送が全部カラーだったんだ(それまでの白黒テレビより、カラーテレビの出荷数や放送が上回ったのがこの頃で、デザインも木製の家具のようなのが流行っていた頃だ)。それも凄かったけれど、もっと凄いのが現地で取材している日本の放送局の音声より、会場で流れるアナウンスの音声の方が明瞭なんだよ』
クルマのエンジンならドイツらしいシルキーな6気筒だと言い切るけれど、バイクは味が命だからBMWの水平対向は正しいとも言う、そういう『わかっている人』だったそうだ。
『体育館も屋内プールも音声がとても良いんだ。僕はびっくりしたよ。こんな会場の放送スピーカーにまで手を抜かない国なんだなって。だからここまで優れた人々が、どうして戦争に負けたんだろうって不思議だった』
『ハメられたんじゃないか? 枢機軸国家なんて連合国側のレッテル貼りだろう? 国連にしてもそうだしね』
そんな考え方をするお年寄りがイリヤのお友達だったのだ。アイデンティティに悩み、その生い立ちから母国への嫌悪感しか無かったイリヤがまるで自分の祖父かのように懐いたのは、そういう人だったからだ。それを思い出したから、思わず笑みが零れたのだった。ちなみに私はカールと来れば『チーズがけ』か『チーズあじ』だろうという人間なので、母国への愛情は強い。チーズも良いがカレーだろうという『エル』が変わっているのだ。
「つまりそれくらい今のアナウンスは音質が良かったと?」
と、セイバー。
「そうです。そして、この防音。先程、ホームに私は出ていました。その時に乗り込む人の声など、結構な音がありました。ですが車両に乗り込めば雑音は抑えられ、室内に入ってドアを閉じれば、外からの音が一切聞こえません。これと空間拡張はセットになった魔術なのでしょう。それなのに音響設備に神秘の気配がなく、最高品質の設備が入っています。この『Ⅱ号』は、『新しい世界』を巡るために新造されたものなのでしょうね」
いつの間にか列車は出発していたようで、子供達はお菓子を食べながら、窓際の席に着いて景色を楽しんでいた。あの子達の視線に釣られて、私も車窓を流れる景色を見た。そこにあったのは、倫敦とは思えない光景だった。なのに『倫敦だな』と思える景色でもあった。その違和感の正体を、私はトンネルに入った瞬間に理解した。
「これは……トンネルじゃなく、大昔のハマースミス&シティー線?」
ハマースミス&シティー線の一部とメトロポリタン線は、倫敦で最初に出来た地下鉄である、メトロポリタン鉄道のトンネルを今も使っている。メトロポリタン鉄道の開通は1863年1月10日だ。米国でリンカーン大統領が奴隷解放宣言を布告した年で(因みに南北戦争が1850年)、新選組が結成されたのがこの年の4月なのだ。ニコラウス・オットーがオットーサイクルエンジンを開発したのが1876年、コダックが乾板の商業生産を開始したのが1880年、世界初のガソリン自動車をメルツェデスが発表したのが1886年だ。当時の最先端を行く主要産業はそういうレベルだった。つまりそれ以前の動力は蒸気機関だったのだ。なのに地下鉄? いや、動力機関もそうだけれど、その当時の誰がこのような列車が通るほどのトンネルを掘る技術を持っていた? 隧道ですらままならない時代に。ここに疑問を持たないなら、それは相当に鈍い人だ。
産業革命という言葉が出たのが1837年とされる。そこから歴史を重ねた、1910年代の第一次世界大戦頃ならこの技術力もわかる。けれどそれよりも50年も前に、倫敦では地下鉄が走っていたのだ。『当時の英国人に何があったんだ?』、こう考えないとオカシイ。自動車産業がズタボロな今の英国と、地下鉄を走らせた昔の英国人は別の種族なのではないか? こう考えるべきなのでは?
このような事を『エル』に熱く語ったのがオルタナティブ歴史研究家でもある、あちらのルヴィアだった。そしてあちらのエーデルフェルト家は、代々魔術だけでなくそういう隠された欧州の歴史を研究している家でもあった。こちらのルヴィアのお父様も振り香炉などを集めていたようだから、そういう事も家の研究の一貫としてでなく、ご自分でも興味を持って調べてらしたかも知れない。けれどルヴィアはそうでもなかった。元々そういう家だというのを知らなかった(ハイエナとはこの貪欲にものを追求し、集めるところを揶揄したアダ名だ)し、家業と思っているから呪体集めに興味は持てても、オルタナティブ歴史にはそこまで興味がないのだろうと思う。
なお、この地下鉄工事の様子や地下構内の様子を現した当時の版画には、煌々と灯る電灯らしきものが描かれていて、今もその存在は、明暗を欲した版画家の加えたデタラメとされている(エジソンの白熱電球は1879年)。その真偽はおいて、少なからず私にもわかった事がある。
「ここって、オルタナティブ・ヒストリーのテーマパーク?」
映画のウエストワールドみたいな……? 時計塔とお祖父様が手を組み、そこにエーデルフェルトの小父様達や他の理事が加われば……。
未知の新しい、けれど誰も住んでいない世界。これを利用しない手はない。ツェッペリンがそうであるように、人ならざるものもこの事業にかなり参加していると思われる。難しい部分もあるけれど、ここが資源問題や人口問題を解決する可能性は高いし、何より一番平和利用がしやすい。
この情報をバーターにしてハートレスは命乞いをした? きっとそういう事だろうね。それこそ洗いざらい白状させられた事だろう。つまりメルアステアは『後がない』訳だ。私はふと、この世界への入口を最初に発見したのはハートレスではないかと考えた。勝手な想像だけど、若かりし頃のハートレスはドラゴンの化石の中で自らの心臓と引き換えに、『一つ』でなく『幾つか』の神秘と情報を得ていたのだと思う。
きっと『一つ二つ情報を渡しても、自分にはまだある』と考えて、ルフレウス(降霊科のロード。お祖父様と、私の知らない関係があるのだと思う)達ロードや理事と対峙したのではないだろうか? 海千山千の相手は表情だけでなく、単語の選び方、文章を組み立て話す順番やイントネーションからでも隠し事の『有る無し』程度は見抜くだろう。
しかも…………おそらくだけど『エル』は例の多眼蟲をお祖父様に披露し、新たな多眼蟲を贈った可能性が高い。そう考えたのにも根拠がある。それはエルヴァちゃんが『ラインの黄金』をエメラルドに移植したところだ。このアイデアは多眼蟲を見て思いついたに違いない。
魔眼も『ラインの黄金』のような宝具も、自らの肉体に受け入れるにはリスクが大きなものだ。せっかくのツェッペリンだから、わかりやすく魔眼で例えよう。
生まれついて魔眼を持っているなら、その魔術回路も脳も、それを扱えるように成長・変質していくものだから、最悪でも日常生活に支障が少々出る程度で、死に直結するものではない。何より視認したものを炎で包むとか、凍らせるとかだと、その演算部分が眼球側にある事がわかっているから術者の肉体にはリスクがない。チャンネル切り替えの能力なんて最たるもので、魔術師でない一般の人でも無意識で使ってしまっている場合(ケース)がほとんどだ。いわゆる『幽霊が見え』たりする人がそれだ。
そして炎の魔眼や凍結の魔眼は、その魔眼に『マナが送れないと使えない』。つまり肉体側にも魔術回路がないと使えないのだ。ただチャンネル切り替えと同じで、一般人でも持っている可能性がかなり高い。即ち手に入る可能性が高い訳だ。そしてそういう魔眼は例え地の魔術師が手に入れても、手術で適合さえすれば、難なく扱えてしまう。要は魔術回路を地で持っているなら、例えその属性がなくとも火や水の魔術が扱えたのだ。だからこそ魔術師は魔眼に惹かれ、高額で贖う訳だ。
このツェッペリン号はその魔眼の需要と供給を満たし、なおかつ移植手術を必ず成功させるところに定評がある。その技術力も素晴らしいが、それを商売にしたところが何より凄い。そして『エル』のあの論文が光ったのは、魔眼を使わず新たな魔術を得られる道を示したからだ。『旧来の魔術をひっくり返す、凄まじい論文』とされるのはここにある。スヴィン君にしても私に期待しているのは降霊術でなく、そちらの方だろう。でないと同年輩(私の方が1~2歳年下)の者の助手になんてなっていなかったと思う。
では、術者にリスクの大きな魔眼とは何か。それはズバリ『未来』に関するものだ。『人とは……』なんて仰々しい枕言葉を使わずとも、2年後・3年後の自分がどうなっているかなんて誰にもわからないものだ。ある程度わかるという人は居るだろう。けれどそれは計画的に生きている一部の人や、学生などの身分的に未来が縛られざるを得ない人に限られる。
そこでそんな人に質問して欲しい。そこまで先でなく来月の事で良いから『来月の同じ日に、お昼は何を食べているか』を。これに答えられるのは日本の小学校に通う一部の児童だけではないだろうか? 勿論、給食室の前に来月の献立が張り出されているとか、家に持って帰ったプリントに載っていたとか、そういう事が思いつく『情報』と『その情報を活用できる能力』が必要なのだけど。それを措いても、すべての生物は『未来』の前では『無知でしかない』のは間違いない。
それは様々な要因で未来が変化するからだ。そしてその未来が遠ければ遠いほど変動は大きくなる。となると占いと同じで『当たるも八卦当たらぬも八卦』となる。仮に数時間後の事を『視る』にしても、魔眼の負担、魔術回路の負担(膨大な魔力を必要とするから)を考えればリスクは大きい。
『未来視』『未来予測』『未来観察』、言葉は何でも良いけれど、『どちらに歩むのか』を自分で考えるのならマシな方かも知れない。だけど『どちらに歩むのか』までを魔眼が演算を負担していたなら、これはキツイ。最たるものが『直死の魔眼』で、あれはその対象としたモノが終焉を迎える未来の瞬間をキャッチし、無意識下で演算……現在にその破滅の瞬間を凝縮して持って来る『能力』なのだ。そこを刃物で刺したり切ったりする必要があるのは、術者へのリスクを軽減するためなのかも知れない。
けれどこれは『未来でなく過去視の変形能力だ』と言ったのは『エル』だった。『産まれた瞬間にそこへ滅びの因子を注入している可能性がある』と言ったのだ。要は『そうも考えられる』というのを話したに過ぎないのだが、少なからず彼女は魔眼研究の一貫として『直死の魔眼』を相当研究・考察を重ねたのだとわかる。
多眼蟲の活用はそれらのリスクの一切合切を、使い魔である蟲に押しつけ、自らは何らリスクを冒さない方法だ。エルヴァちゃんはその蟲を見て、目先の利便性でなくリスク回避を優先した『エル』の考え方を知ったのだと思う。
「エル、お茶をどうぞ」
考え事をしていたら、いつの間にやらセイバーがお茶を入れてくれていた。ここはホテルのようにこういうお茶や、アメニティが備え付けられていた。きっと毎日交換・補充されるのだろう。そしてどの部屋もVIPルームに違いない。何故ならこの部屋には備え付けの家具と似た色の『PETROF(ペトロフ。チェコのピアノメーカー。ベルのように綺羅びやかな音がする)』のアップライトピアノが置かれてあるからだ。おそらくは1900年代初頭のものだろう。アップライトなら私は『Steingraeber & Söhne(シュタイングレーバー&ゼーネ。バイロイトにある小さな工房。リストやワーグナーが愛用していた、軽やかなのに音に厚みがある)』や、同じドイツの『Bechstein(ベヒシュタイン。世界三大ピアノメーカー(※)の一つ。音の分離がよく1音1音が明瞭で透明感がある。こちらもリストの愛用品だった事で知られる。他のピアノがうるさく感じる人に向いていて、『エル』がここのコンサートグランドとアップライトを持っている。それはジャズやラグタイムにも合うからだ)』だな。
※)残る二つは、『Bösendorfer』と『Steinway & Sons』だ。『Bösendorfer』はオーストリアの銘器で、著名な音楽家が愛用した事で知られる。今も手作りされていて、その最高峰である『Bösendorfer Model 290 Imperial』は仕上げや自動演奏システムが入っているかどうかに拠って3500万から6000万はするという(2021年現在で、自動演奏システムが入っていない最廉価モデルが税込み送料別で2900万くらい)。音は『Steinway & Sons』と同じく、素人でも聞けば『なんか違う』とわかるものだ。個人的には低音が潰れないで響くところが素晴らしいと思う。
『Steinway & Sons』は技師の一家がアメリカとドイツに工房を別けたので、両国に同じメーカー同じモデルがある。有名なのはコンサートグランドの『Steinway & Sons D-274』だ。世界中のピアニストがこれでコンサートを開いている。高音はキラキラと輝くが、音はきちんと別れていて、低音は重みがあるのに潰れない。『Bechstein』も『Bösendorfer』や『Steinway & Sons』も、聞けば違うメーカーだとわかるのに、言葉にすると似たり寄ったりになるのは、ピアニストの求める条件を高品位に再現しているからだ。
私はそのピアノを見ながらお茶を口に含んで、『これは食事にも期待が持てそう』『この高待遇は時計塔の口利きもあるだろうけど、オークションにはお祖父様提供の魔眼もあるのかな?』なんて事をほぼ同時に考えていた。
するとそんな、思考の空白を突いた見事なタイミングでドアがノックされた。
『アインツベルン先生、スヴィンです』
ガチャリ。
え? 空間転移? 窓際の席に座って居たアルファとガンマが反対側にあるドアを開けていた。姿の見えないベータは、床に転がって文句を言っていた。どうもガンマに突き飛ばされたようだ。
「ど、どうぞ。スヴィンさん」
なんだ!? ガンマがおずおずと応えたぞ? 3人娘はそうなのか? いや、アルファとガンマか? それで1番積極的なのはガンマであると……。セイバーの報告で知っている。ガンマはセイバーとともに、スヴィン君からサンドイッチ増量サービスを受けていたのだったか。う~ん……クロエちゃんみたいで可愛いぞ。
ただ、アルファもガンマもドアノブを握りながら絶妙な位置に立っている。偶然なのか計算なのか、セイバーと私、それとグレイの掛けているテーブルセットの前に立つ形になっているのだ。このワンクッションはグレイに安心感を持たせるのに成功した。
なので私は横のセイバーに頼んで立って貰った。そうしないと私が出られないからだけど、私の意図を察しているセイバーはグレイの横に座り直した。完璧なガードだ。
「スヴィン君、どうしました?」
「エルメロイⅡ世先生がお呼びです」
「わかりました」
それで残った皆んなに留守番を頼んで、私はスヴィン君とともに横の部屋を伺ったのだった。先生の部屋に入ると、知った顔の男性が待ち受けていた。
「おお、彼女が新進気鋭の?」
「ええ、彼女が先程話したミス・アインツベルンです。ミス・アインツベルン、彼は……」
「ああっ! ゾンビクッキングのミスター・ジャンマリオ! 倫敦に来てからあなたの番組に出会えたのは最大の喜びです!」
「おお! これは嬉しい事を! レディが私の番組を見て下さっているとは」
「はい。私もお料理が大好きなもので。あなたの素材を見抜く目と、その素材を活かすソースの合わせ方はいつも参考にさせて頂いています」
彼の名はジャンマリオ・スピネッラ。勿論、時計塔の出身の魔術師だ。趣味は私と同じお料理。そこからして親近感の湧く人なのだが、それだけに留まらず、彼はタレントとしての顔も持ち冠番組を持っていた。それが『ジャンマリオのゾンビクッキング』という料理番組だった。
ゾンビの演出や小道具の二丁拳銃はハッキリ言ってダサいし、料理に埃が入らないかと心配になる。何より時折撃つプロップガンの銃口から出る演出の火が気になる。しかも使っているのは隙間の多いSAA(シングルアクションアーミー)だ。何も煙硝は銃口から出るだけではない。料理人ならタバコを吸うなというのと同じで、『イカソーメン』みたいな淡白な料理だと匂いが移るのではないかと心配になる(イカソーメンなんて英国人は食べないだろうけど)。
けれどジャンマリオの話は上手く、作り方のコツやレシピの解説はとてもわかり易いのが特徴の番組だった。しかも意表を突く素材の使い方に、スパイスやハーブの組み合わせ方の絶妙さに私は感心しきり、観るたびに唸らされていた。最初は子供達の誰かが見ていたのを、たまたま眼にしただけだった。だけどその1回で見事にハマり、それから欠かさず見ている。まぁ、CMを飛ばしたいのでいつも録画なのだけど。けれど日本でもテレビを滅多に見なかった私がここまでハマるのだから、演出以外の内容はとても濃く、ジャンマリオのトーク力とお料理の創作力は間違いなく本物だった。
そこから先生とスヴィン君をそっちのけで私とジャンマリオさんは手を取って話に夢中になった。お父さんのような拳銃を握る手じゃない。シロウさんのような包丁人の手だ。
「ソースの隠し味にフォーティファイド・ワイン(酒精強化ワイン)をお選びになる場合の狙いは、味の輪郭をハッキリさせるためですか?」
「そうだよ。ただ輪郭が鋭角的になってはいけない。シェリーと違ってマデイラはその辺、口当たりが柔らかくてね。逆にその尖った味わいを活かすなら辛口に決め打ちしてしまって、ペッパーと合わせてサラダのドレッシングに使う手もあるね。だけど魚介に合わせるなら、同じ白でもマデイラかマラガだろうか。やはり味の輪郭は丸い方が万人受けするからね」
「でしょうね。私、イカやタコも平気ですので、イカと野菜のソテーにマデイラとソイソースをと考えたのですが、マデイラが手に入らずシェリーで代用しました。するとペッパー(輪切りにした赤唐辛子/エルヴァのアドバンテージ)を効かせた辛口のソースとバッチリで。さすがです、ミスター」
「いやいや。ご自分でこれは辛口でと考えたのでしょう? マデイラが手に入らなかったのは残念だがレディも大した研究家だ」
そうして私達は意気投合したのだった。それで彼がここに居る理由もわかった。彼はオークション参加者でなく、食堂車の料理を監修する料理研究家の一人だったのだ。それで今回の旅では全料理が彼の考案したレシピだという。ここから今回の旅の目的はお披露目であり、オークションもあるだろうが時計塔の理事やロードの何人かが視察に入っているのではないかと考えた。もっと言えばエルメロイⅡ世先生もその枠なのでは? まぁ、これもその内わかるだろうけれど。