「ただいま帰りました」
結局あの後、通常の稽古よりも強烈なメニューをこなして、狛治は道場に併設された自宅に帰ってきた。
「帰りましたー! 恋雪さーん?」
いつもなら玄関まで来て迎えてくれる妻の反応がなく、ちょっと不安になる狛治。
早足で自宅中を探すも恋雪の姿は見えず。
「あ、狛治さん。お帰りなさい」
「恋雪さん? 何やってるんですか」
休日にも関わらず人の気配がしたので、まさかと思って見てみれば、恋雪は道場の真ん中で柔軟体操をしていた。
「私ももう健康ですし、たまには体を動かそうと思って。皆がいないと広く感じますね」
準備は万端とばかりに狛治の道着で控えめに拳を握る恋雪に、可愛いな、と思いはしたものの。
狛治は首を緩く振って恋雪の手を取る。
「いけませんよ。稽古は激しいですし怪我もします。恋雪さんにはまだ早いです」
「もう、狛治さんったらそればっかり。許可がお医者様から出ているのは知っているでしょう?」
「ですが………」
「狛治さんのおかげで門下生も増えてきましたけど、今後ぜんそく持ちや疾患を持つ子が入ってきたときも、狛治さんはそうやって追い返してしまうおつもりですか?」
「……そんなことは」
「だから、私で試してください」
辛くなったら言いますから、と穏やかな笑顔を浮かべて、恋雪は見よう見まねで構えを取る。
「体の弱い子向けの指導練習だと思って、どうかよろしくお願いしますね、師範代」
「…………辛くなったら、絶対に言ってくださいよ?」
初対面でボコボコにされて以来、慶蔵には頭が上がらない狛治であったが。
最近は恋雪さんにも窘められるような会話が増えてしまったな、と苦笑いをするしかなかった。
「基本の構えはこう。もう少し腰を落として」
「はい」
「上体に力が入りすぎですね。下半身はどっしりと、上半身は土台にのせるようにして、楽にしてください」
「は、い。なかなか難しいですね」
とはいうものの、完成した構えは慶蔵のそれに酷似していて。
寝たきり生活が長かったため体力は絶望的だったが、武術の素養はなかなかのものだった。
正拳突き、裏拳、上段蹴り、中段蹴り、下段蹴りと初心者にイメージの付きやすい技を一通り教えると、難なく正しい動きをこなす。柔軟性も申し分なく、上段蹴りはやすやすと狛治の側頭部に届いた。
さすがにあの化け物の血を引くだけはある、という思いと。
これに味を占めて本格的にのめり込まれたら心配だなあ、という不安。
双方を半分ずつ抱えて、本日の稽古はお開きとなった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました。正直言って驚きました。あまり息も切れていませんね」
額を伝う汗を手拭いで拭ってやり、狛治は素直に称賛する。
「そ、うですね。準備運動が一番つらかったような気がします」
「まあ、走り込みは如実に体力勝負ですから。逆に型稽古は、正しい動きをするほど疲労が抑えられるので、恋雪さんに向いていたのかもしれません」
汗を拭くついでに髪を梳いて、ゆるく抱きしめると、なにやら普段と違って抵抗が強い。
なんだ発作か、と見つめる狛治に、恋雪は恥ずかしそうに下を向く。
「……あ、の。汗をかいてしまったので。あんまりその、ですね」
「ああ、そんなことですか」
「そんなこと……」
「看病のときにたくさん世話したではないですか。恋雪さんのなら全く気になりませんよ」
「私が気になるんです!」
「え」
ぱし、と狛治の手を払って、恋雪はそそくさと自宅の方へ歩いて行ってしまう。
なにか失敗しただろうか、と頭を掻いて狛治はその後を追った。
「はっはっは! お前は本当に不器用だなあ。可愛い奴だ」
「いたた痛いです」
狛治はジムでシャワーを浴びたし、先の稽古では息一つ乱れなかったので、風呂は遠慮し。
恋雪の湯浴みの時間で夕食の支度をしつつ慶蔵に先の話をしたら、笑いながらもみくちゃにされた。
「優しいかと思えば敵には容赦ないし、なかなか大事なことを言わないと思えば余計なことはポロっと言ったりする。恋雪も苦労しそうだ」
「そんなに厳しくしごいてませんよ」
「そういうところなんだよなあ」
盛った先から吸い込むように夕食を食べ終わり、慶蔵は半分、武人の顔になった。
「俺は用心棒の仕事があるから今夜は出る」
「ええ。お気をつけて」
そしてもう半分のいつもの顔を笑みの形にして、狛治にのほほんと言ってのけた。
「今夜はお前ら二人きりだからな。何をやっても構わないぞ」
「………しませんよ」
「体を労わるのと同じぐらい、心を労わるのも大事だと思うけどなあ、俺は」
そして慶蔵が去った後、狛治はぼそりと呟いた。
「……わかってますよ」
体調のこともあり、恋雪は酒を嗜んだことがなかった。
だからこれが初体験だ、と風呂上りに缶のサワーを開けてちょいと飲む。
鼻に抜けるアルコールの匂いと、喉が焼ける感覚、そしてふわふわとする心は何もかも新鮮であった。
鏡に映る自分を見る。見た目には異変はない。顔も別に赤くない。
習ったばかりの構えを取って、ふふふと笑い、恋雪は狛治の待つリビングに向かった。
「おかえりなさい、体調に変化はありませんか?」
「大丈夫ですよ、ふふふ」
「なにかいいことでも?」
「狛治さんとお揃いです」
「……………えっと?」
なんとなく会話が飛ぶなあ、と訝しそうに見る狛治の反応を楽しんで、夕食を頂いて、歯を磨き、寝ましょうかという流れになって。
さてここからが正念場、と恋雪は狛治の手を握った。
「狛治さん」
「………はい」
「私はもう、前ほど病弱ではありません」
「そ、のようですね」
ためらうなためらうなためらうな、と何度も唱えて、恋雪はきっと顔を上げる。
「体を動かすことも、お酒を嗜むこともできます。ですから、その………」
「恋雪さん」
決定的なことを言い切る前に、口を何かで塞がれて。
びっくりして目を見開くと、それは狛治の唇で。
「言わせてしまってすみません。十分です。受け取りました。恋雪さん」
ベッドに寝かされて、体重をかけないように上に乗られる。
態度と手付きは紳士的だけど。
―――ああ、彼は気づいているのだろうか。
その口元は仄かに歪んでいて、獲物に喰らいつかんとばかりに、八重歯が月明かりに光っていた。
「っ、っう、っ、ぁ」
「声を我慢すると体に毒ですよ」
「でも、だって、は、ずかしくて、んう⁉ ぅぅああっ」
歯を食いしばって声を我慢していたら、人差し指を口に差し込まれる。
「耐えられなかったら嚙んでください」
狛治の手付きは優しくて、恐ろしく正確だった。
恋雪が想像する場所に想像通りに触れてくれるため、体力が削られることはなかったが、想像通りゆえに確実に快楽は蓄積していく。
あとどれぐらいで自分が果てる、というのがありありと予想できてしまって、恋雪は羞恥で爆ぜそうであった。
「ぅぅうう、ぁぁぁああああああああっ!」
「可愛いですね。さあ、お水をどうぞ」
「べ、つにそんなに気になさらなくても………」
過保護マツゲ、と梅さんにさんざ言われていたのを思い出す。
そんな蔑称みたいな言い方は断じて受け入れられないけれど、過保護なのは本当だなあ、と恋雪はそんなことを考えながら、残りの体力をおぼろげに想像する。
「三割、ぐらいですか?」
ちょうど思っていたことをぴたりと当てられて、ひゅっと変な息が漏れた。
「な、んで………?」
「なんででしょうね。でも、外している気はしません」
いいですか? と中を引っかかれながら問われて。
頷くや否や、狛治の熱が覆いかぶさってきて。
「お、もくないですか?」
「大丈夫ですよ、狛治さん」
嘘、本当はちょっと重い。だけど狛治を遠ざけたくなくて、恋雪は手を回す。
自分より硬くて、自分より熱くて、当然のように自分の未来を見てくれていた夫を抱きしめて。
「あい、して、っはぁ、いますよ、んっ、狛治さ、ん」
「俺も、愛してます。恋雪さん」
ちょうどピッタリ図ったように。
恋雪の体力がゼロになるまで、狛治の寵愛は続いていった。
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「………真菰、おれは男か。ちゃんと男に見えるか?」
「そんなガタイで女に見えるわけないよね? 大丈夫?」
疲労困憊というよりは心神喪失といったていで帰ってきた鱗滝錆兎に、もうなんか色々と拗らせてるなあ、と真菰はため息をつく。
着替えを急かして風呂に入れ、熱いお茶を一杯挟んでようやく落ち着きを取り戻した錆兎に、真菰は頬杖をついてアイスを咥えながら言う。
「ずいぶん疲れてるみたいだねー。義勇が予想以上に強くなってたの?」
テーブルに頭突きを一発。
そして何事もなかったかのように錆兎はお茶をすすった。
「そうだな。ますます堅牢さが増していたように思う」
「いや、今のなに?」
「なにってお前………」
さて、ここが錆兎と真菰の非常に面倒臭い所であった。
まず現在。
錆兎と向かい合う真菰、下は短パン、上は上裸に半そでシャツ一枚。
それでアイスを咥えて頬杖ついて、言い換えれば上体を前のめりにしているわけだから、錆兎から見ればそんなもんただの毒でしかない。
だから錆兎はことあるごとに自分を痛めつける。これしきで揺らぐなど男らしさが足りないと。
頭突きをしたり腕立て伏せに逃げたり、時には二度目のシャワーで疑似滝行みたいなことをしたりする。
そして真菰は、誘惑こそ意図的にやるものの、錆兎のそれらが、誘惑に成功している結果だとはなぜか気づかない。気づけない。
『男らしい恋人』が『男らしくてたまに奇行に走る恋人』に変わっただけで、いつまで経ってもその先に進まない。
かくして、既に落とし穴にかかった獲物の周りに延々と別の罠を張り続けるがごとき行動がとられ続けるわけである。
「私も今日、久しぶりにしのぶちゃんと恋雪ちゃんと電話したよ」
「そうか。懐かしいな。元気そうだったか」
「うん、元気そうだった。しのぶちゃんはもう義勇と最後までしたってさ。どんな感じなんだろうねー、あの二人」
「どうだろうな。なんか変なこと言っていたような気もするけど、義勇のことだから傷つけたりはしないだろう」
「うん。偏見だけどしのぶちゃん自爆してそう」
「胡蝶さんはなあ、ちょっと思い込みが激しい所があるからなあ……」
「恋雪ちゃんはだいじにされてて不満そうだったよ。なんというか、女性としてじゃなくて宝物として扱われてる感じ」
「恋雪……ああ、狛治か。文化祭の出し物で貧乏くじ引いたとかで、三本線だらけの全身ペイントで練り歩いていた記憶しかない」
「妙に人気あったよね、アレ」
「ああ、格闘祭もそのまんま出させられてたな」
―――じゃなくて!
気が付くとこうなる。と真菰は自らにも原因があることを棚に上げて心中で呻く。
今の真菰が求めているのは幼馴染のノリではなくて、もっとこう、恋人としての雰囲気なわけで。
せっかく二人暮らしを始めたのに、これじゃあ何も変わりやしない、と席を立った。
そして風呂から出てきた真菰を見て、錆兎は思わず天を仰ぐ。
―――本当にもうこいつはいつまでも………。
「真菰、冷えるから早く服を着ろ」
体を凝視するなど論外だが、そっぽを向くのもいかにも意識していますといった感じで軟弱だ。
バスタオル一枚で出てきた真菰の目だけを見て、錆兎は言う。
「お前はいつまでも………。少しは女性としての自覚をだな」
「………自覚してるよ」
「は?」
「自覚、してる」
すいっと錆兎に近づいて、真菰は尋ねる。
「今日、義勇と何の話をしていたの?」
「人生相談だ」
「どんな?」
「男とは何たるべきか、議論を戦わせてきた」
「ふうん。それで? どういう結論になったの? 私の前に首を垂れる? それとも処女のまま妊娠させたいの?」
しょ、と中途半端に口を開けたまま、真菰の発言に愕然とする錆兎。
というかおかしい。明らかにおかしい。なんだそれ、どうして見てきたかのように正確にそんなこと言えるんだ。
「宇随先生がね、偶然聞いたとかで録音してくれてたみたいなの。それが炭治郎経由で」
―――あの、輩先生か………っ!
そんなに面識はない。ないはずだ。そもそも学舎でダイナマイトなんか扱う奴とお近づきになんかなりたくない。だが、まさかそんなところから情報が洩れるとは。
「錆兎は肝心なところでいつも思い詰めて。私はいつまで待てばいいのかな」
「真菰……」
「男だなんだってうじうじうじうじ、一周まわって女々しいよ」
ぐさり、と心に一本鋭いのを突き刺される錆兎。
そのまま放っておいたら一晩中走りこむかショックで寝込むか、どのみち碌なことにならなそうだったが、真菰の攻めはそれで終わらなかった。
「だからそんな錆兎に理由をあげる」
「………おい!」
バスタオルをほどいて、顔を朱に染めて真菰は錆兎の頬を包んだ。
「こ、こに、あなたのことが大好きで満たしてほしい女がいます。だからお願い………」
―――抱いてください、と。
皆まで言わせず、錆兎は真菰を抱き上げた。
「真菰、痛くはないか? 寒くはないか?」
「ああっ、あああああああっ! あっ、あっ、はああっ!」
錆兎の呼びかけに答える余裕もなく大声を上げる真菰は、せめて心の中でだけ悪態をつく。
―――ぜったい、ぜったい会話させる気がない。は、げしっい。
ようやく手に入れた甘い雰囲気に酔いしれて、錆兎の手付きも優しくて、愛撫に体を震わせているうちは何の問題もなかった。
問題はその後、錆兎のそれを体の中心で受け入れてから発生した。
くるりと一周した短針を見て、真菰は酸欠気味の頭で考える。
―――も、う。四回目、なんだけどっ!
気遣わし気な顔だけはして抽挿をやめない錆兎をきっと睨みつけて、真菰は口をはくはくと動かす。
「さ、びとっ! あと、なんっかい、ぅあ、でき、るぅぅぅあっ、の、っあああああああああ!」
真菰は知らない。睨んだつもりのその顔はとろけきっていて、完全に逆効果でしかないことを。
錆兎は流れる汗をそのままに真菰の髪を梳く。
「何回だって、お前が満たされるまで男として答えよう。まだ余裕はある」
そして真菰は珍しく自分のミスに気付いた。
もしかして催促してるみたいに聞こえた? それで今の返答ってもしかして。
―――終わらない?
「待っ、ぅぅああああああああっ、あっ、あっ、はぁ、ああああああああっ!」
「心配するな、言葉はいらない。嫌というほど愛してやるぞ、真菰」
まずいと思った時にはもう遅く。
言葉も満足に扱えなくなってしまった真菰を、真心込めてどこまでも堕としていく鱗滝錆兎。
肝心なところでどこまでもすれ違っていく二人の初めては、日が明けるまで続いていった。