オルガマリーの姿を借りつつ、セイバーにブランチをご馳走してくれたアオレアールは一度退室し、今度は本物のオルガマリーとトリシャを引き連れ戻った。時刻がちょうどお昼だったのだ。それでエルメロイⅡ世先生にも声を掛け、朝食の時と同じように皆んなでお昼を頂いた。この時のアオレアールは元の姿だった。
その後、オルガマリーとトリシャを部屋に戻したアオレアールは、そのオトナの姿のまま私の部屋にやって来ていた。どうも私と個人的な話があるらしい。セイバー達に目で合図を送ると、セイバーとグレイは子供達を促し、この客室のリビングから寝室に移動してくれた。
そこから他愛ない会話が始まった。声や表情、仕草を追うと、私はどうやらアオレアールにかなり気に入られたのだとわかる。
「真の鈴菌は、ワゴンRの良さは窮屈に感じさせない着座姿勢と、運転席後ろにドアがないという、少し捻った遊び心にあったと知っています」
すると話は懐かしいマアエモ・ママやルオン・ママの話になって、私の知らない2人のエピソードなどを教えてくれた。そこから話が広がって、いつしか日本の軽自動車の話になった。それで私が今、倫敦でコペンに乗っている事を打ち明けたら大いに乗ってくれ、『日本の軽自動車はこのクルマから変わった』とワゴンRの話に移行したのだった。
アオレアールはワゴンRを、絶対的な広さでなく広く感じさせるパッケージング・デザインと、使って傷ついても『まぁ、仕方ないか』受け入れられる道具感が見事にマッチしたから良かったのだという。だからプラプラしい(プラスチック感の事らしい。それを彼女は本当にこう表現した)内装も足回りも安っぽさを感じるより先に、自分でも手を加えられるのではないかという期待感と親近感に昇華できたのもお見事だったと言った。
また、そんな演出に一役買ったのが助手席下のバケツであり、後席の壁に付ける事ができたネット(金網)であり、荷台にジャストな大・小のトレイだったという。この大・小は後席を倒した場合に使える大と、後席を起こした場合に使う小の2種類がオプションにあったという意味だ。そしてそういう遊び心満載のオプション・カタログが当時の販売店にあって、それを持ち帰って眺めるだけでも楽しかったと話してくれた。
『エル』に削られ、日本に来た当初の記憶が薄い私にアオレアールは『ルオン(ママ)が真っ先に手に入れたワゴンRは、1995年2月発売の5速マニュアルで4WDのRT/S(CT21S/F6A、SOHCインタークーラー・ターボ、61ps)』だったという。ボンネットにはインタークーラー用の冷却バルジがあり、前後のバンパーはシルバーだったとか。それと同じ高さでサイドにもシルバーのストライプがあって、車体の色は赤だったという。それをルオン・ママは二代目のエスクードを買うまで乗っていたらしい。
これは私の記憶にはなかった。エスクード以外にワゴンRを持っていたのは知っていたが、それは98年のRR(CV51S)だった。それよりも前にRT/Sを持っていたなんて知らなかった。色が赤だったとか知らないし、61psのターボだったとかは憶えていない。RRが黒の64psターボだったのは覚えているけれど(サターンブラックメタリックという色らしい)、そちらも四駆だったとは全然気付かなかった。
「ママの最初のワゴンRって……そっちも四駆(※)だったんだ?」
「そう。聖杯戦争が94年だったから、終結後に一度移住の準備にスイスに戻って、その前後にディーラーと契約を済ませていたようです。確か初代のエスクードと同時に手に入れられたと私の記憶にはありますよ」
※)四駆と言えば何を思い浮かべるだろう? 私は軽なら同じスズキのジムニーだ。そしてもう一つは90年代前半にラリーで活躍したスバルのヴィヴィオだったりする。当然サファリを物ともせず走りきった、四輪独立懸架のRX-Rだ。スバル(富士重工)は大戦中に陸軍の一式戦闘機『隼』や二式、四式戦闘機『鍾馗』などを作っていた中島飛行機の出身者達が興した戦後の会社だ。そしてその技術は海軍の零式艦上戦闘機を設計した財閥の三菱より遥かに上で、ゼロ戦の6割は中島が生産したものだという。そんな凄腕の技術屋集団だったから、日本初の国民車にスバル360が収まったのだ。
それで良くも悪くも腕の良い、真面目な人達の会社だったから、とうとう軽自動車に四輪独立懸架を備えてしまうまでになってしまった。この採算度外視な車造りが、その後軽自動車や商用車を諦めざるを得ない窮地に追いやった訳だけれど、トヨタもニッサンも成し得なかったラリーの世界チャンピオンを何度ももぎ取ったのは元中島の技術屋集団が作ったインプレッサだった。そしてそれに続いたのが三菱のランサー・エボリューションだ。『地上を走る戦闘機』とはレオーネの時代から世界を諦めなかった、技術の結晶インプレッサと、その高みに追いつき追い越そうとしたランサー・エボリューションの事を指す。
そんなインプレッサの試金石となった、サファリラリーで疾駆するヴィヴィオ。その活躍は欧州にまで届き、そんな小型車であんな砂漠を走りきったの!? と、本気で驚いたものだ。だから日本に来た時、そんなヴィヴィオを駆ってお買い物に行く主婦を見て、日本はとんでもないと思ったのだ。きっとそれが私や『エル』が日本車好きになった大きな要因だ。
ではもっと過酷な場所へ行くための────バイクで言えば『TW』のような存在のクルマを、普通車にまでサイズアップして考えると何が頭に浮かぶだろうか? 私の場合ランクルなんかが浮かんで来るのだけれど、そこに釣られてダイハツのロッキーやラガーなんかも浮かんでくる。これらは欧州の道路にもぴったりな小型サイズなので、欧州版ジムニーとともに結構走っていたのだ。
そんな意外な歴史を持つダイハツ製四駆の2000年前後当時の最新版がテリオスで、その軽自動車版がテリオス・キッドだった。そしてこのテリオス・キッドを見て、『ああ、ネイキッドとテリオス・キッドを足して2で割ったなら、理想のワゴンRだったなぁ』と私は思ったものだった。どうだろうか?
こう思った理由はテリオス・キッドのエンジンが縦置きで、ボディこそモノコックだけどビルトイン・ラダーフレーム式という強固なものだったし、簡素なフルタイム4WDであっても、しっかりセンターデフロックがあり、リアデフにはオプションでダイレクトトラクションLSDが選べたからだ。
これをもっとわかりやすい言葉で言い換えると、まずエンジンが縦置きになると嵩張るデメリットこそあるけれど、構造がシンプルになる分、四輪駆動や全輪駆動に向く。次のフレームだけれど、今どきのクルマはどれもモノコック構造でフレームなんて持たない。だけど昔ながらのハシゴ型フレームに架装する、トラックのような構造の方が堅牢だし修理も容易い。だけど重くなるのでテリオス(キッド)はモノコックにラダーをくっつけた。言ってみれば井桁で補強したようなものだ。それでいて街中で使いやすいフルタイム4WDとし、それで足りなくなったクロカン成分(※)をセンターデフのロック機構を設ける事で補った。これで十分なところに、更に元がFRでもあるから、オプションでリアにLSDを選べるようにしていたのだった。
その後、ネイキッドが持っていた切り貼りするような遊び心は二代目コペンが引き継いだ訳だけど、ダイハツ版『理想のワゴンR』は何年も経たないと出なかった。先に本家スズキが『理想のワゴンR』を出した。それがハスラーだ。そしてハスラーが二代目になる頃に、漸くダイハツは対抗車を出した。それがタフトなのだけれど、見た目は良いのにマニュアルは無かった。誰もマニュアル・ミッションを求めない時代に変わってしまったのだった。
※)ここで言うクロカン成分とはクロスカントリー車の要素の事だ。それはエンジン縦置きでFR、センターデフのロックができるかどうか、前輪のハブをフリーにできるかどうか、ボディが堅牢かどうかなどを指している。テリオスとテリオス・キッドは、それらをある部分では教科書通り忠実に、そうでない部分は別のモノに置き換えてダイハツが知恵を絞って作った、クロカン成分たっぷりな4ドアの小型車と軽だったのだ。
だから前後輪直結した場合のタイトコーナーブレーキング現象を避けられるフルタイム4WDでありながら、ボタン一発でセンターデフロックができてパートタイム4WDのようにもなり、4WDの鬼門である対角空転も、リアだけはオプションで克服できるテリオスの魅力は、国内なら未舗装路の多い地方や東南アジアでウケ、人口の多い都会では余りウケていないという実に悲しい存在になっていた。
悪路・隘路で4人が乗れる……。前輪のスタックくらいなら、ドライバーを除く3人が押すか、最悪4人全員で引っ張り出せばいい……。そういう発想のクルマなのだ。実にタフで魅力的に思わないだろうか? 一般の女の子には全然ウケないだろうけど、ショコラのプレゼントが無ければ、私は最終型のテリオス・キッドを買っていたと思う(個人的な好みは2004~5年頃の顔だけど)。
ちなみに私はショコラに追加して、初代ハスラーのマニュアル・ミッション、フルタイム4WDのGを手に入れていた。色はフェニックスレッドパール/ブラックの2トーンルーフだ。この色を選んだ理由は、買って戴いたショコラがシャンパンピンクパールメタリック/ホワイトの2トーンルーフだったからだ。あれで私は2トーンも良いなと思ったのだ。そしてもっと良い色だと思ったカシスピンクパールメタリックには2トーンがなかった。それに私は初等部時代ミルキーペンにハマったクチだ。ビビッドな色も好きだけれど、パステル調の色も好きだった。そんなショコラがあったから、ハスラーはビビッドなフェニックスレッドパールにした。ルーフがブラックで引き締まって見えるところも気に入った点だ。
なお、ハスラーを追加したのは長女の幼稚園送り迎えに使えて(※)、まだ赤ちゃんの長男とコーちゃんとの4人でサッと気軽に出掛けられたからだ。それだけならラパン・ショコラで良いじゃないかとなるけれど、もう一つ大きな理由がちゃんとある。それは弓道部のコーチを引き受けていた事だ。何とこのハスラーは助手席を倒し、後席も助手席側を倒せば、弓がまっすぐ余裕で寝かせて入るのだった。ラパンだと後席の背もたれに斜めに掛けないと難しい。それで弓が傷んでは悲しいし、さりとて戴き物のラパンは下取りに出せない。だから『エイヤッ』とばかり、ハスラーを買い足したのだ。
つまりコーチを引き受けた当初から弓を載せるためにハスラーのようなクルマを探していた私は、発表された時から気になっていて、ネットでも随分調べていたって事だ。エンジンが、真ん中の気筒が冷えないK6Aから、新型のR06Aに替わっているのも良いと思った。それにディーラーの営業さんからも『ベースはワゴンRですよ。というかリニューアル・ワゴンRですね』と言われたのも決めた理由だった。
要は『ワゴンR』というブランドが飽きられて来たらしく、販売台数が落ちていたのと、先進的な安全装備などを今更ワゴンRに付けるなら、最初から新型で行こうと決まったのだろう。ただ、営業さんは最初『全車CVTだと思います』と話していたのだ。ところが蓋を開けるとマニュアルがあった。登坂や高速道路でターボ無しの軽自動車は厳しいと考える人は多いと思う。けれどマニュアルがあれば結構キビキビ走るものだ。ヒール&トゥは勿論、クラッチ蹴りでエンジンの回転を上げておき、四輪ドリフトに持ち込める腕があるならなお良いだろう。四駆を選んだのはそこもあった。つまりは悪路用でなく、路面を掴む安定性を考えての四駆だったのだ。
※)長女の名前は吉川灯(あかり)。その頃は幼稚園の年少さんで剣道を習い始めたばかりだった。私の血が濃いのか見た目はまんま外人。髪も少し茶色がかった金髪だ。ただ、私と違って東洋人らしいところもある。そこはコーちゃんの血だろう。また性格は至って真面目で素直だったから育てやすい子でもあった。ただ曲がった事が大嫌いな子なので融通の利かないところもあった。
それで小学生頃に放送された『地獄少女 宵伽(よいのとぎ)』にハマり、腹の立つ相手に『いっぺん死んでみる?』と言う時があったらしい(灯のお友達のお母さんから聞いた)。それを知った私は『灯』の名が悪かったのかと暫く悩んだものだ。というのも『灯』はドイツ語で『Hell』だからだ。これを英語読みすると地獄になる。気付かなかったよ……。
なお『地獄少女』は娘と観て、仕事人や仕置人を少女向けホラーにしたものだとすぐに気付いた。少し新しいのはそのビジュアルと、依頼人(被害者)も死後は地獄に堕ちるところ。人を呪わば穴二つだ。理不尽な悪意を避けたり抵抗するのは当たり前の事だ。けれど相手が支払うべき対価が『死』になるほどつけ上がらせたのは自分でもあると気付いて欲しい。そして自らの死後をも対価に加えざるを得ない結末を招くような行動や選択はどうなのか、とも感じた。
後に行き来できるようになった『エル』と、何度目かに逢った時にこの話をしたら、『一期から三鼎までは美遊がハマっていた』そうだ。こちらではおチビちゃんもクロエちゃんもアニメを見なくなった頃だし、末っ子の美夕ちゃんはその頃まだドキンちゃん大好きっ子だった。灯も幼い頃ドキンちゃんが好きだった。けれど年中さんからしずくちゃん大好きっ子に変化したのは面白かった。
また、長男の名前は吉川武志(たけし)だけど、この子の名は弘毅お義父さんにちなんで名付けた。『毅』は『たけし』と読めるからだ。そこに『武士』の意味合いも加味してそういう名にした。武志はコーちゃんみたいにでかい子だった。枯れるんじゃないかと思う程、おっぱいは吸われるし、離乳食の段階でお代わりを欲しがる子だった。どんな男の子に育つのか楽しみで仕方ない。
この後、私は願い通り次男に次女とポコポコ産む(双子だった)のだけど、この子達が実に魔術師向きな子達だった。だけどどこまでも天然で……素で頭を悩まさせる問題行動ばかり起こす子達で……。末っ子は可愛いなんて私の中では夢のまた夢となってしまった。まぁ、それはまたの機会に譲ろう。
それで、弓道部コーチの仕事で新車のハスラーに乗ってウキウキと穂群原に行けば、職員用駐車場にキャンディピンクメタリック/ホワイト2トーンルーフ(GターボのFF、CVT)とサマーブルーメタリック/ホワイト2トーンルーフ(Xターボの四駆、CVT)の2台が並んで止まっていたのだ。弓道場で知ったのだけれど、サマーブルーが英語教諭になって4年目になったエルマ(私達の時代の顧問が定年退職し、藤村先生も旦那さんの転勤で学園小学部を退職したので、とうとうエルマが弓道部顧問筆頭になった。当時26歳、彼氏無し。おそらくヴァージンだろう)のハスラーで、キャンディピンクメタリックが国語教諭の桜ちゃん(主に古文を担当。弓道部の副顧問でもある。当時25歳。弟の士郎クンとは結婚3年目)のだった。皆んなして同じのを買うなよ。全然知らなかったぞ。
だけどこれは本当に偶然で、2人は私と同じく自分で選んで買っていて(教師の給料って良いのかな?)、お互いに駐車場で揃うまで知らなかったのだった。まぁ、色が可愛く弓や道衣といった弓具も載せられるクルマとなったらハスラーを選ぶのは当然だったと思う。
聞けば桜ちゃん(学内では国語科の衛宮桜先生だ)のは代金だけ凛が出したらしい。どれだけ妹に甘いのだ、あの姉は。
(凛は将来を誓いあった彼氏がロシアに居て、結婚は30になる前にしたいと話していた。また親友のルヴィアは美遊ちゃんの士郎クンととっくに結婚を済ませていて現在6年目だ。2人は見事に可愛い双子の女の子を儲けていて、家族全員がメロメロだという)
またエルマにしても大学時代のようにプロボックスとは行かなかったのだと簡単に想像できた。と言うのは大学ではかなり友人が増えたようで、再会したエルマは学園時代より趣味が幅広くなっていたからだ。そんな友人達のお陰なのか、倫敦から戻った当初の私は、随分と垢抜けたエルマに驚いたものだ。何よりエルマには『姉さん』の事を頼んであった。そこが心配だったのだが、結局姉さんは何一つ不自由なく、おチビちゃんやクロエちゃん、アルトリアと海外に出掛けたり、お父さんやお母様、美夕ちゃんと温泉旅行に出掛けたり、自由気ままな生活を続けていた(旅行は姉さんなりの気遣いもあったようだ。倫敦にも数回来てくれたから、家族思いな人だ)。だけど、そんな姉さんの生活費や旅行費を出してくれていたのがエルマと学園に居た間のトロンメルだった(お小遣いは自分から進んでアルバイトをして貯めていたらしく、あの海の家もシーズンになったら毎年行っていたようだ)。後日、エルマにお金を返そうとしたら『私もトロンメルも、姉妹で家族ですよ』と断られた。今はアメリカだけどそんなトロンメルや、大人びたエルマに感動したものだ。
それでエルマは幾つかある趣味を楽しむために、もう1台クルマを持っていた。それが中古で買ったらしい97年か98年頃のスズキ・エブリイ・C(クラシック/DE51V)の4WDだった。エルマに言わせると、大学への通学で使っていたダークブルーマイカメタリックという色のプロボックス・ワゴンも気に入っているそうだけど、自転車を立てて積めないのと、車中泊をするには天井が低いから意外と用途に拠っては使えなかったらしい。
自転車でフラッとどこかに行く趣味ができたのは学園時代に知っていたけれど、自転車をクルマに積んで出掛け、あまつさえ出先で宿を取らず、そのクルマの中で眠る事が趣味になっていただなんて。だけど『女性の一人旅なんて、今の日本でしかできませんよ』と返されハッとした。確かにそんな安全な国は日本だけだろう。なのでアサシンも連れず、本当に日本のあちこちを一人で巡っているそうだ。大学時代から教師になった今でさえ。エルマのエブリイ・Cは現在12万kmも走っているそうだ。
結婚している桜ちゃんは無理だけど、スケジュールが合えば、姉さんやアルトリアとも旅行に出掛けているそうだ。だけど車中泊だけはいつも一人だけなのだと言う。それでそのエブリイ・クラシックは元の色がブラック(本当は濃紺。スキューバブルーメタリックというらしい)だったそうだけど、今は光沢のブラックとマットなブラックの2トーンに塗り替えてあって、ホイールも黒い鉄チン、ウインドウにも黒いスクリーンと、外装は目立たないよう? にしてあった。強いて言うなら真っ黒なルーフキャリアと、若干リフトアップしてあるところがノーマルと少し違う。黒ずくめなので別の意味で怪しいけれど、そこは女の子の一人旅なので威嚇の意味もあるらしい。効果の程は謎だ。
それで内装はとても凝っていて、一度全部剥がして、天井裏から床面、各ドアまで全部防音断熱処理を施してあるそう。その後に内装やコンソール、ハンドルなどをウッド調のものに換え、天井裏のラックや棚を設置したのだという。だけどそんな真っ黒いクルマに乗ってやっと採用された穂群原をクビになっては堪らない。何より学園時代のみならず、大学時代も様々指導して下さった英語科の先生方に迷惑も掛けられないから、こちらはこちらで通勤用の可愛い見た目のクルマを探していたのだという。
エルマや桜ちゃんの新卒採用は2009年の春だ。それで桜ちゃんの指導教諭は知らないが、エルマの指導教諭は私が高3の時の担任でもあった。それでエルヴァの妹という事で、学園生時代はもとより、教育実習の頃もずっとお世話になっていたそうだ。弓道部OBとして桜ちゃんともちょくちょく学園に寄っていたし、中・高併設の穂群原向けに、きっちり中・高両方の教員免許を取るべく動いてもいた。そこも大きなアピールになったのだと思う。
というのは、英語科の先生と国語科の先生の定年退職が各1名づつ2009年の春に出ると、かなり早い段階から知らせて貰えたからだ。そして二人は見事採用され、春から新高等部1年生の担任まで任された。そしてこの年度がクロエちゃん、おチビちゃん、美遊ちゃんら三人が高等部生に上がった年だった(桜ちゃんがおチビちゃんの担任で、エルマがクロエちゃんと美遊ちゃんの担任だった)。ちなみに私が日本に戻ったのは同年の秋で、弓道部コーチの打診が元コーチと薫からあったのは翌2010年の事だった。
ところで、学園卒業後にアメリカに行ったトロンメルに傷つけられたとエルマが訴えていたフィットは、現在外語大4年生のおチビちゃんが(国際線のCAを本気で目指している)2年ほど前に廃車に追い込んでいた。結構な事故だったけれど、『これはダメ』と感じたところで咄嗟に強化魔術を使ったそうだ。なので怪我がなくて本当に良かったよ。あ、クロエちゃんは大学に行かず、学園卒業後はスイスのエルヴァちゃんのところに行っている。ドイツ語をもっと学ぶためと、スイスの大学卒業後のエルヴァちゃんとともに事業を起ち上げるためだった。
ついでにこの1年後にS660が出て、お父さんが遊びで買っていた。これは愚息が舌足らずな言葉で切嗣お爺ちゃんにねだったからだった。私の子は外孫だし、内孫もできたというのにお父さんは初の男の子の孫に甘々だった(士郎クンのところは女の子だったのだ)。でもメインは相変わらずのレンジローバーで、その頃は三代目から四代目に変わっていた。更にその半年後、いつの間にやらNCに変わっていたお母様のロードスターが、今度はNDに変わっていた(S2000は登録を抹消して、MR-Sと同じくエルマの宝具に預けた)。そしてフィットを壊した後、ミラ・ココアに乗って大学に通っていたおチビちゃんは、無事大学を卒業した。TOEICでも900点を出していたので航空会社に一発で受かったのだった。
閑話休題。
金髪の姿に戻ってからこっち、アオレアールの話し方が少し変わった。言葉遣いが丁寧になったのだ。それでこのクルマの話はどこに向かうのだろうか?
私は念話のパスのチャンネルを次から次へと切り替えた。
「ルオンさんは、そのワゴンRをイキナリ改造していて。エンジン全般に強化魔術が常時掛かるようにしてあって、タービンもインジェクターやインタークーラーも交換してありました。確かブースト圧が可変で最大2.4kgf/cm2掛かるようになっていたと思います」
アオレアールだ。ご存知のように軽自動車は約660ccだ。単純計算だけど660ccの2.4倍だから1584cc……つまりブーストを最大まで掛けると、約1600ccのクルマと同じ排気量になったも同然だ。想像だけど120ps以上出ていたのかも知れない。これはマアエモ・ママの改造ビート(ビートはノーマルだと遅い)や、ビートに対抗して手に入れたチューンド・カプチーノより速いかも知れない。
ああ、そんなオバケにしようと思ったから四駆を選んだのか。それにその四輪駆動は、コスト面から考えても、ビスカスの簡易四駆だったはずだ。だけれど後輪にはフリーホイールハブが組まれ、前輪側にはLSD(リミテッド・スリップ・デフ)が組まれていたという。元がFFだから、後輪のハブのロックをフリーにしたら二駆になるのか。さすがルオン・ママ。
それで2代目のRR(98年1月発売。K6A、DOHCインタークーラー・ターボ、64ps)もターボだったらしいけれど、それは限定モデルで、珍しいマニュアル・モデルだったそうだ。メーカーも事故に繋がりかねないと考えたのか、或いは足回りが保たないと考えたのか、四駆のターボはその後ずっとオートマだったとアオレアールは言う。そして最初のワゴンRは後席がいつも倒してあって、そこに汎用のカゴ(スーパーで使われる一般的なもの)が10個くらいと、折り畳めるカートがいつも2台積んであったらしい。
「そういうタイムセールからタイムセールへとスーパーをハシゴするための実用車だから、きっと『エル』も乗った経験がほとんど無いのだと思います。助手席は間違いなくマアエモさんか、後で加わったセラさんでしょうから」
なるほど。それで記憶が薄いのか。ああ! そうだ。アルトリア姉さんが二代目オプティのエアロダウンビークスを手に入れたのも、ママ達の刺激を受けたからだと思う。それにセラがコペンを買ったのも、このワゴンRの影響だったのかも……。
「それでですね。真のスバリストはフジマイティーにも憧れるという……鈴菌以上の変態だったのです」
フジマイティーとは富士重工(現スバル)が架装していた塵芥収集車(ゴミ収集車)の事らしい。これは『エル』の話でなく、間桐慎一さんの事だった。そう言えばあの人は『エル』以上のスバル好きでSTiの限定車などを何台も集める人だった。段々思い出して来た。そういや、そもそも『エル』がスバリストになったのは、間桐慎一さんの影響だった。
そんな慎一さんの夢は、LP38型に架装された日野デュトロでパリ・ダカールラリーに出走する事だったらしい(この頃は開催場所が、まだ南アメリカに移動していなかった)。何を考えているのだ、慎一さんは!? 見た目だけかも知れないけれど、そんなゴミ収集車でアフリカを走るつもりなの?! そんな私の驚きを他所に、そのLP38型は1999年にグッドデザイン賞を取った、キレイなデザインのクルマだという。ゴミ収集車なのに、キレイという表現がヘンだ。
『『エル』ちゃん、わかってないなぁ。あの砲弾型のウインカーとブレーキランプが良いんだよ』。そんな風に慎一さんは『エル』に語ったそうだ。しかも慎一さんは高3の秋に免許を取り、スバル・サンバーのワゴン(規格より長くなるのでトラック・ベースの改造品かも知れない)の後ろをFRPで成形して、LP38型風にしていたという。
「そ、そんなので冬木の街を走っていたの……?」
「そう。それで『ゴミを持って帰ってくれない小型の収集車が走っている』って市役所に苦情が行って。警察から随分と叱られたんだってさ……。そこもあって時計塔に留学したらしいね」
逃げたのか!?
「うん。慎二が『エル』に文句タラタラでそう話していたみたい。美少年は美青年になったけれど、やっている事はバーサーカー以上ですね? これで元生徒会長なんだから……」
そうだ、慎一さんは姉さん(イリヤ)の前の生徒会長だった……。そのサンバーは今も地下の駐車場に置かれてあって、今の色は白からWRブルー・マイカに塗り替えられているそうだ(白だった頃、横に『冬木市』と入っていたかどうかは知らない)。しかも慎一さんは倫敦に行く前に、慎ちゃんへ『他のクルマだと許さないけど、トラックとLP38は免許を取ったら好きに乗って良いからな』と残していったそうだ。それで誕生日の少し早い慎ちゃんは、サンバーの軽トラック(※)をマアエモ・ママに頼んで森に運んで貰い、そこで運転の練習をしていたそうだ。アオレアールが言うには、もしかしたら今は仮免まで行っている可能性があるとの事だった。
※)これが超珍しいディアス・ワゴンやエルマのエブリイにあったようなクラシック・モデルだった。型式としたらKVになった後期のものらしい。で、あの頃の軽自動車は、こういうクラシックでレトロなデザインがやたら流行っていた。何でもハウステンボスへの納入用に、スバルがそういうデザインのサンバー・ディアス・ワゴンを造ったのが初めらしい。それの評判が良かったので一般販売に踏み切れば、マーケットの手応えが凄かったそうだ。そこでスバルはヴィヴィオのテコ入れにそういうクラシカルなビストロというシリーズを出した。するとそれがまたヒット。ついには他のメーカーまでクラシカルでレトロ路線のタイプを発売するようになった。95年から2000年の頭頃の話だ。ピークは97~98年頃、ビストロならシフォンというのを憶えているし、ミニカ・タウンビーなんてのも憶えている。けれどそんなブームもミラ・ジーノが出て落ち着いて、アルト・ラパンで終わったって認識だ、私は。ダイハツもスズキもそこは軽自動車大手。取ってつけたようなデザインでなく、上手く纏めて来たなぁと思ったものだ。
(そのために軽トラのクラシックはすぐに終わり、ディアス・ワゴンのクラシックもモデルチェンジでパタリと見掛けなくなった。再び街で見掛けるようになったのはもっと後の事で、それはKVをワーゲンバス風にしたものと、TV(KVの次のモデル)をUAZ-452(ブハンカ)風にドレスアップしたものだった。なお、エルマも本当はエブリイを『まっくろくろすけ』でなくそういう風にしたかったようだ)
ところで『エル』も同じサンバーの軽トラック、それも四駆を持っていて、そちらには小型のクレーンを積んで森での運搬などに使っていた。色はWRブルー・マイカに塗り替え(元は中古で買った、白い赤帽サンバーだった)、ドアに『555』と黄色で入れてあった。しかも『エル』はこの明るく深みのある青色を『アインツベルン・ブラウ(ブルー)』と言い張っていたのだ……。農道のポルシェ(RRドライブだからそういうアダ名がある)は林道なら絵になると思うし、誰も来ない森の中なら何の問題もない。けれど、慎一さんのゴミ収集車はどこであってもダメだろう(サンバーはトラックもバンやワゴンもRRだ)。
『エル』も訳のわからない奴だけど、慎一さんもそんなだったんだ……?
あ、そうそう。こんな流れからお母様の中でも軽自動車のブームがやって来て、末っ子だった美遊の幼稚園送迎用にニッサン・モコを手に入れたんだったっけか? いや、あのグリーンのモコは美遊が年長さんになってからだ。その前は……ああ、初代オプティのクラシックだ。深山町の路地裏にあった止め石(関守石)の意味を知らなかったから気付かず、止め石を避けて細い路地の先に行ってしまって、土塀の防護用に地面に埋め込まれていた大きな石とゴツンと。あれで片輪が死んでしまって、買い替えたんだった。
(レッカー車も入れない旧規格の軽自動車いっぱいいっぱいな路地だったので、後でアルさんが担いでトラックに積んでくれた。どうしてお母様はあんな狭い路地だらけの裏通りに入ったんだろう? その頃は深山町の武家屋敷住まいだったから、近道だと勘違いしたのかな? 確かこのオプティは修理して、ルオン・ママに譲られ、最後はセラに押し付けていたように記憶している。セラがコペンを手に入れた後はどうなったのだろう?)
そんな失敗はあったけれど、お母様が軽の楽しさに目覚めてラパンのSS(5MT)を買ったのが、私がこちらの世界に流される前年の2003年だった。後に私が二代目ラパンのショコラをコーちゃんの伯父様夫妻から贈られ、CVTなのが寂しいなと思ったのは、先述の通りだ。
私はアオレアールの言葉にかなり驚きつつ呆れていた。と同時にやっとキャッチできたこの念話のチャンネル……そこで語られる内容と、今のこの状況にも。けれど表面上の喉が発する音声での会話の内容には、次々と思い出す事もあって、この時間をとても楽しく感じていた。そんな温かな気持ちに冷や水を浴びせるような驚きの発言がアオレアールからの念話で更に告げられた。この念話の内容に付いては最後に知らせよう。
「マアエモさんとルオンさんがバイクやクルマで張り合っていたのは憶えているでしょう?」
「ええ、そこは……」
身近で親しかった人達の諍(いさか)う姿は、あまり覚えていたくない記憶だ。
「だから『軽』だったんですよ。本気になっらマズイから。それに軽なら何にでも使えますからね」
家にゆとりがあるなら軽トラか軽バンが1台あると本当に便利だ。だけどマアエモ・ママもルオン・ママも当時はお祖父様の所有物(こういう表現は良くないけれど、そうとしか言えない)だったから、そのお祖父様から乳母としてかなり高額な、各種手当て付きの給金が出ていた。なので2人はホンダにスズキのバイクやクルマなどなどを、好き放題買い揃えていた。
だけどホンダ・アクティやスズキ・キャリイ(エブリイ)には手を出さなかった。ああいうのは皆んなで使う1台があれば良いじゃないかと考えるのは甘い。あの2人はそんなタマではない。絶対に『自分のもの』というところに拘る人達だから。だけれど、実際は『エル』がメイド用にと揃えたサンバーかハイゼットばかりだった(ミニキャブの名が出て来ないところが『エル』だろうか)。
この理由は何となくわかる。対抗心は遊びの延長だという意味もあると思うけど、最大の理由はキャリイ(エブリイ)の方がアクティよりも基本性能が高かったからだ。ライバルが50psの時代に、40psにも満たないエンジンは本当にホンダかと思うくらいだったし、特にワゴンの使い勝手が違った。
当時軽貨物の『NSX』は、箱バンやトラック型の『GSX-R』に完膚なきまでに負けていた。それだけではない。『農道のNSX』は、ウルトラ・ローやウルトラ・リバースがあろうと『農道のポルシェ』にも完璧に負けていた。だって、サンバー・トラックにもエキストラ・ローがあったからだ。しかもエブリイ・ワゴンならスーパーマルチルーフで室内上方は明るく高いし、ターボモデルも既にあったし、ターボ以外の四駆はパートタイムだったから、泥濘んだ林道や畑、雪道にも強かった。こんな具合だったから、ルオン・ママは『騎士(武士)の情け』で、ホンダを遡上に乗せなかったのだと思う。
しかも日本に来た頃のキャリイ・バンやエブリイ・ワゴンは、アクティよりも後方にエンジンを積んだ、RR寄りのミッドシップだったのだ。だから、もしかしたらルオン・ママはMRのキャリイ・バンかエブリイ・ワゴンを持っているかも知れない。けれど私の拙い記憶だと、乗っているところを見た覚えは無かった。そこが2人の友情なのだろう。まぁ、その前に『エル』としても、軽のバンやワゴンで四輪ドリフトする乳母は困るだろうしね。
(馬力が弱いのに重い箱バンや荷物満載の軽トラは、サイドブレーキ操作だけでなく、左足ブレーキにヒール&トゥといったテクも必須だったりする。例えば荷物を載せた状態での坂道発進だ。通常の坂道発進はサイドをゆっくり下ろしつつ、低速の薄いトルクを稼ぐためにアクセルを踏み込みながら、クラッチをミートさせるものだ。これは後ろに下がらないためで、軽であろうと10tトラックであろうとマスターしなければならない操作だ。だけど、過積載気味だと軽トラックでもサイドでは足りない場合があったりする。だから右足でブレーキを踏み、同時にアクセルをある程度最初から開けておく必要がある。そんな面倒くさい操作を、2人くらい運転上手なベテランになってしまうと、ヒール&トゥで軽く行っちゃう訳だ)
このホンダの実用車がイマイチだった原因は、バブルが弾けた後のホンダが体力的に厳しかった事とミッドシップに拘り過ぎたところにある。それは経常利益や資金の話だけでなく、マーケットに於ける『人気の谷』にもハマっていたからだ。結局、普通車はクリエイティブ・ムーバー・シリーズで徐々に息を吹き返す事ができたのだけれど(90年代のスポーツ車は好調だったし、タイプRが出た頃も絶好調だった。今考えると、どのタイプRもご奉仕価格だったよねぇ。というかそういう売り方をしないとSiR以下のグレードが捌けなかったっぽい)、軽自動車の方は後にNシリーズがヒットするまでパッとしなかった。トゥデイ以降の軽は別にホンダでなくとも……と、いったものばかりだったのだ。ワゴンRが月に3万台も売れていた頃、ビートは5年間でやっとこ3万台だったそうだ。だから私の認識も、その頃のホンダはクルマ屋でなく、バイク屋でF-1などのエンジン屋だった。
この基礎体力の弱いところはスバルやマツダも同じで、バブル後にインプレッサやロードスターで救われたところは似ている。ただこの大きな骨は喉を相当傷つけたようで、マツダは早々に商用車と軽に見切りをつけたし、スバルも時間の問題だった。
(自分から泥沼に堕ちていくミツビシは論外だ。『エル』はランエボやパジェロなんかも好きなようだけれど、どこに不良が潜んでいるのかわからない、信用も信頼もできないクルマに私は乗ろうと思わない)
まぁそんな訳で、94年から95年頃のホンダで息を吐いていたのは軽の普通車や貨物車でなく、モデルチェンジ前のEG型シビックやEF型CR-Xなどだった。勿論、型落ちの初代CR-X、EF型シビック(グランドシビック)、三代目のワンダーシビックやBA型やAB1型のプレリュードなんかもよく見掛けた憶えがある。そんなのと一緒にハチロク(AE86)やソアラっぽいキュウニイ(AE92)にヒャクイチ(AE101)、S13、S14、180SX、FC3S、FD3S、NA型ロードスターなんかが円蔵山のアスファルトにタイヤ痕を残していた頃────ついでに言うと、その頃は某峠の走り屋漫画が連載開始される少し前で、慎一さんや慎ちゃんを含む男の子達がミニ四駆にハマりつつあった第二次ミニ四駆ブームが起きる頃だった。第一次ミニ四駆ブームの世代ならビックリマン・シールにもハマっていたと思うけれど、両ブームは5~7年ほど開きがある。
(なんと『エル』は、その走り屋漫画の連載2回目か3回目を見て、『今後ハチロクは高値で売れる』と読んでいた。それでアサシンを全国の中古車屋へ派遣し、程度の良いハチロクを一度に100台以上集めたのだ。しかも堂々と『あのクルマは伝説(的なお宝)になる』とまで言い切っていた。理由の1はこのマンガの内容なら、アニメ化も近いだろうから人気が更に高まると想像できるから。その2は程度の良いのを一気に買う事で、中古市場が刺激を受けて、売値が更に上る事が見込めるから。と同時に『大切にしよう』と考える人が増え、そうなると何としてでも直そうとする業者が増えるし、逆に廃車は減って行く。その3、ブームが本物になれば、元走り屋だったレーサーや、芸能人も絡んで来る。そうなって来ると中古車マーケットにある種のムードが形成されてくる。そうなればハチロクの高値安定は確実だ。だから転売開始は10~20年寝かして、2015年が過ぎた頃からにすれば『30万の仕入れで400万から500万は値が付きますよ』……だそうだ。当時は『エル』も私も9歳だ。投資に3~5千万。全部売れれば売上は4~5億。人件費と手直し代を引いても3億以上の儲けは固い。私はエゲツない奴だなと本気で思ったよ。と言うのはイルマの鋳造をその頃から想定していて、10年掛けて直させようと考えていたとわかるからだ)
そんな円蔵山を根城にする走り屋から、当時一目も二目も置かれていたクルマが、マアエモ・ママの操る『NSXタイプR』だった。そもそもママの見た目の年齢でNSX、それもタイプRなんて持っている人はどこにも居なかったと思う。銀髪で赤い瞳を持つ十代後半の妖美な白人美少女が、当時の若者が買える筈もない高級車で峠をかっ飛んで行くのだ。あ、毎夜毎夜暴走していた訳ではないよ? ママとしたらあれって新車の慣らし運転をしていただけだから。それにママが本気でタイムアタックに挑み始めたのは、走り屋さん達と親しく話すようになって、DC2インテグラを買った後だから。
そしてその96SpecタイプRを借りたアルトリア姉さんが、マアエモ・ママの持つ96Specのタイムを破れなかったのだ。お母様なんて当然だし、ルオン・ママがどんなバイクを操縦しても、そのタイムは越せなかった。そのタイムの上に『NSXタイプR』で叩き出した金字塔のようなタイムがあったんだよ。
ママはそんな人だったから、当時のホンダをきっと不甲斐ないと思ったに違いない。ママがその後、DC2型98Spec、EK9型といった具合に次々とタイプRを買い求めたのはその反動だと思う。『エル』がタイプRやユーロRを買い漁ったのも、そんなママに釣られてだ。まさか旧車のEG6にあんな改造を施すなんて思いもしなかったけれど。
(『エル』が峠を走り始めたのは中2になってからで、その時のクルマはS2000と完成したEG6だった。そして中2の夏に、同じS2000でママが出したタイムを破る事に成功した。ただし、ママのS2000は99年の最初期型グランプリホワイトで『エル』のS2000は2000年発売のミッドナイト・パールだった。どちらも今となっては2リットル時代の足回りが弱い前期型(AP1 100~110系)だけれど、『エル』のは110系になる。そんな僅か1年でハンドリングがかなり違っていた。『ホンダあるある』だ。
また、『エル』がEG6を作り始めたのはイルマを鋳造した後だった。つまり97年の5年生に上がってからだ。夏休みの自由研究のように軽く始めて、人体錬成を成功させたのだ。コンセプトは『アインツベルンを離れても、一人で生きていけるスピリットとスキルを併せ持つ事』だった)
いや、そもそもSiRⅡなんて言ってたけれど、本当にアレってEG6なのか? 限定車だったEG5(※)はないと思うけれど、ブレーキはブレンボだったし、スポット溶接増しから補強までしてあったから、EG4をベースにして改造した可能性はあるなぁ……。
※)EF型シビック(グランドシビック)にもあった、名機ZCエンジンを積んだモデル。同EF型シビック(グランドシビック)やEG型シビック(スポーツシビック)で採用されたB16AエンジンのVTECとは違ったフケ方をするので、グランドシビックやCR-Xなどに積まれていたZCエンジンが好きな人も多く居た。EG4の方はD15BというSOHCの1.5リッター・エンジンを積んだベースモデル。94psの省エネVTEC(ETi)と、100psのベース(MX)、130psと少し元気な、吸気だけ可変になったVTEC(VTi)があった。上手い人はこのVTiでも速かったそうだ。けれど手っ取り早く速くする方法は、エンジンの排気量アップだ。スポーツシビックの時代だとEK型にあったB16BをB18Cに載せ替えるなんて方法は無かったけれど、B16AにB18Bのパーツを流用してアップする方法はあった。『エル』の改造はそれを真似つつB18Cを参考に一品物で仕上げたものだ。おそらくコンロッドとピストンが通常のB18Bとは違うだろう。もしかしないでもシリンダーやバルブなどにも手が入っていると思う。そう言えるのは、ドライカーボンのボンネットの下に4連スロットルがあったからだ。
アオレアールの話は続く。
「そしてそんな軽貨物車とスクーターが、中国の未来を決める事でしょうね」
アオレアールは自動車やバイクの法整備だけでなく、オート三輪(三輪バタバタと言っていた)を含む軽貨物の『あり方』と『捉え方』を改革したいと話してくれた。かなり真剣な顔で。
今の中国は原付き以下の二輪やオート三輪は自転車や歩行者と同じ区分で、一旦停止も通行区分も無いのだそうだ。つまり道路の端を逆走してきたり、歩行者と同じように横断歩道を渡ってくるオート三輪やスクーターが合法で存在するという意味だ。これは発展途上がどうこうの話だけでなく、国民の6~7割が日本円換算で、年収数万円以下で暮らしているからだ。つまりそれは、免許制度が成り立たないくらい識字率も知識も低い人が大勢を占めているという意味だった。
リテラシーもマナーやモラルも教育があってこそだ。だけど地方で農家を営む低所得層の大衆は、その日の食事にも事欠く有り様なので、交通ルールどころでは無いらしい。そういう理由からお役所も『お情け』で厳しく言わないのだという。
貧富の差が大きくリテラシーやマナーにモラルが最悪なのは、共産党の一党独裁があったとか、自由経済を取り入れたトップの判断がどうこうといった単純なものではないらしい。何より血の通った街を作るのは大衆と、地方の行政に務めるお役人さんだというのはどこも同じだとアオレアールは強く言った。だから少しでも安全な四輪の小型自動車、オート三輪より安定性の高い、ピザ配達のような三輪スクーターをもっと普及させたいのだと彼女は話してくれた。
「軽自動車の規格なんて無いのだから、もう少し……例えばミゼットⅡのような、けれどノーズがしっかりあって、衝突安全性の高い乗り物があっても良いのになと考えています」
だからSSVやUTV(どちらもバギーのようなオフロード車両。個人乗りのATVと違って数人で乗れ、後方に荷台があったりする車両だ。アメリカやオーストラリアでは、レクリエーションだけでなく農家の作業用にも使われているという)をすっ飛ばして、軽自動車の話を熱心に話していたのか……。日本に住んでいないのに、きっと色々調べたのだろう。『エル』もあちらでの『革命』で、そういう知識に対して念話などで協力していたのだと思う。アオレアールはそんな事を考える人だったのだ。
『技術はパクれても、安全性を担保できないシステムや職員が無ければ片手落ちもいいところです。乗車客を護れないハッタリだけの高速鉄道なんてのも要らない。まずは交通ルールの改革と認識改革です』
そんな事をアオレアールは言い切っていた。やがて彼女は時計を見て会話を打ち切り、オークションの30分前に迎えに来ると言い残して自分の部屋に戻って行った。
残された私は扉越しにセイバー達に声を掛け、寝室に下がってくれたお礼を言った。リビングに戻ったセイバー達の背後には列車の窓があり、その向こうには樹齢がゆうに千年は超えていそうな巨木が立ち並んでいた。
この世界は人類が居ないので、18世紀や19世紀に起きとされるマッドフラッドという災害や、核の冬だったのではないかとされる明けない夜や、夏のない年を迎えていないのだ。
アオレアールが念話で話した事はこうだ────。
『この世界は時計塔を含む魔術協会のものです。ですがアインツベルンはここ以外に後6つの世界を『現象の彼女』から受け取っています』
『また、中国は私と三国の皇帝がそれぞれ1つの無人世界を受け取りました。今の中国より遥かに広い、丸々1つの無人の世界。貴金属も鉄やアルミ……石油に石炭。これまでの歴史にあったありとあらゆる資源が、ここのように手付かずで眠っている世界です』
これらの無人世界がここを除けば、お祖父様の6つ、アオレアール達の4つで計10個もある。それらを秘匿しながら、新しいエネルギーを開発したり、食糧問題を解決するまでの時間稼ぎに有効利用して欲しいとのメッセージがあったそうだ。
彼女もお祖父様も、何と重いものを渡されたのだろう────。これ以上のパンドラの匣があるものか。私に打ち明けざるを得なかった彼女の心情を察すれば涙が零れそうになった。だって思い出して欲しい。美遊ちゃんや士郎クン達の世界はどうなった? 王様じゃないギル君が裁定者にならなければいけなかった理由は何だった?
エインズワースが求めたもの────それがこんなにいとも簡単に────。やはり『システム』を先に暴こうとした『エル』のようなタイプが先を行くのだ。
だけれど新規の世界もそう簡単なものではない。何故ならそれは、アラヤ論やガイア論をも超越した概念が成り立つ、いや、成り立たせて行かねばならない、正に新規にリセットされた世界であると言えるからだ。誰も居ないとはそういう事だ。昆虫や小動物くらいしか確認できない世界────。そこには願いも希望も理想も、信仰も何もない。
きっとここは、それらの概念を最初に作り上げた者達の思惑通りの世界になって行くだろう。だってここには西暦も歴史も何も無いからだ。
考えてみて欲しい。英霊への信仰は誰が持って誰が懐く? 誰が彼らに祈りを捧げる? 名も知らない彼ら英雄の────。ここではそんな彼らを讃える神話も英雄譚も何もないのだ。
誰がこの世界での明日を夢見、希望を懐くのだ? 人が居ないというのはそういう事だ。そして最初にその概念を持ち込んで、この世界に足を踏み入れた人類が、その規範となるのは間違いない。つまりそれはお祖父様と少数のロード達なのだと思えるからだ。それはとても恐ろしい事だ。私ならもうずっと安眠できなくなるだろう。それは言ってみれば舵のない船の出港のようなものだ。
だからこそ、我々のような『アイツラ』への抵抗勢力となり得る魔術師という存在が居なかった世界なら、きっと今の私が想像できる範疇を超える人類奴隷化が進んでしまっているのだろうと簡単に想像できた。つまりこれから始まろうとする世界に、どういう足跡を残したかで行く末が変わってくるからだ。
そう考えると私達の世界も『現象の彼女』の世界も、その始まりは悪意からであった事がわかる。だけど私達魔術師は『アイツラ』に対抗できるチカラがある。なのに『現象の彼女』の世界が滅んだのは、抵抗勢力側に大きなアクシデントがあったからに違いない。だけど『彼女』は滅んで消える前に時限爆弾を仕込んだ。それが自らの『現象化』であり、新規の世界に概念を持ち込む存在……即ち『神』への昇華だったのだ。
そしてどうしてそんな事ができるのか、できないのかの問題でなく、そういう作用をするように最初から世界は設計されていたという事実をこそ私達は認め、それを受け入れざるを得ない状況に既に置かれている事をしっかり認識する必要がある訳だ。何故なら私達の世界でもそうだけれど、世にどうしてあれだけの宗教があるのか? そこをきちんと捉えないと、アラヤやガイアの英霊はどこで生まれ、どこから来るのか、どうして成り立つのかが説明できない。特にアラヤ側の英霊は。
彼らは人類の願いと祈りで成り立つ存在であり、人類史や人類文明と密接な関係がある……とされる。まぁ、元が人なのだからそうだよね? となると、どうして『アイツラ』はそんな『奴隷』から『英霊』になんて『羽化する』バグを見逃した? そんな風に考えれば、『抑止』とは霊長類の総体的な願いや祈りから発生したのでなく、宇宙の創生前から敢えて仕込まれていた安全装置だったのだと思える。
また、以上の事から英霊の座はアカシックレコードなんかではないのがわかる。世界の外は外でも、それはその世界だけに寄り添って発生するものだと解釈せざるを得ないからだ。だって何度も言うが、人類史がまだ始まってもいないこの世界だと、英霊なんて存在しないからだ。私やアオレアールが持ち込んだセイバーやアサシン以外が召喚されても存在が中途半端な原因は、術の未熟さだけでなくそこもあったように思える。そこまで考えて私はギョッとした。つまりセイバーやアサシンが規範……要は最初の英霊の鋳型として登録されてしまった可能性があるところを否めないからだ。
「セイバー、ここでは『平和と愛』を強く願って下さい……」
「は、はい?」
セイバーとアサシンが英霊の型、即ちここでの規範となってしまった可能性は限りなく高い。けれどそれを言っても、最早どうしようもない。ゲンナリするなぁ……鬱だ……。
「……すみません。独り言です」
それから私達は髪を纏め、ドレスに着替え、化粧をした。程なく通路に出ると、隣からエルメロイⅡ世先生とスヴィン君が出て来るところだった。逆方向を見やれば、美しく着飾ったアオレアールとオルガマリー、そしてトリシャも通路に出て来ていた。私達はお互いに頷きあい、オークション会場に向かったのだった。