異世界ヒロインが召喚される世界で好き勝手する話 作:もう万体
クロガネ大公国とノワールとの戦は、クロガネ大公国が経験した戦としてはここ数十年で最も大きなものものであった。大陸西部の覇権を握る大国であるが故に、対等な敵は存在せず、主な戦は反体制派との小競り合いだ。周辺にはクロガネ大公国に否定的な国もあり、そういった勢力との国境線を巡った争いは何度もあるが、互いに兵力の損耗を避ける意味合いもあって、長引くような戦い方はしてこなかった。
クロガネ大公軍は戦の経験は豊富だ。だが、それは対等な軍事力を持つ相手との死力を尽くした戦いではなく、戦う前から優勢が決まったものが大半だったと言えるだろう。
軍事力だけで見ても、魔法騎士の数やヒロインの数で周辺諸国を圧倒する。戦えるヒロインを複数擁しているという事実だけでも、抑止力になるというほどだから、クロガネ大公国の軍事力があれば大陸の覇権を手放すようなことはあり得ないだろう。たとえ、中核となるヒロインを失ったとしても、それだけですべてのヒロインが消えてなくなったわけではないし、騎士団は依然として健在だ。大火力かつ利便性の高い西洋魔法を効率的に運用する魔法騎士の質は他国を遥かに上回る。長年、国力を魔法教育に費やした結果である。
千年以上の月日を、ヒロインの血と知識を取り込むことに費やしてきた成果が、クロガネ大公国の繁栄に繋がっているのだ。
敗北は疎か、苦戦すら想像できない大軍と装備を送り込むことでノワールとの戦は始まった。
開戦から二ヶ月が過ぎようとして、予想以上に戦況が思わしくない。ノワールの頑強な抵抗は続いていて、大公軍は北方路も南方路も攻略できないまま、進軍すらも停滞していた。
クロガネ大公国の首脳部だけでなく、戦を推移を見守っていた多くの周辺諸国が、この戦は短期の内に終わり、ノワールはついに建国以来続く独立を手放すことになると予想していた。
いくら険しい自然に囲まれた領国であっても、さすがに軍事力が違い過ぎる。結果は火を見るよりも明らかだと。
しかし、蓋を開けてみればノワールは善戦しており、大公軍の侵攻を二ヶ月に亘って食い止めている。
撤退させるには至っていないが、防衛線の突破も許していない。
この状況はクロガネ大公国側からすればすでに敗北に近い。
大軍を動員していながら、小国すらも落とせないほど弱体化しているのだと、声高に喧伝しているも同然だからだ。
その結果、反クロガネ大公国を標榜する勢力が勢い付き、ブリンクウォール軍の助けを借りて鎮圧に乗り出すという悪循環に陥っている。
「シュゴ様、お身体の具合はいかがですか?」
ここ数日、グレアムが咳き込んで微熱が続いているのである。
ベッドの上で身体を起こしたグレアムはため息交じりに呟いた。
「まあまあだ。昨日よりはマシになったとは思うがね」
「それはよかったです。朝食も今日は全部食べられたようですし、いい傾向ですね」
「二日もまともに食べていないとさすがに空腹は感じる。それに、そろそろ無理にでも腹に物を入れないと、とは思ったからね」
「よいことです。栄養はきちんと摂らないと、体力がなくなっていく一方ですからね。後はお薬をちゃんと飲んで、しっかり休むことです」
「君が持ってくる薬は苦くていかんな。その分だけ効きそうではあるが」
「選んでいるのはわたしではありませんから、そんな風に仰ってもどうしようもありません。元気になったら、薬師に直接お伝えください」
「ああ、そうしよう」
グレアムの薬はバーナードが派遣した大公家直属の薬師が調合したものである。その薬師は魔法使いで、市井に出回るものではない高価な霊薬を使って薬を調合している。これを服薬すれば大抵の不調は改善するだろう。
「もう少し即効性のある薬をお願いしたいところだな」
「わたしは詳しくないのですが、お薬というのは身体に負担がかかるものも多いようですから。あまり即効性ばかり求めると、逆効果になるということもあるらしいですよ」
「薬も過ぎれば毒になるか。魔法絡みの霊薬とはいえ、そこは変わらんということか」
もっと強い薬がないわけではない。それが処方されていないのは、グレアムの体調や体力、体質と必要性を考慮した結果だ。
マルガレータの言うとおり、薬には大なり小なりリスクがある。生来、身体の弱いグレアムが服用することを考えれば、万が一に備えて強い薬は控えることになる。
これが命の危険のある病気であれば別だが、今のグレアムの不調は元々の虚弱体質と精神的な不調が重なった結果でしかなく、魔法で無理に改善を進めれば心身のバランスを崩してしまう。
グレアムが体調を崩した遠因に、ノワールとの戦があるのは間違いない。
グレアム個人に武勇はなく、戦果と呼べる物はほとんどないが、一方でハリマという広大な領地を持つため保有する軍事力だけならば相当なものだ。ノワールにも家臣を名代として派兵している。皇子の軍ということもあって、最前線には投入されていないが、それでも家臣を案じるグレアムは心身に負担を強いられている。
何不自由ない悠々自適な療養生活が果たしてどこまで続けられるだろうか。
今回のノワール侵攻が何もクロガネ大公国に利をもたらさないことは明白である。それを止める手立てがないのが口惜しい。今のところ国民に直接的な被害は出ていないが、このまま長引けば国民生活にも支障が出ることだろう。
すでに苦戦の噂は国内に広がっている。
ノワールとの戦いで落命したユーノ皇子の弔い合戦という大義名分はあるものの、国民の理解が得られているとは言いがたく、勝利が見えない戦いに世論は分断の危機にある。
政治から距離を取ってきたグレアムではあるが、決して馬鹿ではない。
生来の悲観的性格もあって、クロガネ大公国が置かれた状況を客観的に見ている。
広大な領地を経営するには、それだけの経済力が必要になる。戦には膨大な戦費が必要で、人材が失われれば補充は困難。戦を仕掛けるのならば、何としてでも勝利しなければならないし、犠牲は最小限に抑えなければならない。
特に今回の戦はクロガネ大公国にとっても久しぶりの大戦だ。
ノワール一国にそこまで必要なのかと思えるほどの大盤振る舞いをしている。
それだけ大公バーナードのノワールへの悪感情が強いことの表れだが、だからこそ状況悪化は深刻だ。
ノワールを下したところで、元来小国で特筆した経済的恩恵のないノワールを得たところで、この戦でかかった費用を賄えるほどの利益は得られない。ノワール国民から徹底して搾取するにしても限界がある。投じた戦費に対して得られる利益が少なすぎるというのが、最大の問題点だ。安全保障上もノワールはまったく問題のない相手だ。ユーノの死は痛手だったが、ノワールがクロガネ大公国に攻め込んでくる確率は低いのだ。
総じて、この戦そのものに価値を見いだせない。それどころか苦戦続きでこのままでは収支は大幅なマイナス。それも将来に亘って尾を引くレベルの大赤字だ。このままではバーナードの治政の最大の汚点となるだろう。
もしも、このまま悪い方向に転がっていったらどうなるのか。
第一皇子のグレアムは否応なく表舞台に引きずり出されることになる――――可能性はある。あるいは、表舞台に出ることなく、歴史から消えることを余儀なくされるか。
不安ばかりが日に日に大きくなり、心労を増していく。薬で一時的には回復しても、心労の原因が取り除かれない限りは本調子に戻ることはないだろう。
自分のことながら、ずいぶんと無責任でお調子者な身体であると呆れるばかりだ。
「今日も政務はお休みになりますか?」
と、マルガレータは尋ねた。
グレアムの顔色は昨日に比べるとよくなっている。血色が戻ってきたのはいい傾向だ。
「いや、できる限り対応しよう。何と言っても戦時中だ。私の立場でいつまでも寝ていてはな」
ハリマは物資調達の最前線だ。
グレアムがいなくともシュゴダイが長年治めてくれているとはいえ、やはりシュゴの一声の価値は大きい。
前線に出られないのなら、せめて書類仕事くらいはこなすべきだ。
無責任と自重した直後ではあるが、シュゴとしてこの非常時にできることをするという当然の意識は持ち合わせている。
「あまり無茶はなさいませんように。お願いしますよ」
「自分の身体はことはよく分かっているつもりだ」
「そう仰る殿方は大抵無理をするものです。ですが、気持ちが乗っているときに仕事をするというのも、悪いことではありませんし、ほどほどにしてちゃんと休んでくださいね」
「分かっている」
マルガレータは空いたグラスに水を注いだ。役目を終えた薬包紙を回収し、花瓶の水も取り替える。グレアムは病人なので、あまり長々と雑談をするのも憚られる。
「それでは失礼します」
マルガレータはグレアムの私室を辞した。グレアム一人のための屋敷だが、第一皇子の屋敷というだけあって、それなりに広さがある。これをメイドと執事で十名で運営しているのだから重労働だ。グレアムが使用人に厳しく当たる人柄ではないというのは幸いだ。
マルガレータ――――マタハリはサーヴァントだ。他の使用人のように重労働で疲弊するということはそうそうない。精神的な疲労感はあっても肉体的には人間を超越しているからだ。それに、メイドの真似事も生前に経験がある。今でこそ人間霊から昇華した英霊などというカテゴリにいるものの、生前のマタハリは上流階級の人間ではなく、貧困や一家離散を経験した苦労人だ。戦うよりもメイドとして働く方が性に合っているかもしれない。サーヴァントとしては最低だが、こればかりは得手不得手の問題だ。すべての英雄が武勇で名を挙げたわけではないのだから、サーヴァントになったからといって戦闘能力を求められるのは心外である。中にはクリミアの天使のような例外も存在するにはするが、マタハリはそういった武勇には生前も今も無縁である。
同僚たちに会釈をして、後片付けをする。
メイド服を着ているとき、マタハリはマルガレータの仮面を被る。
大公バーナードがグレアムに付けたスパイであり護衛。それがマタハリの役目である。メイドとして近くに侍り、時に大衆に溶け込んで情報収集を行う。
身体が弱く政治的な力の不足したグレアムを、反体制派が抑えて旗頭にしないようにするためだ。
マルガレータの人好きのする笑顔は、普通の人間ならば一目で彼女に好感を抱く。
メイドの中では新入りながら、グレアムの私室に自由に出入りしたり薬を届けたりできるほどに信頼を勝ち得たのは、アサシンクラスに割り当てられるだけのことはある。
「マルガレータ、旦那様のお加減は如何でしたか?」
尋ねてきたのはミリアというメイドである。まだ若く少女と言ってもいい年頃だ。マルガレータの次に新入りであり、今は仕事を覚えようと努力している見習いだ。
「ずいぶんとよくなったみたい。顔色もよかったし、ちゃんとお薬を飲めばきっとよくなるわ」
「よかったー。旦那様の蒼いお顔、ちょっと怖いくらいだったんです。魔法使いの霊薬って、やっぱりすごいんですね」
「旦那様が心配?」
「もちろんです。旦那様にもしものことがあったらと思うと。わたし、今月も何かと入り用ですのに」
さめざめと泣いた振りをするミリアにマルガレータは苦笑する。
「なら、お仕事頑張らないといけないわね」
「はい……はい?」
マルガレータの視線はミリアの背後に向けられている。背筋を震わせる悪寒に振り返ると鬼のような形相をしたメイド長が腕を組んで立っていた。
「げえ、メイド長」
「ミリアさん。仕事をほったらかしにしてミス・マルガレータの邪魔をなさるのは如何なものでしょう。東館倉庫の片付けの報告、まだ上がっていないようですが?」
「は、はい、すみません! 雑巾の水を取り替えに来てまして……すみません、すぐ戻りますーーーー!」
蛇に睨まれた蛙かと思えば脱兎の如く走り去っていく。
賑やかな少女だ。まだまだ覚えることがたくさんあって未熟だが、前向きで明るい。
「マルガレータも、あまり甘やかさないでください」
「そうですね。元気があって、可愛らしいと思ってしまって」
「仕事中は仕事に集中してもらわないといけません。サボり癖をつけてしまったら元も子もありませんからね。このお屋敷に務めるメイドには、国民の目が常に向けられているものと思って身を引き締めて職務に励まなければなりません」
「仰るとおりです」
「あなたはそろそろ交代の時間でしょう。それが終わったら、上がっていいですよ。一晩お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。それでは、お言葉に甘えますね」
マルガレータは夜勤の当番だったのだ。
第一皇子の屋敷というだけあって、警備は厳重だが身の回りの世話をするメイドも何かあれば動かなければならないので、シフトを組んで夜勤当番を回している。
メイド長がミリアの様子を見に行って静かになった。時折聞こえてくる物音はメイドの誰かが掃除をしている音だ。
マルガレータは更衣室でメイド服を脱ぎ、市井の人々と同じ服に着替える。裾の広いワンピースにカーディガンのように袖口の広い一枚ものの上着を羽織る。ここが日本であれば和洋折衷の衣装であると感じただろう。
クロガネ大公国の成立には日本の文化圏からやって来たヒロインが深く関わっているという。
その痕跡は地名や衣装、建築様式に至るまで様々なところに見ることができる。
(異国情緒ってものかしらね)
マルガレータには日本の知識はない。彼女の生まれはオランダであり、活動拠点はフランスだった。一時期インドネシアにいたこともあったのでアジアと無関係というわけではないのだが、日本が一躍知名度を上げた日露戦争の頃にはインドネシアを離れてフランスに渡っており、結局日本は地球の裏側の遥か遠い異国でしかなかった。
それが不思議なことにサーヴァントとなって、さらにまったく本来の世界と異なる異世界に呼び出されてから日本文化の一端に触れることになるというのは不思議なこともあるものだ。
もちろん、クロガネ大公国の文化様式は日本のそれとはまったくことなる。根が同じでも千年以上もこの地の気候風土に合わせて変化してきたために、面影を残すという程度になってしまっているが、奇しくもそれは西洋に伝わった誇張された日本像にも近しいものがあって面白い。日本そのものではなく、『東方見聞録』の世界を見ているような気分だ。
彼女にはサーヴァントになったおかげで日本のことが知識としてインプットされており、クロガネ大公国の日本風文化と彼女自身の日本知識の差異がそのように思わせるのだろう。
更衣室を出たマルガレータはそのままエントランスに向かう。廊下の角を曲がったところで、ばったり見知らぬ少女に出会った。
驚くほどに可愛らしい茶髪の少女だ。
クロガネ大公国の民族衣装を着ているが、この辺りでは見かけない顔である。当然、この屋敷のメイドでもない。
目を引くのは大きなバスケットだろう。中には大ぶりのリンゴとブドウが入っているのだが、彼女からは行商人のような印象は受けない。どちらかというと知識人階級にいそうではある。肉体労働は似合わない。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
警備のための騎士が常駐する第一皇子の屋敷の廊下にいるのだから、屋敷にいる誰かの関係者だろう。そうでなければ、入り口で止められて敷地の中に入ることすらできない。
「あなたがマルガレータさん、ですか?」
答えはなく、逆に少女が質問をしてきた。
「ええ、そうよ。わたしに何か用?」
「はい、大事な用事がありまして。ええと、わたしのご主人様からの言伝とお届け物です」
少女はバスケットの中に手を突っ込んだ。リンゴとブドウを押しのけてごそごそとバスケットの底を探っている。
少しどんくさいところもあるのか、少女はなかなか届け物をバスケットから取り出せないで苦戦している。
その様子を見て微笑ましく思ってしまうマルガレータは、初対面の彼女に何か声をかけたほうがいいだろうかと思案していた。
マルガレータはグレアムの監視と護衛のために、バーナードが送り込んだメイドだ。ヒロインであり、この世界に旧知の相手などいない。伝言や届け物をグレアムの屋敷に届けさせるような人間は思い当たらず、マルガレータが仕事を終えて外に出てから声を掛ければいい話でもある。
この屋敷は第一皇子の屋敷。部外者が足を踏み入れること事態、容認されないのだが、マルガレータはそんな当たり前のことを完全に見落としていた。
仮にこの少女に何かしらの悪意があったとしても、マルガレータに声をかける理由はない。そのような因縁をこの世界で持ったことがないからだ。そして、グレアムを狙うのならやはりマルガレータを相手にする理由がない。
そもそも、このような可愛らしい細腕の少女に、何ができるというのか。魔法騎士が警護する屋敷の中で事を荒立てたところで、すぐに取り押さえられるに決まっている。防御結界もあるのだから、不意打ちでグレアムを狙っても目的を達することは困難である。
特筆して警戒するに値しない。
マルガレータは知らないことだが、警備の魔法騎士たちも、敷地に入ってきた少女が「マルガレータの知人」だと言われて納得して通した。屋敷で働くメイドに友だちが会いに来たというだけの話である。少女を見かけたメイドたちも「警備が通したのだから誰かの知り合いだろう」と思って誰一人として気に留めなかった。
結果、少女はマルガレータの目の前にやって来た。
堂々と門を潜り、エントランスを通って、すれ違うメイドや騎士に気さくに挨拶まで交わしてだ。
そうして、今、マルガレータと二人だけの状況が生まれた。ここは使用人だけが使う廊下の片隅で、誰の目も届かない完全な死角となっていた。
「あ、ありました。ごめんなさい。整理が苦手で」
「いいんですよ。あまり慌てないで」
「ありがとうございます。――――
少女がバスケットから取り出した何かがきらりと光を放つ。その瞬間の魔力の発露をマルガレータは自分の胸元で感じた。
「え……?」
何が起こったのか、脳が理解を拒んで呆然としてしまう。
マルガレータの豊かな乳房の間に、深々と一本のナイフが突き刺さっていた。
戦闘を苦手とするタイプとはいえ人間の規格を優に上回るアサシンのサーヴァントが、完全に不意を打たれた。
ナイフは霊核たる心臓の中心を正確に貫いている。
痛みすら知覚できないまま、マルガレータ――――マタハリは踏鞴を踏んだ。
「本当にごめんなさい。でもマスターからの命令なので」
「あなた……サーヴァント……」
「はい。あなたと同じアサシンです。バーサークっていうのが頭に付くみたいですけど」
「く……」
アサシンがアサシンに暗殺されるなどというのは、まったく笑えない、情けない話だ。
「あ、伝言があったんでした。マスターから、これからよろしく、だそうです。はい、わたしも同じバーサークアサシンとして一緒にお仕事できそうで嬉しいです」
「何を……ぁ……」
マタハリの胸に突き立つナイフを少女が引き抜いた。
ただのナイフではなかった。
刃に当たる部分が光を反射しないほどに真っ黒だ。
山の翁が使用する短刀が黒塗りをして目立たないようにしていると聞いたことがあるが、この黒さは別物だ。
魔術に疎いマタハリでも分かるほど濃密な呪詛の塊だ。
恐らく、魔術知識が皆無の生前ですら、これを目の当たりにすればその異様さに恐れおののいていたことだろう。
ナイフが穿った心臓の傷から黒い染みが広がっていく。
霊核が貫かれても霊器の崩壊が始まらない。
マタハリに戦闘続行スキルはない。心臓を貫かれれば、死ぬほかないはずなのにその兆候はなく、ただ激しい悪寒に全身が震える。
呪われた。
間違いなかった。
マタハリの霊核に直接何かよくないものが埋め込まれたのだ。
最早、どうしようもない。
マタハリに自分の心臓に撃ちこまれた神話級の呪詛に対処する術はない。
心臓を穿たれてもマタハリは死なない。
ただ、呪詛が広がりきった後のマタハリがそれ以前の彼女と同一のパーソナリティを維持するかというとはそれはない。
染みが脳に達した時、マタハリの意識は闇に飲まれた。
マタハリが呪詛に気づいてから時間にして十秒もかからなかっただろう。
「この後、お話できますか?」
と、少女はマタハリ尋ねた。
「ええ、いいわ。わたし、ちょうどお仕事明けなの」
ナイフで心臓を突かれたとは思えないほど明瞭にマタハリだったものが返答した。
「気分はどうですか?」
「悪くないわね」
「マスターの認識は」
「さあ。これからあなたが紹介してくれるんじゃないの?」
「そうでした。でも、今までと違うということは……」
「それくらい感じてるわ」
やや苛立っているような刺々しい空気を孕んだ答えだ。マタハリの柔和な雰囲気が崩れて、攻撃性すら感じさせる。
黒い泥の影響で変質したからであろう。人間を発狂させるほどの呪詛。霊的存在であるサーヴァントの天敵であるそれは、サーヴァントを狂わせて作り替えることを可能とする。
「では、帰りましょう」
「ああ、待って」
「はい」
「あなたの名前を聞いてないわ。お互いアサシンじゃ分かりにくいでしょう」
「……確かに、そうですね」
少女は納得して頷いた。
「わたしはコルデーです。シャルロット・コルデー。これから、よろしくお願いしますね」
そして、満面の笑みで真名を明かしたのだった。