異世界ヒロインが召喚される世界で好き勝手する話 作:もう万体
マオの苛烈な快楽調教の果てに陥落したアリーシャだが、ディアナ同様にクロガネ大公国の最前線で指揮を執っていたということからすぐにノワール陣営に鞍替えして活躍してもらうというわけにはいかない。少なくともこの戦が片付くまでは目立つ行動はさせず、裏方に徹してもらうことにする。
つい先日まで敵軍の指揮官だったヒロインが、マオの側近かと思うほど近くにいるというのは、やはり外聞はよくない。人目を忍んで抱くことはあっても、表だって近くに置くというのも避けなければならなかった。
ディアナもアリーシャも実力は確かだ。そして内政面でも能力がある。聞けば元の世界でも騎士をしつつ政務を執っていたというしアリーシャは一国の姫でもあったという。そしてノワールとは比較にならない整った官僚組織を有する大国で、武力一辺倒ではなく組織運営にも関わっていたという点も評価すべきだ。
この世界の事情にも通じているというのは大きい。前の世界とこの世界で共に政治に関わっていた経験を活かさないのはもったいない。
だからこそ、今は温存しておいて役職を与える頃合いを見計らわないといけないのだ。
とりあえずは、マオの屋敷でノワールのことを学ばせながら、この国に馴染んでもらう。
メイド兼護衛として、アリーシャとディアナはマオの屋敷に起居することになった。
もともとマオの屋敷の使用人は少人数だ。魔術や魔法による鉄壁の防護に多様な使い魔がいるおかげで人手が掛からないのである。そして、そんな少数の使用人の一部には休暇を与えている。クロガネ大公国の侵攻による万が一に備えてそれぞれの実家に疎開させたのである。そのため先代の頃に比べてずいぶんと屋敷の中が寂しくなった。古くから仕える使用人の中にはそんな風に漏らす者もいる。
その一方で明るくなったと捉える者もいる。人数こそ少ないが、年若く美しいヒロインたちが次々に加入しているので、平均年齢は若返っているし華やいでいるのは間違いない。
マオの女癖は今に始まったことではない。
英雄色を好むという言葉はこの世界にも浸透している。
一国の統治者が複数の妾を持つことは珍しいことではなく、ましてヒロインが相手なら誰も文句を差し挟む余地はない。
ヒロイン信仰が未だに強く残る大陸辺境のノワールだ。
ヒロインがマオの元に集まる状況は異様な光景であると同時に新時代の到来を強く印象づけることにもなっていた。
アリーシャは独房から解放された後で、マオの屋敷にそのまま連れてこられて面食らった。
ディアナはすでにこの屋敷で生活しているのだが、さすがに無防備に過ぎるのではないかと思った。
マオにすっかり絆されて、逆らう気などさらさらないが、だからといって何の拘束もなく一国の領主の屋敷で生活させるというのは、非常識と言うほかない。
(凄まじいな……)
屋敷の中に入った途端に空気が変わったのを感じた。
アリーシャの知らない系統の魔法ないし魔術の気配だ。幾重にも重なる不可視の魔法陣が、屋敷全体に鉄壁の防御を敷いている。クロガネ大公国の魔法騎士であっても、単独での突破はまず不可能。魔法大隊の大魔法一斉掃射すらも、屋敷の壁に亀裂一つ入れることは叶うまい。
魔法使いでもなければ魔術師でもないアリーシャには、この屋敷を守る術式がどのようなものかと読み解く力はないが、それでも自分がいる環境の状況を推し量れないほど耄碌してもいない。
(この守りは大公殿下の執務室にも引けを取らないな。あそことは空気感が違うが)
アリーシャが思い浮かべるのは、クロガネ大公国の宮殿の最奥部。歴代大公の執務室だ。大公国建国当時からその位置と役割を変えないのは、そこが大公国内で最も安全だからだと言われている。
アリーシャ自身も一度しか訪れたことがないが、空気感が執務室の内外では明らかに違っていたのを覚えている。
後に聞いた話では、大公国最古にして最強のヒロインが今でも執務室にいて、大公に敵対した者はこの世から完全に切り離された別世界の監獄に連れ去られてしまうのだという。
どのようなヒロインなのかはトップシークレット。
誰もその姿を見たことがなく、名前も伝わっていない。唯一、大公を継いだ者のみが、彼女の庇護を受けることができる契約なのだとされる。
そんな眉唾ででたらめな話を思い出すほどには、マオの屋敷の厳重な守りは脅威的だった。
大公の執務室の伝説は大部分が伝聞だが、今アリーシャを包む数多の結界は現実の脅威だ。実感としてはこちらのほうが数段上の脅威度と言えるだろう。
とはいえ、どのような発動条件があるにしてもアリーシャに反応するということはなさそうだ。
マオがアリーシャを迎え入れたことで、結界はアリーシャを味方と判定したらしい。
屋敷の守りに慄然としていると、はつらつとした声が飛んできた。
「こんにちは! あなたが、新人のヒロインさん?」
声の主は広間にいた赤毛のメイドだ。
明るくはっきりとした口調でアリーシャに微笑みかける。
結界に意識を取られて、彼女に気づかなかったことを恥じ入る。
「アリーシャ・ディフダです。あなたは」
「藤丸立香。タメ口でいいよ。歳、近いし」
「……そ、そうか。それでいいなら」
アリーシャは毒気を抜かれた様子で戸惑いながら答えた。
今もクロガネ大公国の侵攻は続いている。
ノワール人からすれば、アリーシャはマオに屈したとはいえ気楽に心を許せる相手ではないだろうに、立香はそんなアリーシャの不安を易々と飛び越えてきた。
「あなたもヒロインなのか?」
「そう。そして今はマオさんに仕えるメイドです。じゃ、さっそくだけど屋敷の案内するね」
「……あ、ああ、助かる」
「先にあなたの部屋に荷物置いてからにしようか。着替えの必要はある?」
「いや、このままで大丈夫だ。むしろ、わたしもその服を着た方が良いんだろうか?」
「メイド服? アリーシャはまだ初日だし、そのままでいいよ」
立香に裏表はなさそうだ。
彼女はアリーシャには好意的……に見える。
まだ不安はあるが、話ができる相手がいるのといないのでは大違いだ。少なくとも立香は歳も近そうだし、同じヒロインという立場もある。性格も悪くはなさそうなので安心した。今後の生活がどうなるかは未知数だが、身も心もマオに従うことを決めた今、ここで生きていくしかない。
立香に案内されて廊下の向こうに消えて行くアリーシャを上階から見送ったマオの背後から甘い香りが漂ってくる。
音もなく現れたのはマーリンだ。
「あの娘はうまくいきそうかい?」
と、尋ねる。
「根は真面目で責任感が強そうだからな。ドライな思考ができるディアナのように簡単に割り切りはしないだろうが」
「そのための立香ということか」
「立香の強みはコミュニケーション力だ。アリーシャみたいなタイプには、いい相談役になるはずだ」
立香は戦闘タイプのヒロインとしては他のヒロインよりも格落ちする。魔術の知識は皆無だし、武術の心得もない。一般人に毛が生えた程度だ。一方で、他者と心を通わせる力は群を抜いている。癖の強いヒロインが多い中、立香はヒロインたちの間に立って緩衝材になれる逸材だ。ある程度力のあるヒロインが整ってきた後は、立香のような調整役を担える人材の重要性が増していくのは目に見えている。
アリーシャの新人教育を立香に任せるというのは、アリーシャのためというだけでなく、立香の今後を見据えての試金石でもあったのだ。
■
戦局は悪化の一途を辿っていると口には出さないが感じている。
黒い森を探索しながら妃崎霧葉は思案していた。
北方路と南方路を進むクロガネ大公国軍はどちらも足止めされて、進軍は停止している。
開戦前は早々に決着が付くと楽観視されていた戦も、先行きが見通せないという中で、主力を務めているヒロインも次々と脱落しているという情報が入ってきている。
もちろん、そのような誤報は士気に関わるため、断固として口に出してはならないと厳命されているのだが、前線で戦う騎士たちには当然に伝わっている。
北方路も南方路も苦戦し、人的損失は甚大だ。
それでも兵を引くことができないのは、この戦が大公個人の意思のみで決定したからだろう。
息子が戦死した件でノワールの責任を追及したいというのは理解できる。しかし、ノワールがどこまで関わってのことだったのか、実のところ明確ではないし、反体制派を鎮圧する過程で多数の犠牲者を出していることからも今の政権の支持基盤は揺らいでいる。
叩きやすい小国を生け贄にして覇権を維持しようとしているのか、息子の件での私怨なのか、あるいはその両方か。何にしても、この戦の必要性を理解している者はまずいない。それでも、個人の判断で軍を動かせるほどに大公の権力は強く、だからこそ大公自身が心変わりしないことには戦は終わらない。
(独裁国家の欠点ってわけね)
霧葉は小さくため息をついた。
正直、大公個人にもクロガネ大公国にも思い入れはまったくない。
この世界に迷い込んだ時に、たまたまこの国の領内だったというだけだ。世界情勢を学び、今後を考えるためにも、環境を整える必要があったし、クロガネ大公国は近隣諸国に比べて突出した国力があったので都合がよかった。
それが、まさか小国相手にここまで振り回されるとは思っていなかった。
戦の混乱に任せて逃げるというのも、一つの手ではある。この世界のことは十分に学習したし、仕事を通じて他の勢力の情報も得ている。自分のヒロインとしての価値も分かっている。となれば、それを他国に売り込めば、それなりの待遇は得られるだろう。
もちろん、それは簡単なことではない。広大なクロガネ大公国の領土を見つからずに抜ける必要があるが、どこもかしこも戦時中で厳戒態勢が敷かれている上に霧葉には監視魔法がかかっている。東は反体制派の拠点で北は同盟国、西は戦の真っ最中とどこへ行ってもクロガネ大公国の問題からは逃げられない。いっそのことさらに東を目指して旅ができればいいが、未知の旅路のリスクも付きまとっている。
霧葉は空を見上げた。
鬱蒼とした枝葉の間からごく僅かに星が瞬いている。
魔法が使えないと騒いでいた謎の現象は、ノワールに近づくほどに強くなる。山道を歩きながら、霧葉もそれを実感していた。
霊力で身体強化しているが、その出力が低下してきているのだ。
霧葉の呪術でこれなら、クロガネ大公国の魔法使いたちはもっと苦戦するに違いない。
思えばヒロインたちの行方が分からないのも、この現象のせいだろう。
重要戦力のヒロインの居場所を見失うということ自体が異例だ。
監視の目を掻い潜る者もいるにはいるが、戦場で尽く行方をくらますというのは、意図したものではない。ノワールの領内で監視の魔法すら機能しなくなったと考えるのが筋であり、ならば、それに乗じて戦線離脱という手を取ることはできるだろう。後は行き先の問題があるが、監視を振り切ったら南に行く。海に出て、海路で東を目指す。それくらいしか選択肢がないが、一番現実的だろう。
監視魔法が弱まってノイズが走っているのを感じる。霧葉とは異なる性質の魔法なので、詳細まで把握していないが、これがGPSのようなものだということは知っている。位置情報を把握するだけで、会話や現場の状況までは監視者に伝わらない。
山道を歩くこと、二時間弱。軽く息が切れてきた。監視魔法はほとんど機能しておらず、おそらく監視者側には、霧葉の位置情報は途切れ途切れにしか届いていないだろう。
(そろそろ道を変えてもいいかしらね)
ポケットから取り出したコンパスを手に、方角を確認する。魔法が使えないという事前情報があったので、本格的な山登りの道具を一式揃えてきていた。服はクロガネ大公国の魔法使いが使うローブを羽織る。温かく袖には多くの荷物を収納できる。軽食やナイフ、火打ち石に頑丈なロープ、これだけあれば霊力が使えなくてもサバイバルは可能だ。
道と言うほどの道はない。
ただ日本にあるような下草が茂って足下もよく見えないような山道ではない。急斜面が続き歩きにくいが、見通しは悪くないので方角さえ間違わなければ戦場を抜けることは可能だ。
問題があるとすれば、南に進めば南方路の激戦地を横断しなければならないということだ。敵にも味方にも見つかったら厄介だ。耳をそばだてて、戦闘の音を聞き逃さないようにしながら斜面を南に歩いていく。
慎重を期しながら、それでも常人よりも早い速度で山道を歩く。湿った落ち葉を踏みしめる足を止めて、ニヒルに笑んだ。
「驚いた。あなたもこっちにいたの」
「色々あって」
霧葉の前に立ち塞がったのは栗色の髪の少女――――羽波唯里だ。
所属する組織は違うが年齢が近く、第四真祖が絡む事件では度々姿を見かけた縁のある相手だ。
自分がこの世界にいるのだから、同じ世界の出身者が他にいても不思議はない。それが、これほど自分の身近な相手だとは思わなかったが。
「羽波さんはノワールにいるということでいいのかしら?」
「うん、そういう妃崎さんはクロガネ大公国の人ってことだよね」
「さて……それはどうかしら」
「今のこの状況じゃ、そう判断するしかないよ」
「でしょうね」
唯里のそれは当然の判断だ。
単なる登山者などという言い訳が通じるはずもない。
「妃崎さん、とりあえず一緒に来てもらっていいですか」
「捕虜ということ?」
「そうなります。今は戦時下ですので」
申し訳なさそうに唯里は言う。
本質的にお人好しというのは唯里の美点だ。対人戦での陰湿な呪詛のやり取りならば、煌坂紗矢華のほうが厄介だっただろう。
さて、どうするのがよいか。
国際法などというお行儀のよいものがこの世界にあるとは寡聞にして聞かない。まして、自分はクロガネ大公国の一員という立場だ。一方的な侵略者の捕虜がどのような扱いを受けるのか、甚だ疑問だ。元の世界の伝手が目の前にいるが、どこまで信頼が置けるものか。
「……ノワールの捕虜の扱いは、どんなものかしら」
「悪くはないよ。もちろん、自由がどこまで認められるかは人それぞれだけど、霧葉さんはまだ直接こっちの誰かを傷付けたわけじゃなさそうだし、そこまで重い扱いにはならないんじゃないかな」
「そう。そっちの暮らしは?」
「幸せだよ。元の世界とは全然違うけど、必要な物は揃ってるし、ご主人様に愛してもらえるし」
「へえ、そう」
頬を朱に染める唯里は本気で言っているのだろう。日本から来た人間がご主人様などと言う辺りこの世界に毒されているようだ。
まず間違いなく相手はノワールの領主だろう。
女好きと悪い噂が立っている相手だ。唯里を手籠めにでもしたか。唯里はぞっこんのようだが、そんな相手の軍門に降るというのは、霧葉のプライドが許さない。
霧葉は現実的に物を考えられる女だ。しかし、自分を安売りする女ではない。降服するというのは選択肢としては有りだが、唯里のこの有様を見るにリスクも大きそうである。
そもそも唯里が洗脳されていないという保証もない。
現代日本で育った女子が、今の発言を本気でするかという話である。あまりにも不自然だ。
ノワールの領主が捕らえた女を手籠めにして洗脳を施し、周囲に侍らせているというのは方法は不明でも可能性を否定はできない。
「じゃ、妃崎さん、案内するけど」
「悪いんだけど、その話はなかったことにして」
「降服はしないってこと。ノワールの捕虜になるのは御免よ」
「え、そんな」
「今の話で捕虜になるメリットを感じなかったのよ、仕方ないでしょう」
「……なら、強引にでも降服してもらうしかなくなるよ」
「最初からそのつもりじゃなくて? そんな怖い武器持っているんですもの」
唯里の手に現れたのは、巨大な一振りの剣。
彼女が元の世界から持ち込んだ武神具
ただの乙女ならば持ち上げることすら難しい金属の塊を唯里は片手で振り回せる。霊力による身体強化のなせる技だ。
一方の霧葉の手には二又の槍がある。
霧葉にとっても唯里にとっても、同じ世界出身の知人と戦うのは、この世界で初めてのことだ。
二人同時に地面を蹴った。
唯里は前方に、霧葉は真横に飛んだ。
霧葉は山肌を滑るように下って、唯里から距離を取った。武器の性質を理解しているからこその判断だ。唯里の六式降魔剣・改の能力は空間切断。攻防一体の極めて強力な能力だ。そんな危険物と正面から斬り合うような真似はしない。
そもそも、霧葉の乙型呪装双叉槍は槍の形状をしているものの本質は刃の切れ味ではない。
「魔法の射手 連弾・火の十七矢」
驚く唯里に向けて、炎弾が放たれる。十七条の軌跡が網の目状に広がって唯里を包み込む。
乙型呪装双叉槍は他者の魔力や霊力を保存して、再使用できる。それは異世界の西洋魔法も同じだ。
襲いかかる火の魔法を唯里は剣を振るって迎撃する。
唯里が斬り裂くのは周囲の空間だ。
どれほど強力な攻撃でも進路が物理的に遮断されていては唯里に危害を加えることはできない。
赤熱する魔法の矢は唯里が斬り裂いた空間の亀裂に吸い込まれて消滅した。
「く……」
唯里は即座に後方に跳躍する。
六式降魔剣・改の能力は強力無比だが、その能力は刃の間合いにしか影響しない。それを知る霧葉は敢えて魔法の矢を散らして放った。結果、唯里に向かってくる火矢は消せたが、それ以外の火矢は消せなかった。
唯里の周囲半径五メートル圏内。
剣の間合いの外側に次々と魔法の矢が着弾して爆ぜる。魔法の火が落ち葉に着火してメラメラを燃え上がる。
「あッ、なんてこと」
「ふふ、早く対処しないと、山火事になってしまいわよ」
そう言うや霧葉は身を翻した。ご丁寧に風の魔法で土と落ち葉を吹き飛ばし、火勢を強めて唯里を足止めする置き土産月だ。
唯里が火を空間切断で消し去るまでの短時間のうちに、霧葉は遁走することに成功した。
走りながら時折後方を確認する。
唯里が追ってこないかということもあるし、ここはそもそもノワールの領土だ。唯里が自分を発見したように、監視の目が気づかないところに仕込んであるのかもしれない。
クロガネ大公国の監視の目が途切れた地点から考えて、魔法が使えなくなる領域は概ね検討がつく。そこからさらに踏み込めば、一方的に倒されることになるだろう。故に、霧葉が進むルートはクロガネ大公国の魔法が使えなくなるギリギリのラインだ。
霧葉はそこで猛然と湧き上がる魔力に歯がみして、槍を盾に飛び退く。トラックにでも跳ねられたかのような衝撃を軽くいなして、十メートルばかり地面を滑る。
(直前まで気配に気づかないなんて)
今度立ちはだかったのは身長二メートルばかりの鬼だ。
肌は浅黒く、人間とは比較にならない筋骨隆々な図体である。筋肉が盛り上がりすぎて身体は横に広がっているほどだ。
ステレオタイプの金棒だけで、霧葉の身長くらいの大きさだ。
これが、横合いから思い切り霧葉に振り抜かれのだ。
太い木の幹がへし折れているのが、その一撃の重さを物語っている。
「ノワールが飼ってる魔獣? それとも使い魔かしら」
『これは式神というそうですよ』
と、返事に期待したわけではなかったので、答えが合ったのには驚いた。
しかも、その声は透明感のある女の声だ。
「声帯、間違ってない? もう少し、見た目に合わせた方がいいのではなくて?」
『妃崎霧葉さん、改めて降伏勧告させていただきます。手荒な真似はしませんが、これ以上のノワールへの敵対行為は見逃せません』
「……さて、羽波さんから聞いてないかしら。わたしはまだあなたたちとは戦ってもいないのだけど」
『ノワールの領土内に入った時点でダメです。あなたはクロガネ大公国の人ですから、普段ならともなく今はそこにいること自体が敵対行為になります。例え、この機に乗じてクロガネ大公国からも離脱しようとしているのだとしても、わたしたちが見逃す理由にはなりません』
「……どうあってもわたしを掴まえたいってことね」
『申し訳ありませんが、あなたの事情に配慮はできません』
鬼は巨体に見合わない軽快な動きで霧葉に躍りかかった。身体能力は明らかに相手が上だ。斜面を下りながら放つ魔法の矢は鬼の表皮に傷を付けることもできなかった。
「ずいぶんと頑丈な。初級魔法じゃジャブにもならないってこと!?」
『上手ですね。斜面を下れば、その分だけノワールから離れられる、つまり魔法がより使いやすい環境になると分かっているんですね。微々たる違いでも、あるのとないのは違いますよね』
「そんなに考えていると思う?」
『もちろんです』
そう言って、鬼は金棒を振り下ろす。右に避けた霧葉に、今度は鬼の左腕が迫っていた。横薙ぎのフックを伏せてくぐり抜けるとぐるりと身体を反転させた鬼が振り上げたかかとが襲いかかってきた。
「ッ……!」
流れるような連撃を霧葉は風の魔法が爆発させて自分を吹き飛ばして凌いだ。
身体の至る所がヒリヒリする。
風の爆発は身体強化をしている霧葉にも少なくない痛みを与えている。
「この鬼……!」
顔を上げれば鬼が霧葉に向かってきている。
苛立ち紛れに毒づくが、それで事態は好転しない。
最大火力の魔法を叩き込める地点まで後退しなければ、霧葉の手持ちの魔法では決定打に欠ける。
ここでこれほどの難敵が出てくるというのは運が悪いとしか思えない。
『あなたの武器のことは知っています。あとどれくらい、魔法は残っているのですか? 最大の攻撃手段は? この鬼を倒す算段があるとすれば、何ですか?』
「よくしゃべる鬼だこと。そんなこと、いちいち説明するわけ……」
と、そこで霧葉は口を噤んだ。
戦いの中でも会話はある。相手の出方を窺ったり、挑発したりと目的は様々だ。この鬼――――正確には鬼を操る何者かも挑発目的だろうと考えていたが、どうにも妙だ。
挑発目的とは思えない質問。その上で具体性がある。そもそも、初めから霧葉がクロガネ大公国を抜けるつもりがあるということにも言及していたし、先ほどの打ち合いでも霧葉の動きを先読みしているかのような立ち回りをしていた。
ひやりと背筋が寒くなった。
(まさか、この術者)
『はい、ありがとうございます』
鬼が視界から消える。否、有り余る身体能力で高速移動しただけだ。霧葉の後ろに回り込み、金棒を振るう。槍で受け止めるだけでは身体が耐えられないので勢いを殺すために衝撃を飛んで殺すしかない。進行方向とは逆方向、つまり山の上に押し戻される。山を下れば魔法が本来の性能を取り戻す。鬼はその進路を塞ぐように斜面の下に回り込んだのだ。
唇を切った霧葉は口元の血を舐めて、愛槍を構え直した。
全身に魔力を漲らせる鬼の身体はまるで巨岩のようだ。
機敏で剛力。おまけに鬼を操っているのは、恐らくは読心術の使い手だろう。
鬼は相変わらず外見に不釣り合いの可愛らしい声で冷酷に宣言する。
『燃える天空も雷の暴風もこんな山中で打たせるわけにはいきませんので、手早く済ませますね』
「舐めるんじゃないわよ」