先輩のお父さんはエルマから受け取った『LS-60』を、私と時と同じようにアンプに繋いだ。そしてひとしきり弾いた後にこう仰った。
「この頃の『Tokai』はころころピックアップが替わっていてね。上位機種がディマジオなのは同じだけど、中間機種が『LS-A』『LS-Vintage』、その下が『LS-B』『LS-Hot』『LS-Vintage MkⅡ』だったかな? ともかくそんな風にピックアップが毎年と言っても良いくらいに替わっていたんだ。外注は『GOTHO』だったと思う。この『Love Rock』の『60』なら、『LS-Vintage MkⅡ』だろうけど……このゼブラも良い味を出しているよ』
『Tokai』の『LS』は基本上位機種がカバー付きのディマジオで、中間機種はカバー付きのオリジナル、下位機種がオープンのオリジナルだ。だからエルマの『LS-60』もオープンなのだけど、これが面白い事に前後とも白黒ボビンのゼブラなのだ。
「『LS-60』も『LS-50』もゼブラなんですか?」
と、私。
「いや、ゼブラはこの82年頃の『LS-60』だけだよ。他はダブル・ホワイツだね。確かこの年はオールマホガニーのジョー・ウォルシュモデルが出た年だ。上位機種のあれもダブル・ホワイツのオープンだったね」
「ああ、オープンがそんなに……」
「そういうので差別化していたんだな」
と、先輩が私の考えを代弁した。不思議だろうけどボビンが黒いか白いかミックスか、カバーがあるか無いかで、胸のドキドキ感が変わり、購買欲への拍車の掛かり具合が変わる訳だ。そういう時代だったのだ。
他社……例えば『Greco』ならディマジオであってもカバーが無かった。それは、そもそもディマジオがリプレイスメントとして販売されているからカバーなんて付いていないからだ。なのでオープンのまま、ややクリーム掛かったディマジオのボビンを『見せる』方向で自社製品に載せていた。だというのに『Tokai』はカバーを付けていたのだ。
これはつまり他社は『DiMarzio』いう海外ブランドに価値を見い出しているのに対し、『Tokai』は『PAF』という一機種の持つネーミングに価値を見い出したのだと解釈できる。だから当時のカタログにある『LS-Vintage』には『『PAF』を再現した』なんて堂々と描かれてあった。つまり『Tokai』は『P.A.F』の伝説などを『うちはきちんと調べているぞ』と暗に知らしめていたのだ。
そんな訳で、当時の『Tokai』のカタログは『ボロボロになるまで』『穴が空くまで見た』という人が多い。1970~1980年頃の中高生には、海外バンドやギターの事が書かれた雑誌は高かったと思う。何より情報源がアメリカやイギリスからなので英語というネックがあった。なので雑誌を作る記者も大変だったろうと想像が付く。同じ千円でも今とは価値が違うのだ。そこをわかった上でどう千円を中高生に出させるかにあった訳だ。
ところがカタログは基本無料だ。楽器店に行けばタダで頂ける。インターネットもない時代だよ? それは飛びついたろうし、誤字・誤植ごと頭に刻んだ人も居ただろうと思う。まるで『Deep Purple』のライブの『Smoke on the Water』のように(※)。だけれどフロントは『PAF』、リアは『Super Distortion』という出力差を考えない無茶な組み合わせもあり、それも『Tokai』からだった。
※)名盤はスタジオ録音の方でなく、日本公演を収録した『Made in Japan』のバージョンだ。出だしをリードギターのリッチー・ブラックモアが外すのだが、ライブ用のアレンジだと言わんばかりにサクッと流れを元に戻すのだ。だから当時は誰も間違ったとは思わなかったそうだ。それでこの『Made in Japan』の日本盤が『Live in japan』だった。ジャケットは欧州盤や米国盤とは異なり、ステージ後方から取られた写真なのだが、それに合わせてステレオの左右が入れ替わって売られていた。
その妙なギミックが生きたのは、1972年の録音とは思えないほど、音質が良く臨場感が溢れていたからだ。また収録されたどの曲も、変に凝らないストレートなハードロックだったし初心者でもコピーしやすいリフばかりだったから、耳に馴染みかなりヒットしたそうだ。先輩のお父さんも初めてコピーした曲はこの『Smoke on the Water』だったという。
確かにあのリフというかパワー・コードは誰でも弾ける。だけどそれだけに『間』が物を言うのだと思う。その『間』を活かすのがイアン・ペイスの的確なハイハットとスネア、そしてロジャー・グローヴァーの『ビビビッ』というリッケンバッカー4001ベースのサウンドだろう。
また、リッチーの200Wに改造してあるマーシャルは本当にストラトかと思うほど野太くカッコイイ音がしている。あんな音、JCM800や900、2000、DSLでは絶対出ない。例えプレキシの1959を手に入れても出ないと思う。
(通称『The PIG』。型式名『Marshall Plexi Major (Model 1967 200W Lead)』だと思われる。と言うのは、この72年頃のリッチーの後ろにあるアンプは右側の1台だけヘッドがやたら大きく重そうなものだからだ。それで、一回り小ぶりな100Wを左に置き、これをスピーカーキャビネットごと動かして、ホール毎のハウリングやフィードバックをコントロールしていた。対するロジャー・グローヴァーは『Marshall Plexi Major (Model 1978 200W Bass)』で、キーボードのジョン・ロードは『Marshall Plexi Major (Model 1966 200W PA)だ。200Wシリーズ揃い踏みだったから煩かったろうなぁ。おまけにジョン・ロードのハモンドC-3はバックパネルが切ってあるから真空管が丸見えだ。共振やハウリングが怖いよ)
とは言え、歌詞はフランク・ザッパのスイス公演で起きた火災事故を歌ったもので、英語がわかる人なら『何を歌うんじゃい?』と、結構シュールな気持ちになれる。出火場所は有名なモントルー。煙が漂う水面はレマン湖の事だから、スティーヴ・ヴァイなみにザッパをコピーしていた『エル様』はこの曲が結構好きだと言う。今となっては古典だけれどね。
結局『P.A.Fの伝説』という情報は面白くはあるけれど、この日本に自分で考えない海外の真似ばかりをする人を増やしただけの気がする。一番『P.A.F』の事を知ってそうな『Tokai』でもそんな事をしていた。そのリアが『Super Distortion』という『LS』を買った人はバランスの悪さに気付けたろうか? 自分が演りたいと思うサウンドがそれで出せたのだろうか?
今という時代に軽音部に所属している私は、その矛盾を強く思う。というのは、そういう『真似という呪縛』から漸く抜けつつあるのが私達の世代という気がするからだ。その感覚はきっと以前姉さんから聞いた『坂上真帆さん』の事が頭にあったからだ。私はこちらの坂上先輩ともあちらの坂上先輩とも知己はない。多分、面識もない筈だ。
だけど姉さんから聞く『お話』や、何人かの坂上先輩を憶えている先輩達から聞く『伝説』だと、とことんオリジナルに拘った、独自の感性と世界観を持つ人だったらしい事がわかる。例えば『ビートルズが嫌い』と公言して、『オアシスにムカつく』などと言っていたそうだけど、ビートルズやオアシスのCDはほとんど持っていたらしく、その2つのバンドならどの曲でもサラッと弾いて歌えていたとかだ。
『実は好きなんじゃん』と言ってしまえばそれまでだけど、そこに気概のようなものがあったらしい。要は自分もその2つのバンドのような曲が書きたいのだ。また、姉さんは『書いていた』という。JR冬木の駅前でギター(Orvilleのハミングバード)片手に、アンプも何も通さず地声の声量だけで演奏していたそうだ。
姉さんはそんな坂上先輩の声と曲が忘れられないという。ちなみに姉さんもビートルズが好きでよく口ずさんでいた。また日本のバンドならスピッツが好きらしく、あのロビンソンをリード・ギターを弾きながら歌えた。さすがツェッペリンの天国への階段を弾きながら歌える人は違う。おそらくダブルネックを持たせればライブ盤をトリオでできちゃうだろう。
だけど姉さんの魅力はそんなコピーでなく、オリジナルの鼻歌というか歌にある。『エル様』の即興ピアノと同じで、即興で曲を作ってその場で歌詞を考えながら歌えるところが凄いのだ。そしてそんな姉さんなら、私が言いたい事がわかると思う。それは出力差を考えない無茶な組み合わせをどうして『Tokai』が出したかだ。これは私の『498T』問題と通じるものだ。
それまで『P.A.F』の伝説を知っている『Tokai』だから、少しでもオリジナルの『P.A.F』に近づけようとして『DiMarzio』の『PAF』を選んで載せていたいた筈なのに、どうしてそんなバランスを崩す『Super Distortion』との組み合わせを作ったのか。そこが私にはギターを売るためにブランド名に屈したかのように感じられたのだ。
「まぁまぁの音だね。目立つキズも無いし、全体の状態も良い。70年代の国産ピックアップと違って、線の細さも余り感じないからこのままでも良いと思う。もし載せ替えるなら『57 Classic』か『Burst Bucker』だろうけど、そこまでするなら配線材からスイッチまで全部換えたいね。問題は定価6万円のギターにそこまでするのかどうかだけど」
ちらりとエルマを見たら『換えます』と言い切って私を見た。『はいはい』だ。
「夏休みになるけれど、全部入れ替えてあげるよ」
そう答えるしかなかった私だ。弾けないのにそこまでするか……。でも、姉さんが『エルマ、やりますね?』と感心するのは間違いない。
ギターを返して貰い、ケースに片付けると『少し待って』と先輩のお父さんが土間から上に上がって奥に引っ込んだ。しばらく経って戻ったお父さんは白いテレキャスターと何かを持っていた。
「えぇ? え……?」
「珍しいだろ? フェンダー・ジャパンの『テレギブ(Tele-gib)』さ」
驚く私に先輩が教えてくれた。『テレギブ』とはセイモア・ダンカンが改造した1959年製のブロンドのテレキャスターの事で、フロントとリアに58年製フライングVから取られたオリジナルの『P.A.F』が搭載されている(片方だけという説もある)。だけどその『P.A.F』は断線していたのでダンカンがリワインドした。その時に手持ちのワイヤーが足りず前と後ろで揃えられなかった。一説に拠るとフロントが42AWGで、リアが43AWGだったという。リアは巻きも多くなっているらしい。
それでダンカンは1974年頃、ロンドンにあるフェンダーの修理部門で働いていた。当時ロンドンにある、とあるスタジオでレコーディングしていたジェフ・ベックにこのギターを試して貰ったそうだ。するとベックが大層気に入り、彼の持つエスクァイアと交換したそうである。
この改造テレはベックの『BLOW BY BLOW』で使用され、ロイ・ブキャナンに捧げられた『Cause We've Ended As Lovers』という名曲はこれで録音されたという。またこのリワインドされたフロントとリアが、アメリカに戻ったダンカンの看板商品である後の『SH-2 Jazz Model(前)』と『SH-4 JB Model(後)』の原型となった。言わば伝説のギターであり、『テレギブ』という愛称は広く知られ2ハムでブロンドのテレキャスターはあちこちからコピーが出たそうだ。
またこの『テレギブ』の存在が知られていなかった頃は、『BLOW BY BLOW』はストラトで録音されたと考える人が多かったそうだ。確かに何曲かはそうだった。けれどこの『Cause We've Ended As Lovers』は何なんだと謎だったらしい。その謎が解けたのが、コピーモデルが出た頃だったそうである。まさか誰もテレのブリッジ・プレートを切って、ブラスのブリッジをそのまま使っていたとは思わなかった。あの54年製改造レスポールといい、この頃のベックはブリッジに相当な拘りがあったようだ。指弾きになる前のキレの良いサウンドの秘訣はそんなところにあったのだとわかる。
だから後の指弾き+トレモロ(ストラト)での『Cause We've Ended As Lovers』より、テレギブでのスタジオ盤の方が『キレ』があるし『音が伸び』ている。ギターを換えたから出るニュアンスの違いだけでなく表現方法も異なっている。どちらが良いかは好みの問題だけれど、私は『キレ』のあるスタジオ盤の方が好きだ。
ただ、本物のテレギブはリワインドされた『P.A.F』だし、それもピックガードに加えてエスカッション付きで、前がゼブラ、後ろがダブルホワイツだ。そしてフィンガーボードは59年製だからローズだったのを、引っ剥がしてメイプルに貼り替え(だからネック裏にスカンクラインが無い)、フレットもギブソン用の太いものに換えてあった。色がブロンドという事はシースルーのアッシュだろう。アルダーという事はないと思う。あのハムバッカーなのにキレがあり、決してボヤけないサウンドはロングゲージの貢献も大きいように思う。
それで、先輩のお父さんが持つそれも、ボビンの配色がそのようになっていて、ブロンドから透けて見える木目もアッシュだった。
「フェンダー・ジャパンにこんなのあったんですか?」
「厳密には無いよ。カタログモデルじゃなく、どこかの楽器店がフェンダー・ジャパンに特注したものらしいね。似たようなケースは他にもあって、2000年頃にもごく少量フェンダー・ジャパンから『TL52-JB』というのが出ていたよ。そっちはディマジオの『Virtual PAF』だったね」
それは知らなかった。そんなのも出ていたんだ? それでこちらだけれど……3~4弦側にもそれっぽくテンション・ピンが追加されてはいるけれど、本物にあった中途半端な肘のコンターは無かった。う~ん……そこは再現して欲しかったなぁ。
「で、これ……」
お父さんが『これ』と言って見せてくれたのが、ダンカンのラベルが無い頃の『SH-2 Jazz Model』と『SH-4 JB Model』だった。
「これは?」
「良かったらあげるよ。これさ、今のようなラベルこそ無いけれど、一応ダンカンなんだよ。でもテレギブとは音が違っていた。やっぱりジェフ・ベックのあれとは違うんだね。あれを元にしてこう作ったって言うのはわかるけれど、あれはアッシュ向けにアレンジしてあるんだろう。で、市販の『SH-2』はメイプル&マホガニー向けなんだ。中域に偏り過ぎていると思う」
だから自分で作り直したそうだ。この話の意味はわかる。『SH-4』は木材が何であっても行けそうなピックアップだけれど、同時に『SH-4』ならではの音があって(多分中域のクセの事だ)それがしつこく感じるのだそうだ。だから『試してみて』とそんな初期のダンカンを、お父さんはエルマの手に握らせたのだった。
おいおい! その『頂いた』ピックアップも嬉しいものだけど、あの『エル様』をして『幻の近藤ピックアップ』と言わしめたピックアップが、そっちのテレには載っているって? それもテレギブ用に巻いた?
「そ、それ、弾かせて下さい!」
私は思わず声を荒げた。それで私の勢いに飲まれたお父さんが苦笑いしながら私にテレを預けてくれた。先輩が気を利かせてアンプに繋いでくれる。しかも読んでいたかのようにアンプにディストーション入れていた。当然曲は『悲しみの恋人達』だ。レコーディングはテレギブと『VOX』の『AC-30』だったという。
あのクランチとディストーションを切り替えたかのような歪み加減は、全部手元のボリュームでコントロールしていたのだ。当然このトランジスタのジャズコでそんな表現は無理だ。だけれど『幻の近藤ピックアップ』の出音は『VOX AC-30』があれば『あの音』が出ると十分に想像できるものだった。
そこにベックならではのフレージングと、斜め上から降って来るかのようなスケールの転換……。指が辛いけれど、フレットボードが狭く感じる。奏者の気持ちが高揚するピックアップ────。アメリカの姉さんが目指している音────。
お父さんは本業を大切にされていて、ピックアップ制作は趣味と考えている。だから自分の考えを楽器店の人と話し合い、それに沿ったギターに載せて売って貰っている。そんなだから『近藤ピックアップ』を単体で手に入れる事は難しいし、注文も受け付けていない。何故なら皆んな、近藤先輩のお父さんが巻いているとは知らないからだ。
ごく少数の耳の良い人が『楽器店のモディファイ・ギターに時々、良い音のものがある』事に気付いている程度の知名度しかない。だから『近藤ピックアップ』という名称は『エル様』言い出した事で、こちらの世界では私と姉さんくらいしか『事情』を知らないものだったのだ。
ほぐれた指はフレットボードを滑らかに駆け上がり、下っていく。なんだ、ロングスケールでも弾けるじゃないか。何も不安感はない。ただただ、自分の高揚した気分とモチベーションが音とシンクロしていくだけだ。『これだ!』という満足感に満たされる────。ああ…………。
だけど……最後の最後で失敗した。ピッキングハーモニクスをボリュームゼロで出してからボリュームを瞬時に上げる……つまりアタック音を消した奏法に続く、ボリュームを揺らす弾き方が出来なかった。チョーキングは上手く揺らせたのに……。そこはボリュームペダルでもないと私には無理だった。
「手の大きさに限度があったなぁ……」
先輩が『仕方ないよ』という慰めの顔で言った。
「いや、お見事。よく練習しているね。最後を別として、ボリュームの使い方は凄く良かったよ。ジェフ・ベックだけでなく、ロイ・ブキャナンもちゃんと研究している。啓司からトロンちゃんは物知りで上手いとは聞いていたけれど、驚いた。高校生でここまで弾ける女の子なんて知らないよ」
と、お父さんは褒めてくれた。はぁ……この曲もニュアンスと表現力の勉強になるからと姉さんに教わったのだ。だから耳コピも姉さんだ。姉さんはこの曲をあの焼けたテレキャスターで弾いていた。その時にテレギブの事やその音の出し方も教わったのだ(姉さんはロイ・ブキャナン好きでもあるから、細かなニュアンスを出すのが上手い)。
『ジェフはダンカンのピックアップが気に入ったのでしょうね。だからニュアンスが大切な曲にアレンジして吹き込んだのでしょう。まぁ、ブロウ・バイ・ブロウ全曲がそういう『ニュアンス命』な、脂の乗ったギタリストが出し切った名演奏揃いです。あのアルバムは名盤中の名盤ですよ』
なので曲のアレンジが頭に先にあり、それを表現できるギターを途中で見付けた(ダンカンと出逢った)のではないかと話していた。というのはバンドでのロックロックしたサウンドに飽きて、また別の自分らしさを探していた時期だっただろうから、とも話していた。それでスタジオ盤を2枚作ってライブ盤を出して、また次のステップへ行くというパターンがこの頃のベックだった。
だけど姉さんはワイヤードはお気に召さないようで、『これならウェザー・リポートに(CDの)ディスクを替える』と話していた。姉さんは『テクだけで情感の感じられないフュージョン』が嫌いなのだ。テクもあり、そのテクがニュアンスという妙味で抽出され、芸術に昇華された曲が好きなのだ。だからブロウ・バイ・ブロウが先にあるのでワイヤードは『逃げた』ように感じるらしい。
姉さんはワイヤード、ライブワイヤー、ゼア・アンド・バックを余り好まず、ロックに回帰したフラッシュにも、まだ迷いがあると言っていた。だけどギター・ショップやフー・エルス!はかなりのお気に入りらしく、フー・エルス!に至ってはベックのパートもジェニファー・バトゥンのパートも完コピしている。
そもそもジャズ好きな姉さんはマイルスやコルトレーンのファンでもあって、姉さんなりの方法でトレーン(コルトレーンの愛称で、機関車のトレインと掛けている)の『シーツ・オブ・サウンド』をギターで再現していた。その果てにあるのがアメリカの姉さんがやった両手タッピングだったのだ。この辺はクラシックの下地があって、50年代のマイルスを初めとした一連のモダンジャズ・アルバムや、同じ50年代中期から後期のウエスト・コースト・ジャズが好きな姉さん達らしい話だと思う。
このジャズ好きは本来、先代御館様から洗礼を直接受け、叩き込まれた『エル様』の体験の筈だ。だけれど姉さんも先代御館様のお膝の上でクラシックやジャズを様々聴いた記憶があるという。それでジャズの中からなら、ウエスト・コースト・ジャズが好きらしく、中でも『Tampa』というレーベルに吹き込まれた、アート・パッパーが入った『Marty Paich Quartet』というアルバムがフェイバリットなのだそうだ。
(対する『エル様』はマラソン・セッションの中の『My Funny Valentine』と、『1958 Miles』に収録されている『On Green Dolphin Street』がフェイバリット曲で、フェイバリット・セッションは先のマラソン・セッションでなく、『Walkin'』のB面だったソーラー・セッションなのだそうだ。マニアック過ぎるだろ)
だからなのか、その関連からアート・パッパーも好きだそうで、姉さんの本棚にはアート・パッパーの自伝『Straight Life』が英語版で置かれてあったからビックリだ。でも、その本は『エル様』のものでなく姉さんが自分で買ったものだ。感慨深いと言うか、思い入れがあるのだと思う。
わかるかな? つまりアメリカの姉さんも、今倫敦に居る姉さんも、そういう素養や下地は『エル様』と同じかも知れないけれど、感性などは別だという事だ。また、そのカルテットのリーダーだったマーティ・ペイチの息子が『TOTO』のデヴィッド・ペイチなのだけど、アメリカの姉さんは後年(2006年頃)ロスのスタジオ・ミュージシャンからの伝手でスティーヴ・ルカサーや当のデヴィッド・ペイチ等と知己を得たそうだ。
それで姉さんはアート・パッパーなら、モダン・アートというアルバムをよく掛けていて(何度か再販されたCD)、『エル様』も『intoro』のレコードをよく聴いていた(こちらは『intoro』というレーベルから出ていたオリジナル・レコード)。それでお二人共通でお好きな曲が、アルバム二曲目の『Bewitched』だった。この『Bewitched』は『魔法に掛かった』という意味で、『魅了された=惚れた、参った』という意味でもある。ついでに言えば、その昔に放送されていた『奥さまは魔女』というアメリカのホーム・コメディの原題だったりする。
それで『エル様』が仰るには、この曲のサビの部分で部屋に漂うマナが、まるで宝具を放つ間際の英霊のようにスピーカーに集まるのだそうだ。嘘だと思って試したら、これが本当で姉さんのCDでも同じだった。そもそも『エル様』が『響』の事を調べるようになった切っ掛けがこの『Modern Art』だったそうだ。
これは魔術師でなくとも感じられるそうで、ある種感受性の高い人だと音が集まるような感覚を得られると姉さんまでが言う。『特に侘び寂びのわかる日本人なら尚更でしょう。だから名盤と言われるミーツ・ザ・リズムセクション(当時のマイルス・デイビスのリズム隊と吹き込んだアルバム)よりモダンアートの方が上だというファンが日本に多いのですよ』だそうだ。
これは『途切れそうなアルト・サックスの吹き方がそういう錯覚を抱かせるだけ』ではない。本当にマナが集まるのだ。だから『魅入られた』のか、姉さんはアート・ペッパーのCDをかなりの枚数持っている。それで姉さんの『Modern Art』のCDにはボーナスとして『Summertime』が入っているのだが、これが厳しい。7分越えの曲だけど全部聴くと、気力とオドが抜けてしまいそうになるのだ。
麻薬中毒患者で再三病院に放り込まれても麻薬の手に入らない、『シナノン』という薬物中毒患者への更生プログラムを組んでいる福祉ホスピタル(※)の中でシナモン(摂取の仕方で毒物になり中毒性がある。ナツメグと並ぶ容量を間違うと危険な食品だ)を噛んでいたという生粋のジャンキーだ。姉さんの本を借りて斜め読みした事があるのだけれど享年56歳だっけ? 1982年だったそうだから、『エル様』や姉さんが産まれる4年前だ。
命を削って演奏していたからマナが集まるとも言えるのだけど……どうして姉さんみたいな健康的な人が、アート・ペッパーの自伝を読んでいたのか……。こればかりは自伝を借りて読んだ私にもわからない。
※)基督教系の真面目な福祉団体。1991年に経営破綻したが、現在もドイツ支部に本部を移行して活動を続けている。アート・ペッパーが入院していた施設はカリフォルニアのサンタモニカにあったのだが、現在はホテルになっている。そしてアメリカの姉さんは、そのホテルに強い思い入れがあった。これはアメリカに渡って数年経ってから知ったのだが、どうも旦那さまのフンボルトさんとそのホテルで熱い夜を過ごしたらしい。
また、姉さんの家は『Fender』の工場にも近いし、100kmも走れば『Seymour Duncan』の自宅兼工房もあるから何度か訪れているそうだ。もしかしたら交流があってピックアップ談義などもしているのかも。
惜しみつつギターをお父さんに返したら、先輩から笑われた。私がエルマが受け取ったピックアップでなく、ギターに着いた近藤スペシャルばかり目で追っていたからだ。そんなタイミングで奥から『お昼、できたよ』というお婆さんの声が届いた。
「お客さんが二人来るって伝えてあるから、もし嫌いなものやアレルギーがないなら食べて行って」
遠慮合戦の後にそう言われてしまったので、エルマと私はペコリと頭を下げた。奥からニコニコとお婆さんが手招きしている。私は2回ほどお呼ばれしていたが、異性の家にお邪魔する事なんてまずないエルマにとっては、相当驚きの体験だったようだ。まず商家の家の作りを知らないから、土間から板敷にどう上がって良いものかがわからないのだ。
ちょっと絵が頭に浮かばないとわからないと思うが、まずこの家は横幅四間の土間(玄関兼仕事場)の奥に、同じく四間の、縁側のような板場がある。その部分を板敷と言うのだが、普通は上がり框とまで行かずとも、沓脱ぎ石などがあってそこから上るのだとわかるようになっているのだけど、先輩の家のような商家造りは番頭さんや丁稚さんがせわしなく動くので、どこからでも上れるし、下りて良い事になっている。
強いて言うなら自分の脱いだ草履や靴のあるところから下りるものだけど、縁側のような板敷きを右往左往する事もあるだろう。初めて近藤先輩のお家を訪ねた時にこの商家造り(商屋造り)を姉さんに教えて貰ったのだけれど、姉さんはその時に旅館の宴会場と言った。その意味がわかったのがつい先日あった修学旅行だった。
私達の学年はテーブルマナーの日以外は、食事会場が和室だったのだ。まぁ、それで部屋から履いて来たスリッパが、一体どれが誰のやら……。こんなのマアエモさんでも覚えられないよ。え? どうしてマアエモさんの名前が出るんだって? だってあの人は家宰(家令。家だけでなく領地を見る事も任された最高級執事、ランド・スチュワード。家だけならハウス・スチュワードという)を兼ねた『ハウスキーパー(家政婦)』であり『ナース(乳母の事)』だったからだ。
昔ながらのメイデン・サーヴァント(女性召使いという意味。これの省略形がメイド)を知らなければ、一見何気ない事と思う人も居ると思うけれど、これって物凄い事なのだ。アインツベルンのメイドって、メイド全盛期だった英国のヴィクトリア朝より遥かに古く長い歴史を持つ。だから、しきたりがやたら多いし厳しいのだった。
普通はスカラリーメイド(厨房の皿洗いなどを担当する一番下っ端)やランドリーメイド(お洗濯専門のメイド。昨年の秋頃までエーデルフェルトにも居た)といった下級メイドから、キッチンメイド(コックの助手。お料理の下拵えをしたりも)、ハウスメイド(いわゆる普通のメイド)と出世し、コック(ヘッド・シェフとも。その昔は女性メイド専門の仕事だった)やレディースメイド(女主人の身の回りのお世話やお供をする)とステップアップしていくパターンが多いと思う。
だけど、アインツベルン一族の中でも格の高い家は、使用人=女性型ホムンクルスだから、全員がほぼ最上のレベルだ。睡眠教育装置の調子や本人の資質の違いといったバラつきもほとんどない。それでも冬木のアインツベルン家でハウスキーパーだったマアエモさんはどこか違っていた。
ハウスキーパーという役職は男性の役職であるバトラーと同格だ。家中の鍵をジャラジャラ持ったお婆さんの挿絵とか見た覚えはないかな? マアエモさんはあんなお年寄りじゃないけど、ハウスキーパーはあのイメージに近い。ホムンクルス≒奴隷だから、その昔は夜となると全員屋敷の地下室に放り込まれ、脱走しないように部屋の扉や地下への通路などにも鍵を掛けられていたのだ。
だけどそういうのは200年も前に失くなっていた。
ところがヴィクトリア朝時代のメイドも昔のホムンクルスと同じように地下室や屋根裏部屋に押し込まれ鍵を掛けられていた。同じ人間同士なのに、酷いものだ。それが今は『レディー』と同格に扱われ、同じ学校に通わせて戴いてる訳だ。だから『エル様』はアハトを思いっ切りぶん殴り、破門にした。今代として『アハト様』という『様付け』も禁止しているし『第八代』は欠番となっている。
それはともかく、『エル様』の下で働くメイドの中では冬木のマアエモさんと、エッペルハイムのフリューゲルさんという方がハウスキーパーなのだけれど、ナニー(ナースの省略形/乳母の事)も兼ねてらしたのはマアエモさんだけだ。『エル様』の話だと、マアエモさんは有名なナニーの学校の教育プログラムを全部叩き込まれて居るらしい。
そのバースにある乳母養成専門の大学は知る人ぞ知る学校で、各国の王室のナニーもこの学校の出身者が多いという。それこそV.I.Pの子供を教育しながら見守るわけだから普通じゃない。家事炊事は栄養学からしてバッチリだし、緊急時に備えてクルマの運転技術もドリフトしながら逃走できるほど叩き込まれているという。マアエモさんの操縦を思い返せばあながち嘘じゃないなと思う。そこに足して実戦で通用する銃器の扱いだ。本当に普通じゃないよ、あの人は。
そんなマアエモさんの夢は、いつか保育園を持ちたいというものだった。なので気心の知れたごく少数の限られた人の子供を、自身が休日の日に預かる事が偶にあった。それも決まって片親の家の子だ。要は羽根を伸ばして遊んできなさいと親に話している訳だ。また、完全に手が空いた日は、児童養護施設などへボランティアで参加していたりもする。ただしそれは職員の手前もあるので子供とは触れ合わず、掃除や洗濯のお手伝いだけだ。そんな生粋のナニーだから、アルトリア様と王様のご夫妻もマアエモさんには態度が柔らかく礼儀正しい。
ルオンさんもナニーとされるのは、あの人が元は先代の助手だったので医療に詳しいのと、パティシエの免許を持ち、趣味がパンづくりだからだ(だからルオンさんはヘッドベイカーでもある)。
エッペルハイムのフリューゲルさんもハウスキーパーだけれど、それでもマアエモさん達の同格と見做されないのは、経験の浅さだけでなく、あの人がナースメイドやナースを経験していないからだった。この意味は深く、マアエモさんは未婚なのに、一時的に出るようにされた母乳を『エル様』に与えて育てられた経験がある。この差だ。
授乳の期間はごく短期間だったらしいけれど、マアエモさんは『エル様』を心から愛し、慈しんでいる。『エル様』もマアエモさんを『ママ』と呼び親しみ、とても素直で自分が悪い時は主人の顔を棄てて謝ってらした(これは姉さんも同じだ)。実母であるアイリスフィール様は日本語読みの『お母様』であって『ママ』とは違うらしい。複雑そうなので私達使用人は誰もそこに何も言わない。ましてや鋳造された立場だと言えるものではない。そして詳しくは知らないが、この世界の『エルヴァちゃん』とこちらのマアエモさんとの関係も同じだろうと私は見ている。
ちなみに私とエルマの前の役職はパーラーメイドだった。つまり給仕だ。これは学生だからというのもあるけれど、自分達でササッとお料理を作って洗い物も済ませてしまう『エル様』やイリヤ様の前での役職なんて、お給料を決めるための単なる項目でしか無い。だけどトントさんはウェイティングメイドという、『エル様』に直接お仕えするレディースメイド(マアエモさんやルオンさんはこの役目も兼ねていて、イリヤ様のセラさんがこの役職だ)の下に就く役職を正式に与えられていた。
だけど『エル様』はトントさんとペッコさんをメイドと思っておらず、成人していい人が見つかったら、アインツベルンからお嫁に出すお積もりなのだ。だからトントさんとペッコさんという元は普通の人間だったお二人は、この家の『お嬢様』ではないけれど、花嫁修業に預かっているという体裁を取っている。
正式な役職があっても私とほとんどお給料が変わらないのも(トントさんで毎月6万くらい。私で5万ほどだった)、プラスαで学費に学用品、制服、その他日常の衣類、三食の食費は全部『エル様』が持っていたからだ。だから安いとは言えないだろう。私にしても毎月のお小遣いが5万円と考えれば多いくらいだ(※)。だけどそんな諸々の事情を知っていると、バイクの48回ローンはどうなのだ本気で思う。
※)学生なので日長一日仕事なんてない。エルマの学校がある平日の仕事は朝起きたら、美遊様と一緒に犬達の散歩で始まっていた。私とヴンダーはその間にマアエモさんかセラさんが用意した朝食の配膳だ。この朝食はご家族の分ではなく私達メイドの分だ。ご家族への応対は先輩メイドが行う。自分の登校時間があるので配膳が終わると急いで制服に着替え、皆さんと朝食を頂く。洗い物や後片付けも先輩メイド任せ。気分的に申し訳無さでかなり重い。
夕方家に帰ると、今度はエルマと組んで犬の散歩。2リットルの水を入れたペットボトル(小便、うんち流し)とスコップに新聞紙、ビニール袋が入ったリュックを担いで、1~3時間は歩く。早く終わるか延長になるかは『エル様』とイリヤ様の『お犬様』次第だ。この夕方の散歩は朝の散歩と違い、大型犬を本格的に歩かせる。なので美遊様の小型犬は途中で帰らせる。それを連れ帰るのと朝の散歩に帯同するのが美遊様が自分のイヌを飼う際に『エル様』と交した『約束』だった。私達はそれを手伝っているに過ぎなかった。
この経験があったから、エルマはあの夏のアルバイトを思い付いたのだと思う。私のやっている洋酒の売買や、専門書のセトリは(専門書は専門書でも学術書でなく、技術系。例を挙げれば音響技術や印画紙時代の現像液の処方が様々載った本などだ)、それも『エル様』からお小遣い稼ぎにやってみなさいと薦められたものだし、大学生やパートの主婦を雇っていた揚げ物専門店やウェッブデザイン会社を起ち上げたのも学生メイド向けにと『エル様』が考えたものだった。
『エル様』が言うには、揚げ物専門店は新規参入が比較的容易なのだそうだ。それは揚げ物が主婦の誰もが嫌う調理法だからだ。レンジ周りに換気扇……後始末と掃除を考えるとうんざりしている人は多いだろう。揚げたり焼いたりしている間からレンジをこまめに拭いたりできる人でないと。
それとマウント深山にあった天ぷら屋さんがお年でお辞めになったので、そこをなんだかんだあった後に『エル様』が買い取ったのがこのお仕事が始まった理由だった。基本『エル様』は、お客と対面する小売事業に手を出さない。特に飲食関係では。それなのにこのお店を開こうと考えられたのは、マウント深山商店会の方々が困っていたのと、今後も増えて行くかもしれない学生メイド(私達ホムンクルスを除いた、トントさんやペッコさんのような事故や病気などで自らの肉体を棄てざるを得ない人)を中心に据える事で、学校を卒業した後の『仕事』というものを考えて欲しかった事、それとお小遣い程度は自分で稼げるようにとの配慮からだった。
そのお店ではラード鍋、ごま油鍋、菜種油鍋などなどを用意し、お客の好みやカツか天ぷらかで鍋を使い分けていた。火の管理が大変なのだけど、そこは『エル様』。炎の魔術師はそういう礼装を作りコンロに工夫してあった。勿論揚げるのはパートさんやアルバイトでなく私達学生メイドだ。学園に通っている時間帯は手の空いた先輩メイドが担当していた。
ではパートさんはと言うと、ご飯やお惣菜とセットにして弁当箱に詰める係だった。つまり揚げ物とともにお弁当も販売していたのだ。それでアルバイトの人はお味噌汁と一緒に工事現場などに配達していた。口コミで広まり、費用を安く抑えたいご家族からの依頼で、葬儀場や火葬場横の会館などにも配達していた。食材と油代は仕方ないにしても、人件費は嵩む。学校がある間は揚げる係を先輩メイドに頼まないといけない訳だから余計に嵩んだ。
それでも月に12万は手元に残った。その理由はアイデアを出された『エル様』に支払う必要が一切無かったからだ。あのお方は大ぴらには言わないが、母子家庭の支援や女性の地位向上にはさらりと手を貸す。なんとパートさんは全員母子家庭で、学生アルバイトも皆んな苦学生と言ってもいい人達ばかりだったのだ。こちらに来る際にそれらを全部『エル様』とマアエモさんに頼んできた。今はどうなっているのだろう?
ところでメイドと言えば、皆んなお揃いのメイド服を着て、『お帰りなさいませ、ご主人さま』と玄関でお出迎えするイメージがあると思うのだけれど、実は全然違う。あの肩まである真っ白なエプロンこそが給仕の証で、普通のハウスメイドはあんなのは着ないのだ。勿論、私達はアインツベルンなのであの頭巾付きの白いメイド服だったけれど、普通は下がスカートの柄物のワンピースに、首掛けか腰に巻くこれまた柄物のエプロンが多く、紺や黒に白い襟のワンピースなんてまず無かった。
そんなのは20世紀に入ってから出て来たもので、メイド全盛期の18~19世紀はご主人やレディーとお目通りもしない裏方……つまり下働きがメイドの仕事だったから、エプロンの意味も自前の衣類を汚さないためだったのだ。エプロンに柄が入っているのも汚れが目立たないからだ。優しいレディーなら自分のお古を回してくれる人も居たろうけど、大方のメイドは田舎から自分が持って来た服か、中古で買った衣類だった。何故なら手縫いの時代の衣類は大変高価だったからだ。
そんな事情があったので、お仕着せのユニフォーム(メイド服)がちゃんとあるのは現代のウェイトレスや看護師と同じで、給仕のパーラーメイドとべッドメイクをするチェインバーメイド(チェインバー=チャンバー。部屋の事。客間担当か主人達の部屋担当かでステイタスが違った)に限られていた。この辺りは旅館の女中さんを思い起こせばわかると思う。お洗濯したてのシーツや枕カバーは汚せないでしょう? 給仕もそうだ。だから肩まである真っ白なエプロンを日に何度も何度も替えていたよ。
それと上げた髪全体を覆う帽子。これも給仕やベッドメイク担当の証だ。理由は言うまでもない。お料理の皿やシーツに髪が入ると拙いからだ。
だから、そんな作法も何もかもを英国より先に『わかっていて洗練させて来た』アインツベルンは、魔術的処置で汚れが落ちやすい頭巾付きのメイド服をとっくの昔に用意していた。私であの服を5着は持っていたし、合わせるエプロンも4~5枚支給されていた。『エル様』のところでは、胸の色違いの部分が明るい青の人は普通のメイドで、黒の人は上級メイドだった。だから私は青だった。
けれどこれがアハトの家は逆で、セラさんが濃い青(紺色に近い)でリーゼリットさんが黒だった。それでセラさんが冬木に来たばかりの頃、勘違いしてしまってマアエモさんを顎で使おうとしたらしい。だけどその間違いが『エル様』の耳に入り、こっ酷く叱られたそうだ。イリヤ様が仲裁に入らないと大変だったと聞いているけれど、『エル様』に限って廃棄処分なんかの厳罰は絶対にないから誰かが大袈裟に話しているだけで、それも単に勘違いを訂正し『お小言』を言っただけだと思う。
そもそも────。
『人間というものは、千差万別で心の綺麗な人も居ますが大抵は我欲に塗れて醜いものです。ですがホムンクルスは主人がまともに鋳造したなら心も綺麗なままです。ましてや私が鋳造したあなた達です。例えどんな悪名を被ろうが私は最後の最後まで信じますよ』
なぁ~んて事を言う人なのだ。これがあったから、セラさんはアハトの呪縛が解けたとも言えるんじゃないかな? そう思うよ、私は。ともあれそんな風にこのメイド服はアインツベルンの各家に広く普及したけれど、家ごとに違うところもあって、とある家では上級が臙脂色だったり、また別の家では濃い緑(※)だったりする。
※)ヒ素を使わない緑(エメラルドグリーンやシェーレグリーン)を何百年も前に開発した家だそうだ。
また頭巾の部分の膨らみや首周りのデザインも少々違ったりする場合がある。だから同族の他家に行って初めてお手伝いする際はかなり気を使うそうだ。特に先代のお屋敷に行って、『大婆様』という人に無作法なところを見せたら大事になるらしい。
『可愛い顔をしてるのに稼働時間は400年以上あって、ママもフリューゲルも、一族の他家の家宰(ハウスキーパー)も皆んなあの人が育てた弟子なのですよ。そんな大ベテランの方が、ややこしい事に下級のメイド服を着て、そこらを歩いているのです。知らないと即廃棄処分ですから』
と、メチャクチャ脅された。そもそも何で私らと同じメイド服を着るのだ。迷惑極まりない。だけど姉さんは……、
『厳しい人ですが、中身は優しい人ですよ。話し方や考え方に古いところは勿論あります。ですが今聞いても、芯の部分は間違っていません。筋が通るなぁと納得できるところはたくさんありますし、今の時代でも役立つお話も多いです。ですので知り合って損のない人ですよ。それにあの方はノーランド・カレッジ(さっき話した乳母専門養成学校の事)の創立にも関わり、そのプログラムの基礎部分を提供された方でもあります』
と、話していた。今はレディー(姉さん、クロエちゃん、おチビちゃん)の『姉妹』という立場を甘受させて戴いている私だから、やはりそこは元メイドとしても、主筋の顔に泥を塗る失敗は怖い。
そして私が抱いているような気持ちをエルマも自覚している筈なのだ。だからなのか近藤先輩の家の台所に上がってからのエルマは、人当たりの良い笑顔のお婆さんの態度とは真逆に、ガチガチに緊張していた。このどこか大胆不敵なところのある姉のこんな姿は初めて見た。
一応言っておくが、出張がない日のお昼はお爺さんとお婆さんが先に食べ、交代してお父さんが食べている。お店番や電話番があるからだ。だけどそんなに席はないから、私らが早く食べ終えないと、お父さんの席がない。そういう交代制の家があるのは知っているだろうに。急いで食べないと食事時間が失くなってしまう。
「どうしたの? らしくない」
私は早く食えと言わんばかりにエルマに訊ねた。
「だ、だって、このお料理……」
うん? なんてことは無いんだよ? メインのお皿は鰆(サワラ)のポン酢バター焼きに大根おろし添え、小皿は蕗(ふき)・筍(たけのこ)・人参(にんじん)、それと油揚げ(薄揚げ)の煮物と、わらびと厚揚げの炒め煮、それと豆腐とオクラのお味噌汁だ。お漬物はゴマ高菜。博多系のとんこつラーメンを提供するお店によく置かれている辛子高菜の高菜を細かく刻んだ醤油漬けだ。そこにゴマが入っている。
この高菜という野菜はアブラナ科でカラシナの変種となるらしい。近縁の野菜に小松菜があるが、あれよりも遥かに伸び、大きいものだと50~60cmくらいになるらしい。それで『高菜』というのかどうかは知らない。けれど変種のクセに平安時代以前からあった野菜らしく、西日本、特に九州では広く普及している野菜だ。
以前お呼ばれした時はこのゴマ高菜が油で炒めてあった。そういう工夫も九州発祥のもので、とんこつラーメン店でたまに見掛けるやたらクサイ高菜は乳酸発酵させたもので、ああいう古漬けも九州でしか見掛けないものらしい。関東圏の人はあまり知らないと思うが、この高菜、関西以南では野沢菜と並ぶ割りとポピュラーなお漬物で、特に近畿では和歌山が産地なので広く出回っている。
ただし広島だけは広島菜(安芸菜)という独自のアブラナ科の野菜があるので、そちらしか普及していない。また、和歌山北部、奈良県南部、三重県西部に跨る熊野地方では、この高菜の葉の浅漬けで白米や酢飯を包んだ『めはりずし』というおにぎりが郷土料理として知られている。
この高菜と広島菜、野沢菜(こいつもアブラナ科)を指して『日本三大漬け菜』というらしいが、それよりも私はアブラナ科の野菜全般が恐ろしい。大根も蕪(カブ)も水菜も、白菜もキャベツもルッコラも……ワサビにチンゲンサイ、何だったらあのザーサイも全部このアブラナ科だ。つまり人類が食べている野菜のほとんどは、このアブラナ科なのだ。ね? 畏れ入ったでしょう?
ま、姉さんから教えられてエルマや、凛さん、ルヴィアさんとともに驚かされたって事なのだけど。だけどマルガリータさんは知っていた。あの人も大概な知識を持っているよ。
「お、美味しい……」
横に座っているエルマの呟きだ。確かに煮加減がお上手だからどれも美味しい。だけどこれらは姉さんでもエルマでも問題なく作れる範囲のものだろう。確かにアク抜きなどの手間が掛かる食材ばかりだし、彩りを考えれば煮加減がとても難しい。だから普通の高校生なら、ちょっと難しいかなと思える料理でもあった。ん~……私、お婆さんを見誤った? それとも何か見落としている?
「どうだ? 婆ちゃんの料理、美味しいだろ?」
先輩がエルマの顔を覗き込んで言った。エルマはコクリと頷いた。言葉が出ない状態に陥っているのだ。こんなエルマを見るのは本当に初めてだ。どうした? 美味しいのは美味しいよ? だからって、そこまで畏まって恐れ入るのも大袈裟過ぎない? だから今度は私がエルマの顔を覗き込んだ。
「もう~っ、顔が近い、トロンメル」
「どうしたの? いつものエルマじゃないよ?」
「あ~、ゴメン。急いで食べるね」
そうしてご飯を掻き込みながら、エルマはこう言った。
「本当に美味しいね? マウント深山にある食堂のような味だわ……」
するとお婆ちゃんが『あら』という顔をし、先輩がこう返した。
「呑(のん)べの人も通う『あさみ』って飯屋だろ? あそこ、婆ちゃんの実家だ」
「え? お婆さんの?」
これは私も初耳だった。だけど私はその奇遇さより、エルマがそういうお店にも出入りしている事実について驚いた。エルマに言わせると、お店用と家庭用で味の濃さみたいなものは違うだろうけど、傾向というか根っこの味は同じなのだそうだ。特に鰆(サワラ)のポン酢バター焼きでそう感じたらしい。
このポン酢バター焼きは誰が考えたレシピなのか、姉さんも唸っていた方法だ。作り方も簡単で失敗もしないだろう。まず切り身のサワラに塩を振ってしばらく置いて汗が出て来たらペーパーで拭く。この臭み抜きはどんなお魚でも必ずする。次に塩や胡椒、お好みのスパイスや香草と少量のパン粉をまぶす。それを少し寝かした後、油をひいて温めたフライパンに並べて焼く。
つまりはフランス料理の香草パン粉焼きなのだが、パン粉でなく小麦粉を使えばムニエルの一種となる。ミソはバター醤油でなくバターとポン酢で仕上げるところ。サワラとくれば西京味噌と来るくらいだから、とても身が淡白だ。ご飯のおかずにしようと思えば味が薄い。それを知るとこの味の組み立て方は鋭いと言える。もっとパン粉と香草を増やせばよりフランス料理風になるし、先程チラリと言ったムニエルよろしく、小麦粉だけで仕上げても良いと思う。追いポン酢して大根おろしを添えればよりご飯に合うだろうしね。
またこの調理法は、サワラと同じく淡白なスズキにも合うし、風味の濃いサーモンやサバやサンマ、イワシでも行ける。醤油味の煮付けが苦手な子供でも食べやすいし、お魚が苦手な人でも受け入れられる余地がある。どうしても無理なら鶏肉や豚肉でも代用できる。何よりグリルを使わないので台所を余り汚さない。かなり優れたお料理なのだった。
「そりゃ婆ちゃんも爺ちゃんと結婚する前は看板娘の一人だったんだから。醤油とか味噌とか味醂とか、調味料はあの店のと同じなんだよ」
『ああ、なるほど』とエルマが手の平をポンと叩いた。私もこれで納得がいった。
「お嬢さんは、お店の味を憶えてくれていたんだね。嬉しいねぇ」
お婆ちゃんは目を細めてエルマに笑顔を向けた。
「はい。あそこの山椒が乗ったサバの味噌煮が好きです」
「フフフ……美味しいよね? 私も大好きなお料理よ」
む、エルマってお年寄りと話すのが上手いなぁ。それで食事が終わるまでにお婆さんのお姉さんが、そのエルマ行き付けの食堂のオーナーで、今はその方の娘さんと旦那さんがお店を切り盛りしている事などを話してくれた。エルマが好きといったサバの味噌煮はその娘さんが作ったものだった訳だ。お婆さん達の味が今も引き継がれ、守られているというところに感動する。
それは私だけでなくエルマもだ。魔術師はそういう代々続くものや、伝統の◯◯という文言に弱い。私は今度食べに行こうと思ったのだった。エルマの事だから一人の可能性もあるが桜と行った可能性もある。もしアルトリアがまだだったなら、彼女を誘ってみよう。彼女はセイバーさんのように『雑な料理』を無理して食べた経験がない。記録はあるだろうが記憶に無いのだ。
だから『エル様』は料理を手ずから教えたのだ。それは記録でしかない『滅びた王国』に悩まさせるなという意味でもあった。アルトリアは王になる前の英霊だ。だから彼女の心にある王国はまだ滅んでいない。だというのに『滅んだという情報』は記録にあるし、二人のセイバーさんがそれを体験している。キャスターに召喚されて以降そこに悩まされていたのだ。
だから『エル様』は料理を教え、ご自分のセイバーさんより経験のありそうなこちらのセイバーさんと『仲良くなれればな』と考えて送り出したらしい。未来の自分との『和解』……? 『相互理解』……? そこはともかく、それはきっと双方に良い影響を与えるだろうからと送り出した訳だ。それにアルトリアなら食べて気に入った料理なら、自分でも作ろうとするだろう。
その自分で作ろうとする精神が起業家の第一歩で、為政者が知っておくべき精神なのだそうだ。それにセイバーさん達が好んだ『衛宮士郎』の料理の定義は、『素朴であっても丁寧な料理』であり、そこに『皆んなで囲む食卓』という条件が重なっている事に注目だ。これは何かというと、食材はありふれた物で良い。高級なものは偶で十分。贅沢もしたくない。だけど下処理や調理方法に味付け、こういったところに作り手の心遣いが感じられたら……という意味になる。そこをして『丁寧』と言っている訳だ。
幸いというと失礼だけど、アルトリアはキャメロットで戴冠していない。だから粗野な騎士達の『雑な料理』を食べていない。と同時に、『衛宮士郎』の『素朴であっても丁寧な料理』も体験していないのだ。すべてが座にあった記録だ。だから『エル様』は料理を教えたのだ。自分だけの道を進みなさいと。
柱に掛かった、背の低い柱時計(この家は昭和の遺物があちこちにある)が、ボーンボーンと時刻を知らせてくれた。先輩にはお父さんを呼んで貰い、私とエルマはお婆さんに代わって食器を片付けテーブルを拭き、配膳し直した。いつもやっている事なので洗い物を初めたら、お婆さんに啓司を頼みますとお願いされてしまった。
「音楽、掛けても良いかな?」
お父さんだった。ちらりとガラス戸の向こうを見ると先輩はお爺さんと談笑していた。
「あんたって子は……。こんな可愛らしいお客様の前で行儀が悪い。ご飯くらい静かに食べられないの?」
「ごめんよ、母さん。でも俺は親父の子でもあってさ。音楽がないと動けないんだよ」
「はぁ~……」
お婆さんが盛大に溜め息をついた。それで思わず忍び笑いが出た私とエルマだ。洗い物を終えると、『これで手を拭いて』とお婆さんが、洗いたてのタオルを出してくれた。
可愛い孫の連れて来たガールフレンドが双子の外人だ。相当驚いただろうに、そういう事は一切言わない。それが先輩のお婆さんでありお宅だった。これは私が初めて伺った時からそうだった。『双子なの?』『外人さん?』……あまり言って欲しくない『疎外感を感じる言葉』を誰一人言わない。事前情報は先輩が話している。それで十分。それよりも私自身の人柄はどうなのか? そういうところを見ている。先輩のご家族は皆さんオトナなのだった。
だからエルマを連れて来た。ギターを見て頂くなんて、言ってみればついでだ。エルマを通じて、ご家族の方々に私をより知って頂く事が目的だったのだ。私は学園卒業後、アメリカに行くつもりだ。その前に先輩の卒業がある。そしてまず間違いなく、先輩はプロのミュージシャンでなく、電気技師を目指した進路を選ぶだろう。
その時か、私がアメリカに行った時に二人の関係は終わるかも知れない。だからこそ中途半端な事を先輩や素敵なご家族にしたくなかった。期間限定でも良い。付き合っている間は真剣に付き合いたかったのだ。今まで曖昧だった私が、そういう風に考えられるようになったのは、姉さんのお陰だ。姉さんが真剣だったから吉川先輩も待てるのだ。
ただ、私と姉さんとは条件が違う。姉さんは時計塔の講師を4年間と定めて、そういう契約を締結していた。けれど私がアメリカに行くのは成功を目指してだ。音楽大学に通う間の話じゃない。だから先輩との『関係』は、本当にどうなるかわからない。それでも『今は』真剣に向き合おう。そう考える私だった。
その時、優しい音楽が台所を満たした。『私の悩みをその指で奏でて……、私の人生をその声で歌って……』。ロバータ・フラックの歌唱で大ヒットした名曲、『Killing me softly with his song(優しく歌って)』だ。姉さんもお風呂でよく歌っていた。
元々はロバータ・フラックでなく、ロリ・リーバーマンという人が歌っていた。そのロリ・リーバーマンはドン・マクリーンという男性歌手が歌う『Empty Chairs』という歌に感銘を受け、即興で『Killing Me Softly With His Blues』という詩を書いた。プロの作曲家と作詞家が、その詩を膨らませ書き上げた曲が『Killing me softly with his song(優しく歌って)』だった。
だけどロリ・リーバーマンが歌ったオリジナルはヒットせず、ひょんな切っ掛けでこの曲を知り、気に入ったロバータ・フラックが歌った事で大ヒットになったそうだ。ある人の感銘と感動が何人もの人を動かしたと見るべきか、当時若干19歳だったロリ・リーバーマンに運がなかったと見るべきか、既にベテランだったロバータ・フラックが流石だと捉えるべきなのか……。
考えられる事は色々あるけれど、やはりこの曲の凄みは『Killing me softly』という詩の段階からあったこの部分にあるだろう。直訳すると『優しく殺して』だ。物騒な事この上なしなのだけど、次に掛かる『with his song』で謎が深まり、全体を聞いて『私の抱える悲しみや苦しみ、辛かった人生をあなたの歌で打ち消して』という意味になるのだとわかる仕組みだ。
つまり『殺す』とは『打ち消す』という意味なのだった。これは多分スラングじゃないと思う。そういう言い回しもそれまで無かっただろう。きっとまったく新しい言葉だったのだと思う。この言葉を思いついたロリ・リーバーマンが歌ってヒットしなかったのは残念だけれど(※)、言葉のインパクトは大きい。だから長く残る歌になったのだと思う。
※)最初は皆んな歌詞の意味がわからなかったのではないか? というのが姉さんの見解だ。そしてこの歌詞をよく読むと『彼』はその指で優しく奏でるとある。つまり『彼』は歌い手でなくギター奏者なのだ。だからロリ・リーバーマンが吹き込んだオリジナル・テイクは、ギターが前面に出た伴奏なのだそうだ。また、ロバータ・フラックはピアノの人だから、結構アレンジが違うそうだ。姉さん、あなたどうしてそんなの知っているの? オリジナルをどこで聴いたの?
ついでに言うと、姉さんはこの曲のギターとチェンバロが伴奏というバロック版を楽譜に起こしている。当然、オリジナル・テイクに触発されてのアレンジだ。お風呂の鼻歌で思い付き、上がって10分で書き上げた。お料理好きの弓道名人は、こういう人でもあったのだ。
そんな名曲が食器棚の上に乗ったスピーカーから流れていた。そのスピーカーが『JBL Paragon』のミニチュアだったのだ。本物は重量300kg弱、左右のスピーカーが反響板で一体となる3way構成で、一番有名な中期のモデルだとツイーターは『075』、スコーカーは『375』ドライバーと、とんでもなく内側に向いた『H5038P』ホーン、ウーファーは38cmでアルニコの『LE15A』というユニット構成だった。
これは『エル様』のメイン・スピーカーのユニット構成と、ウーファー以外はほぼ同じだ。つまりド級のスピーカーなのだ。そしてその特徴はセンターに挿し込む大きな反響板にある。高さは90cmだけれど、この反響板を挿し込んだ姿だと、横幅が2m63cmにもなるのだった。こんな事をする理由は、『鋭く』『飛んで来るような音』のするユニットを、曲がりくねったホーンや反射板で拡散するためだ。
ここまでしないとクラシック音楽に合わないのが『JBL』のユニットだったのだ。だから本物は食器棚の上に置けるようなものではないし、間口がいくら広くとも日本の普通の家に置くには相当無理があるシロモノだった。だからお爺さんは『気分だけでも』とミニチュアを作った訳だ。
1970年代、コンクリートホーンのアンチテーゼとして、国産ユニットを使ったこういう海外製品のソックリさんやミニチュアの自作が流行ったらしく、そういう本もたくさん出ていたそうだ。お爺さんは古い本物や高価な現行品でなく、紙面を飾る自作の原寸サイズやミニチュアに憧れたという。
中でも『JBL』のオールホーンの『Paragon』や『Hartsfield』、前面がサランネットでなく組子細工の『Olympus』が好きだったそうだ。だから当時『JBL』の輸入元だったサンスイから出た組子細工の『SP-LE8T』を買ったのだ。これはお金が無かったからの妥協でなく、家の大きさや部屋の大きさ、お弟子さん達を含めた家族構成を考慮した上での妥協でもあった。
だからこのミニチュア・パラゴンにはお爺さんの夢が詰まっている。例えホーンが金属でなく自分で木材を彫って作ったニセモノであっても、中のドライバーが2500円くらいのホーン・ツイーターを分解して流用しただけのものであっても、ウーファーが10cmのフルレンジであっても、手間暇を考えればこれはこれで立派なものだ。
低音域の曲がりくねったフロントロードホーンはちゃんと利いているから、ロバータ・フラックの少しハスキーな声が心地よく聞こえる。そんな手作りスピーカーをドライブするアンプは、『HITACHI/Lo-D』の『SR-5100』というレシーバーだった。
レシーバーってわかる? 『Receiver』……その意味は『受信機』だ。ただしオーディオの世界ではプリメイン・アンプとチューナーが一体になった製品を指す。当然このレシーバーにレコード・プレイヤーを繋げる事が可能だし、カセットデッキも繋げられた。こういう製品が1970年代までは、各メーカーが一機種か二機種出していて、製品に拠ってはカセットデッキ一体型なんてのもあったようだ。だけど最後はコンポーネント化の波に押されて消えたという。
一見AVアンプっぽく聞こえると思うけれど、こちらは各種プレイヤーを別で揃えなきゃならないので別物だ。それにAVならテレビより映画などの映像ソフトが見たい。だから90年代にそういうブームが起きた訳だけど、意外と映画のセリフや音楽を『良い音』で聴くとイマイチだったり、効果音が喧しい事に皆んな気付いて、離れていく人も多かったという。
(『エル様』談。『映画は大型音響設備の整った映画館で観るから良いのですよ? 小さなスピーカーしか置けない環境なら、どこかで妥協するか割り切るか、諦めるしかありません』だそうだ)
だけど1980年代初期に廃れたレシーバーは、お店の音響装置としてなら最高だった。本格的な装置を置くジャズ喫茶には負けるけれど、音の悪い有線放送やAM放送を日長一日BGMで掛けるよりは良かった。だから『ちょっとコダワった』店主は、皆さんこのレシーバーと小型でも音がそこそこ良いスピーカーを置いていたそうだ。
『BOSE』が有名になる少し前の事だ。地方だとまだマックが珍しく、洋食店のようなランチ(ハンバーグ定食など)を提供する喫茶店が巷に出て来た頃だ。店舗が狭く油ハネが多い喫茶店ではそういうレシーバーをラップで包み、定期的に換えていたという。しかもそのラップも今の薄さじゃなく、透明なビニールシートとしか思えないものだったという。
『これも合理主義なのかなぁ。アメリカにはこういうレシーバー好きが多いらしくてね。中古ならパイオニアの『SX-1980』なんて270Wもある輸出用のレシーバーにファンが多いらしいよ。中古相場でもプレミア価格って聞いたなぁ』
お爺さんの話して下さったそれは1978年発売のレシーバーだそうだけど、音が良くてパワーがあると発売当時から話題だったらしい。そりゃ片側270Wもあれば、大きな家に置く大きなスピーカーでも問題なく鳴らせるだろう。だから『合理主義でレシーバー好きな』お爺さんも憧れる製品だったという。だけど、如何せんチューナーの周波数帯域が北米向けだし、コンセントも合わない。だから日本のオーディオ・マニアもほとんど知らない製品なのだそうだ。
そして先輩のお部屋には、『Lo-D D-50C』という1981年頃のカセット一体型のレシーバーがあった。中等部に上がる年にお爺さんが中古を手直ししてくれたものだ。そして今年(2005年)の6月。先輩を真似た訳ではないけれど、私は『DENON』から出た『RCD-M33』というCD一体型レシーバーと『DRR-M33』というカセットデッキを買った。これは1997年から出ているMシリーズ(Lapisia シリーズ)の最新型で、その後も後継機が続いた息の長いモデルだ。
スピーカーの方は『ONKYO D-202AX LTD』を先に中古で手に入れていた。『ONKYO』にしたのは『エル様』とトントさんの影響。3wayの『D-77シリーズ』にしなかったのは部屋が狭くなりそうな気がしたから。現行の『102シリーズ』でなく、古い『202シリーズ』から選んだのは掘り出し物が見つかったのと、先輩のスピーカーが『D-202A LTD』だったから。私のはこれの後継機だ。
それとミニコンポを導入した理由は、やはり部屋で聴くならPCやCDラジカセでなく、それなりにちゃんとした装置で聴きたいと思ったからだ。だけど楽器が多いから、そこまで本格的なものは置けない。だからミニコンポにした。まぁ、勉強机の上はとんでもない事になったけれどね。
ところで先輩の部屋のオーディオは、どうして『HITACHI/Lo-D』だったのか? これにもちゃんとした理由がある。
『日立の『日』をアレンジしたマークはモーターなんだってさ。だから日立はモーターが強いんだって爺ちゃんが……』
なんて事を耳にした覚えがあるからだ。確かにカセットデッキにはモーターが入っているね。しかも先輩の家は冷蔵庫も洗濯機も掃除機もエアコンも……モーターの入った電化製品は全部日立製だった。徹底してるなぁ、お爺さん。とは言え、冷蔵庫はめっちゃわかる。業務用でもない限り、家庭用の一般的なサイズの冷蔵庫は各社似たり寄ったりだ。
そうなると購入動機になり得るのは、機能よりも使い勝手と後押ししてくれる『伝説』や『神話』となる。『定評』とか『評判』という単語を使わなかったのは、勿論わざとだ。なんでもお爺さんは、戦後のドヤ街に灯った通天閣の広告の印象がかなり強いらしい。終戦が1945年だ。明治に一度解体され、昭和に再建された通天閣にネオンの光りが灯ったのが1957年。
だからその『ネオンが灯った』というニュースの記憶は、お爺さんだけのものでなく、ひいお爺さんとの思い出でもあった訳だ。小さい頃にお爺さんはお父さん(ひいお爺さん)と一緒に、新聞の白黒写真を見た。その時にお爺さんのお父さん(ひいお爺さん)は、こう呟いたそうだ。
『やっと戦争が終わったな……』
って。1957年のニュースだから終戦から12年も経っている。だけど、だけどだ。そのお気持ちは計り知れないし、戦争を知らない私達がどうこう言える類のものではない。その短い呟きの言葉に、どれだけの『思い』が詰まっていた事だろう。だからお爺さんは何も答えられなかったそうだ。
災害が多いとされる冬木市だけれど、市に昇格する前のこの大戦中は、不思議と災害が無かったし、食料も割りと普通に手に入ったそうだ。それは当時の農家や漁師に市場の人、それと役所の人達が尽力していたからだとお爺さんは言う。『隣村の吉川さんとこの先代さん』『深山の間桐さんとこのご隠居さん』『丘にある教会の言峰さん』などなどが音頭を取って流通を支えたそうだ。
妙に聞き覚えのある名字が出て来たが、まぁそういう事なのだろう。むしろ、お爺さんの口から同列に並んで出て来た吉川先輩の家が凄い。そして出て来なかった『深山の遠坂さん』……。方針や立ち位置の違いだろうけど、川向うのこちらにまで名が知られる『間桐さんとこのご隠居さん』がなんともはやだ。
ここの間桐臓硯とエルマのゾウケンくんは別人だけれど、きっと似たような事はしていたと思う。例えそれが魔術師としての本性を隠す行動だったとしても、『流通を支えるのに尽力した』のは立派な事だ。姉さんがあまり間桐臓硯の事を悪し様に言わないのは、そういう事を知っているからだ。
なお、この新聞のニュース記事は国鉄冬木駅の駅前に白黒街頭テレビ(そんなのあったのか!?)が立つもっと前だったという。そしてお婆ちゃんは蛍光灯が切れた時、東芝にしようかナショナルにしようかといつも迷うらしい。『明るいナショナル』などのキャッチが耳に残っているのと、実家のお婆さん(お婆さんのお婆さん)が『電球はマツダ(東芝の電球ブランド名)』と事あるごとに話していたからだそうだ。東芝の事も東京芝浦電気と略さず話していたという。お年寄りってそういうところがあるよね?
それはともかく、先輩のカセット・レシーバーだ。AMもFMも聞け、カセットはメタル対応で頭出し機能も付いている。出力は15Wしかないし、S/N比は52dbだから性能はイマニどころかイマサンだけれど、めちゃくちゃ便利なのだそうだ。また部屋の広さも6畳(先輩の家の部屋はどれも6畳か8畳。ちなみに私の部屋は、多分12畳より広く15畳はありそうだ)しかないから、楽器の増えた今はレシーバーと小さなスピーカーで良かったと話していた。私は表記が英語でなく日本語なのに少々面食らったけれど、小学部を出たばかりの先輩には合っていたと思う。
と言うか6畳しかない和室に勉強机と本棚、120Wのジャズコにマーシャルのリード12、フェンダー・ジャパンのベースマン(※)にギターやベースが7~8本くらいある。ドラムこそお父さんの部屋だけど、布団を縦に折らないと敷けるスペースが無いってどういう事だ? 先輩はほとんど寝袋状態で寝返りも打てずに寝ているのか?
しかもお爺さんにお婆さんも、お父さんの部屋に先輩の部屋も全部和室で、扉は障子か襖(フスマ)だ。私が先輩とのエッチに乗り気でないのはこれもあった。だけど気持ちに踏ん切りがついたら、先輩とホテルに入っても良いかなとは考えている。何だかその日が別々の道を歩むと決めた日のような予感がして嫌なのだけど。そこもあって気が乗らないのだった。
※)BM-20CE、4バンド・イコライザ付きのかなりヒットしたベースアンプで、今も後継機がフェンダー・ジャパンから売られている(この物語は2005年。うわ、ババァの昔話かよと思ったキミ! そこから15歳引け。それが私とエルマの実年齢だぞ!?)。生意気にもスピーカーはセレッションだ。しかも安い。だから我が学園軽音部のみならず、他校でもこれを使っているベーシストは多いだろう。
後年、アニメ『けいおん!』で澪ちゃんが使っていたベース・アンプがこれ。唯ちゃんはマーシャルの『MG15CDR』だけど、これなら先輩も使っている『LEAD 12』の方が良いと思う。ちなみに梓ちゃんがムスタングを挿すアンプが『Fender Japan SD15CE Studio Drive』なのだけど、こいつもスピーカーがセレッションだし、ベースマンと同じようなキャビネット・スタイルもあってまぁまぁ良い練習用アンプだと思う。
だけどムスタングのピックアップに合うかどうかは別。ピックアップがポールピースを覆うから、ムスタングの音は線が細くペラいのだ。だからリズムギターで使うなら、イコライザーで中低域を上げつつ、コンプレッサーでアタックを揃えるくらいは最低限必要だろう。姉さんが真空管のホットロッドを使うのも、楽器店の店員さんから薦められたからだけでなく、自分でもシングルコイルのテレにコシを持たせたいと考えていたからだ。
その後『Vanzandt』にピックアップを換えたのは、『Fender Japan』のノーマルピックアップがショボくてどうにもならないと感じたからだ。アメリカ製のピックアップが最初から載っている高価格帯ならまだしも、中価格帯以下は実に音がショボい。これはもう仕方のない事だった。特に私のようなハムバッカー慣れした耳には、ショボさ倍増だ。
こう考えると70年代のワイドレンジハムバッカーは、当時の人気とは裏腹にフェンダーとしてはちゃんと真面目に作った正常進化版だったとわかるだろう。だけど私のテレカスのフロントは、最初ワイドレンジでなく、ただのハムバッカーだった。一方、先輩のテレカスのフロントはお父さんが巻き直してワイドレンジの音に寄せたものだ。
これに痺れた私はアメリカの姉さんに、姉さんなりのワイドレンジを思って巻いたピックアップを作って貰った訳だが、この音がエラくキラキラしていた。世の中ままならないとはよく言ったもので、私は先輩のフロントが欲しくて、先輩は姉さんのこのフロントを欲しがった。交換しろよって? 片や息子に、もう片方は妹にと巻いたものだよ? そんなお気楽に交換出来るものじゃない。だから悩むんだってば。
お父さんと入れ替わって事務所というか作業場に戻った私達を、先に食事を終えていた先輩とお爺さんがコーヒーで迎えてくれた。お爺さんはコーヒーを『ネスカフェ~♪』とメロディに乗せながら手渡してくれた。意味がわからずキョトンとするエルマに私が説明した。
「台所で掛かっているロバータ・フラックのあの曲が、昔、CMで使われていて」
「ああ! それがネスカフェなんだ?」
おそらく契約や著作の関係で、ロバータ・フラックでなくマデリン・ベルという人が歌っている。それとお爺さんがいれてくれたコーヒーはネッスルで間違いないけれど、普通のネスカフェでなくゴールドブレンドの方だ。だから本当なら『ダバダ~♪』と手渡すべきなのかも知れない。でも、ガラス戸の向こうから流れるのは『優しく歌って』だからこれで良いのだ。
「このコーヒーを作っているネスレ社って、母国の企業なんですよ」
「ほぅ? 母国……」
おい、エルマ。日本生まれで日本育ちのあなたがそれを言うのか?
「そういやトロン、お前の国ってどこだっけ?」
先輩……。ああ、姉さんも士郎さんや吉川先輩にしか話していないのか。
「スイスです。地図で見たらスイスの上半分の右。ザンクト・ガレン州のザンクト・ガレンというところです」
「へぇ~、全然知らない」
だろうね。普通は左、ジュネーブやレマン湖の方しか知らないだろう。だというのにザンクト・ガレンやリヒテンシュタインは飛び越えて、オーストリアのチロル地方だけは頭に残っている人は多い。これもCMやアニメの影響だ。それに私とエルマは睡眠学習で言語を覚えたから、日本語も英語もドイツ語も話せるし書けるが、スイス・ドイツ語(アレマン語)やその方言は知らなかった。『エル様』がどうしてそうしたのかは謎だけれど、日本で暮らすなら必要ない言語ではある。
ただ、今のような『バックボーン』に係わる質問は想定されるので、それに対処できる知識だけはある。行った事もなければ見た事もない『祖国』の景色が頭に浮かぶ。チクッと胸が痛むのは、お爺さんや先輩に嘘をつかないといけないからだ。人造人間(ホムンクルス)って本当に悲しい存在だ。正しく生きたいと思っても、社会に溶け込むために嘘を良しとしなければならないのだから。
だけどそんな私達の心の裡を知り、そっと助けてくれていたのが本当のスイスを知っている姉さんだった。姉さんが居ない今は、自己矛盾があっても自分達で対処しないといけない。エルマと私は、先輩とお爺さんにスイスの事をあれこれと説明した。食後のコーヒーはやたら苦く感じた。
説明するエルマの目がうるうるしている。良い人達に嘘を話しているから泣きそうになっているのだ。そこを我慢して笑顔で話すから余計にうるうるしちゃうのだ。それにエルマは私を庇おうと頑張ってくれている。そこにも私は感動していた。やがて話題は別の方向へ流れていった。説明を終えたエルマは咳をする振りをして顔を横に向け、ホッと息を吐いていた。
エルマは手の中に残ったコーヒーを飲み干した。食後の飲み物はそういうものじゃないんだけど、こればかりは仕方ない。一応念のため。食後の飲料は口の中をさっぱりさせつつ、食事後に稼働する胃を落ち着かせる意味がある。なので水を選ぼうとお茶を選ぼうと人によりけりと軽く捉えがちだ。けれど、食後のお茶にはタンニンやポリフェノール類といった消化吸収を促進する物質が入っている。
水を除けば大きくは緑茶、紅茶、コーヒーに分かれるこれら『食後のお茶』は、何を飲もうが個人の自由ではあるけれど、本当は何を食べたかで飲料を換えるべきなのだ。それに拠ってビタミンが、何も飲まないよりしっかり摂れたり、逆に妨げになったりするからだ。特に肌や毛髪が気になる人は、こういう部分から考える事で予防になったり改善の余地が生まれるものだ。
例えば父親や男系の祖父が白髪だったり、毛髪が薄くなっているのは、果たしてお年を召されたからだけだろうか? それとも遺伝だろうか? もちろんそういうケースもあるだろうし、要素としては大きい。けれど遺伝は遺伝子だけの問題ではない。生活習慣と、何を口にして来たかも大きいのだ。いや、生活習慣と食事は切っても切れない関係だ。と言うのは家族なら同じものを食べるからだ。
お爺さんの毛髪が薄く激辛好きだったら、決まって息子であるお父さんも激辛好きで年とともに毛髪が薄くなる。そしてその息子もそうなって行く可能性が高い。つまりDNAだけでなく生活習慣も遺伝するという事だ。そこを若いうちからちゃんと知って見直せば、半分近いハゲ予備軍は助かる可能性がある。まぁ、先輩もお父さんもお爺さんもハゲてはいないけれど……。あくあでも例えだ。
だけどこれは泥棒の子供が全員泥棒になる訳じゃやないという理論と同じで、半分近い子供は人のものを盗んでもバレなければ良いと考える人間になる。それは家庭環境が……と反論する人も居るだろう。けれど、そこも含めての生活習慣なのだ。それを自覚して、反面教師に出来る知識を自ら求め得られたかどうかだ。そして今の例えのように、一見関係ないような事柄や出来事も案外生活習慣が原因だったりする。
例えば村の全員が家族みたいな地域での奇妙な風習や疾病も、生活習慣の可能性がある。こういうのを見詰め直して行きましょうと話す人も、啓蒙本もまず居ない。だけど『エル様』はそういう事を話す人で、私達の学習装置に組み込む人でもあった。姉さんも『クセ』と言い換えて表現していた。
その人個人の『クセ』が家族の『クセ』となり、地域の『クセ』となって抜け出せない泥沼にハマって行く場合があると。個人の『クセ』がクラスの『クセ』になって気付けば学年全体の『クセ』になる場合もある。これは会社などの組織にも当てはまる事だ。会社を持つ『エル様』は、その『クセ』が良い方向に向いているかどうかをとても気にされている。それは『わかっている』からだ。
信じられないだろうけど『霊障』などは、このケースが多いのだそうだ。長年の生活習慣が病気を誘発するなら、霊障などを誘い込む場合もある訳だ。そして飲料や食材もそんな病気や霊障を誘発する原因になったりする場合が多い。だからちゃんと知っておかないとダメなのだ。
特に私やエルマみたいな女性で、人造人間であり、魔術師でもあるなら尚更だ。言っている意味、わかるでしょう? 嘘をつきたくないと考え、ついたらついたで悩んで泣きそうになる『純粋な心』をデザインしておきながら、その存在は秘匿され嘘を通さないと生きていけない環境にある。
『あなたの……ううん、エルマ、トロンメル? あなた達の罪の意識は本来『エル』が被るべきものです。ですが彼女の居ないここでは、彼女に代わって私が被ります。遠慮せず、なんでも相談して下さいね?』
エルマが姉さんを『好き』になった最大の理由がこれだ。勿論、それは私も同じだった。そして私が姉さんを愛する気持ちは家族としての愛情だ。その環が姉さんを中心にお父さん(切嗣さん)やお母さん(アイリスフィールさん)、おチビちゃんやクロエちゃんに拡がった。家族だから旦那様でも奥様でもお嬢様でもない。そんな関係を築けたのも姉さんのお陰だった。
そしてこの環は更に拡がり、マルガリータさんに凛さん、ルヴィアさんや英霊の人達をも含んでしまった。そして今はその環に先輩や先輩のご家族が含まれつつある。私はこうやってこれからも環を拡げ、変わって行くのだろう。
ギターケースを背負って先輩方にお礼を言ってお暇させて貰った。もう時刻は3時を過ぎていた。私とエルマは額に汗を滲ませながら、エーデルフェルトの家に向かったのだった。
隧道へのエレベーターに差し掛かろうかという頃、道の両脇にある縁石の側で自転車が倒れていた。何だと思ったら、その向こうの縁石でしゃがみ込んでいるお爺さんが居た。この5月下旬の急激な暑さで参ってしまったのだろうか? エルマはギアを下げ、加速していった。私はスカートのポケットに入っている携帯電話を意識した。
「お爺さん、大丈夫ですか?」
先に到着していたエルマがお爺さんに声を掛けていた。
「具合が悪いなら、救急車を呼びますから」
お爺さんは『それは困る』といった顔で、
「ちょっと血圧が急に上がったみたいです。暫く休めば大丈夫だから……」
と言った。
「事情がお有りなのはわかります。ですけど万一の事があっては。ともかくここは陽が当たります。隧道のエレベーターのところまで行けませんか? そこまで行けば日陰で涼しいはずです。トロンメル、冷たい飲み物を」
「はい」
私はお爺さんをエルマに任せて自販機を求めて走った。何とか自販機を見付け、冷たいお茶を買って戻ると元の場所にエルマ達は居らず、隧道の10m手前くらいまで移動していた。5kg近いギターを背負い、自分の自転車とお爺さんの自転車を両手で支えながら、足元のおぼつかないお爺さんを励ましてここまで来ていたのだ。
私はエルマを追い越し隧道の入り口に自転車を止め、ギターバッグを下ろしてお茶を持ってエルマ達のところへ戻った。そしてお爺さんにお茶を手渡し、お爺さんの自転車を受け取って、空いた手でお爺さんの手を引いた。エルマからもうもうとライムの香りが立ち昇る。かくいう私も、自分でわかるくらいグレープフルーツの香りを漂わせていた。自転車とギターを置いたところまで行って、お爺さんには日陰に座って貰った。
「遠慮せず、お茶をどうぞ」
そう言って私はお爺さんの自転車を自分の自転車の横に立てた。エルマも並べて自転車を立て、ギターバッグを隧道入り口の壁に預けるや否や、心配そうな声でお爺さんに声を掛けていた。
「本当に大丈夫ですか? 無理なら遠慮なく言って下さい。救急車を呼ぶのは恥でもなんでもありません。ご家族も、お爺さんが無事な事こそが一番のはずです」
そうエルマが優しく話すと、お爺さんは苦しげな顔で『救急車をお願いします』と言った。私は隙かさず119番を掛け、事情と場所とこの携帯電話の番号を電話を受けてくれた相手に告げた。エルマと私でお爺さんの衣類を弛め、お茶を飲ませてあげた。お爺さんがお茶を2/3ほど飲んだところで遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。私達は救急隊員さんに再度事情を話し、お爺さんを見送った。
そして程なくパトカーがやって来たのでもう一度、おまわりさんに事情を話した。そして置いていかれたお爺さんの自転車を、どうすべきなのか尋ねた。すると先にパトカーから降りてきていたおまわりさんがこう言った。
「人命優先だから鍵を掛けてここに置いていこう。後で回収するから」
と。だけど私もエルマもその言葉に驚いた。
「お話されている意味はわかります。ですが、お爺さんの素性もわからない今、そんな安直に言わないで下さい。ご年金暮らしで、この自転車がないと生活が成り立たない人だとどうします?」
お爺さんの自転車の前カゴには野菜などが積まれていたのだ。少しでも安くと深山町から卸売市場まで買いに来ていたのではないか? 家に寝たきりのお婆さんが待っていたりはしないのか? 先に素性を尋ねなかったのはこちらの落ち度だが、それだけに私とエルマは焦っていた。だから、おまわりさんに少し口調がキツくなってしまった。
すると、パトカーに戻って無線機で通信していた、もう一人のおまわりさんがこちらに戻って来てこう言った。
「君達、アインツベルン?」
「は、はい?」
「そ、そうですが……?」
私とエルマは顔を見合わせた。
「いや、エルヴァちゃんにそっくりだし、双子の妹が二組居るって聞いていたからね。君達、エルヴァちゃんの上の妹さん達なんでしょう? 僕は……いや、本官は吉川弘三の兄の吉川弘一です。自転車は責任をもって預かります。それとお爺さんの身元が分かりましたし、ご家族とも連絡が取れました。だから大丈夫。もう少し事情を聞かせてくれたら帰って良いからね? それに……食材は無駄にできないよね? それもご家族に渡しておくから」
最後は片目を瞑って笑顔で話していた。そっか、この人が吉川先輩のお兄さんだったのか。私とエルマは声を荒らげた失礼を詫び、事情徴収の後、隧道を通ってエーデルフェルトに戻った。時刻は4時40分。やがて5時だった。私は帰りしなエルマの背中をずっと見ていた。
一歩が早いし、決断も早い。気持ちは私も同じだった。なのにエルマはぐんっと加速していった。頭が答えを出す前に身体が動いているのだ。姉さんが自分の代理として、魔法使いの先生にエルマを託したのは何もアサシンやランサーの存在があったからだけではない。この差だ。
姉さんがしそうな『正しい事』はエルマだけでなく私も見習って真似している。だけど流される子猫を見付けたからと、未遠川に飛び込んだ経験は姉さんでもない。だというのにエルマは着ている服を脱いで、ブラとパンツの下着姿になって飛び込んだのだ。居合わせた訳じゃないけど、エルマに張り付いていたアサシンが止める間も無かったそうだ。彼に出来た事は仲間と連絡を取り、バスタオルと新しい下着を持って来させる事だけだった。
後で仲間にこっ酷く叱られたらしいが、彼を庇い、仲裁したのもエルマだ。だからアサシンの誰もがエルマに心酔していた。私だってそうだ。姉さんも格好良いが、エルマも格好良かった。だからギターを置きに二階に上がる階段でエルマを抱き締めた。
「え? 何、トロンメル?」
「うん……カッコ良かった。だから姉さんの代わりにエルマをね?」
エルマは目をパチクリさせた。けれど、
「ありがとう」
と言って、私を抱き返してくれた。ライムとグレープフルーツの香りが混ざると凄いな。クサイんじゃなくて口の中にツバが溜まるのだから。
「あんたら何よ?」
「何をやっていますの、あなた方は?」
階段下からそんな呆れ声が聞こえたのだった。
日本に帰る日が来おった。現実の時間は短いのじゃが、感覚的には一週間は居った気分じゃ。仕事も蓋を開ければ寝て居っただけじゃしの。まぁ、それでも無事アオレアールを発見し、意識を取り戻させる事に成功しんじゃ。なので後二日程で帰るとアオレアールから春鈴達に連絡が入った。そうして仕事は終わったのじゃ。
よって昨夜は儂らを労わんと、初めて逢った一诺と春燕の手で豪華な料理が用意されたんじゃ。酒は思涵と春鈴が注いでくれよった。この年長の三人は、どの娘も美人じゃ。じゃというのに三人が三人とも働き者の手をしておった。じゃから『誰ぞ娶れば良かろうに?』と馬謖に言うたら随分と照れておった。良い男なんじゃが押しが弱いのぅ。
今回の儂は『現象』との接触でアオレアールが何を聞き知ったかなどは、敢えて問おうと考えんかった。何かあるなら倫敦のエルヴァに話して欲しいと春鈴に伝えたのみじゃ。その理由はオウリィとの約束にあった。『現象』との事は口外しないで欲しいと頼まれたのじゃよ。そうして晩餐の翌日、儂とルビーは、イリヤスフィールと空港に向かったのじゃ。その急(せい)とる理由は、エルマ達の試験期間が終わるからじゃ。
用意された車は二台。一诺と春燕、イリヤスフィールで一台。思涵に春鈴、儂とで一台。子供達は学校じゃ。じゃが、春鈴が人形を二つ持っておった。これが子供達に情報を送っとるのじゃろう。まだ戻っとらんアオレアールと留守を護る馬謖を除く全員で見送ってくれよるのじゃ。その心遣いが有り難いのぅ。
高速道路に入ると儂は思涵に『アオレアールに宜しくな』と申し添えた。人形は物珍しそうに窓の外を眺めておった。空港に到着したところで儂らは別れた。名残惜しいが、儂は早よぅ冬木に帰りたい気持ちも強かった。いつもそうなんじゃ。水が合わんのか、土が合わんのか、冬木は儂という魔術師を枯らしに掛かった。じゃが、温かな冬木村の記憶がある限り、儂の帰るべき場所は冬木なんじゃよ。
儂とルビーが杖に戻ると、イリヤスフィールは待合いの椅子に腰掛け、荷物からチケットを出しておった。これは馬謖が手に入れてくれたものじゃ。出発にまではまだ時間がある。すると突然イリヤスフィールが叫びおった。
「あ!」
『何ですかぁ~?』
『どうしたのじゃ?』
イリヤスフィールは失敗したという顔をしておった。
「お土産よ! お土産を買うのを忘れてる!」
はぁ……。結局土産は空港で買った。仕方あるまいて。