異世界ヒロインが召喚される世界で好き勝手する話 作:もう万体
クロガネ大公国からノワールには険しい山道を進まなければ辿り着けない。古来、ノワールがクロガネ大公国の隣国にありながら、ただ一度も攻撃されなかったのは、この険阻な地形に守られているからということも大きい。
横たわる山脈は、巨大な城壁そのものだ。ノワールはこの城壁の内部に複数の砦を設けて、外敵の侵入を防ぐ。攻め込む側からすれば、眼前に立ちはだかる天然自然の城壁は絶望への道程そのものである。
とはいえ、完全に道が閉ざされているということでもない。
人間は他の地域と交流しなければ、満足に生活を送ることはできない。陸路での交通も保持する必要があり、そのためには、この大自然に手を加えて道を通さなければならない。
そうして、南北に二本、設けられた街道はクロガネ大公国とノワールを繋ぐ直通の道となった。
もちろん、ノワールは小国なので大国から簡単に攻め込まれるような構造の道を通すことはないし、技術的にも山道を整備するのは困難だ。開通した街道は、狭く曲がりくねっていて、山々の間を抜けていく険しいもので、大軍を展開することは到底考えられないものであった。
さらに、ノワールはこの街道に関所を設け、砦を築いて防衛力を強化した。
軍勢を進めるのであれば、当然、この街道を利用するのは目に見えて明らかだからだ。多分にクロガネ大公国を意識した防衛設備の増強であったが、幸いなこと、この設備が活躍することはこの百年、一度もなかった。
二本ある街道を同時にクロガネ大公国軍は進む。
順調に進んだのは、南路を行く南方軍だった。北方軍が魔獣の強襲で大混乱に陥っていたときも、南方軍はノワール側の陣地を破壊しながら街道を邁進した。
それは彼らが進む南方路が、北方路に比べて整備されており、起伏が少ない楽な道だったということと、先頭に立ったヒロインの攻撃性の高さによる快進撃だ。
三つの砦をあっさりと制圧したクロガネ大公国軍は、勢いをそのままに進撃を進める。
このまま進めば、二、三日中にも山を越えて、ノワールの地方貴族パーマー家が治めた領地に到達する。そこからは平野部だ。大軍とヒロインを展開し、首都までまっすぐに進んでいけばよい。
北方軍のほうが直線距離はパラディクレールに近いのだ。
いくら北方路が厳しい道のりだとしても、ベアトリクスのような一流の魔法使いを参戦させている以上は、そうそう足止めもされないだろう。ならば、純粋に首都まで距離のある南方軍は武功にありつけないかもしれない。
やはり、道中の砦をいくら落としたところで武功とは言えない。
古き帝国の都であるパラディクレールを攻略し、ノワールの領主の首を取って多くのヒロインを連れ帰る。ここまでしなければ、戦に臨む意味がない。
ノワールにも多くのヒロインがいるとされている。
勝利して彼女たちをものにできれば、武功次第では下賜されることもある。クロガネ大公国の騎士の中にはそれを楽しみにしているものも少なくない。
ヒロインの中には戦えない者も珍しくなく、そういったヒロインは高額で取引されたり、報酬として王侯貴族が家臣に与えたりするのだ。
戦えるかそうでないかに関わらず、ヒロインが手元にいるというのは大きなステータスになるのである。
この世界では戦えるヒロインと戦えないヒロインで扱いが全く異なる。
そうした歪み、非人道的状況を改善するためにヒロイン生協が動いてきたのだが、ヒロインの存在は、戦乱で人心が乱れた世界ではやはり重要な資源として消費される現実があった。
クロガネ大公国軍の騎士団が、街道を埋め尽くす。道中の集落は収奪の対象となり、砦を守るノワールの騎士たちも数と魔法とヒロインの能力に太刀打ちできず撤退する他なかった。
守る側にとって圧倒的有利な狭い山道でも、地力の違いを覆すには至らない。
クロガネ大公国が正式装備は、最先端の魔法科学に裏打ちされた攻守に秀でた最新兵器だ。一人一人が最前線を経験したことのある猛者であり、それが強力な武器を持っているのだから本物の戦を知らない地方の田舎騎士が束になったところで叶うはずがない。
地の利を強引に数と武装と経験で乗り越えてくるクロガネ大公国軍にノワールの防衛線は押し込まれていく一方であった。
こればかりは仕方のない面もある。
ヒロインという戦局を容易に覆しうるジョーカーがなければ、戦の勝敗は兵力に左右される。騎士と武器の質が両方ともクロガネ大公国側が上となれば、ノワールが厳しい状況に置かれるのは明らかだろう。
退却したノワール騎士たちは、ヴィペール関に依って抵抗する姿勢を見せた。
街道を塞ぐ門と左右の斜面に築かれた石造りの郭は一繋ぎとなっていて、防御魔法による強化と周囲を囲む結界でさらに守りを強固なものとしている。
見る者を圧倒する防御設備は、如何にクロガネ大公国の騎士が強壮であっても一筋縄ではいかない。
放たれた大魔法、雷や氷や炎が関を襲うも、起動した結界が復讐の呪詛を放って反撃する。
攻撃すればするほど、強力な反撃が帰ってくる上に、ノワールの騎士たちからも魔法や矢弾が飛んでくる。隘路にあって絨毯爆撃とも思える猛攻を受けたクロガネ大公国軍は、さすがに力攻めを繰り返すことができずに後退した。
残されたのは穴だらけになった街道と山肌、そして無残にも戦場に倒れた騎士たちの亡骸だ。
「敵軍、さらに後方に下がった模様です」
と、山腹の見張り台から戦況を見守っていた壮年の騎士に若い部下が報告する。
壮年の騎士は、このヴィペール関の守備隊の指揮官だ。前線から逃れてきた味方を救援するためにクロガネ大公国軍にゲリラ戦を仕掛けてその進行速度を遅らせ、味方の撤退を成功させた戦上手だ。
若い頃には実家を出て他国で傭兵として働いた経験があり、ヴィペール関の指揮官を任されたのも実戦経験を買われてのことだ。
そんな彼からすると、ノワールの騎士のレベルは残念ながら高くはない。
ノワールは平和な時代あまりにも長く続いていたために、国境付近でイステネブルと小競り合いをしている貴族たちを除いてほとんど戦の経験がない。他国の軍を見てきた彼の目にはノワールとクロガネ大公国の騎士の差は歴然であって、まともにぶつかっても勝ち目はないと断言できた。
とはいえ、だからといって裏切って敵に寝返るほど厚顔無恥ではなく、さらに地形やこの頑強な関を駆使すれば、十分に渡り合えるとも分析していた。
不安要素があるとするとやはりヒロインの存在だろう。
クロガネ大公国の誰が現れるか分からないが、必ず彼女たちは投入されている。
敵のヒロインの能力次第では、関を放棄して撤退することも視野に入れておく必要はある。そこは無理をするところではない。ヒロインにはヒロインをぶつけるのが定石だ。ノワールにも強力なヒロインがいて、戦線に投入されるという情報は届いている。
パラディクレールをヒロインの多くが離れるわけにはいかないという判断もあるのだろうが、この街道を抜かれると、いよいよクロガネ大公国軍は大軍の真価を発揮してしまう。
できることならば戦闘型ヒロインをこちらにも早急に送り込んで欲しいところではあった。
「我が方の大勝利ですね」
「ああ。如何にクロガネ大公国の鎧でも、あの猛攻には耐えられまいよ。今のうちに鹵獲できるものは鹵獲し、後方に運べ。まだ気を抜くな」
「はッ」
騎士の鎧はただの鉄の塊ではない。中には高度な魔法技術で造られ、マジックアイテムとして成立したものもある。クロガネ大公国の魔法技術を手に入れる上でも、戦利品は大きな価値がある。何せクロガネ大公国は西洋魔法を中心に長く自国の経営に活かしてきた歴史がある。魔法技術という点では、ノワールを上回るのは間違いないのだ。
「結界の修復と強化も怠るなよ。敵は一息ついたらまた来るぞ。怪我人の治療も急げ。手が足りなくなる前に、できるだけ治しておくんだ」
魔法が発展し、普及していくと怪我の治療を簡単にできるようになった。戦による死傷者を減らす上で、魔法は必要不可欠で、この治癒魔法の効率化は強い軍隊を作るための基本戦略だった。
敵は確実に殺さなければ、すぐに戦線復帰する。クロガネ大公国の騎士団の厄介さは、単に強いというだけでなく、治癒術者のような後方支援担当の魔法使いの育成にも力を入れているからであった。
ノワールにも治癒術者はいるが数も質もクロガネ大公国に劣るのは否めない。
せわしなく騎士たちが郭の中を走り回る。
特に激しく攻撃を受けた門と結界本体は、今のうちに修繕と強化が必要だ。怪我人も出ている。戦い続けるために、治せるものを治し、直せるものも直さなければならない。
時間は有限だ。
一秒たりとも無駄にはできない。
防衛兵を順次交代して休憩を取らせつつ、クロガネ大公国軍の様子を使い魔や斥候に探らせる。再攻撃の兆候が見えたら、即時応戦できるよう備えておくためだ。
ヴィペール関は南方路に設置された関所の中でも最も巨大な関所であり、立派な軍事施設だ。クロガネ大国の猛攻を凌ぎ、反撃して追い返した実績が、その堅牢さを物語っている。
先のような攻撃に終始するのであれば、守りに徹すれば膠着状態に持ち込むことはできる。
ヴィペール関の性能と自軍の能力が、クロガネ大公国軍とようやく吊りある状況に持ち込めたということであった。
その後、二度、三度とクロガネ大公国軍が攻撃を仕掛けてきたが、これをノワールはそのたびに退けた。
死傷者は避けられなかったが、その何倍もの被害をクロガネ大公国は出すことになった。
ヴィペール関の前は騎士たちが折り重なって倒れていたが、大魔法が飛び交う戦場では遺体が五体満足で故郷に戻るということはあまりない。
途切れることなく続く爆発の後、地面には無数の穴が穿たれ、その周囲に少し前まで騎士だったものが転がっているという地獄絵図である。
それでも死体が残ればいいほうで、爆心地にいた騎士は跡形もなく消し飛んでいる者も少なくないはずだ。
大魔法クラスの強力な攻撃でなければ物理的にも頑丈な関は抜けない。だが、攻撃に対しては結界の防御機構が作用して反撃するので迂闊な攻撃もできないというジレンマだ。この攻撃的防御は、クロガネ大公国の騎士たちですら攻めあぐねる防御性能を実証した。
四度目の攻撃は、最初の攻防から三日後の朝に始まった。
といっても、これまでとは異なり軍勢による力攻めではなかった。
穴だらけの街道をまっすぐやって来たのは、黒髪の少女だった。黒い服に銀色に鈍く太陽光を弾く片刃の剣を持っている。身を守るものは手の甲から肘までを覆う紅色の籠手くらいのもので、非常に軽装だ。見慣れない服を着た黒髪の少女という時点で、クロガネ大公国がヒロインを投入してきたのだと分かる。
「結界の出力を最大にまで上げろ! ヒロインが来るぞ!」
指揮官が指示を出す前に現場がすでに対応していた。
これほど明らかに「今から攻撃します」と宣言しているのだから、本能的に防衛体制を取るのは当たり前だ。
因果応報の結界に魔力が充填され、ヴィペール関全体が淡く光を放ち始める。
さらに、魔法騎士たちが呪文を唱えて砲撃を開始した。
結界に頼らずとも人間の少女を消し飛ばすには十分過ぎるほどの暴力だ。
風の刃や氷の槍、炎の礫に雷撃、純粋な魔力砲撃と属性も系統も違うそれぞれの術が眩く輝き、視界を覆う。
たった一人の少女だ。魔法が存在しないとしても、軍事施設に単身で挑むことなど不可能だろう。
しかし、その一人を投入してきたというのがクロガネ大公国の最善策であり、彼女にはその期待に応えるだけの能力がある。
戦闘型のヒロインの能力は多様過ぎて特定できないが、その何れもが強力だ。だからこそ、過剰反応とも言える総攻撃をかけた。ヒロインが能力を使用する前に、何としてでも倒さなければならないからであった。
次の瞬間に誰もが言葉を失った。
凄まじい轟音とともにヴィペール関のど真ん中が爆発し、一瞬にして瓦礫の山になってしまったのである。
「なんと」
指揮官は山腹の砦の中からその惨状を目の当たりにした。
高く舞い上がった巨岩が次々と地面に降り注ぐ。その中には不幸にも巻き込まれた騎士たちがいて、瓦礫と一緒に地面に叩き付けられていた。
関よりも一段高いところにいた彼は、その光景のすべてを目の当たりにして絶句するしかなかった。
黒髪の少女は剣を振るって戦うのかと思いきや、そうではなかった。
少女の足下が盛り上がり、黒光りする何かが地面から飛び出した。それは魔法の流星群をものともせず、応報の結界を貫通してヴィペール関の門を粉砕したのだ。
鉄壁の守りを誇るヴィペール関を破壊したもの。
それは、見上げんばかりの巨体を誇る漆黒の甲虫であった。
頭部と胸部そして腹部の三つの合体節を持ち、成人男性の身長ほどもある長い棘に覆われた六本の足が、ゆっくりと動いて瓦礫を押しのけている。
その外見を見れば、昆虫であることは明白で、見るからに固い外骨格に覆われたそれは甲虫と呼ばれるグループに分類されるだろう。
ただし、普通の甲虫はこれほど巨大ではないし、その外骨格も魔法を跳ね返すほど頑強でもない。
常軌を逸した生命であり、魔獣と言っても差し支えないだろうが、これほど巨大な甲虫型の魔獣は一般に知られていない。
指揮官自身も昆虫に詳しいわけではなく、魔獣についても最低限の知識しかないが、ヴィペール関を破壊した怪物が飼い慣らされた魔獣とは異なるものだというのは見て分かった。
「撤退だ! 撤退しろ!」
指揮官はすぐに撤退命令を下した。
結界が引き裂かれヴィペール関も破壊された。ここを守る意味はなくなり、ここから五キロ離れた次の砦まで撤退して軍備を再編するべきだと考えた。
ヴィペール関を一撃で粉砕するようなヒロインにここの装備で対処できるとは到底思えない。もっとも、撤退したところでどれほどの抵抗ができるだろうか。
とにかく、ノワール側もいよいよヒロインを投入して対処しなければならない事態となった。
「ぬッ!?」
咄嗟に魔法障壁を展開した。それが奏功して自分と部下たちに被害はなかったが、砦の天井がごっそりと吹き飛んだ。凄まじい衝撃と轟音が後に続く。ヴィペール関を粉砕した甲虫ではなかった。上空でホバリングするのは、巨大なトンボだ。全長は十五メートルにはなるだろう。頭には角が生え、顎は異常に発達して熊のように上下に開く。六本の腕はナイフのような棘が並び、尻尾の先にも鋭い針が生えている。全身は岩山のようにゴツゴツとした外骨格に覆われた悪魔のような怪物だ。
地上では甲虫が悠々と前進を開始した。黒光りする外骨格はあらゆる攻撃を弾き、無効化する鉄壁の鎧であった。まさしく動く要塞であって、ノワール側の魔法騎士たちの攻撃だけでは足止めにもならない。
そして、空を舞うトンボもまた凶悪だった。
消えたかと思えば、指揮官は突風に突き飛ばされて尻餅をついた。そして、その直後、悲鳴が空から聞こえてきた。
空を見上げると、さっきまで隣にいた若い騎士がトンボに捕まっていた。人間の男など、鎧を着ていようと関係なく持ち上げ連れ去ることができるのだ。魔法で防御処理を施された甲冑であろうと、この魔獣の大顎にどれだけ耐えられるだろうか。
「た、助けてくださいッ、あ、ああああああ!」
トンボの大顎が鎧に食いつく。魔法障壁が明滅し、鎧そのものがあっという間にひび割れて、拉げる音が響く。パニックになった若い騎士の悲鳴が空から降り注ぎ、ノワール軍の士気を大いに挫く。
なるほど、これは見せしめだ、と指揮官は理解した。
ひと思いに殺せるものを、わざわざ空に拉致して声を上げさせている。ノワール騎士の目につくところで、仲間が化け物に食い殺される様など見せられれば、戦慣れしていない軟弱なノワール騎士の士気は瓦解するであろう。
すでに力の差は思い知らされた。
その上、一方的に蹂躙される未来しかないと理解させられる。
気力が萎えれば戦にならない。化け物をけしかけるまでもなく、ノワールの騎士は無力化される。
指揮官は大型の弩を手に取った。魔力を矢として放つマジックアイテムである。旧式の武器だが、それなりの魔力があれば誰でも使えるのでノワールでは広く普及している武器である。
引き金を引き、矢を放った。
魔力矢は青い軌跡を残してトンボの頭を撃つ。ホバリングしているのだから当てるのは難しくない。
「効かぬか」
見るからに頑丈そうな魔獣だ。
これでダメージを与えられるとは思っていなかった。
勝てるかどうかは最早重要ではない。この戦場では一人でも多くの騎士を後方に逃がして、次の戦に備える戦力を残すことが重要だなのだ。
ならば、せめて戦う意思を見せる者がいなければならない。ただ恐怖に震え上がり、逃げ帰るのでは、次に繋がらない。
ヒロインが召喚した魔獣に挑めば十中八九死ぬだろうが、関所の指揮官を任されたのにこうもあっさりと突破を許した上に自分まで逃げるというのは、恥の上塗りである。
せめて騎士たちに戦う姿勢と意地を見せ、侵略者に抗う姿勢を見せて士気を支える一助となる他ない。
トンボの頭を正確に狙い、二の矢を放つ。食事の邪魔をされたトンボはさすがに鬱陶しいと思ったのか、指揮官に顔を向ける。大きな複眼が確かに自分を捕捉しているのを見て兜の下で不敵に笑みを浮かべた。
指揮官に触発されて、周りの騎士たちも抵抗のためにマジックアイテムを構えてトンボと甲虫に攻撃を加え始めた。
彼の周りにいるたった十人弱の騎士の抵抗は、トンボからすれば蚊に刺された程度にしかならない。
一度の突進で砦は全壊し、野ざらしとなった。騎士たちが生きているのは、トンボの突進が彼らの頭上を掠めていったからに過ぎない。
トンボの魔獣にとって、眼前の騎士たちなど十把一絡げに殲滅できる程度の存在だが、敵対行動を取る以上は優先的に排除する対象となる。
魔獣ではない普通のトンボもこの世界では普遍的に見ることができる。優れた飛行能力と視力を持ち、昆虫界の頂点捕食者の一角に鎮座する。それが、その能力をそのままに巨大化し、魔力を漲らせる魔獣となったのなら、人間すらも捕食する怪物となるのは必然だ。
トンボは掴んでいた騎士を手放して、指揮官たちの前から姿を消す。
人間の動体視力を置き去りにする高速機動だ。一瞬にして騎士たちの視界を離れた。どこから攻撃してくるか分からないが、次にトンボが現れる時は、ここにいる誰かが犠牲になっている時だ。もはや、自分の身は自分で守るしかない。なけなしの防御魔法を展開し、床に身を投げる。後は運に任せるしかない。騎士たちの誰を最初に狙うのかを決定する権利は、トンボにあるのだ。
呼吸を殺してただ祈る。
一秒か二秒か、すぐ目の前に死が迫っている実感がある。
果たして、騎士たちの死が訪れることはなかった。
トンボが騎士が目標と定めた騎士に襲いかかるその瞬間、彼方から飛来した一本の矢がその胴体を直撃したからである。
指揮官らが放っていた魔力矢の数千倍の威力は在ろうかという一撃。魔力矢を拳銃弾とすれば、トンボを襲った矢はミサイルだ。
直撃を受けたトンボは、自身の速度と体重も相まって弾き飛ばされ、外骨格の欠片をまき散らしながらきりもみして墜落する。
「な、何が起こった?」
指揮官は顔を上げて周囲を見回す。
超高速で行われた一連の戦闘に、理解が追いつかない。墜落したトンボが地面を這っているのを見て、ようやく助かったことを知った。
生の実感が湧いてくるよりも前、指揮官たちの前に颯爽と小柄な少女が現れる。戦場には不釣り合い、とは思わなかった。その小さな身体から放たれる魔力は、並の魔法騎士を遥かに上回っている。そして何よりも彼女の精悍な表情と凛とした佇まいは戦場にこそ相応しい戦士の理想像そのものであった。
「よく逃げずに戦った。その勇気をまずは称揚したい」
「あなたは、その力、ヒロインか?」
「この地ではそのように呼ばれている。なんともこそばゆい限りだが……わたしはライダーのサーヴァント、ヒッポリュテ。我がマスターたるマオ・パンガイア・ノワールより、貴殿らに加勢するよう仰せ付かった」
「殿下のヒロインでしたか」
「ん……まあ、その通り。マスターのサーヴァントだ」
ヒッポリュテは一瞬だけ表情を緩めた後、眼下に視線を向ける。
「ここはわたしが引き受ける。貴殿らは速やかに後方に退き、守りを固めよ」
「お一人で?」
「心配するな。わたし以外にもこちらに向かっている者はいる。貴殿らの働きに必ずや報いてみせるとも」
そう言うや、ヒッポリュテは身を翻して斜面を飛び降りた。身体強化の魔法を使った形跡はなく、純然たる身体能力だけで数十メートルを難なく跳躍したのだ。
その後ろ姿を見遣った指揮官は、命拾いした安堵に気を抜きそうになる己を叱咤して立ち上がると、周囲の騎士たちを立たせて山を下りる。
パラディクレールに属するヒロインの情報は、地方にはほとんど入ってこないがヒッポリュテという名前には聞き覚えがあった。ノワールではなく、ブリンクウォールと敵対していた部族を率いるヒロインの名だ。
ブリンクウォールの攻勢の前に敗れ去ったと聞くが、いつの間にかパラディクレールに流れ着いたということだろうか。
見た目は年端もいかない少女だが、この手のヒロインが見た目通りに可愛いだけならば恐れられることも敬われることもない。
猛烈な魔力の奔流は噴火のようだ。ヒロイン同士の戦いで発生する異次元の魔力のぶつかり合いを背中に感じながら急ぎ撤退する。
この場に残っても、ヒッポリュテの足を引っ張るだけだ。彼女の言うとおり、素早く後退して陣地を再構築するのが、生き残った自分たちの役割なのだ。
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切り立った急斜面を飛び降りたヒッポリュテは、中空で視線を四方に走らせる。後方には甲虫の魔獣、下方にトンボの魔獣、そして前方にその召喚者と思われるヒロインが一人。動ける味方は撤退して誰もいないが、瓦礫の下には息のある者がいくらかいるかもしれない。
救出は後回しだ。戦場で兵が死ぬのは当然のことである。ノワールのために戦い死した者の名誉は長く守られるだろうし、敵が撤退した後もまだ生を繋いでいるのなら、救出して治療する。彼らの命はマオのものであり、戦死ならばともなく、救えるのに救わないというのはありえない。
ともあれ、今は目の前の戦いに集中するべきである。
北方路の戦いは上手くいっている。クロガネ大公国軍は勝ちに乗じて深入りし、護国の結界の深部にまで入り込んだ。今頃は、ミコトの式神や北方路を任されたヒロインの反抗で撃退されている頃である。
自分は新入りだ。
まだノワールでの戦果がない。
軍神アレスの子にしてアマゾネスの女王であるヒッポリュテは、やはり戦場にこそ存在意義を見出す。マオに仕えてすぐに、このような場を設けてもらえたのはありがたい限りだ。
ヒッポリュテは腕に軍帯を巻き付け、戦斧を召喚する。そして、突き出た岩を蹴って猛然とトンボに襲いかかる。
「セイッ!」
裂帛の気合いを込めて振り落とした戦斧は、トンボの外骨格を粉砕して、地面を陥没させるほどの衝撃とともにその身体を打ち砕いた。
宝具の効果で極限まで肉体を強化したヒッポリュテの一撃は、対軍宝具にも匹敵する。
トンボを砕いたヒッポリュテは、手早く武器を弓に持ち替えて、背後の甲虫に向けて三矢を放つ。唸りを上げて飛翔する矢は甲虫の背中に直撃して、爆弾が爆発したかのような轟音を立てた。
噴水のように緑色の血が噴き上がり、黒い外骨格の欠片が舞う。鉄壁の防御も、ヒッポリュテの矢には耐えられなかった。
ヒッポリュテは反転して弓を突き出した。
がきん、と金属がかみ合う音がして、火花が散る。
ギロチンのように振り下ろされた片刃の剣――――日本刀を受け止める。
マオと同じ黒髪の少女だ。一目見て強いと分かった。戦闘型に分類されるヒロインの一人で間違いなく、この魔獣たちの飼い主であろう。
ヒッポリュテは軽く息を吐いて力を抜き、次に全身をバネのように弾ませて弓を突き上げる。筋力では、戦神の軍帯で強化しているヒッポリュテの敵ではない。
「上手いな」
ヒッポリュテの突き上げを、少女は後方に飛んで躱していた。身のこなしが柔軟で、戦いにも慣れている。刀を振り回すだけではないのは確かだ。
「わたしはヒッポリュテ。貴殿の名を問おう」
「……クロメだよ。あなた、サーヴァント?」
「如何にも。ライダーのクラスを得て現界している」
「ふぅん、やっぱりね。そんな感じがしたんだ」
クロメの持つ刀が禍々しい力を放ち始める。
サーヴァントの基準に照らせば宝具というべき逸品。クロメの世界ではこれを帝具と呼び、至高の武具として珍重される。
「サーヴァントはあまり好きじゃないんだよね。死体が残らないからさ」
地面から騎士が這い出してくる。鎧の種類は様々で、国籍も文化も異なる騎士たちだ。さらに、魔獣の類も続々と出現する。巨大な猫や狼、亀、虫と統一感はまったくない。
「一騎当千とは言うが、一人で軍を生み出すとはな」
「八房って言うんだ」
「死霊魔術とは違うな。霊体ではなく死体そのものを使役するか。先の魔獣にも命の気配がなかったのは、そういうことか」
「魔獣じゃなくて虫。しかも成虫化したヤツ、確かクロカタゾウムシとオニヤンマだったっけ? 虫は元が弱くても成虫化すれば災害級に強くなるものなんだけど、サーヴァントが相手だとさすがに辛いかな。骸人形だとなおさらだね」
「気分のいいものではないな。死と狂乱を司るアレスの娘が言うものでもないかもしれんが」
濃厚な死の気配。
ヒッポリュテも死者であることを考えると、この場にいる生者はクロメただ一人だ。
斬り殺したものの死体を使い魔として操る刀。武器としての性能以上に、その能力が厄介だ。強い敵を倒せば倒すほど、軍隊として強化されていく。もちろん、無尽蔵に数を増やせるわけではないだろうし、クロメの言うとおりサーヴァントは死ぬと死体が残らないので、万が一ヒッポリュテが敗死したとしても死後にヒッポリュテの力が利用される心配はない。
なるほど、確かに自分が相手をするに相応しい。
「いいだろう。死人の軍勢、相手にとって不足なし。いざ、参る」