異世界ヒロインが召喚される世界で好き勝手する話 作:もう万体
ブラ・ダルジャン神殿に戻ってからも慌ただしく時間が過ぎていく。
ランサーのサーヴァント、ヒルドの容態は芳しくなく、肉体の損傷だけでなく魔力の消耗の激しさが彼女の存在すらも危うくしていたのである。
マオはこの世界の人間としては魔力を多く持っている方だ。歴史ある家系はヒロインを先祖に持つ者が多く、一般庶民よりも肉体が頑丈で魔力量が多い傾向にあるからだ。そのマオと仮の契約を結んだことで、ヒルドはマスターという要石を得て、さらに魔力の供給も受けることができるようになった。
マシュの治癒魔術も少しずつ効果を発揮し始め、五時間あまりの戦いの末にヒルドの容態はやっと安定した。意識は戻らないが、消滅の危機は去った。表面に見える怪我の修復も終わり、快復を待つという段階になった。
マオは椅子に腰掛けて、深くため息をついた。
今日一日の疲れがどっと押し寄せてきたのだ。
体力にはそれなりの自信があったのだが、それでも朝から歩きづめだった上に、慣れないヒルドとの仮契約やワイバーンとの断続的な戦闘で、体力をごっそり削り取られたような気分だ。
視界が狭く、足下は金剛式鬼のおかげで、不都合のない程度に整地されていたが、それでも整備した道路のようにはいかない。アップダウンもあったので、気づかない内に足の筋肉と体力を消耗していた。
赤ワインを一杯煽って、そのままベッドに沈みたい。
残念ながら、ブラ・ダルジャン神殿にワインどころか酒は何一つ置いていない。食べ物も飲み物も、誰も必要としなかったからだ。
マオが持ち込んだ数日分の食料が、この地にある人間的な食べ物のすべてである。後は、近くの川から魚を釣るか、狩った魔獣の可食部を調理するジビエで賄うくらいだろう。ワイバーン一匹分の肉だけでも、四、五日は食に困らない。
あまり長くパラディクレールを留守にするわけにもいかない。食料の問題もあるし、危険と隣り合わせのこのレイヨンに、ノワールの領主が長居するというのもいいことではない。
場合によっては、竜王ことムートーの捜索のため、周辺の貴族たちにも動員をかけて人手をかき集める必要があるかもしれない。
神話の怪物の復活と聞けば、ノワールを預かる身としては心配だ。
悩ましい。
不安と心配で頭を悩ませ、椅子の上で項垂れていたとき、ふとマオは顔を上げた。ドアを誰かがノックしたからだ。
どうぞ、と言うとワンテンポ遅れて、ドアが開いた。顔を覗かせたのは、トラムであった。
「どうした?」
「ヒルドさんが目を覚ましたから、来てもらおうと思って」
「やっとか。それで、大丈夫そう?」
「今のところは、ね。」
マオは椅子から立ち上がった。
ヒルドというサーヴァントのことは、マシュからの情報しかない。ヒルドがどうしてこの森の中にいて、ワイバーンに執拗に追い立てられていたのかということは、マシュの世界のヒルドの情報だけでは説明がつかないことで、本人の口から語ってもらわなければならない。
あるいは、ムートーの行方を知る手がかりもあるかもしれない。
そう思い、マオは急ぎヒルドのいる部屋に向かった。
♪
ワルキューレは、しばしば戦乙女とも呼ばれる。
定義は世界によって様々で、女戦士を差す言葉というだけの世界もあれば、人によく似た精霊や神に連なる一種族を差す場合もあるようだ。
マシュのいた世界でのワルキューレは後者に当たる。人間ではなく、大神オーディンが設計した半神半人の超越種。
来る大戦争に備えて死した勇士の魂をオーディンの元へ運ぶ死神であり、勇士の死に誉れを与える存在だ。
マシュの世界の北欧神話によれば、ヴァルハラへ導かれた勇士は昼間は互いに殺し合い、武勇を磨き、夜には蘇ってワルキューレたちの接待を受けながら飲み食いする日々を送るのだという。
ヒルドは、そんなワルキューレのうちの一騎である。
「痛ッたた」
ずきずきした痛みに顔を歪めるヒルド。目が醒めた途端に、激痛で意識を吹き飛びそうになった。身体の内側が激しく痛む。彼女が負ったダメージは深刻で、今でも治癒しきっていないのだ。
「ヒルドさん、動いたらダメです」
「う、うん、ごめんね。痛くて驚いちゃった。ええと……」
「マシュです。マシュ・キリエライト」
「ありがとう、マシュ。あまり、覚えてないけど助けてもらったんだね」
痛みで冷や汗をかくヒルドは、ベッドに大人しく横になった。
森の中でワイバーンに撃ち落とされたはずが、ベッドの上に寝かされていたのだ。マシュに助けてもらったと判断していいのだろう。
「丘に上がったときにヒルドさんがワイバーンに襲われていたのを見まして……何とか間に合ってよかったです」
「あなたもサーヴァントっぽいね。なんか、雰囲気が違うけど」
「はい。デミ・サーヴァントですから、純粋なサーヴァントの皆さんとは、気配というか雰囲気が少し違うみたいですね」
「ふぅん、そういうのもあるんだね。サーヴァントが人間に力を託すなんて。あなたの中にいたサーヴァントは、立派な勇士だったんだろうね」
勇士――――英霊を導く役目を担うヒルドの性質はサーヴァントとして召喚されても変わらない。勇士を認めるに足る存在に反応し、導きたくなる。マシュ自身も勇士と言えるだけの実績があるようで、そのマシュをデミ・サーヴァントとした英霊のことも気になった。
「ところで、マシュはわたしのこと知ってるみたいだけど、どこかで会った? わたしの記憶領域には、ないんだけど?」
「元の世界で一度」
「ふーん、まあ、サーヴァントのあたしには関係ないか。今は全然別の世界だし」
あっさりとヒルドは納得した。
サーヴァントはまれびとであって、本体と自分は別物であるという認識を持つ者も少なくない。ヒルドもまた、同様であった。ワルキューレという種族の特殊性も関係しているのかもしれない。別世界の自分に興味はあっても、そこまで入れ込むことはない。
ヒルドは、胸元を指でなぞった。淡く輝くルーン文字が、傷ついたヒルドの肉体を急速に快復させていく。
生命力を表すインガズのルーンであろうか。マシュの世界でルーン魔術は一度衰退し、伝える者はごく僅かとなった魔術体系だ。
現代では占いなどで一般に取り上げられることも珍しくなくなったルーン魔術ではあるが、その知名度に反して、魔術師の世界ではかなりマイナーなジャンルとなっていたのだ。マシュ自身も教科書レベルでしかルーン魔術を知らない。まして、目の前で発動したルーン魔術は北欧神代の原初のルーンは、まさに神業としか言い様がなく、理解の範疇を超えて当然であった。
「一瞬ですね」
「これくらいの傷ならね」
ヒルドは、腕や肩の状態を確認するように腕を回した。それから、ふとマシュに尋ねる。
「ここがどこかって聞いてもいい?」
「あ、はい。ここは、ブラ・ダルジャン神殿の客間です。ヒルドさんが倒れていたところから、西に歩いて半日ほどのところですね」
「もしかして、空から見えてたヤツかな。森の中に妙に綺麗な建物があるなって思ったんだよね」
「おそらく、その建物でいいと思います。この辺りには、ブラ・ダルジャン神殿以外に生活できそうな建物はありませんでしたから」
「その口ぶりだと、マシュもここに長く住んでるってわけじゃなさそうだね」
「この神殿にお住まいの方を訪ねて、先日着いたばかりですから。わたしは、パラディクレールという町に住んでいるんですよ」
「パラディクレール? ノワールの首都じゃん」
「ご存じなんですか?」
「あたしがいたのは、ロドポリスって港町。パラディクレールを出た船は、ロドポリスの港にも寄港してたからね」
「そうすると、ヒルドさんがいたのは南の方なんですね」
「そうそう」
ロドポリスは、大陸の南西部にある都市国家だ。ここレイヨンと同じくサントルージュ地方に属し、その南方に所在するので、ノワールからすれば、広大な森を挟んで隣国と言えるだろう。都市国家としての規模は大きくないが、良港を持つため海洋国家として古くから有名で、南洋連合の最大の出資国であり、盟主的立ち位置にいる。同じく海洋貿易を経済の主軸とするノワールとの付き合いも長く、友好関係は百年以上になる。
ヒルドは頷いて、窓の外に目を向けた。
外はすっかり暗くなっていて、窓ガラスにはヒルドの顔が映っている。
「え……あれ?」
ヒルドは僅かに身を乗り出して、窓ガラスに映る自分をまじまじと眺める。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや、髪が……」
と、ヒルドは自分の髪を指で梳く。ヒルドの桃色の髪は、ちょうど肩に掛かるか掛からないかという長さだ。
「そういえば、以前わたしの世界でお会いしたヒルドさんは、セミロングくらいの長さでしたね」
「そうだよ!? あれ、あたしの髪はどこ!?」
「ええと、わたしたちがヒルドさんを見つけたときには、もうそれくらいの長さでしたよ? ワイバーンの火で焼けてしまったとかでしょうか?」
「えー、そんな。毛先、焦げてないけどな。これだと、オルトリンデみたいだよ……」
ヒルドはここにはいない黒髪の妹を思い出す。
オルトリンデはショートカットのワルキューレであった。ひな形を同じくする以上はワルキューレの多くは顔立ちが似る。髪型と髪色には個性があるが、それを揃えてしまうと見た目は双子以上にそっくりになる。
今のヒルドの髪は、オルトリンデの髪よりも少し長いくらいの長さになっていた。もともとのヒルドの髪が肩甲骨にかかるくらいだったので、相当短くなっている。
髪を切った記憶はない。ワイバーンの襲撃を受けたときに焼けてしまったとも考えられたが、その痕跡が髪に残っていない。ヒルドの身体を焼くほどの火であれば、何らかの痕跡が髪に残っていてもおかしくはないのだが――――。
「そうだ。オルトリンデ、スルーズ……あ、あたしッ」
「危ないッ」
突然ベッドから飛び出そうとしたヒルドだったが、すぐにバランスを崩してつんのめった。倒れそうになったところをマシュが何とか抱き留めて、事なきを得た。
「あ、ご、ごめん」
「どうしたんですか、急に?」
「ッ……」
ヒルドはばつが悪そうに視線を逸らし、ベッドに腰掛けた。
焦燥感に駆られているのは明白でヒルドは今にも神殿の外に飛び出していきそうな勢いだったが、幸か不幸か、彼女の体力も魔力も十全ではなかった。
生前ならばいざ知らず、この世界に召喚されたヒルドにはサーヴァントという特性があった。サーヴァントにとって魔力は燃料であり、生命維持に必要不可欠な栄養である。それを供給するマスターがいなければ、いずれは干からびて消滅してしまう。
聖杯もないこの世界でサーヴァントがどのように現界を維持しているのかは分かっていないが、マスターの有無で能力が増減するという性質に変わりはない。マオが仮契約しているとはいえ、その魔力の供給パスは細く、神性を有するヒルドにとって、マオから送られる魔力量は十分ではない。当然、直前まで重傷を負い、消滅の危機だったヒルドは、自分で立ち上がる力すら乏しい状況であった。
「何か、あったんですか?」
と、マシュが尋ねる。
「思い出したの。あたしは、ノワールに行かないといけなかったんだって。こんなところで、寝てる場合じゃないんだ」
「ノワール? どうしてですか?」
「ノワールの領主に会うため。マオ・パンガイア・ノワールだっけ? ヒロインを食うなんて、噂がある人だけど、もしかして、マシュは知ってる?」
「え……はい。知ってるも何も……」
ヒルドがマオに会うためにノワールに向かっていたとは驚いた。これほど、都合のいい展開があるだろうか。
何せ、マオはこの建物の中にいて、今、こちらに向かってきているところだ。
本来ならばヒルドがパラディクレールまで行かなければならないところを、マオのほうからヒルドに会いに来たようではないか。
そんな風に思ったところで、ドアが開いた。入ってきたのは、今まさに話題に上っていたマオであった。
「目が醒めたんだって?」
「マオさん、ちょうどよかったです」
マシュがマオと呼んだ男を見てヒルドは驚いた。
ノワールのヒロインであるマシュがマオと繋がりがあるのは推測できたが、まさかマオ本人がここにいるとは想像もしていなかったからだ。
一緒に入ってきたブロンドの髪の少女はヒロインの一人だろう。それもかなり強力な神気を感じる。
「あなたが、ノワールの領主様?」
ヒルドは黒髪黒目の男をマオと断じた。ノワールの領主の外見は、南洋連合にも伝わっている。
「マオだ。調子は……ああ、よくないみたいだな」
「見て分かるもの?」
「顔が青い。君が人間じゃないのは知ってるから、それが普通だと言われると分からなくなるけどな」
「あはは、大丈夫。少なくともあなたの見立ては間違ってないよ。この身体の反応も、人と大差ないと思う」
ヒルドは苦笑した。
今ならば、マオとの間に薄らと魔力の繋がりが見える。
知らない間に契約が結ばれていたらしい。ヒルド側の許諾がないので、一方的かつ一時的なものでしかないが、マオをマスターとしたおかげで魔力の消費がいくらか抑えられている。
「魔力までもらっちゃってたんだね」
「その手のことに俺は疎いんだが、君を助けるのに必要だと言われたからね」
「そうだったんだ。うん、確かに、あなたがマスターになってくれていなければ、あたしは危なかったかもしれない。本当にありがとう」
この世界に召喚されたサーヴァントにマスターは必ずしも必須ではない。特異点や異聞帯のはぐれサーヴァントのように、マスター不在でも存在し力を発揮することは可能で、多くのサーヴァントがそうしている。
それでも大きな怪我をしたり、魔力を大量に消費したりすれば、マスターの有無は大きく影響する。
マスターは言わば非常用電源であり、この世界との要石でもある。自前で魔力を賄わなければならないはぐれサーヴァントとマスターを持つサーヴァントのどちらが効率よく魔力を運用できるかは言うまでもない。
「ヒルドさんはマオさんに会うために、ロドポリスからいらしたらしいです」
「俺に? ロドポリスって言ったら南洋連合ともめてるみたいじゃないか」
ロドポリスは、森の向こうの友好国だ。なるほど、ヒルドが人里離れた森の中にいたのは、ノワールへの道のりをショートカットしようとしたからか。確かに空を飛ぶことのできるヒルドならば、森を越えることは可能だろう。ワイバーンを初めとする空を飛ぶ魔獣たちの襲撃を乗り越えられるというのが前提になるが、森の上空を突っ切るのが最短距離だ。
ヒルドの顔にはまだ血の気はない。それでも、彼女はマオに何やら決意をしたような強い視線を向けている。
そして、ヒルドはしっかりとした口調で話し始める。
「ノワールの領主様。助けてもらって、厚かましいと思いますが、お願いがあって参りました」
それまでと打って変わって、丁寧で神妙な言葉遣いである。
「ロドポリスを助けてください」
△
「ロドポリスに何があったんだ?」
マオは、ヒルドの思わぬ申し出に面食らった。
ロドポリスは、古い友好国かつ重要な貿易相手である。ここに問題が発生すれば、経済圏を同じくするノワールも打撃を受ける。
「ロドポリスは、滅びました」
「滅んだ?」
「三日前、ロドポリスは海からやって来たヒロインと戦闘状態に入りました。結果、ロドポリスは彼女一人に敗北し、騎士も住民もあたしの姉妹も全員が石にされてしまいました」
「石……? 石化ってヤツか? 噂には聞いたことがあるけど」
石化は伝説やおとぎ話によくある超常現象であり、ヒロインの能力として過去に報告されているものもある。
一口に石化といっても、方法は様々だ。
薬物を摂取させて石化させるものや呪文を唱えて石化するもの、さらにシンプルな例では睨み付けるだけで石化させたという話もある。
「ヒルドさんお姉妹って、もしかしてスルーズさんやオルトリンデさんもですか?」
マオに続いて驚愕を露わにしたのはマシュだった。
ヒルドだけでなく、彼女の姉妹とマシュは戦ったことがあるのだ。その能力に何度も苦しめられ、窮地に追い込まれたことがある身としては、ワルキューレ三姉妹が一方的に敗北したというのは俄には信じられない。
「……うん、そう。あたしはスルーズとオルトリンデに庇われて、無事だったけどね。あの二人が時間を稼いでくれている間に、何とかロドポリスから脱出したんだ。ノワールに助けを求めようと思ったのは、領主様の噂を聞いたことがあったから」
「俺の噂?」
「ヒロインを食べるって。どういう意味か分かりませんでしたけど、今はそれに賭けるしかないと思ったんです」
「俺なら、ロドポリスを襲ったヒロインをどうにかできるかもしれないってことか」
「はい」
ヒルドは静かにマオの様子を窺う。
彼女にとっては起死回生に一手というには、あまりにも分が悪いギャンブルだ。マオの能力を正しく理解しているわけでもなく、噂と友好国という建前を頼りにここまで飛んできたのだ。
しかし、それはヒルドにはそれ以外に打つ手がないということの証でもあった。
「ロドポリスはノワールにとっても重要な国だ。あそこがなければ、うちも経済的に苦しくなるのは明白だからな」
海運に支えられた経済構造のノワールにとって、経済の停滞は最も危惧すべき事案だ。まして、緊密な関係を続けてきたお得意様が倒れるというのは考え得る限り最悪の出来事だ。
ノワールを出た船がロドポリスに寄港することができなくなる。それどころか、「南洋路」が途絶えてしまう可能性すら見えてきた。
「ヒルドさん。あなたたちをそこまで追い込んだヒロインというのは、いったい何者なんですか? 石化と聞くと、ゴルゴーンさんが思い当たるんですが」
石化はマシュにも身近な状態異常だ。
特にギリシャ神話に名高い女怪メドゥーサやゴルゴーンはサーヴァントとして召喚されており、敵対関係ではあったが面識がある。その魔眼の威力と脅威をマシュは知っているだけに、緊張感も一入だ。
「ゴルゴーンは近いかも。雰囲気だけは似てたよ。あたしたちとは違う世界のヒロインだから、同じくくりにはできないけど、ギリシャ神話系なのは間違いないね。神霊、いや、受肉した神、なんじゃないかな」
「受肉した神。神霊ではなく、神そのものですか」
神といっても様々な種類がある。異世界からヒロインとしてやってくる者の中には、元の世界で神やそれに準ずるものとして信仰されていたものもいる。かつて、魔王として世界を恐怖に陥れたヒロインも、元は異世界の死の神だったともされるくらいである。
「いずれにしても国を一つ滅ぼせるようなヤツだ。他人事じゃないな」
「マオ君、助けに行く?」
ヒルドとのやり取りを見守っていたトラムが尋ねた。
「まだこれだけじゃな……。そういえば、愛歌が海に島を作ったヒロインがいるとか言ってたが。ロドポリスと近いが」
「その娘だよ。ただの島じゃなくて周囲の海流にも影響を与えているから、南洋連合としてもロドポリスとしても無視できなかったんだ。話し合いには、全然応じてもらえなかったし」
ヒロインの扱いが難しいのは見た目が人間でも、そもそも人間ではないという例が多いということだ。それでも人間と価値観を共有できるのならば問題ないが、根本的に異なる思想、価値観を持っている場合、争いになるのは必至だ。人間同士でも言えることだが、種として上位存在であると自認している者が、こちらに合わせてくれるはずがない。
パンゲア帝国の歴史はヒロインとの戦いと融和の歴史でもある。彼女たちに触れずに歴史を語ることは不可能だというくらいに、ヒロインの影響力は凄まじい。
ヒルドから話を聞いていた時、不意にマオは寒気に襲われた。それが夜気で身体が冷えたというようなものではなく、外部からの干渉によるものだということはマシュとトラムの動きから明白だ。
マシュは咄嗟に盾を構えてマオの前に出た。トラムも銀腕を輝かせてスキルを発動する準備を整える。
「く――――ああッ」
そして、ヒルドは苦悶の声を上げてベッドから転げ落ちた。
「ヒルドさんッ」
「待って、マシュさん!」
「ッ……!」
マシュの肩をトラムが掴む。
強大な魔力が、室内に膨れ上がる。ヒルドの背後から立ち上がる漆黒の影が、その元凶だ。
「逃げた小鳥がどこまで行くのかと追ってみれば、ここがあなたの終着か」
その声はどこか幼さを感じさせつつ、明瞭な威厳に満ちていた。
影の漆黒の夜闇のように深い黒で、輪郭がぼやけてはっきりとしない。それでも、それが小柄な少女の姿であるということだけは辛うじて見て取れた。
「ど、どうし、て、ここが」
「ふふ、世界は違えど《蛇》に連なる者は我が同胞。竜も蛇も夜と闇に潜む邪念どもも、残らず妾の目と耳であると心得よ」
「あ、あああああああああああ!」
ヒルドの指先から変色していく。
石化の呪いが、ヒルドの身体を蝕んでいるのだ。
「あなたを我が王国に招待しよう。異なる世界のオーディンの末よ。生と死の狭間で、永久に眠り続けるがいい」
ヒルドの対魔力や白鳥礼装、さらに原初のルーンが石化の暴虐に抗っている。だが、それすらもヒルドの意識が途絶えるまでの時間を先延ばしすることしかできていない。石化は止まらず、数分もすれば一体の石像ができあがっていることだろう。
「おい、何を勝手に話を進めてるんだ」
口を開いたのはマオであった。
マオはグローブを填め、指を影に向けた。
「何……?」
影の肩に当たる部分が弾けて砕け散った。ヒルドの石化が解けて、自由を取り戻す。
マオが填めたグローブは魔術礼装の一つである。シオンが開発したもので、マオの能力をガンドの要領で放つことができる。
完全に自分の能力を制御しているわけではないマオにとっては、十分にありがたい武器であった。ヒロインの能力を無効化する弾丸は、普通の生物には効果を発揮しない一方で、こういった場面では無類の強さを発揮する。
「あなたは、何者だ?」
「ノワール領主のマオだ。彼女は俺の客人で、ここは俺の城だ。勝手に入ってきて、勝手に力を振りまくな」
「ほう、人が妾に意見するか」
「そもそも、あんたのことなんて知らないからな」
ガンドを連射して、影を撃ち抜く。
何者かの影は形を保つことができず、ゆらゆら揺れてから消滅した。
「妾の力をこうも無造作に打ち消してみせる。ふふ、なるほど見事だ。その不遜、覚えておくぞ」
そう言い残して、影の気配は去った。
室内に充満していた闇と死の重圧が解けて、ヒルドが力なく倒れる。危なく顔から床に倒れるところを、マオが辛うじて受け止めた。
「ふう……なかなかヤバいヤツだったな」
「さすがは神様ね。マシュもお疲れ様」
トラムに声をかけられて、盾を構えていたマシュは緊張を解いた。
「異世界の神様ですか。この世界には、そんな方までいるんですね」
「あれはとびきり危険性の高いヒロインだろうな。正直、討伐対象になってもおかしくないレベルだ」
「討伐しますで勝てる相手なら、苦労はないんでしょうね」
ヒルドとその姉妹ですら、勝利できず、ヒルドを残して国ごと滅んでしまった。南洋連合にとっては、喉元に刃を突きつけられたに等しい最悪の状況ではある。
ヒロインの目的は分からない。
人の理を超越した価値観を持っている相手だ。政治的な意図があったのかどうかすらも読み取れない。自由意志を持つ天変地異ほど、厄介な存在はないのだ。
そして、その厄介なヒロインと対立したヒルドを執拗に襲っていたワイバーンについても説明がついた。彼らはあの影を放ったヒロインの要請に応じてヒルドを襲撃していたのである。竜を支配下に置く能力を持つ彼女にとって、この森は自らの勢力下と変わりない。そして、もう一つ。彼女の発言が真実であるとするのなら、竜だけでなく、森の巣くう邪念たちも彼女の呼びかけに応じるだろう。
地鳴りがした。
神殿がガタガタと揺れる。
ただの地震ではない。
一定の間隔で、地面が揺れる。
「来たわ」
トラムが厳しい表情を窓の外に向けた。
夜の深い闇の中に二つの紅い光が爛々と輝いている。
あれは、目であった。
哺乳類のものとは異なる。瞳孔もなにもない。ただ、輝くだけの目は、まるで昆虫の複眼のようだ。
「あれが竜王ムートー……でかすぎるだろ。距離感がおかしくなるぞ」
「この神殿よりもずっと大きいですね」
目の位置から考えても、神殿の高さの数倍はあろうかという巨大さだ。伝説に謳われる怪物なだけのことはある。
ただ歩くだけで、大地が揺れる。その巨大さに見合う重量があるからだ。あれが大地を駆け回れば、都市の一つや二つは簡単に滅びてしまうだろう。
「危ない!」
マシュがマオの前で盾を構える。直後、窓が割れて室内に何かが飛び込んできた。
それは、朽ちた剣を持った骸骨の魔物、スケルトンだ。
「たああッ」
マシュの盾がスケルトンを粉みじんに砕き、窓の外に跳ね飛ばす。
「いきなりなんだってんだ」
「さっきの影のヒロインの置き土産ってところかしら。この辺の雑念にも声をかけたみたいよ」
トラムが剣を抜く。どうも状況は切迫しているらしい。ムートーだけでなく、森の魔物が神殿を取り囲んでいるのだ。
「囲まれたか」
「そのようです」
かつての騎士や町の住人たちの無念が生者を引き込もうと夜を彷徨っている。
「わたしの封印を解いたから、神殿の結界が弱まったのね。だとすると、これはわたしの責任かしら」
「強いて言うと、さっきの影だろ」
動く骸骨に半透明な亡霊、それにワイバーンに人狼まで勢揃いだ。さらにその後ろからズンズンと歩いてくるムートー。さながら戦争の様相を呈してきた。
「どうしますか?」
「どうもこうも籠城しかないだろうな。それに、俺の力は効くみたいだし」
自分の身体に満ちるヒロインを無力化する力は、湧いて出た魔物たちにも効果がある。それは彼らを操っているのが、先ほどの影の力だからだろう。
だからこそ、状況は危ういものの絶体絶命というわけではない。
「アンデッドの類は太陽に弱いと相場は決まっているわ。日の出まで持ち堪えれば何とでもなりそうね」
黄色と青の閃光が敵の前列を吹き飛ばした。
轟音とともに降り注ぐ土砂が、その一撃の威力の程を表している。
ハルカとスピカが打って出たのだ。
「マオ君、竜王はわたしに任せてもらっていいかしら?」
「ああ、よろしく」
銀腕を輝かせ、トラムも神殿から飛び出していく。
千年前の戦いの再演となるのか。
夜の闇にトラムの銀腕は、地上の星もかくやと煌々と力を放っている。理性などないアンデッドが臆したかのように後ずさる。
そして、解き放たれる閃光が一条の刃となって彼方のムートーに振り下ろされた。