想いを研げるにはこうした準備が必要なのです。
「チュン、チュン」雀の鳴く声に俺は目覚めた。
昨夜の事が夢としか思えなかった俺は隣で寝乱れている彼女の姿を見て心底驚いた。
また、たった二回戦でへたばってしまった自分が情けなかった。
気落ちしながら時計を見るとまだ五時半だった。
しめた!この時間なら夜にならなくても彼女を安全に連れ出せる!俺は彼女を起こすと手早外出の用意をし、二人で鶴ヶ島の駅前通りに繰り出した。
「こうなってしまえば、もう大家も俺達を咎められない。」おれは得意げに言ったが彼女は「下宿を上手く抜け出せたのは良いけれど朝食どうするの?まだ朝の六時よ、何処も開いて
いないわ、私お腹減ったの・・・。」朝から早速彼女のお嬢様体質が露わになった。
「安心しなってこの時間でも贅沢言わなければ食事は出来る、信じてくれ。」俺は彼女を伴って鶴ヶ島の駅に行った。
彼女は「ここで食事・・・出来るの?」と言いつつ、駅の外からホームを伺う。
「ホラ、あれだよ。」俺はホームの中ほどを指差した。 そこにあったのは立ち食いソバ屋であった、高度経済成長期は終わっていたが残業・休日出勤はまだ当たり前の様に続いていたので本来客足の落ちる休日は休みになるのだが鶴ヶ島はベッド・タウンだったので休日出勤する人の為休日も朝早くから店を開けていた。
「頭いい!あなた偉い!」彼女に手放しで褒められたが立ち食いソバで感動されたのは何か気恥ずかしかった。
ソバをすすり終えると俺は電車の上りホームに立った。
「あらっ、また川越に行くの?」彼女は単純だった。
「さて、どうかな…。」俺はホームに入って来た準急列車に彼女と共に乗車した。
「ねぇ、ホントに何処へ行くの? 私、不安なの!」彼女は自分の心情を吐露した。
「この列車は準急だろ? と言う事は成増から池袋の間には行かない。」俺はヒントを与えた。
「池袋まで出るつもり? 私、何も準備して無いわ!」彼女は狼狽えた。
「大丈夫だよ。今のままで。」俺は池袋がそんな特別な場所では無い事を強調した。
「もしかして昼食は池袋?西武、東武、それともPARCO?」彼女は奢られるのが当たり前になっていた。
「どこが良い?」俺は既に店は決めていたが試しに聞いてみた。
「東武、西武は古臭い!断然PARCOよ!」即答だった。
池袋に出るのにも躊躇いがあるのに行きたい場所だけはキチンとリサーチしている彼女はやはり乙女だった。
幸い俺の選んだ店もPARCOの中にあったので俺は一安心したがまだ何処に行くかは教えなかった。
鶴ヶ島から池袋までは約一時間、PARCOの開館は十時だから約一時間の空き時間が出来た。
彼女は一時間をPARCOの前で待つつもりだった様だが俺は行きつけの茶店に彼女を誘った。
「どうして池袋の街の事をこんなに知っているの! あなた何者?」彼女は茶店に入って席に着くと直ぐに聞いて来た。
俺は自分の境遇を説明した。
俺は大学に入った時、親が俺の事を気に掛けて東京の浅草橋に居る叔母の家から大学に通う事になった。
ほぼ二時間のの通学時間である、普通なら気落ちする所だが大学に行く経路には池袋が入っていたのである。
しかも俺は学生だったから定期券を所持している、山手線も東上線も乗り放題だった。
当然、池袋で途中下車し、東武、西武、PARCO、後駅周辺の様々な店を探訪していた。
その事を伝えると彼女は「今は下宿でしょ?どうして?」と更に突っ込んで来た。
「叔母が病気で倒れて俺の世話が出来なくなり大学の近くに下宿を捜したんだ。 でも時期が悪くて大学の近くには空きのある下宿は無かった、今の下宿が一番近かった…。 それだけさ。」俺は説明した。
「フ~ン、あなたもそれなりに苦労してるんだ。色事の探求だけじゃ無く・・・。」彼女は上目使いに俺の様子を見た。
<フン、俺の色事探求は小、中学生の頃からやってるんだ、あまり安く見て欲しくはないな。>と心の底では思っていたが
「そろそろ時間だ、河岸を変えよう。」俺はそう告げて清算をし、外に出ると歩き始めた。
彼女も何の疑いも無く何時もの様に俺の左腕に止まり一緒に歩んだ。
池袋で色々の様を足すには地下通路を使うのが一般的だ、俺達の歩む先に出て来た表示を見て彼女は間違いを指摘した。
「私達が行くのはPARCOでしょ、それなら東口だわ、私達西口へ向かっているンじゃ無くて?」確かに最もな指摘だったが俺の計画は間違っていなかった。
「今はまだ十時ちょっと前、ここでPARCOに入って食事をするのは早すぎる。食事をするのはひと働きした後さ。」俺の言葉に彼女は大筋で納得したがまだ疑問が晴れない顔を
していた。
俺が彼女を導いたのは東武デパートのエスカレーター口、二階分ぶち抜きのエスカレーターは壮観で彼女もエスカレーターで運ばれながらキョロキョロしていた。
目的地は十階にあった、ワン・フロア全部を占める「旭屋」と言う本の大型店舗である。
入口はそんなに大きく無いが、中はありとあらゆる本、それこそコミックから学術書までが揃っていた。
この中は自由行動とし、用が終われば入口に戻る約束をして二人は別れた。
今は二人とも色事にのめり込んでいるが本来は生粋の理系人間勢い自然科学方面の書籍を漁るものだからいつも視界のどこかしらに彼女がおり、返って迷わず都合が良かった。
我々の使う化学系の本は大抵値が張る、結局二人は俺が二冊、彼女が一冊で買物は終わりにしなければならなかった。
時間を見ると十二時半、食事をするには丁度良い時間だった。
「こんどこそ、PARCOへ行くよ。」彼女にそう宣言すると彼女は<ワーイ>と言う感じで俺の左腕に摑まった。
PARCOのあるのは東口で地下一階の共通通路を使うのだがPARCOに通じるエスカレーターはこの通路に面しておらず、地下店舗の一つの壁際を左に曲がった所にある。
別に秘密でも何でもないが(ダンジョン)初心者は迷う事受けあいである。
東武と同じで十階に本屋の大型店舗「三省堂」があり、その上がレストラン街になっていた。
彼女が「三省堂」を覗きたがったが、俺も彼女も本屋に入ったら簡単には出て来ないのが判っていたので今回は食事後、エスカレーターで下る時にさせた。
食事はグラタンを専門に食べさせる店を選んでおいた。
選んだグラタンにライスかパン、それにカップスープとサラダが付くコスパの良い店だ。
おれはここを大学入学時の長い通学路時代から愛用していた。
小難しいルールに縛られない食事は彼女にとっても新鮮でなにより美味しさを楽しんで貰えたようだ。
食事が終わり他の店も覗きたいと言った彼女にレストラン街全てを案内させられた。
「成る程、お金を出せればもっと良いお店もあるけどさっき食事した店が値段と内容がダントツ優れているわ!さすが、あなたね!」彼女はご機嫌だった。
「『三省堂』には寄らないのかい?」俺は一応、水を向けてみた、が、しかし彼女はそれを断った。
「時間はまだ一杯あるわ、あなたは私の為に別の驚きを用意しているんでしょう、本屋はもう一軒回ったわ、私は別の驚きが見たいわ。」彼女の貪欲さは筋金入りである。
その言葉を聞いた俺はエスカレーターでどんどん下り「三省堂」を通り越して地下一階の連絡通路に出た。
そして国鉄(まだJRになる前)の発券機で切符を二枚買い、改札を通って山の手線内回りのホームに彼女を導いた。
「まさかと思うけど新宿じゃないでしょうね。」彼女は怯え気味に俺を問正した。
「そうだけど別に特別な所じゃないよ。 人がちょっと多い普通の街さ。」俺は彼女の怯えが理解出来なかった。
「新宿は”魔都”よ、特に”歌舞伎町”は犯罪の温床よ、絶対行かない!」彼女は頑なだったが俺はその心を溶かす秘密の呪文を知っていた。
「新宿・歌舞伎町には『世界堂』があるんだけど行きたくない?」「えっ、うそ!」彼女は一発で堕ちた。
「世界堂」は画材・文房具の専門店である、しかもワンフロアーどころか五階建てのビル一軒全部「世界堂」なのである。
実は俺と彼女のなれそめはお互い「マンガ描き」と言う繋がりであった、そんな俺達にとって「世界堂」は真にパラダイスだったのだ。
新宿駅を出て直ぐタカノ・フルーツ・パーラーの向かいには「紀伊國屋書店」の本店があり、今日は寄らないが位置だけは彼女に教えておいた。
その「紀伊國屋書店」の一階の通り抜けを抜けると歌舞伎町、そして歌舞伎町の奥に向かわずとも「世界堂」は直ぐ現れ、その「世界堂」に入った彼女は猛烈な魔力に囚われ連れ出すのは一苦労だった。
今日の予定はまだ終わっていないのだ。
次回からそろそろ山場です。