異世界ヒロインが召喚される世界で好き勝手する話 作:もう万体
ノワール全土を覆う大規模結界は、首都パラディクレールを基点にしており、この範囲内でヒロインの能力は著しく制限される。
結界の主であるマオの許可なくその力を行使することはできず、ただの人間に成り下がるのだ。おまけに、マオの「ヒロインを食らう」異能は、その心身を支配し、臣従させる。結界そのものに、そこまでの機能は付与できないが、ヒロインである以上、ノワール国内に踏み込むの自殺行為だ。
元はミコトが考案しマオの同意を得て発動した大魔術である。今はマーリンや愛歌が手を加え、さらに複雑で強力な対ヒロイン用の防御結界となっている。
国家全土を覆う防御結界というのは、ノワールが小国だからできる芸当で、普通の国でこれを維持することは不可能だ。ノワールにとっての幸いは、強力な霊地が多数存在することで、結界の維持管理が容易だったことだ。これがなければ、理論上は可能なだけの机上の空論だっただろう。これだけの結界は解除するにも魔法に特化したヒロインの専門家が必要で、そのヒロインはヒロインだからこそ結界に干渉することができない。一度、発動すらば最早ノワールをヒロインの力で落とすことは不可能となる究極防御と言えるだろう。
そのような結界の影響下で、クロガネ大公国の軍は善戦している。
ヒロインの能力が制限を受け、その延長にある魔法も発動しにくくなるという状況でありながら、さすがに戦い慣れた大国の騎士団というだけあって、道中に設けられた関所を一つ突破した。横合いから襲いかかってくる魔獣にも犠牲を払いながらも勝利し、少しずつノワールに向けて兵を進めている。
味方の善戦は、そのまま山中を進むノエルの援護になっている。
ノワールの目が大公軍に向けば、ノエルへの警戒は弱くなる。
特命として言い渡された沙条愛歌の暗殺が成功するかどうかはかなり怪しいが、契約不履行にならない範囲で何とか言い訳がつく落としどころを探していかないと、ノエルは地獄を見ることになる。
どこまで行ってもツイてない。
魔獣やトラップを警戒しながらの行軍は、時間がかかる。今日は山の中で野宿をすることになりそうだ。
雨風を凌げる巨木の洞を見つけたので、ここに避難しつつ、キャンプ道具を取り出す。これほど便利な魔法があれば、科学技術が発展する余地はない。ノエルの世界はそうではないが、ヒロインたちの世界の中にはこうした魔法中心に発展した文化を持つものが複数確認されているらしい。
少し早い夕食に固めに焼いたパンとブルーベリーのジャムを用意した。
一人で山の中にいるとどうしても気が滅入る。周囲に危険な魔獣が跋扈しているのならなおさらだ。幸い、今日はバフォメット型の使い魔一体としか鉢合わせていないが、この森に放たれた猟犬が一体だけのはずがない。
簡易結界で臭いを消し、気配を隠してつかの間の休息を取る。
パンを手に取ってジャムの小瓶の蓋を開けようとしたときだった。
「美味しそうね」
と、少女の声がした。
「は?」
何事が起きたのか理解ができずに固まった。
ノエルの左隣に金髪の少女が座っていたからだ。
まるでピクニックに来たかのような薄手のワンピースを来た少女の出で立ちは、標高二千メートル以上の魔獣が闊歩する森の中ということを踏まえるとあまりにも場違いであり、話しかけられるまでこの少女の接近にもまったく気がつかなかったことも、ノエルが思考停止する要因となった。
代行者の修練を積んだノエルが、少女の気配に気がつかなかった。
この時点で極めて異常な状況と言えるだろう。
簡易とは言え、ノエルが張った結界が、この少女にまったく反応していないということにまで気が回らず、驚愕のままに飛び上がり距離を取った。
落としたパンとジャムの小瓶は少女の手の中にある。
「もったいないわ。食べ物は大事にしないと」
と、子どもに言い聞かせるかのような言葉の後で、パンと小瓶が少女の手から消える。
「もったいないから、返しておいたわ。その中に」
「……あなた、沙条、愛歌?」
「ええ、名乗った覚えはないのだけど?」
「鎧の町にいたっていう……あなたで間違いないわね、ええ……」
ノエルは愛歌をまじまじと観察する。
想像以上に若い、いや、幼いか。
似顔絵そっくりの美少女だ。
能力についてはまったく情報がなく、何でもできたということしか分からない。
「クロガネ大公国の人ね。今、下のほうでノワールに向かってたくさんの騎士が進んでいるみたいだけど、このまま戦争をするってことでいいのよね?」
「それについて、わたしがどうこう言う立場じゃないわ」
「それもそうね。それで、あなたは、こんな山の中で一人キャンプってわけじゃないんでしょう?」
「さあ、どうかしら。ただ単に世捨て人になりたかっただけかもしれないわよ」
投げやりな口調でノエルは言う。正直に言うと、半分は本音でもあった。突然、眼前に現れた愛歌に、ノエルは警戒心を露わにハルバードを握りしめる。
見た目は可憐な少女だが、クロガネ大公国は彼女の力を恐れている。その力の正体までは不明だが、非常に強力な能力を持つヒロインだということは、ノエルの傍らに何の前触れもなく現れたことからも分かる。
「まあ、わたしとしては、あなたがノワールの敵という事実だけで十分なのだけど」
ぞわり、とノエルの背筋が凍った。
何か分からないが、目の前の少女から強烈な圧を感じる。脳裏に警報が鳴り響く。何かがおかしい。見た目と本質があまりにも不均衡だ。身体中に絡みつく不安。濃密な魔力は呪詛のようで、周囲の環境すら作り替えられているかのようだ。
(何、どういうこと? この娘、何かヤバい)
ターゲットとなる少女だが、すでにノエルは勝ち目がないことを直感していた。本来ならば、尻尾を巻いて逃げ出すか、自分より強い専門家に投げ出してしまう案件なのだが、今のノエルは契約に縛られている。何の成果もなく逃げ帰れば、契約不履行で酷い目に遭う。まだ、ノエルは愛歌の脅威を正しく認識できていない。見た目が小さな少女ということや契約不履行の罰則への恐れから判断を誤った。
愛歌の足下から影の使い魔が立ち上がる。四足歩行の獣を模した影は、大型犬に似た形状で、それが四体だ。
物音一つなく、滑るように犬がノエルに向かって駆け出す。
「あ、ああああああああ!」
死にたくないという一心で、ノエルはハルバードを振るった。理性ではなく本能で。人間が失ったとされる原初の生存本能。火事場の馬鹿力は、彼女が己の身に習得した技術を惜しみなく発揮させた。
駆けずり回り、追い立てられながらも、飛びかかってくる使い魔をハルバードで叩き潰した。決して、上手い戦い方ではないが、斜面を転がりながら距離を取り、囲まれないように近い位置にいる使い魔を優先して狩った。
心の余裕はまったくない。
沙条愛歌の正体は分からないが、少女の姿をしただけの別物だということは理解できた。
「すごい、すごい、四体全部倒しちゃうなんて」
「く……ふう……はあ……はあ……」
愛歌は手を叩いて賞賛するが、ノエルからすれば上から目線の評価でしかない。
あっという間に泥まみれになったノエルに対し、愛歌は服にすら汚れがついていない。それどころか、悠々と山道を歩いている。彼女の前を塞ぐ木の枝も下草も、まるで主人に平伏するかのように避けていく。およそ人間にはなし得ない神秘の行使だ。ただ歩くだけで格の違いを見せつけられる。
「……この森にいる山羊頭の怪物とかも、あなたの使い魔?」
「違うわ。ああいうのは趣味じゃないもの」
使い魔であることは否定しない。
これは一つの情報と言ってもいいのだろうか。
だが、彼女だけでなく、他にも使い魔を操るヒロインがいるという話になるので、それはそれで厳しい未来の訪れを予感させるものだ。
彼我の距離が十五メートルにまでなった時、ノエルは勢いよく右手を振るった。
三条の光が愛歌を貫き、そのまま背後の斜面に突き刺さる。
それは杭のような剣だ。
柄が短く刃も細く、投擲に特化した聖堂教会の概念武装である。
「ッ……!」
愛歌を貫いたかに見えたが、少女の姿は陽炎のように揺らめいて、数メートル横にスライドする。
狙った愛歌は、幻術で作り出された幻だった。
「今のって、もしかして黒鍵? へえ、あなたって、代行者だったの?」
「……それを知ってるってことは、もしかして同郷かしら?」
「どうかしらね。根幹を同じくする世界でも枝葉が違うこともあるもの。でも、無関係ではないと思うわ」
同郷ならば、正体はどうあれ代行者と聞くだけで警戒するものだが、愛歌にはそれがない。ノエルが代行者だと知ったからといって態度を変えることなく、余裕を崩さないのは、単にそれだけの実力差があるからということだろうか。
愛歌は見るからに聖堂教会の人間ではない。となると、魔術師であろう。魔術協会に属するかどうかは問う意味もない問いだが、ノエルが会ったあらゆる魔術師と比較しても、彼女は格上なのではないか。
「何やら面白くなってきたね」
ノエルが次の手を考えているところに、別の声が割り込んできた。
漆黒の森の中に突然現れた白き美女。高度な魔術礼装だと一目で分かる杖を持ち、人間離れした美貌が輝かしい魔術師だった。
「あなたの持ち場はここじゃないでしょう?」
「いいじゃないか。ボクのところまでまだ敵は来ていないんだし、別に手柄を横取りしようって訳じゃない」
「そう?」
「久しぶりの同郷だろう? しかも代行者だっていうんだから、顔を拝んでいくのも悪くない。あまり、聖堂教会とは縁がなかったからね」
ノエルは内心で歯がみする。
愛歌一人にすら歯が立たないというのに、もう一人ヒロインが現れたのだから、状況は最悪だ。今となっては勝ち目を探るという選択肢すらない。如何にしてこの場を切り抜けるか。ただそれだけをひたすら考え続けている。
「代行者さんの相手はわたしだけで十分よ?」
「知ってるよ。あくまでも、見学」
「視るだけならどこからでもできるでしょうに」
呆れたような愛歌の言葉。
戦場にいるとは思えない、日常の雑談だ。ノエルのことなど、気にも留めていないかのようだ。それでも、彼女たちの会話の内容は極言すれば、どのようにノエルを料理するかという話である。愛歌がノエルを仕留め、その過程を白い女が観戦すると言っているのだ。舐められたものだと思いながらも、彼我の実力差を理解しているノエルは、不快には感じない。むしろ、恐怖を抱く。彼女たちは、その気になればすぐにでもノエルを殺害することができて、今、ノエルが生きていられるのは、あくまでも彼女たちが手を下していないからというだけなのだ。
愛歌が腕を上げる。
魔力が揺らぎ、黒い使い魔が再び現れる。
見上げんばかりの大きさの、カマキリのような怪物だ。
ただ大きいだけではない。
まるで本物の魔獣のように生命力が脈動していて、脅威の度合いは先ほどの犬型の使い魔とは比較にならない。
この使い魔を製造するのに、一流の魔術師がどれだけの時間をかけるかノエルには想像もできない。
(こんな化け物、さらっと創ってんじゃないわよ!)
最早、絶句するほかない。
これほどの芸当ができる魔術師がどれだけいるだろうか。
聖堂教会の中でも最上位の埋葬機関の怪物たちであればあるいはといったレベルだ。
呼吸をするのと同じくらいの気軽さで、空気から引っ張り出すような異様さで、正真正銘の化け物を生み出した愛歌は、依然として余裕の表情だ。普通なら、魔力が空になってもおかしくないというのに。
ここまで来れば、ノエルの選択肢はただ一つだ。
「あら」
と、愛歌は声を漏らす。
黒鍵を使い魔と愛歌にそれぞれ投擲したノエルは、自身の投擲の結末を見届けることなく山肌を蹴って、斜面を駆け下りていった。
ノエルは逃亡を選択した。
こんな化け物と戦っても無駄死にするだけだ。
人並みに意地はあるが、命あっての物種だ。聖堂教会の監視がない世界でようやく手に入れた自由を、むざむざ手放したくはない。
前時代的な世界に文句を言いたいのは山々だが、人生に光明が見えかけているのだ。こんな山の中で、人知れず使い魔の餌食になって終わりたいとは到底思わないし、逃げることに抵抗感はまったくなかった。
「やってらんないわよ、あんな化け物!」
沙条愛歌そのものにしても、自分の手が届く相手ではない。
愛歌暗殺は最初から達成不可能だ。
貧乏くじにもほどがある。
「こんなことなら、普通に騎士に紛れてたほうがマシだった。なんでいつもいつもこうなるのよ」
自分の運のなさに毒づく。
それでも、逃げ足だけは健在だ。
代行者として積んだ経験も、逃げる分には役に立つ。
化け物の相手は化け物がすればいいのであって、自分のような一般人に毛が生えた程度の女に期待されても手に余る。
だが、幸いなことに契約不履行にはならなそうだ。
愛歌の暗殺はできなかったが、情報は得た。少なくとも彼女がノワールにいて、自分と近い世界の強大な魔術師であるということは確認できた。
これだけでも、契約を最低限履行したことにはなってくれるようだ。
これで、自分の戦争はとりあえずは終了だ。
逃げ帰って報告して、後は安全そうな後方に適当に回してもらえばいい。
ノエルは斜面を転がるように駆け下りて、クロガネ大公国の駐屯地を目指した。
「へ……?」
必死になって山を下って飛び出したのは少しばかり開けた場所だ。
見覚えのあるカマキリのような巨体と金色の少女がそこにいる。
「お帰りなさい、ずいぶんと走ったわね」
「な、なんで……ここに……」
ノエルは愕然と立ち竦んだ。
斜面を下りていたはずなのに、いつの間にか同じ場所に帰ってきてしまった。理解が追いつかない。どこかで自分の認識が狂わされていたとしか思えなかった。
幻術の類だろう。空間失調させて道を見失わせる術式は古今東西様々あって珍しいものではない。もともと木々が生い茂る森は、魔術関係なく道に迷いやすい。少しばかり神秘で脚色することで、簡単に迷宮ができあがる。
だが、斜面を下っているつもりで、途中から登っていたというのなら、それは単に道に迷うという次元の話ではない。
「マオさんから、ヒロインは逃がすなって言われているの。ごめんなさいね」
愛歌は何でもないことのように言う。その口ぶりからすれば、愛歌がこの幻術の仕掛け人なのは間違いない。
驚嘆すべき手並みだ。
幻術と分かった今でも、ノエルは幻術にかかっているという感覚がまったくない。
何とか、これを乗り越える糸口を見出さなければならない。
「……あ、あなたは、前に鎧の町にいた娘なのよね?」
と、ノエルは尋ねた。
苦し紛れの時間稼ぎだが、愛歌は頷いて、
「そうよ。この世界に来た後、しばらくお世話になったわ」
と、答えた。
「どうして裏切ったのかしら。ノワールに行ったきりもどってこないなんて。あなたほどの魔術師が任務に失敗するなんて考えられないんだけど?」
「裏切りなんて言われても困るわ。わたしは別にクロガネ大公国に思い入れはないんだもの。それなら、好きな人がいる方につくのは当然でしょう?」
「…………今、なんて?」
「好きな人がいる方につくと言ったのよ。何か変なこと、言ったかしら? 愛する人とずっと一緒にいたいじゃない? 愛した人に尽くして、そして目一杯愛してもらうの。それってすごく幸せなことよ」
頬を朱に染めて、感慨深そうに愛歌は言った。
としてノエルは、信じがたい回答に当惑した。
愛を語る愛歌の様子は、年頃の恋する乙女そのものだ。嘘は言っていない。砂糖を吐きそうな甘ったるい情感を伝えてくる彼女は、本当に恋のためにノワールに移住したのだ。
目の前の超越者の行動原理は、あまりにも個人的かつ俗的な感情に基づいたものだった。
「ふふ、そしてあなたたちはマオさんに戦争を仕掛けたわけで、それだけで許せないと思うのは当然よね? 愛した人の敵は、わたしの敵なんだものね?」
全身の細胞が凍えるような恐怖をノエルは感じた。
年下の少女にノエルの本能が怯えているのだ。
「はッ、はッ、はッ、はッ、はッ、はッ、う――――くぁ」
汗と泥にまみれた身体で山道を這いずるように走っていたノエルは、木の根に躓いて倒れた。
身体中が疲労困憊で、筋肉が切れてしまいそうだ。西洋魔法の肉体強化も教会の秘蹟も出し尽くし、もうノエルに引き出しはない。黒鍵はすべて喪失し、ハルバードも折れてうち捨てた。魔法のローブが唯一手元に残ったマジックアイテムだが、これもすり切れている。
霧が深い。すでに十メートル先も見通せない。普通の霧ではないことは、濃密な魔力から容易に想像できる。
これが愛歌の手によるものかは分からないが、完全に敵の術中に嵌まっている。
魔術師の工房にも似たような結界はあるが、この森の結界は規模も強度も桁が違う。
脱出することすらも至難の業だ。
疲れた身体に鞭を打って、立ち上がろうと腕に力を込めた時、ノエルは自分の手が赤く染まっていることに気がついた。
鼻を突く赤錆のような臭気の正体はすぐに分かった。これは血の臭いだ。
「あ――――」
すぐ目の前に大木に寄りかかって事切れているクロガネ大公国の騎士がいた。
大仰な鎧は無残に砕け、激しい戦闘で蹂躙されたことを窺わせた。
よく見回してみれば、倒れた騎士は一人や二人ではない。
そこかしこに、騎士の死体が転がっているではないか。
死体に位置関係は一様ではなく、周囲に大規模な破壊の痕跡もない。兵器や魔法で一網打尽にされたのではなく、単体の暴力行為によって殺害されたのだろう。この森にはそれを可能とする魔獣が確かに棲息している。この深い霧の中で、魔獣に不意を打たれれば、歴戦の騎士であっても致命傷は免れない。
ノエルは喉が干上がりそうなほどに震え上がった。
明確な死を目の当たりにして、少し未来の自分と重ねてしまう。
この森の中で誰にも知られることなく魔獣の餌になるという可能性が、現実に起こりえるのだと実感させるには十分な光景だ。
「もう逃げるのは止めてしまったの?」
少女の声が聞こえる。どこから聞こえているのかも分からない。ノエルは悲鳴を上げて、木に背中を預けた。
「君、代行者ってわりには弱くないかい? それでこの森に踏み込むのは、なかなかの蛮勇だよ」
さらに、白い女が霧の向こうからやってくる。
妖精のような異質な美しさ。深紅の瞳は魔性の証か。
「あ、あなたは、何なの?」
「ボクかい? ボクはマーリン。ノワールの宮廷魔術師の一人だよ」
「ず、ずいぶんとあれね。魔術師らしい、いい名前だわ」
「そうかい? ありがとう。君は後の時代の代行者らしいからそう受け取るんだろうね。いやあ、よかった。ボクの名前はどうやら君の世界でも後世に伝わっているらしい。自信満々に名乗って、誰? ってなるのは恥ずかしいからね」
得意げにマーリンは語る。
彼女の言葉の端々に聞き捨てならない単語がちりばめられていて冷や汗が出る。
「なんていうか、自分がまるであのマーリンみたいな言い方……」
「どのマーリンか知らないけど、君が想像しているマーリンと大差ないと思うよ」
「アーサー王伝説の?」
「如何にも。まあ、ボクの時代に伝説も何もないけどね」
ウィンクするマーリンとは対照的にノエルは引き攣った笑みを浮かべる他ない。
アーサー王伝説のマーリンといえばイギリスを代表する魔術師の代名詞的存在であり、彼女が本物だとすれば戦うだけ無意味だ。その名声と実績が伝説の通りなら時計塔のロードですら相手にならない。現代の魔術師と神代の魔術師は全く違う生き物というほどにレベル違いであり、アーサー王時代のブリテンで活躍した魔術師ならば言わずもがなだ。
「そう、マーリンは男のはず……あなた、女でしょ? マーリンなはずないわ、だって」
「んー、そこは平行世界なり異世界なり、便利な言葉があるからねぇ。君の世界のマーリンはもしかしたら男かもしれないけど、こういうマーリンも有りってことだよ」
「……ッ」
否定したい。目の前の女魔術師が伝説のマーリンでなければ、まだ希望はあると信じられる。
だが、否定できる材料はまったくない。
(こんなの無理! 絶対無理! わたし、一般代行者Aでしかないんだから、こんな冠位級の魔術師なんか無理に決まってる! 沙条愛歌だけでも無理なのに、こんなのどうしろって言うのよぉ!)
泣きわめき、地団駄を踏みたいほどにノエルの感情は乱されている。それが顔に出ないのは、偏にパニックが極限状態を突き抜けているからというだけだ。
「それにしても、君も運がないね。よりにもよって、愛歌の調査だか、暗殺だか命じられたんだろう? 根源接続者なんて、ボクでも相手にしたくないよ」
「根源、接続者? そんなの、いるわけ……ない……」
ノエルはいよいよ気が狂いそうになった。
根源はおよそすべての魔術師が目指す世界の始まりにして終わり。文字通りこの世のすべての情報が集積された世界の外側だ。教会は世界の内側にしか関心がないので、魔術師の試みに共感しないが、そこに辿り着き、真理に至った怪物がいることは周知の事実だ。
何らかの拍子に根源に接続した人間が現れることはある。だが、そうした人間は、生まれる前に自ら死を選ぶのが常だ。
まっとうな人間のように生まれて、成長するなどあり得ないことだ。
もし愛歌が根源接続者だというのなら、彼女は自分の意思一つで世界を改変する権限を持っているも同然だ。
「マーリン、他人のことをあまり話すものじゃないわ」
転移魔術を使ったのだろうか。
音もなく現れた愛歌が、マーリンを咎める。
「だって、反応が見てみたいじゃないか。ボクの名前に驚いてくれたんだ。君のことはもっと驚くんじゃないかって」
「限度があるでしょう? ほら、すっかり怯えてしまって」
蛇に睨まれたカエルのようにノエルは微動だにできない。魔術によるものではなく、あまりの恐怖に身が竦んでいるのである。
根源接続者に伝説の大魔術師マーリン。
それが敵として目の前にいる。
しかも、この場にはノエルしかおらず、結界の内部で脱出不可能、救出も絶望的。近くの仲間は全滅しているという最悪の中の最悪だ。
「ひ、ぃ……」
蚊のさえずりのように小さな悲鳴が精一杯だ。
愛歌が無感動にノエルを覗き込む。青く澄んだ瞳に射竦められ、心臓が止まるかと思った。
「この代行者さん、どうしましょう。戦意はもうなさそうなのだけど」
「でも、敵なわけだからねぇ。ヒロインは逃がすなって言われているだろう?」
「それもそうね」
愛歌をマーリンの会話が聞こえる。
血の気が引いたが、もう一刻の猶予もない。抵抗は無駄、逃亡も無意味。このまま何もしなければ、生存の見込みは皆無だ。
「はッ、はッ、はッ、はッ、はあ、はあ――――」
呼吸が浅くなる。
あまりの恐怖に自律神経系が狂い始めた。どうしたら、生き延びられるのか。どうしたら、許してもらえるのか。
と、そこでノエルは閃いた。もはや、それ以外に道はなかった。
「ゆ、許して……」
今のノエルには降服して許しを請うので精一杯だ。他に打つ手はない。志のために死を選ぶ生き方はノエルにはできない。聖堂教会もない世界で、代行者の職に殉じるほど厚い信仰心はないのだ。
「降参するから。お願い、命だけは……」
「あら、代行者が魔術師にそんなことを言っていいの?」
「し、知らないわ。代行者だって、なりたくてなったわけじゃ、ない。ここにだって、来たくて来たわけじゃないんだから」
跪いて懇願するノエルに代行者の誇りはない。
相手が憎き死徒ならばともかく、人間であればちっぽけなプライドをかなぐり捨てるくらいはできる。
死にたくないという一心がノエルを必死にさせる。
「お願い、お願いします」
「そう? でも、あなたは敵としてここにいるわけだし、わたしを狙っていたのでしょう?」
「ち、違います。契約があるから、仕方なく、仕方なかったんです」
「ああ、それね。知らない魔術……魔法? だけど、ふぅん、契約に違反すると全身に痛みが走るタイプね」
視ただけで、愛歌はノエルにかけられた契約魔法の性質を見抜いた。彼女の知識にない異世界の魔法体系だが、根源接続者の極まった才能のなせる技だろうか。
「でも、あなた、今痛みを感じていないでしょう?」
「へ……」
確かに、ノエルの身体に痛みはない。
契約に違反していれば、苦痛でのたうち回るはずだ。それが発生していないということは、ノエルはまだ契約違反をしていないということではないのか。
「本当に降服する気はあるの?」
「ひ、ぃ……あ、あります。あるんです。こっちの魔法のことは分からないから、なんで痛くない……あ、あるのに、降服するの、ほんとよ、許して、絶対に逆らわないから」
「本当に?」
「本当、誓う、誓うわ」
ノエルは身を乗り出して、愛歌に媚びる。生存本能がノエルを突き動かしている。形振り構っていられないのだ。
「そうなの。じゃあ、確かめさせて」
「な、何を?」
「本気度。契約違反の痛みに耐えられたら、ね」
愛歌が小さく呪文を呟く。
聞き取れないほどささやかな言の葉だけで、ノエルはひっくり返った。
全身に激しい痛みが襲いかかったのだ。
痛みを脳が認識する前に身体が勝手にもんどり打つ。
「ぎ、あ、あああああああああああああああ!」
愛歌への降服を咎める激痛だ。
契約違反への罰が下ったのだ。
「ひぎ、が、あが、痛い、痛いいぃい!」
かつてないほどの激痛は、ノエルの思考を真っ白に染め上げる。全身の骨が軋みを上げて、皮膚が割け、内臓が焼けて筋肉が引きちぎられるかと思うほどだ。痛みの場所も程度も判別できず、ただ裏切りを咎める魔力の奔流がノエルを苦しめる。
「ゆるし、て、あやまるから」
「どっちに謝罪しているのかしら。ノワール? 契約主?」
「あなたに謝ってるからぁ、さからわないから、ぐ、ふう、あぎ、ぃ、ゆ、ゆるじて、ください」
ノエルは歯を食いしばり、痛みに苛まれながらも愛歌に頭を垂れる。
普通の人間であれば発狂しているであろう。それだけの痛みが罪人を責めている。それに耐えることができるのは、皮肉にも代行者としての修練の賜物だ。痛覚だけなら、多少はコントロールできる。人間はもともと痛みには強い。脳内麻薬が、痛覚を麻痺させるからだ。事故で手足を失った被害者が、救急搬送されるまでけろりとしている事例もあるというが、脳内麻薬にはそれだけの鎮痛作用がある。代行者ともなれば、ノエルのような末端でも痛覚制御はある程度習得している。
(だめ痛い、痛すぎる、脳みそおかしくなる。でも、ここで失敗したら――――)
愛歌の目がノエルを見下ろす。苦悶するノエルに何ら思い入れのない目は、昆虫を思わせるほど無機質だ。
根源接続者への媚びの売り方などノエルは知らない。だから、痛みで狂わないうちに誠意を持って諂うことしかできないのだ。
「ふぅん、そう、ならいいわ」
愛歌がノエルの何に興味を抱いたのかは分からない。彼女の必死さが伝わったということであればよいが、いずれにしても愛歌はひれ伏すノエルの頭を撫でる。すると、あっという間に嘘のように痛みが引いた。
「あ……嘘、いたく、ない」
「ええ、あなたの契約に介入させてもらったわ。もう、これで痛くないわね」
信じがたい技術だ。絶対的な契約魔法ですら、簡単に上書きしてしまう。これだけの力があれば、確かにクロガネ大公国を傾かせることも容易だろう。
「でも、今のは大公さんを裏切った罰であって、こっちとは関係ないか……」
「……ぁ、いや、でも、わたし許してもらったんじゃ……」
「あなたを許すかどうかは、わたしが決めるわけじゃないの。わたしたちのご主人様があなたの処遇を決めるのよ。ここではあなたを殺さないと決めたけど、ノワールはどうかしらね」
「そ、んな……」
愛歌の言わんとすることも分かる。愛歌はあくまでも現場の人間で、国として捕虜をどう裁くかということは担当外だというのなら、確かに愛歌がノエルを助命したところで命の危険を脱したわけではない。
「まあまあ、そんな不安がらなくてもいいじゃないか」
それまで成り行きを見守っていたマーリンが口を挟む。
「マスターはヒロインは逃がすなと命じているわけだから、いずれにしても君はパラディクレールまで連行することになる。マスターと面会するまでに、媚びの売り方を覚えておけばいい。マスターは女好きだからねぇ」
ノエルの周囲を動く蔦が取り囲み、手足を縛り上げていく。
抵抗する気はなかった。疲れ果てたノエルは声を上げるのも億劫だ。一先ずはここでは命を拾った。それだけで安堵してしまい、張り詰めた気持ちが切れた。極限状態から解放されたことで、疲労が一気に襲いかかってくる。半ば強制されるように、ノエルは意識を手放した。
ノエルには生き汚く媚びへつらって欲しい。
根源接続者とグランド級魔術師。一般代行者には厳しい初戦。