手筈通りであるなら、今回の事件はあの最後っ屁のような、英霊モドキの連続召喚で終わっていた。それが目に見える事象の総てだった。オルガマリーもエルヴァも、そして私ことアオレアールも耳目を集めるための釣り餌でしか無かったし、オークションそのものが目眩ましだった。つまりカタログになかった魔眼や人造魔眼は、私が『エル』から預かっていた品と、私の秘蔵していた中国で発見された品を提供したに過ぎなかったのだ。
そして本命と言うか本隊は、元の世界で工作活動をしているノイントのお祖父様と、マリスビリー・アニムスフィア、そしてあちらに残したもう一人の私に、総数から半分以上を割いたアサシン達に他ならない(こちらの護衛は4チームだ)。
それで戻ってから聞いた報告では、アトラス院の中に潜んでいたズェピアの反対派達や時計塔を隠れ蓑にして暗躍していた一派は、スエズ運河へ派遣したアインツベルンの巡洋艦からのミサイル1発で降伏した。そもそもSWIFTを押さえ、エジプトの中央銀行さえ意のままにできる『チカラ』が今のこちらにはある。しかも英国もエジプトも政府の内部にはこちらの送り込んだスパイだらけだったし、頼みの綱になりそうな大物は全員、病床で深い眠りを貪っているか人形に入れ替わっている。だから結界を張ったのもあるが、ミサイル発射は報道にならなかった。
第三者が認識できなければ、その攻撃は戦争の緒(いとぐち)にすらならない。ただ、アトラス院の建造物は結構破壊されたので後始末が大変だとは思うが……(まぁ、事前に避けるべきポイントはズェピアから指示があったのだけれど)。何れにせよ、インターネットがもっと発達して誰もがデジタル画像を気軽に送信できる時代になるギリギリ手前の今だからこそできた作戦行動だった。これが2006年や2007年になれば、もっと難しかっただろう。なおアメリカが動かなかったのは、昨年末に私がワシントンDCに出向いて工作した結果だった。
そして私がここまで介入した最大の理由は、スエズ運河を格安に通行する権利を手に入れる事と時計塔に恩を売る事にあった。まぁ、セイバーには言えないけれど、頭が可怪しく悪どい英国人の中でも、特に頭の可怪しい連中が集うのが時計塔だ。恩を売ると言ってもどこまで理解できているのやら。この話には私なりの根拠がある。例を挙げるとビスケットは軽減税率の対象品目で、クリスプス(ポテチ)は嗜好品で税率が高くなるところだ。ビスケットやスコーンは生活必需品なんだと。ね? 英国人は頭がオカシイでしょう? それが当たり前と思っているのはエルメロイⅡ世も同じだからね。
また、ロシアへはノイント老にエルヴァちゃんやエーデルフェルトが、『エル』の世界と同じく手を広めつつあったので、アジアに極東が得意地域だった私は、そういう風にしか動けなかったのもあった。それにそれが三国の英霊を召喚した『現象の彼女』の意向にも沿ったものだという確信もあった訳だ。
何故なら『現象の彼女』の彼女が望んだ世界は『イルミナティ』が存在しない未来であり、東インド会社に蹂躙された東南アジアの人々の歴史に残った傷を癒やし、アヘン戦争以後の疲弊しきった中国の人々の尊厳を取り戻す事にあったのだと信じているからだ。でなければ銭ゲバ方向にしか知能が回らない、悪魔的な奴らが一掃されたりしないだろうし、北京・天津・上海・寧波・福州・廈門に香港といった場所で英霊が召喚されたりしなかっただろう。言うまでもなく、今挙げた場所は北京以外は南京条約で開港させられた港だ。だから私は一度鎖国させるために港の船舶を焼き払ったのだ。まぁ、ほとんどの船が港から国外に逃げたのだが。
そしてこの南京条約で味を占めた奴らは鎖国中の日本に目を付け、明治維新を演出した。坂本龍馬や勝海舟といった開国派も、薩長の倒幕派も尊皇攘夷派も『人斬り』や『天誅人』と同じく踊らされた駒に過ぎない。いや、龍馬だけは動かされている事を良しとして、自ら動いたところもあるだろう。また租界を認めなかった高杉晋作は、さすが世界をよく見ていたと判じざるを得ないと思う。
列車が倫敦に着き、地上階に上がった各々が、時計塔からの家路に就いた。象頭の怪しい人がエルヴァに手を振っていた。あいつ……奇妙な人と仲良くなるね。そこが彼女の個性なのか人徳なのか……。その後、エルヴァやセイバー達はジャンマリオに、エルメロイⅡ世はイヴェットに捕まって、彼、彼女らのマシンガンのような親しみの籠もった口撃を喰らって、グレイとスヴィンに呆れられていた。来た時と同じくエルメロイⅡ世と帰るはずだけれど、出発までにはもう少し時間が掛かるだろう。
なので私は彼女達に手を振ってお別れした。その後、私を迎えに来ていた馬謖と合流し、ヒースロー・エクスプレスで話し込んでいた。内容は今回の列車やオークションの事ではない。私や三皇帝が『現象の彼女』から贈られた新たな世界に付いてだった。手始めに一つだけ開拓しようと人員を送っているのだが、その中間報告を馬謖から受けていたのだ。結局エクスプレス内での立ち話には限界があり、空港でも旅客機内でも話し込む私と馬謖だった。
ヒースローを飛び立った私は、話し疲れて眠ってしまった馬謖の寝顔を見ていた。
馬氏五常────。
馬良字季常、襄陽宜城人也。兄弟五人、並有才名、郷里為之諺曰、「馬氏五常、白眉最良」良眉中有白毛、故以称之。
馬氏の五常────。
馬良(長男の名)、字は季常(きじょう)、襄陽は宜城の人なり。兄弟五人、並びに才名有り、郷里ではこれが諺となりて曰く、「馬氏の五常、白眉最も良し」と。
馬氏の五兄弟は全員が字(あざな/※)に『常』という文字が使われていた。五人が五人とも才能があったので、いつしか『五常』と呼ばれるようになっていた。その中でも長男の馬良が一番優れていた。彼は眉の中に白髪が混じっていたので『白眉』という渾名があった。彼らの故郷では『馬家の五兄弟は、白眉が最も良い』という諺(ことわざ)が残っているくらいだ。
以上が、幾つかの物や人が並ぶ時に秀でているものを指す『白眉』の語源だ。このように結構知られる格言や諺が紐解けば春秋戦国時代や三国時代だったなどというのは良くある事で、例えば『水魚の交わり』、『苦肉の策』、『破竹の勢い』、『十人十色』などなどがある。
なお、三国が滅び普が国土を統一した後、左思という詩人が『三都の賦』という、三国の首都である魏の鄴、蜀の成都、呉の建業を題材にして詩を書いた。完成までに費やしたのは約10年。そこから人々に知られ陽の目を見るまでに更に数年を要したという。しかし一度広まれば、その詩を写したいという人が溢れ、彼の住む洛陽の紙の価格が上がったそうである。時代が時代なので、紙漉きは始まったばかり。なのでかなり高価なものだったと思われる。それの在庫が無くなり、販売価格が一気に上がったのだ。
このように『洛陽の紙価を高める』の意味はベストセラーを指すのだが、実は活版印刷はまだまだ先の時代だったので、本が売れたのでなく、写本用の紙の価格が上がった点に注意だ。と言うのは、これはコピー用(当然自炊。拓本の拓が炊くに変化したという説がある)のメディアやスキャナーの価格が上がったという意味でもあるからだ。おそらく左思はそんなに儲けていない。わかるだろうか?
『おマイラ、そんな時代からパクリとコピーをやってのかよ!?』
これを諸葛孔明さんなどに言うと、『くっ』とか言って悔しがるので面白い。その反応が誰かに似ていると思ったら、エルヴァに『エルメロイⅡ世先生に似ている』と列車の中で指摘された。なるほど。なら、エルヴァ。それならグレイみたいな可愛い子をプッシュしたら駄目じゃん。孔明さんの奥さんは醜女で有名だったんだぞ? (と同時に機械(からくり)好きで発明家でもあった。むしろその才能に惚れ込み、人は見た目ではないと悟って結婚したそうだ)
ところで、後漢から三国時代は長幼の序を表す上で、慣例的に長男から順に『伯』、次男を『仲』、三男を『叔』と言い、末っ子は『季』と呼ぶ習わしがあった。親の兄姉が『伯』で弟妹が『叔』となるのと同じ意味だ。では『季』は何だというと、辞書を繰った時に出る『末っ子』という意味は、この頃の慣習から来た後付けらしい。これは自分が探った限り、どうも漢字を分解したもののようだった。『末』+『子』=『季』という事らしいが、どう見ても『末』でなく『禾』だろうにと自分でも半信半疑に考えている。
それはさておき、然し乍ら(しかしながら)だ。家族計画がままならないのは世の常で、馬氏では四男の後に五男が生まれてしまった。『今度、生む』とは行かなかったようだ。なので、人々は五男を『幼』と呼ぶようになった。そこに字の『常』を付けて五兄弟を伯常・仲常・叔常・季常・幼常と呼んでいた。
このように蜀志・馬良伝には残っているのだが、ややこしいのは長男馬良の字(あざな)が元々『季常』であるところだ。これだと四男の通称と同じになってしまう。また、長男と歳が離れている次男も『叔』とする場合もある。魏の名将・夏侯淵には七人の息子が居り、武将としての彼の性格がこの字付けに出ている。その息子達の字が長男・伯権、次男・仲権、三男・叔権、四男・季権、五男・幼権、六男・稚権、七男・義権なのだが、『権』を通した律儀さと(だけれど世間は冷たく、誰も『夏侯氏の七権』とは言わない)、六男への悩み抜いた末の茶目っ気、最後の七男への『義』に彼の生真面目さや人間性が垣間見える気がしないだろうか?
(私は主に呉の人達と仲が良いが、外政では北方の騎馬民族やその末裔を抑え込んで、内政ではかなり高機能な政治を営んでいた魏を高く評価し贔屓している。あの時代を思えばと言うべきか、あのような時代だったからこそというべきか、ともかく後漢末期、武では食べていけないが頭と弁舌で一族を背負わなければならなかった秀才達は、皆んな『自分を活かして取り立ててくれる士官先』を探していた。そして中原に覇を唱える事などは曹操や武人に任せ、『とにかく食っていける国にしよう』と文官が頑張った。作物が育つ江南の呉ではない。計画的に農業を進めないと飢饉が待っている土地柄だ。中国大陸の動乱は野心家が動いたから始まったのではない。全部『食っていくため』だったと言っても過言ではない。それが民衆の声だったのだ。曹操は野心家だったが、その民衆の心理はきちんと見ていた)
なお、隻眼で知られる大将軍・夏侯惇は夏侯淵と父親同士が兄弟の従兄弟だ。また夏侯淵には歴史に名も残っていない弟が数人居たらしいが、その弟の当時13~14歳の愛娘を誘拐して強姦し、無理矢理妻にしたのが蜀の張飛だ。最悪だ、この男。
(禅譲や簒奪を無視して官僚視点で考えれば、魏≒普だ。そしてその両国は看板を掛け替えただけで、民衆はちゃんと食べていける国だった。一方、僅か一州と少しというだけの領地しか持たない蜀なのに、丞相は自分のスジを通す(北伐)ためだけに民衆から戦費と農作物を巻き上げ国と民衆を疲弊させた。しかも使われる将はどいつもこいつも愚連隊のままだ。真っ先に滅んだのは当然だし、私は天意であったとさえ思っている。本人達には言わないが)
※)あざな/中華圏で発祥し、日本にまで伝わった本名とは別に名乗る名前。それまでは幼名(親の付けた呼び名)呼びで、本名(成人名)は目上の人や手紙などで使うだけとなる。
(親しい場合は例外もあり、豊臣秀吉が前田利家を幼名の『犬千代』や通称の『又左衞門』『又左』と呼んでいたり、織田信長が豊臣秀吉を『猿』という渾名以外に『藤吉郎』と幼名で呼んでいたのは有名だ。ただ、秀吉の両親は百姓だったらしいので、『藤吉郎』なんて幼名があったかどうかは怪しいのだが。ともあれ、(本人が卑しい身分と思っている)農民の出であった秀吉にとって幼名呼びすらからかいや蔑みの言葉に聞こえたであろう。晩年の鬱屈した性格はそうして醸成されたものだと思う)
それはさておき、成人で名を換えたり、本名とは別の名を持つのは民間信仰に基づくもので魔除けの意味が大いにあった。言霊信仰や姓名判断の漢字の画数まで絡む問題だったから、文字通り生死の上を歩いていた戦国時代の武士としては、それはもう大変な行事だったようである。そんな第三の名でもある字(あざな)は、成人名に因んで散々熟考の上で本人がアレンジして名乗る場合が多いのだが、さすがにこの字(あざな)まで親が名付けるのは中華圏に限られるようだ。
面白いのがケルトの伝承とギリシア神話で、こちらにも幼名があり(セタンタやアルケイデースなど)、成人後に新たに名が付けられていた。ただしそれは日本と同じで、身分の高い人に限られたようだ。
この長々した故事などの引用話は、馬謖についての前口上だと考えて欲しい。
『謖』という漢字には『立つ』とか『起き上がる』という意味がある。この文字から察するに、彼の両親が末っ子の彼にどういう思いで名付けたのかが何となくわかると思う。その意味するところは『転んでも泣かない。一人で起き上がる』だろうか? そんな言葉の意味通り、末っ子だからと甘やかされず厳しく育てられていたなら理想だけれど、おそらく彼は長男の馬良と親子ほど歳が離れていた筈だ。つまり『甘い』部分がある事を否定できないのだった。
かつて劉備玄徳さんが孔明さんに『重用するな』と言ったのは、そういう『甘い』部分が垣間見えたからかも知れない。愚連隊の親分とは言っても、玄徳さんは苦労した事を糧(かて)にして、生きる術(すべ)を知っている人でもある。だからそれなりに人が集まったのだろうし、孔明さんのようなキレ者がそんな元愚連隊のリーダーとの水魚の交わりを良しとしたのもそこにあったのだと思う。
私達魔術師は、頭を三回下げられても納得できない契約はしない生き物だ。つまり孔明さんは懐が深いのだ。そんな孔明さんと未だ逢って話す勇気の出ない馬謖。困ったものだと思いつつ、ついつい肩入れしてしまう。別に惚れている訳ではないのだけれど、どうも私は『真面目で誠実で、でもどこか抜けている男性』に弱い。私の方が随分と年下なのだけれど、守ってあげたいなんて考えてしまうのだ。それで出逢ってからこれまで苦楽をともにしていたので、求めてくれるなら身体を許しても良いくらいには思っていた。
ああ、言っておくね。それは私がオープンだからとか、仲間と思えばとことん気を許すタイプだからというのもあるけれど、一番の理由は、自分への危害を避けるためと職を得るための『ボディ』や『人形』を子供の頃から使っていたからだ。つまり『自分の本体』を使わず、『そういう事ができる』と『子供の頃から』知っていて、実際何度かそういう風に使った経験もあったという意味だ。
こういう頭の切り替えは『エル』だけでなく、同じプロトタイプ仲間であるボーデンも得意で、彼女はそれを活かして産業スパイもやっている。だから以前、危険を顧みず飛び込んだとある任務で、マシンガンの弾を8発も受けて『エル』を焦らせたらしい。ナンバーズの中でなら、29番のミトは一度爆殺されているそうだからもっと凄まじい。
そんな訳で馬謖が指を咥えている間に、私は『呪腕のハサン』や『百貌』の中の数人……つまり婚姻を伴わない交渉であっても戒律を破ったと思わないタイプと、そういう彼ら向けに鋳造した『人形』を使って関係を持っていた。彼らの一人ひとりが『ウラマー(イスラムの知識人)』であり、『イマーム(礼拝を司る導師)』でもあるので罪深いと言えば罪深いのだが、女性体のハサン(チビっ子を含めないでも2人居て、タイプと言うかリーダー次第で3人の場合もある)が言うには、やはり彼女達も『そういう役割』をこなしていたそうだ。
ま、英霊というのは身も心も生前の若い頃をパワーアップして召喚されるのだから仕方ない面もある。それに、お互いストレス発散になるだろうしね(そこは私も同じだ)。そしてそんな私が用意した『人形』は彼らのような褐色の肌にしてあったので、どことなくエルヴァに似ていた。なので普段アオレアールとして使っている姿より、かなり人気があった。それに私もストイックで堅物な47番だった頃の彼女になった気分で妙に燃えるから、あの『人形』を使うのは吝かではなかったりする。まぁ、それで姉妹と言っても良い仲間に叱られるのだけど。
ところで料理を覚えるために私が『エル』から離れ香港で暮らすようになったのは、私達が6歳を過ぎた少し後の秋だった。その頃の『エル』はまだ事業を初めたばかりで、アインツベルンの総裁になる前年の事だ。そして料理の修行だけでなく、学校へ通う事を条件に鋳造技術の知識と、必要な素材や素体、それなりに纏まったお金を『エル』は残していってくれた。それが1991年の話で、九龍城砦の取り壊しが始まる2年前の事だった。
彼女が私を残す決断をしたのは、『私なら大丈夫』だと考えたからだろう。その期待に応えるべく、私は持てる『チカラ』を最大限に発揮してありとあらゆる事をやった。私が『本体』と認識している姿は『エル』と見た目がほぼ同じコーカソイドの子供だから、とにかく何をするにしてもオトナの姿で行う必要があった。それもできればモンゴロイドの姿で。
そこで『エル』は、以前にも話したように10体もの『素体』を私に預けてくれていた。その内の成人体3体をモンゴロイドに改良し、精神をその3体に分け、九龍城砦に潜り込んだ。最初のひと月はその九龍城で隠れ住みつつ、偽造の身分証明書をそのオトナの姿の人形で造った。その時に使った名前の一つが『王一诺』だ。だからこの他に私は漢字の名前が二つある。
ついでに言えばこの時に、香港人らしく英語名もその3体それぞれに付けた。それはその頃の私には漢字の名前があまりにも異質でしっくり来なかったからでもある。だから『王一诺(ワン・イーヌオ)』には『アンソニア(Anthonia)』という英語名がある。仲が良くなった人からは『アン』と呼ばれる場合が多いし、私もアンと呼ぶ場合がある。二体目の『黄春燕(コウ・チュンヤン)』には『ルシール(Lucille)』という英語名があり、こちらの愛称は『ルーシー』だ。
最後の三人目は『朱思涵(シュウ・スーハン)』といい、こちらの英語名は『ネイオミ(Naomi)』だ。当時の私は未熟だったので、実はこの人形が一番モンゴロイドに見えた。だから西欧人の私が思い付いた東洋人っぽい英語名がネイオミだった訳だ。字面でわかると思うがこれは日本の『ナオミ』から来た名前で一時西欧で流行った名でもあった。それを思い出して適当に付けた『通称』だ。
また、英語名と言ってもこれらは本人が勝手に名乗っているコミュニティ向けの『通称』で、戸籍とは何の関係もない。なので香港に住む映画俳優などの有名人の英語名も洗礼名を名乗っていない場合は、全部『自称』であり『通称』だ。
だけどこの三体の漢字名(中国名)は、九龍の街にあった『大家楽(※)』でたまたま知り合ったお婆さんが『もし孫に名付けるのなら』という前提で候補に出してくれたもので、何の違和感も現地の人に与えないらしい(紙ナプキンに書いてもらった。姓は私が辞書で調べたものだ)。
※)大家楽は大衆定食屋のチェーン店の屋号。香港のどこにでもあり、90年代はマックよりも店舗が多かった時期があった。現代では朝セット、昼セット、午後セット(2時半から5時頃までのおやつセット)、夜セットでメニューが入れ替わり、かなり格安で食事ができる。この世には民間に於ける収入の目安としてビッグマック指数なんて言葉もあるが、当時も今も、そのビッグマックのセットを注文するよりも大家楽で定食を頼む方が、お腹が膨れ格安である。なので今も朝やお昼は満員だ。なお、この大家楽と似たようなローカルな定食屋やお粥屋、インスタントラーメン屋も香港にはたくさんあり、カフェなどもこの形式を真似ていて、そのどれもが賑わっている。
中国料理レストランや飲茶レストランとは一線を画すこういう定食屋は、おかずをガラスケースから取る飯屋とも違い、日本人の感覚でいうと牛丼屋が近いだろうか? 実際、吉野家もあちこちにあるのだが、メニューは日本のそれとは全然違い、夜には火鍋があったりするし(おそらく四川人や重慶人はおろか、広州人も知らないだろう。その存在は香港人しか知らないと思う。そしてこのお一人様火鍋が、思ったよりも辛くないので男女問わず人気だ。)、昼頃に行けば『出前一丁』まである。この『出前一丁』は香港人にとっては国民食に近いもので、大衆的なお店ならどこに入っても必ずある。注文すれば文字通り、例のインスタントラーメンがラーメン鉢に入って出て来るのだが、お店ごとというか料理人ごとというか、意外な工夫があってついついハマってしまう作り方があったりするものだ。
私がハマったのは半熟の目玉焼き乗せだった。あなたが自宅で作る場合に、もしチャーシューや茹卵がないなら、ハムエッグをトッピングしても良いと思う。ネギや湯がいたモヤシ、青梗菜を添えればなお良い。味は何でもいい。それで仕上げには胡麻油2滴とラー油3滴だ。
(香港で売られている『出前一丁』には様々なフレーバリングがあるために、長期に渡って販売され続ける決め手となった『ごまラー油』がフレーバー次第で、日本と違って入っていない場合がある。だからキッチンから胡麻油とラー油をテーブルに持って来るのは王道の食べ方だ)
私が主にイーヌオ(一诺)の人形を対面仕事でよく使う理由は、イーヌオ(一诺)が女性だけでなく男性名でも通じるからだった。次の『黄春燕』はコーカソイドっぽさが一番残っていて、言ってみれば失敗作だ。だけれどいざ使ってみると周囲の反応が思ったより良かった。なので後年逆手に取って、『黄春燕』をモデルにコーカソイドを造った。それが今使っている金髪碧眼の『アオレアール』だ。なお私本人(本体。名もアオレアール)は、見た目がアインツベルンのそれで、『エル』や他の者と同じ銀髪紅眼である。
また、そんな変わった運用をした理由は、精神分割や同時操作の確認と、『エル』の希望通り学校に通うには、若く経験も浅い成人一人の収入だと難しいと考えたからでもあった。家賃を払いつつ、子供一人を学校に通わせるとなると、相当な収入が必要だ。だから成人体を三人にした訳だ。またそうする事でメリットが当初思っていたよりも大きかった事にすぐ気付いた。それは金銭面だけでなく、知識や経験といった部分にもあった。
例えば一诺には香港でも比較的良いお店を就職先に選ばせ、思涵には少し大衆的なお店を、そして春燕には普通の会社を選ばせるなんて使い方だ。こうすると私はより多くの調理技法が学べるし、様々な人と接する事でより多くの人間を観察できた。社会で生きる上で一番大切なのはコミュニティに溶け込む事だと私は考えている。溶け込めば自分を気に入り、親切に接してくれる人も増えるし、またそういう人からより多くの事が学べる。他人から好まれ、愛されるという事は武器となり得るものだ。
そうして指針を決めた私は、数々の準備を終えてから魔窟とも言われた九龍城砦から出て、割合近くの九龍地区の安アパートに移り住んだ。そこである程度の資金を貯め、漸く私は学校に通う準備を終える事ができたのだった。ここまで知識があり行動に移せるのなら今更な部分が大いにあるのだけど、そこは『同年輩の子供達との集団生活や集団行動を学んでいないと歪(いびつ)な人間になる』という『エル』の言葉に納得したからだ。
ではどこに通うとなるとこれがまた難しかった。だけど割合近所に基督教ではあったが、英国国教とは関係のない一貫教育のミッション校があり(母団体はアメリカ)、幸いにもそこは英語にチカラを入れている事や付属の小學校もあって、広く外国籍の生徒を集めている事などがわかった。実際はもっとオープンなインターナショナル・スクールも香港にはあるにはあるのだが、どういう事かそういう学校の所在地は『離島(※)』に限られていた。
※)この『離島』は地域を指す言葉で、九龍半島と香港島を除いた海に浮かぶ総ての島を指している。そしてそういうところにも人は居るし生活をしている。だから学校もある訳だ。また一応『離島』も九龍半島南側と香港島北側の中心地から外れる地域なので、『新界地区』とされている。交通手段が余りにも余りなので誰もが別地域と考えるようだが。
だから翌年の秋から(香港の学校制度は9月始まりで翌年の7月終わりだ)の途中入学(編入)に備えて受験勉強をした。
その途中入学に選んだ学年だと『エル』よりも1学年遅れる事になるが、そこは気にならなかった。むしろ実際の年齢(7歳)に合わせれば3年生に編入だし(学校制度の違いでそうなる)、だからと言って7歳なのに5歳の新入生と一緒に学ぶ事にも抵抗があった。だから妥協点として2年生への編入とした訳だ。試験の事なんて全然気にしていなかった。受かって当たり前と信じていたからだ。
ところがいざ通うと決めると、なにせ『初めての学校』だったので気後れが凄まじかった。『え? この私が?』と自分でも驚くほど、学校に通う自分の姿を想像すると足が震えたのだ。だから、もう一体子供の素体をおろす事にした。顔は『黄春燕』似にして『黄春鈴(コウ・シュンリン)』と名付け、春燕とは姉妹という設定にした。その方が各種の手続きに便利だったからだ。ちなみに春鈴の英名はルイーズ(Louise)なのだが、本人は最初自分で決めると言い出し、ルドヴィカ(Ludowika)というドイツ人名を名乗っていた。いくら何でもそれはないだろうとルドヴィカに対応する英語名のルイーズにさせた。するとどういう訳か私はマリオン(Marion)になってしまった。この意味を知ったのは、学校で友人にからかい半分で『洗礼名はゲームから取ったの?』と指摘されてだった。
それからこの奇妙な5人での共同生活(実際は全員私だ)が始まったのだけど、それは実に5年間にも及び、毎日が楽しかった。それで私と春鈴は翌年の9月から、真っ白い夏の校服に身を包んで校門を潜ったのだった。だから本体であり本物の私と春鈴は、こちらの世界に派遣されなかったら、残り数ヶ月で卒業の、今が楽しい盛りの高2だったのだ。本当、いい加減にして欲しい。
なお、私がエルヴァを気に入ったのは、彼女もひと月ほど前までは高校生だったからだ。だから昨年の秋に学園祭へ行ったりしたのだ。同じ学年となるルヴィアや凛の研究を食い入るように見学したのもそれが理由だったし、エルヴァに話した香港の可愛い校服とは、私と春鈴が小學、中學(※)と着ていた『母校の校服』の事でもあった訳だ。
※)香港は英国の植民地だったので、教育制度は基本英国と同じ6-5-2-3制だ。詳しく言うと小学校が6年間、中学校5年間、予科(高校と見做される)が2年、大学は3~4年という意味だ。しかも他国のように7歳になる年に小学校入学ではなく、5歳から入学となっている。だからプレスクール(幼稚園)は2歳から入れるのだった(6-5-2-3制は2008年まで。2009年以降は6-3-3-4年制に改革された)。
少し変だと思うかも知れないが、指折り数えれば幼稚園が2歳からの3年で、小学校が5歳から10歳までの6年、中学校が11歳から15歳までの5年で、ちゃんと他国の義務教育期間と辻褄が合っている事に気付くだろう。また、この少し変わった制度が幼児教育を重要視している点にも気付くと思う。
実はこういう制度は各国まちまちで、例えばスウェーデンだと3-3-3-3-3(4)制だし、ルヴィアの国であるフィンランドは9-3-3制だったりする。北欧はどこも7歳で小学校入学だから、スウェーデンは小学校を低学年と高学年で分けているだけで、フィンランドは義務教育期間を一緒くたにした9年で表しているだけだとわかるだろう。
では、こういう違いはどこから来るのかと言うと、知能の問題だけでなく体格や体力も大いに考慮されているからだ。スウェーデンの場合は事細かにそれを明文化して区別している訳だが、実態はフィンランドと同じく校舎は同じで教室が分かれているだけだったりするのだ。これは北欧が余りに寒い季節が長くて厳しいので、中学生が小学生の子供達を学校までちゃんと連れて来いという意味でもある。要は集団登校な訳だ。
そしてこの集団登校を敢えて明文化しない事で、年下の子には親切に、目上の人は敬うという精神を鍛えている訳だ。けれど誰もが年齢に関係なく一個人であるから名前呼びとなっている(欧米での名前呼びは、このように個人を尊重しているからだ)。この年齢差が2~3年だと先輩・後輩というあまり良くない閉鎖的な区分意識が生まれるので、中学生から小学生まで一緒に登校せよというのが北欧人の知恵な訳だ。こうして知るとルヴィアが美遊へ妙に親切だった理由がわかるだろう。
注【キャラ立てさせないといけない型月的にはハチャメチャな方が面白いのだろうけど、周辺作まで目を通せば同じツンデレでも、凛よりルヴィアの方が好ましく見えて来るのは、母国がフィンランドという設定が大いに作用しているからだ。これはそういう周辺作品に携わる作家達の精神フィルターが入るからでもある。作家各人で調べたであろうフィンランドへの知識量や情報量は当然異なって然るべきだし、それら作家が持つ情報が半ば無意識に作用しているのも間違いない。だからこそその作用が、良い意味でキャラへの微妙な変化を起こしている事もファンなら知っておくべき事だろう。その際たるキャラがルヴィアでありイリヤだ。この2人のキャラは同人作家も含めて随分と味付けが変化していると私は考えている】
また、香港は平均収入が多い分教育に熱心な親が圧倒的に多い。もっと端的に言うと────幸せになりたいなら金持ちになれ、金持ちになりたかったら良い仕事を見付けるか、起業しろ。そのためにも良い学校に入っておくべきだ。そこまでは私達が援助する────と、いう事だ。
こういう事を香港人は幼い頃から学ぶのだ。だからほとんどの親は、子供が生まれた段階から幼稚園を探し始め、1歳になると願書を提出し始める。実際、ダウンタウンからアップタウンの高層マンション住まいに移り変わるのは一世代では厳しいものがある。『ひいお爺ちゃんも、ひいお婆ちゃんも、植民地で搾取される側だった。だけど、植民地から開放された時代しか知らないお前の世代は、もっと上を自由に目指せるんだぞ』なんて事を聞かされて育つのが今の香港人な訳だ。そういう理由から香港は公立の学校が極端に少ない。あるにはあるが、誰しもが私立に通うので廃校になるところも多いのだ。
ところで、先の6-5-2-3制の関係や今の私立人気から、香港では中學校といえば中・高生両方が通う一貫校を指し、義務教育年代の中学生を低学年、義務教育期間の終わった高校生を高学年と呼んでいる。これはポルトガル領だった澳門や、同じ中国語圏の台湾もほぼ同じなので、中華圏独自の言い表し方だと思ってくれて間違いない。しかも低学年と高学年で同一の校服なところもあれば、別なデザインのところもある訳で、そこが面倒くさいので、私は敢えてエルヴァには説明していなかった。
ちなみに私が選んだ学校は付属の小學校こそ数は少ないが、中學は香港のあちこちに姉妹校があるマンモス校で、校服は小中高も姉妹校もどこも同じだった。学校の違いは襟に通して結ぶ紐リボンの色だけだ。あるところは緑で、あるところは灰色掛かった水色、あるところは黒色、そしてまた別のあるところはオレンジ色という具合だった。それで私や春鈴の母校は赤だった。それを真っ白な丸襟に通して結ぶのだ。この校服は夏用も冬用もワンピースで、夏が全身真っ白、冬用は襟と袖口が白で身頃は少し濃い灰色だった。
これを5歳の小學1年生から17歳の予科(高校)2年生まで着ているのだから凄まじいものがある。足を通してたくし上げ背中のファスナーをサッと上げれば着替え完了なので、ボタンの多い他校の校服より楽なのは楽なのだが、如何せんデザインが可愛過ぎて予科生(高校生)にもなれば少し恥ずかしい気持ちも湧いてくるのだ。だからエルヴァに『可愛い丸襟でも中学生とは限らない』と話した訳だ。
まぁ、腕が短く回らなかった小學校時代、春鈴と背中のファスナーを上げっこしたのも良い思い出だ。ただこの校服はワンピースなのにウェストにベルトがない。中學以上は出来合いの段階で多少は絞ってあるのだが、そこは皆んなお年頃。私も春鈴もウェストはグッと絞って縫っていた。
なお、香港には夏服が白いワンピースという学校がやたら多い。だけど英国のサマードレスはチェックばかりだから、ここは基督教の影響だろう。襟も丸襟・角襟と様々だし、襟に色のついたフチがあるタイプもある。リボンやネクタイもあったりなかったりで本当に様々だ。だから夏の盛りに、街で丸襟ワンピースでウェストにベルトのある校服を見掛けるとイラッと来ていた。おまけにリボンが同じ赤だとキーッとなっては春鈴に笑われていたものだ。
だけど他校の冬服は英国の名残りらしくワイシャツにネクタイ、ジャンパースカートという学校がほとんどだったので、冬服もワンピースなのはセーラー服(水手服という)やチーパオの校服と同じくらい珍しかった。そしてそこが私達の密かな自慢でもあった。(正確にはもう一校、冬も丸襟ワンピースの学校があるのだが、そこは紺色の冬服と同じく襟も袖口も紺になるから余り好みでなかった)
そんな母校の校服に不満もあれば愛着もある私達が唯一認めたのが、プロテスタント系バプティストが母体の中學の校服だった。ここの夏の校服は何度も雑誌に取り上げられたりしているので、香港人なら知らない人は居ないというくらい有名だ。特に有名なのは低学年の校服で、それが真っ白いセーラーワンピースなのだ。日本の兵庫県にもそういう学校があるが、そこよりも白い。なにせ襟まで白なのだ。その白い襟と折り返してある半袖に淡い青の二本線が入り、胸元を飾るタイも腰のベルトも青なのだ。可愛くない? しかもしかもだ、冬服は身頃が紺になるだけで白い襟もラインやタイにベルトは同じなのだった。
読者モデルも多いその学校とは狭い香港なので、当時住んでいたマンションから直線で4kmくらいしか離れておらず、母校とも地下鉄で7駅くらいの距離だった。だから放課後にちょいと賑わう街に足を伸ばせば、可愛い校服姿の彼女達に会えた。だから私と春鈴は低学年時代に、同じ低学年の生徒に突撃街頭インタビューを完遂していた。
その前に高学年の夏服はデザインこそ低学年の校服と同じだけれど、上衣がセパレートでスカートは夏が淡い青、冬が紺になっていた。では、冬の上衣はとなる訳だが、そこがインタビューで判明したのだ。何と高学年は真冬でも半袖のセーラーだったのだ。寒ければ自分でセーターなりカーディガンなり着て来いという訳だ。そして低学年のワンピースは夏も冬も脇にファスナーがあり、そこから入って着るというカタチだった。そしてその理由は背中にファスナーだとセーラーの後ろ襟が左右に分かれて格好悪いからだった。
これは納得だった。私達のところも他校のワンピースも、後ろ襟は左右に分かれている。これはまだ許容できるが、セーラー襟だとそれはないと私だって思う。だからここの校服は人気があるのかと納得だった。ただ、彼女達の話だと高学年と同じ上衣だけの校服も持っているとの事だった。その理由が冬服にあった。実はあの紺の冬服ワンピースは襟がなく、高学年と同じ半袖セーラーの上衣を着てからその上に着込み、襟を出してタイを通すという事だった。これはインタビューしないと生徒でもない限り気付かないぞ。
こんな風に春鈴と私はいつも一緒になってバカな事をやっていた。クラスメイトには黄色人種だけでなく、私のような白人も居たし、少数だけれど黒人も居たから、国際的な事や人種や風習を越えた会話なんかは学校で自然と学べた。だから物怖じもせずインタビューなんてできたのだ。私としては『足が震えた』から、無理矢理学校に付き合わせた春鈴には悪かったと今も思っているのだが、彼女は彼女でかなり楽しい思い出がたくさんあるようで、ある意味私以上に母校への思いが強いようだ。
その理由は春鈴と私の容姿の違いにある。と同時に、そこから来るアイデンティティの変化にあった。春鈴は私だ。その名は『役割を振ったボディ』に対する名前でしかなく、ある意味記号でしかなかった筈だ。なのに学校に通うようになってからの彼女はどんどん変化した。何時頃からか彼女は『アオレアール』の擬態でなく、『黄春鈴』という別個の人格を持つ人間になっていた。これは『黄春燕』も『朱思涵』も、『王一诺』も同じだった。
記憶を並列化すればこういう現象が起きない事は理解していた。けれど私は敢えて並列化しなかった。それはそこから生じる差異こそが、個性に繋がると考えていたからだ。つまりある意味で春鈴の変化は予測通りであり、予測以上の成果でもあった訳だ。また、『王一诺』は、彼女こそが香港人になった『私』という思いで造ったので、意識的に繋がっている部分は多い。並列化も彼女とだけは数回していた。なので春燕や思涵を交えればリーダーとなって采配を振るい、一応他人から見れば子供でしかなかった私や春鈴を気遣い、善き姉として接してくれていた。
だけれどそれは演技ではなかった。彼女は思い返せば思涵がイタリアに向かう時も一诺は私の手をずっと優しく握ってくれていたのだ。春燕や一诺が香港に残ったのは『私達の姉』という思いがあったからだと思う。なので私も一诺の事を『姉』だと思っているし、彼女達に育てられたという思いがある。
全員同一人物なのだからかなり不思議な話しだが、精神を分け別個の人格が形成されるとそうなるようだ。きっと『エル』もこういう思いを何度も経験しているのだろう。ああ、だから47番を探しにここを突き止めたのか……。
ちなみに香港で街を散策している時に、門の看板に『◯◯書院』とあるのを見掛けたなら、それは本屋でも図書館でもなく『学院』という意味だからね。休憩できると勝手に入っていかないように。
それで九龍(※)での五人共同生活が終わったのは、一诺が香港島にあるお店に移った事と、事務職だった思涵がイタリア料理を学びたいと言い始めたからだった。それは私と春鈴が中學低級年の1年生から2年生に上がる頃に続け様に起きた事だった。島に渡ったとは言え同じ香港だった一诺はまだ良いが、思涵に関してはどうなのだと皆んなして考えた。結局埒が明かないので、とっくに日本に住んでいた『エル』に相談した。すると彼女は欧州内ならバックアップすると快く言ってくれたので、思涵を安心してイタリアに旅立たせる事ができたのだった。
※)ごく短期間だったけれど、九龍城砦で住んでいた事も、あの魔窟が取り壊されていく姿も今となっては全部が懐かしい。その後、同じ香港の尖沙咀地区にある重慶大厦や少し北にある美麗都大廈、広州市の三元里などが在りし日の九龍城砦に似ていると言われるようになったのだが、ジメジメとして一晩中どこからともなく水の滴る音が聞こえ、当時はまだ残っていた啓徳空港を離着陸する旅客機の轟音が響き渡っていたあそことは何かが違う。要素だけを抜き出せば、ブラジルのリオデジャネイロの裏手にあるファヴェーラの方が私は似ている気がする。住んでいる人の善悪の問題でもないし、その今にも壊れそうな橋の上を歩いている……そんな綱渡り的な秩序と無秩序のバランスでもない。当然、清潔か不潔かでもない。そこに人が生きる上で必要なバイタリティがあるかどうかだと私は思う。結局、水とお風呂がどうしようもないからあそこを出たのだった。
この時に『一人だけ違う事(職業や事業)をさせると、また違った事をやり始めるものだ』と『エル』に教えられた。『疎外感を覚える程ではないと思うけれど、その思涵という人形の個性は大切にしなさいね。それがあなたの隠れた才能の発露かも知れないから』だって。人形遣いとは本当に面白いものだ。こうして私は五人の個性が自由に使い分けられるようになったのだから。
(だからこそ私は、蒼崎橙子さんの『遣い方』が味気ないと考えるに至った訳だ。根源に至る事が第一の目標であっても、もっと貪欲でも良いだろうに。妙にストイックだから自分の選んだ方法だけが無二と思い込んでしまう。そもそも根源は本当に一つだけなのか? こうして色んな人になれる今の私は、人や生物の数だけ根源があるではないかとさえ思っている)
そして中學の低学年時代に『一年革命』が起き、あちらの香港や澳門、台湾などが独立を達成した。それと同じ事が、今の世界でも起きつつある。だから私としてはそこに私達も参加していたから、『もう一度か……』という疲れたような思いが強い。それはともかく、あちらでは私達以外にボーデンやシュラム、『エル』の操る人形も大勢中国に入っていた。
それは魔術に拠る人心掌握であり思想改造だった。そしてその作戦は決して人権問題を解決するための人道的見地から行われたのではない。それは付いてきた結果であり、本来の目的は世界中に存在するグローバル企業や投資家────ニューヨークのウォール街に巣食う魔物や、シティ(倫敦旧市街)に潜む悪魔達を木っ端微塵にし、彼らが守って来た既得権益を自分のものにするためだったのだ。
では、何故『エル』はそういう動きをしたのか? それは人口問題と資源問題にあった。この宇宙船地球号を護るにせよ、棄てるにせよ、人類には時間がなかったのだ。だから動いたのだ。
だけどここでは宇宙に飛び出す事なく、新たな土地と誰もまだ手が触れない資源を手にする事ができてしまった。私達はある意味で『エル』を越えてしまったのだ。これぞまさに自由で真に新しい時代の到来だ。なので今、ここでの香港ではもう1人の『アオレアールと春鈴』が中學からやり直していた。それは何としても卒業まで学校生活を送らせたいからであり、『違う自分』という可能性が広がる機会でもあったからだった。
シートベルトの着用を促すアナウンスが入ったので馬謖が起きた。
「もうじき、赤鱲角(ツェックラップコック)ですよ」
そう告げると旅客機が着陸態勢に入った。空港のある赤鱲角も島といえば島なのだが、空港工事で埋め立てられる以前は岩礁のようなものだったから、今も赤鱲角と呼ばれている。そんな赤鱲角が眼下に見え、その奥に大嶼山(ランタオ島)が見える。端っこの埋立地ではネズミーの工事がまだ行われていた。その向こうは南丫島(ラマ島)や香港島が見える。ちなみに南丫島の『丫』は漢字で、『Y(ワイ)』でも無ければ『γ(ガンマ)』でもない。有名な映画俳優チョウ・ユンファの出身地だ。
滑走路に車輪が接地した瞬間に念話が届いた。
『おかえり』
春鈴からだった。