異世界ヒロインが召喚される世界で好き勝手する話 作:もう万体
七日続いた雨がようやく止んで、しっとりと濡れたクロガネ大公国の首都――――キョウの町並みが太陽の下で輝いている。
広大な平野の中にあるぽつんと盛り上がった丘陵地を切り開いた都市である。
その始まりは古く帝国が誕生するよりも前からこの丘陵地には人が定住していたというから二千年以上にはなるだろう。
長い年月を経て都市は拡大し、今となっては丘陵地の外にまで市街地は広がっている。
キョウの中心は言わずもがな丘陵地の中央に位置する大公城だ。
燦然と輝く白壁の城は、異世界からもたらされた建築様式を独自に発展させた技術で造られている。古くは木造だったが、現在は石と鉄をベースに魔術を組み合わせた巨大な要塞に進化している。
クロガネ大公国は成立してから今まで首都を他国に侵されたことがないので、この要塞も実戦経験がないまま現在に至るが、大公国の象徴として維持管理は絶えず行われてきた。丘陵の頂上に築かれた大公城は、平野からよく見える。旅人たちの目印であり、クロガネ大公国の力を内外に示す広告塔でもあるのだ。
――――今の傾きかけたクロガネ大公国の実情を鑑みると、むしろ痛々しい虚勢を張っているようにも見えてしまう。
せっかく長雨が止んだというのに、決して国の先行きは明るくない。
政権内部でも、そんな空気が少しずつ重く広がってきている。
決して政治に明るくない第一皇子のグレアムですら、肌感覚でそれが分かる。
「ずいぶんと空気が重い」
小さくグレアムは呟いた。
白髪交じりの中年の男だ。痩せ型で如何にも不健康そうな外見をしている。第一皇子ではあっても、後継者と目されたことは今まで一度もない。生まれた順番が一番早かっただけの出来損ないだというのは、自覚しているところであり、事実、病弱な身体と政治への無関心さから二十年も自分の領地に戻らず管理をシュゴダイに任せている始末だ。
普段は屋敷から出ることもない彼が、病身を押して大公城にやって来たのは、父でもあるクロガネ大公から直々に招集が掛かったからであった。
城の外観こそ、異世界の伝統を多分に取り込んでいる大公城だが、内装は帝国の伝統様式をベースにしている。何度も改築、増築を重ねた結果、建設当初の面影はほとんど残っていないとされている。
純白の漆喰で塗り込められた染み一つない壁に囲まれた謁見の間は、大公が諸外国の使節と会談したり、家臣を集めて重要事項を話し合う時に使われる部屋だ。
前回、この部屋に来たのは何年前だっただろうか。五年か十年か。政治から遠ざかって久しいグレアムには、ほぼ縁のない部屋ではあるが、僅かに記憶にある内装と大きくは変わっていないようであった。
すでに用意された椅子の半分ほどが埋まっている。
グレアムは第一皇子として、最も大公に近い席が宛がわれている。
建前ではあっても、立場は立場だ。そこが揺れると統治機構そのものが歪んでしまう。政治に関心のない人間が、何十年もこの席に座り続けているというのが、すでに歪ではないだろうかと内心で苦笑する。
軽く咳き込み、視線を上げると、弟に当たる第二皇子バリーと目が合った。
バリーはグレアムから見て三つ年下で、妾の子であるため立場は低かった。
今まではグレアムの正面には第三皇子のユーノが座っていたが、その死によってバリーが格上げされたと見える。
ユーノの陰に隠れていたが、バリーも将軍の一人として地力がある。
グレアムとは正反対の服の上からでも分かる鍛えられた肉体がその証だ。
時に自ら武器を持ち、敵陣で刃を振るうこともあったというバリーは、兵卒からの人気も高い。
第四皇子と第五皇子はまだ子どもで、とても政務はこなせない。
ユーノの派閥が壊滅した以上、大公の後継者は彼で決まりだろう。
「兄上、本日の会合の内容を聞いておられるか?」
不意に、バリーが口を開いた。
バリーの声を聞くこと自体が数年ぶり。まして、話しかけられたのはいつ以来だろうか。内心の驚愕を秘めて、グレアムは返答した。
「いや、詳細は何も聞かされていない。貴殿も知らないのか?」
「今日、この時間までに登城するよう使者から伝え聞いただけです」
「貴殿の領地からここまでは、なかなか距離があるだろう。よく間に合ったな」
「おかげで馬を何頭か潰しました。強化の魔術を限界まで掛けて走らせても、丸一日かかってしまいます」
皇子たちの他に、席に次々と国を動かす大物たちが座る。
軍属についてはずいぶんと顔ぶれが変わった。ユーノとその軍団が一気に壊滅したからだろう。バリー派閥が今は幅を利かせているのは、ここにやって来た軍人たちの顔を見ても分かる。ユーノの生前から地位を保っているのは、二、三人と言ったところだろう。
一方で、官僚側はあまり変わっていない。ユーノ閥に深入りしていた者たちは軒並み失脚したようだが、さすがに立ち回りが上手いと言うべきか。
大公は第一皇子とはいえ後継者にする気のないグレアムとわざわざ旧交を温めるような家族愛に満ちた男ではない。そんな大公がグレアムを呼び出すというのは、決まって大規模な軍事行動を取る。詳細は聞かずとも、グレアムがここにいるということは、近いうちに戦が始まるということ示している――――と、グレアムは感じていたし、バリーもそうだろう。
すべての椅子が埋まり、謁見の間が静まったところを見計らって、重々しい音を響かせながら扉が開いた。
クロガネ大公バーナード。
白髪交じりの金髪を短く刈った、背の高い男だ。
(父上も歳を取られた)
と、グレアムは率直に思った。
久しぶりに姿を見たということもあるだろう。以前のバーナードは、もっと覇気に満ち、若々しかった。今は顔の皺が増え、目元も落ちくぼんで痩せている。決した親子の仲がいいわけではないが、さすがに実の父の老いを目の当たりにするとなんとも言えない寂しさはある。
(あの女は何者だ?)
老いた父は気になるが、父を支えるように隣を歩く若い美女が気に掛かる。
美しい金色の長髪と涼やかな目元の女だ。
「皆揃ったな。よく来てくれた。諸君らに集まってもらったのは、他でもない。ノワールの討伐である」
バーナードの発言に、集まった者たちは一言も返すことはなかった。
嫌な予感が当たってしまったというのが正直な感想だろう。
昔からバーナードは単刀直入に要件を言う。冗談を口にすることは少なく、雑談も好まない。会議に当たっても無駄な前口上は嫌うタイプであった。
バーナードは以前からノワールを敵視していた。
クロガネ大公国が傾いたのは屋台骨であるヒロインを沙条愛歌に殺害されたことからだが、その愛歌がノワールに寝返ったことで脅威度が高くなっていた。そして決定打となったのがユーノの死である。後継者として愛情を注いでいたユーノとその軍団が失われたことによる損失はかつてない規模のものとなった。
国境付近では反乱が頻発し、独立を宣言する者たちや諸外国との関係悪化と悪いことが続いている。
日に日に、ノワールへのどす黒い恨み辛みがバーナードの心身を蝕んでいるのは想像に難くなかった。
「ユーノの死に山向こうの小国が絡んでいることは言うまでもない。歴史ばかりのノワールめが、ホープを奪い、その利権を独占し、我が愛する息子すら奪いおった。これをいつまでも野放しにしているわけにはいくまい」
地の底から響くような嗄れた声は、謁見の間によく響いた。
彼は決してヒロインのような高い戦闘力を持っているわけではない。だが、四十年もの月日を大陸西部の盟主として過ごしてきたのだ。
その言葉の重みは、理屈やその場限りの言い訳をあっさりとひねり潰してしまえる。良くも悪くも、独裁政治の極みだ。皇太子だろうと重臣だろうと、バーナードの決定をひっくり返すことは困難だった。
まさしく王というべき存在だ。
事実、この四十年彼を脅かすものは皆無であり、さらに世代を遡ってもクロガネ大公国は大陸屈指の大勢力として君臨し続けてきた。
その歴史を鑑みれば、今の状況は最悪であり恥でもある。そして、恥は雪がなければならないのである。
ユーノを殺害したノワールへの復讐という個人的な感情を、ノワールに苦しめられているという汚点を消し、国内の引き締めを図るという政治的理由が後押ししている。
こうなると、止めようがない。感情に理屈が絡みついて、向かう先が決定している。合議制ならばまだしも、事実上の独裁では、誰も彼を止められない。そして、理屈にも納得感があるというのが厄介だ。
ブリンクウォールと同盟した今、クロガネ大公国の明確な敵はノワールだ。
第三皇子がノワールとの争いの中で死んだというのに、何もしないというのはそれこそ臆病風に吹かれたとなって評判が悪い。
国内が悪い方向に行っているからこそ、ノワールとの戦いは避けられないのだ。
「父上、ノワールとの戦、委細承知しました。しかし、ガラニアの処遇は如何にしますか? あれも捨て置くわけにはいかないでしょう?」
静寂に包まれていた謁見の間にバリーの声が通る。
独立を宣言したガラニアは、独立勢力の中でも最大規模を誇り、王国として成立しつつある。クロガネ大公国はこれを認めていないが、反クロガネ大公国の周辺国はすでに外交関係を持っているほどだ。国内の反対派もこれに呼応して連携を深めている。
ノワールを外患とするのなら、ガラニアは内患である。
独立を容認するようなことになれば、反体制運動は一気に加速してしまうだろう。
バリーからすれば、優先順位は明らかにガラニアのほうが上だった。
バリーの質問に答えたのは、バーナードではなく、その隣に佇む女であった。
「ガラニアへはブリンクウォールの兵を中心に組織した討伐部隊で対処します。もちろん、ブリンクウォール兵だけに頼るわけにはいきませんから、こちらも東部の諸将には兵を出していただきたいと思っていますが……」
「貴殿は?」
「申し遅れました。わたしは、二乃・スカリエッティと申します。大公閣下の下で、秘書を務めております」
物腰柔らかな美女のことは、普段からバーナードの下に出入りしている官僚たちは知っていたようだ。
ヒロインの一人で、クロガネ大公国にやってきて二ヶ月程度と一番の新入りだ。それでも事務能力の高さを見込まれて、バーナードの付き人となったとのことだ。
地方にいたバリーは、まだそのことを知らなかったのだ。
「二乃殿、ブリンクウォールの兵を借りると仰るが、かの国の兵は少々過激に過ぎる嫌いがある。国内に他国の軍を引き入れるのも、如何なものかと思う。ノワールは小国だが、我が国から攻め込むには山と樹海を越えねばならず、そもそも大軍を展開できんのでリスクが大きい。となれば、ノワールを攻める前にガラニアに兵を集中し、後顧の憂いを排してから、本腰を入れてノワールにかかるのが良いと考える。それならば、ブリンクウォールの兵を借りるまでもなく、我が国の軍で解決できるだろう」
遥か昔から山の向こうに引きこもっていたノワールが、方針を転換してホープ市を取った上に、クロガネ大公国の軍を皇子もろとも壊滅させたというのは、クロガネ大公国にとっては大きな衝撃だった。軍の要となっていたヒロインを失ったばかりということもあり、クロガネ大公国の求心力低下の原因となったのは言うまでもない。
この状況を改善する最善策は、ノワールという「新興勢力」を早々に討ち果たし、やはりクロガネ大公国は強かったと印象づけるのが手っ取り早いし、皇子を殺害されたからには、その報復は必要不可欠だ。
政治的配慮が必要な相手でもない。
よって、ノワールを攻めること自体をバリーは否定しない。
だが、バリーが述べたようにノワールは周囲を険しい自然に囲まれた攻めるに難く守るに易い地形だ。
当然、こうした地域に攻め入るのであれば、それなりの覚悟が必要になる。
「確かに、ブリンクウォールに頼りすぎるのも問題があるというお前の意見はもっともだ」
と、答えたのはバーナードであった。
「確かに、ガラニアを初めとする反乱勢力の討伐を主導するのは、当然に我々でなければならぬ。お前の言うとおりだ。だが、兵の数が足りないのは厳然たる事実もある。そこを、ブリンクウォールのヒロインに補ってもらう。当面の敵はノワールであるから、ガラニアへの対応はブリンクウォールのヒロインによる牽制で構わぬ」
「あくまでも、ノワールの攻撃を優先すると?」
「その通りだ」
バーナードは強く断言した。
こうなると、バリーは押し黙る他ない。
他国の力を借りて内乱を押さえるというのは、弱みを見せるに等しく、それそのものが国力の低下を如実に表すものであるから、可能な限り独力で対処するべきだ。まして、ブリンクウォールは信頼が置けない新興勢力だ。彼らの活動は凄惨極まりなく、民の怨嗟はそれを許容するクロガネ大公国にも向けられる。
ブリンクウォールの介入をこのまま許していれば、クロガネ大公国が国力を失っていくばかりだ。ノワールへの攻撃は生産性がなく、完全にバーナードの私的な怨嗟に端を発している――――と、受け止められても仕方がない。
実際のところは、バリーも理解できない深謀遠慮があるのかもしれないが。
結果的にバリーとの問答が、この場の結論となってしまった。
バーナードのノワールへの対抗姿勢が強硬なものである以上、ノワールとの戦争は避けようがない。
合理的な判断とはとても思えないが、反対を続けたところで国を割るだけだ。
これ以降、誰一人としてバーナードに苦言を呈する者はいなくなった。
会合を終えた後、群臣たちは各々の仕事場に舞い戻った。
これからノワールに攻め込むに当たって、様々な準備をしなければならない。
軍資金の捻出や兵の用意、兵糧の準備と様々だ。方々に散っているヒロインにも招集を掛けることになる。
ノワールは大軍が展開しづらい地形だ。だからこそ、個人で騎士数人から数十人分の働きができるヒロインを動員しないわけにはいかない。
ガラニアなどの反体制派も気になるところだが、彼らの戦力ではクロガネ大公国の中枢まで攻め込めないというのは、バーナードの言うとおりだ。
ブリンクウォールのヒロインの強襲が続く中で、攻勢に出られる余力はない。
「顔色が優れませんわね、シュゴ様」
屋敷に戻り安楽椅子に腰掛けたグレアムの前にカップを置いた美女が囁く。
カップからは優しいハーブの香り漂ってきて、言いようのない疲労感に襲われていたグレアムの心が若干落ち着いたような気がした。
「マルガレータ、たしかに私はひどく疲れているよ。まさか、ノワールと戦争とは」
ハリマからやって来たメイドは、シュゴダイとして領地経営を任せるモーガンが褒め称えるだけあってテキパキと仕事をしてくれる。
あっという間に屋敷に馴染み、まるで十年来の付き人のように何かと気を回してくれるのでつい甘えてしまう。
目の奥が痛む。ぎゅっと目を瞑って、こめかみを揉みほぐす。会合中はただ座っているだけなのに、終わってみれば嫌な汗が全身に滲んでいた。
「シュゴ様にもお声が掛かったのですか?」
「まさか」
と、グレアムは皮肉な笑みを浮かべて肩を竦める。
「私に戦の何を手伝えというのか。精々が領内から兵を出す程度だ。バリーのように前線に立つことなど、誰も期待していないし、私自身戦など荷が重い」
「それでも、シュゴ様は第一皇子ですから、これからお忙しくなるのではありませんか?」
「できるだけ、関わり合いになりたくないものだがね」
第一皇子と言えば聞こえはいいが、ただの穀潰しである。弟たちのように軍事で貢献することはできないし、かといって経済に通じているかと言えばそうでもない。キョウで延々と療養しているだけの男に何ができるか。
「こんな私でも、父上から命を受ければできる限りの貢献をしなければならんからな。第一皇子である以上は……」
むしろ、何もしないのが一番の貢献かもしれない。
物の役にも立たない彼でも第一皇子という肩書きはある。
能力ではなく肩書き、血統が求められるということも世の中にはある。それをグレアムは承知していた。
彼が領地から集められる兵は、数だけで見れば国内でも有数だ。質は劣るものの、数合わせにはなるだろう。
自分の代でまさかここまで国家の危機を感じることになろうとは想像もしていなかった。
安楽椅子に座って、ぼうっと日がな一日を過ごしていられればそれでよかったというのに。
慣れない重圧に身体のほうが参ってしまったのか、屋敷に戻ってきて気が抜けたら途端に咳き込んでしまった。
「すまない、マルガレータ。私はもう休む。君も今日は上がって構わない」
「承知しました。それでは、失礼します。どうぞ、ご自愛ください、シュゴ様」
柔和な笑みを浮かべてマルガレータは部屋を辞した。
その背中を見送って、グレアムは天井を仰ぐ。
どっと疲れが押し寄せてくる。
ハーブティーのおかげか、気持ちは落ち着いてきている。このまま睡魔に身を任せてしまおう。グレアムはベッドに向かうことすら億劫になり、安楽椅子に腰掛けたまま眠りに就いた。
濃紺のゆったりとした衣服に身を包んだ大柄の男は、机に広げた地図を食い入るように見つめていた。まるで親か子の敵でも見るかのような血走った目は、地図に描かれたある一点に焦点を合わせている。
大陸最西端の小国、ノワールである。
バーナードにとっては、後継者と最も信頼するヒロインを永遠に奪った憎き相手だ。バーナードにとって、この戦は決して無駄ではない。
クロガネ大公国の隣国でありながら、長年、積極的な交流を持たなかった国だ。これまでは、大自然が間に跨がっているために、クロガネ大公国からも関わるメリットがないと無視していたが、ノワールがホープ市を植民市にし、バーナードの後継者を殺害したことで風向きは変わった。
ノワールを捨て置けば、大きな問題になる。
ガラニアのような反体制派は、どうとでもなるが、ノワールは絶対に野放しにはできない。
ヒロインの透視能力や魔法を使っても内情が掴めない不気味さも判断に拍車を掛けた。
「誰も彼もお疲れムードね。その調子で大丈夫?」
締め切られた部屋に女の声が響いた。
ドアを開くこともなく、いつの間にかメイドが立っていた。まるで空気から滲み出たように音もなく現れたのだ。
美しい女だ。
秘書にした二乃・スカリエッティのような怜悧な美女とは対となる温かみのある女である。
知らず知らずのうちに深入りし、彼女の声と美貌に籠絡されてしまいそうな危うさがある。
そういう能力を持つヒロインも珍しくはない。一国の主がヒロインに籠絡されて道を誤った事例はごまんとある。
そして、この女もまた、その類の危険性を秘めている。
「マタ・ハリ。室内で実体化するのは禁じていたはずだが」
咎めるような声音に、
「久しぶりに帰ってきたサーヴァントを労うくらいはしてもいいんじゃないかしら?」
「ハリマでの仕事は楽しくやっていただろう」
「ええ、とっても」
五年もの月日をかけてマタ・ハリはハリマで過ごしていた。定期的な連絡こそあったものの、サーヴァントと聞いて一般にイメージするような戦闘は一切行っていない。人間でもできるメイドの仕事をしていたに過ぎないのだ。
普通の人間にとっては重労働でも、マタ・ハリにとっては大した仕事量ではない。長い休暇を取っていたのと同じようなものだ。
「ところで、マタ・ハリではなくてマルガレータと呼んでくださる? 一応、まだハリマシュゴ様のメイドの身分ですから」
「そういえば、そのような偽名だったな」
「あら、別に偽名ではないですよ。サーヴァントとしての真名はマタ・ハリですけどね」
からかうような言動にバーナードは眉を潜める。
年端もいかない女が一国の主と対等な口を利いていると思われるのも問題だ。
いくらサーヴァントは歳を取らないとはいえ、どこに目があり、耳があるか分からないのだ。バーナードの私室だろうと、油断はできない。
マルガレータとしてハリマに出向き、シュゴダイに取り入ったのが五年前。それから、信頼を得て、グレアムの下で働くようになった。迂遠なやり方だが、おかげで第一皇子を取り巻く状況は逐一バーナードに伝わっていた。
暗殺だけがアサシンの仕事ではないのだ。
マタ・ハリのように諜報活動に特化した能力を持つサーヴァントも存在する。
「そうね。だから、今度はここに出入りするための偽名を考えておかないとね」
「グレアムにおかしなところはなかったと聞いている。その報告に誤りでもあったか?」
「いいえ。この五年間、彼らに反体制派からの接触はなかった。それは間違いないわ。アイリスフィールも同様」
マタ・ハリは、ずっとグレアムの勢力に反体制派が接触しないか監視していたのだ。ハリマという重要な地域を領有しながら、軍事にも政治にも積極的に関わらないグレアムは、バーナードから見限られているともっぱらの噂だ。だからこそ、反体制派の旗頭として擁立されるのではないかと危惧していたのだろう。
「そんなに息子さんが信用ならない?」
「あれに反乱を起こすような気概があれば、何も問題はなかった」
「どういうことかしら?」
「自分がなければ操り人形になりかねん。だからお前に監視させた。よからぬ考えを持っている者たちが、出入りするやもしれぬからな」
「なら、もう安心?」
「まだ分からぬ」
と、バーナードは断言する。
「グレアムの思想は重要ではない。力のない皇子を担ぎ出すなど誰でもできるというのが問題だ。……つまり、当面は護衛が必要ということだ」
「そう。でしたら、このお仕事は継続ということね」
「不服か?」
「まさか」
マタ・ハリは鷹揚に微笑んだ。
太陽のようだと形容される笑みに、どれくらいの男たちが蕩かされたことだろうか。
「嫌いじゃないの、今の仕事」
そう言うや、彼女は現れた時と正反対に、空気に染み込むようにして消えた。アサシンの気配遮断スキルもあって、どこにいるか分からない。
マタ・ハリは直接的な戦闘能力こそ低いが、それはサーヴァントの中で比較した場合だ。
彼女の筋力でも成人男性を素手で殺害することくらい造作もない。
気配遮断スキルを持つアサシンは、そういう観点からすると脅威だ。
バーナードは、マタ・ハリが完全にいなくなったと実感できるまで息を潜めたのだった。
■
クロガネ大公国は長い歴史の中で多くのヒロインを所有し、その力で繁栄してきた。
如何に強く従順なヒロインを手に入れるかは大国の必要条件だ。
小国は領内に現れたヒロインを大国に提供して安全を確保し、大国はより強くなる。
それが、この大陸で繰り返されてきたヒロインの扱いの実態だ。
ヒロインの力は脅威だ。
だが、単独で一国を相手にできるほどの力を持つヒロインは一握りで、そもそも人間ではないというのなら別だが、普通は人間の共同体から抜けて一人で生きていくことを選ぶほど酔狂でもない。
今のクロガネ大公国にも、ヒロインはいる。
この数年の間にノワール絡みで二人、愛歌を含めると三人も失っているが、それでもまだ戦争に駆り出せる戦力はあるのだ。
そのヒロインの一人、アリーシャ・ディフダは大公城内を沈鬱な面持ちで歩いていた。
ノワールと戦争になると聞いて、思わず声を荒げてしまったのが数分前だ。
戦争は、彼女が最も嫌い外交手段の一つだ。
元の世界でも戦乱を如何に回避し、平和を取り戻すか思案し方々駆け回った。この世界でもクロガネ大公国内の治安維持を中心に活躍し、できる限り民の安心安全のために力を尽くしてきたと自負している。
だが、今、アリーシャは彼女が育てた治安維持部隊とともにノワール戦線に送られようとしている。
大陸全土で長く続く戦乱は、止む気配を見せず、ついにクロガネ大公国すらそのうねりに飲み込もうとしている。
その気配を実感していながら、アリーシャは有効な手立てを取ることができず、ただ指を咥えていることしかできないでいた。
「昔のわたしなら、飛び出していただろうか」
かつてのアリーシャは一国の姫だった。騎士としての立場もあった。身分は低かったので実権はないに等しかったが、責任感と立場から積極的な行動を取っていた。
この世界では、ただの希人に過ぎない。姫でもなく騎士でもない。戦闘力のあるヒロインだから、それに相応しい立場を与えられているだけだ。アリーシャには、昔以上に力がない。ヒロインであろうと、政治的な判断に口出しできるような地位を持たない新参者では、いいように戦場に送られるのが関の山であった。
「浮かない顔ですね、アリーシャ」
アリーシャに声を掛けたのは、深緑の髪を短く切りそろえた女騎士だ。特に左目の泣きぼくろが印象的で、氷のような怜悧な雰囲気を醸し出す美女である。
話してみると以外にも気さくで、年相応の可愛らしさもあるのだが、あまりそういう面を人前で出すことはない。
「ディアナ、戦のことは聞いたか?」
「ええ、先ほど」
「やはり、あなたも出陣するのだな」
「もちろん、そうなるでしょう。本格的な戦となれば、我々を活用しない手はありませんからね」
あっさりとしたディアナの返答。
アリーシャと違いディアナはこの決定に不服がないようだ。
「この戦、ディアナはどう思う?」
「こうなった以上は仕方がない、と言うほかないですね。いずれはこうなると思っていました。戦乱が各地で続く中、この国だけが平穏無事でいられるはずがありません」
「そうか。ああ、そうだな」
アリーシャは表情を曇らせた。
実際、ノワールと戦をしなくとも、別のところで別の戦が勃発するだけなのだ。
ディアナが覚悟していたとおり、この国だけでなく周辺諸国が総じて戦乱のまっただ中だ。
東の国境を中心に独立運動が展開し、北のブリンクウォールは人倫を踏みにじる悪逆を続けている。
結局、アリーシャがこの国で出会った人々を守るためには、クロガネ大公国を維持していくしかない。
苦々しい思いを抱えながら、アリーシャは内心でため息をついた。
ここは城の廊下だ。
あまり表だって大公の方針に異を唱えるわけにはいかないのだった。
「騎士さんが二人揃ってひそひそ話ですか?」
そこにやって来たのは、背の低い少女だった。くすんだ灰色のショートヘアで、ローブを着た如何にも魔女という風体である。
「イレイナ? まさか、あなたまで呼ばれたのですか?」
ディアナが目を見開く。
イレイナは凄腕の魔女である。
この国では魔法をかけたアイテムの製造や薬の調合を主な仕事としていた。人前に出てくることは少なく、本人も他者との接触を避ける傾向にあるので、城内で会うことは滅多にない。
「戦争するんでしょう? くだらないですよね、ほんと。まあ、ここ以外に行き場もないので、やるだけやりますけど」
吐き捨てるようにイレイナは言い放った。
「じゃあ、わたしはこれで。いろいろと準備しなければならないアイテムがありますので」
とげとげしい態度を隠そうともせず、イレイナは去って行った。
「なかなか難しいな」
と、アリーシャは呟く。
「同感です」
ディアナも頷く。
イレイナとは、二人ともあまり打ち解けられていないのだ。
イレイナは、この国に来て二年ほど経つ新参者だが、彼女のほうから誰かと交流を持とうということがほとんどない。
ディアナもアリーシャも気に掛けてはいるが、余計なお世話とばかりに距離を取られているのだった。
この分だと、国内の他のヒロインたちも次々と呼び出されていることだろう。
国を守るために必要な人員は残すとして、どれくらいがノワールに向かうことになるのか。
ノワールは国力こそ小さいものの、相当数のヒロインを抱えているという情報もある。何より、今やクロガネ大公国にとって鬼門となった沙条愛歌がいると思わしい。
あるいは、アリーシャはこの国に戻ってこられないかもしれない。
戦とはそういうものだと分かっている。
様々な思いを脳裏に描きながら、アリーシャはディアナと別れて城を辞した。
・マタ・ハリ
fgo世界から来たサーヴァント。大公に長く使えているが、人前で活動したことがない諜報担当。
・アリーシャ・ディフダ
テイルズ世界から来た姫騎士。清濁併せのむほど達観していないが大公国には恩があるので信念と現実の板挟み状態。
・ディアナ
アイギス世界から来た白の帝国の騎士団長。白の帝国出身ということもあり、戦を肯定しないものの否定もしない。やるからにはやるだけというスタンス。
・イレイナ
序盤に出てきたイレイナとは別個体。やさぐれていて刺々しい性格。粗暴なイレイナからの分岐。主人公のイレイナとの出会いの後、この世界に迷い込んだ。前向きに頑張ったものの不運が重なり心が折れた。やっぱりダメだったイレイナ。