『……記録的大雪の影響で、長野道は全線終日通行止め、上信越道は上越JCTから小諸ICまで終日通行止め……』
私と比企谷くんが乗る車のラジオから、これから私たちが乗るつもりだった高速道路の通行止め情報が流れてきた。運転している今現在も雪は降りしきり、ワイパーを高速で動かさなければ視界が悪いくらいだ。
「嘘だろ……」
今日は早朝4時に千葉を出発し、高速道路を使って途中休憩を挟みながら10時に白馬村に到着。半日スキーを楽しみ、今から高速道路で千葉まで戻るつもりでいた。
時刻は18時を回ったところだ。
「比企谷くん、下道はどうなってるか調べてくれるかしら? 高速が通行止めになるくらいだから期待はできないけれど」
先ほどからスマートフォンを見ていた比企谷くんはすぐに首を横に振った。
「長野市から関東に出る道はダメっぽいな」
私たちが目指していた長野道・上信越道は長野市から乗る予定だった。つまり今走っている長野市に抜ける道はそもそもダメだということになる。
「とすると、国道148号・147号を南下して、松本・諏訪と抜けて中央高速かしら」
他に車がいないのを確認して、適当なところで車をUターンさせる。
比企谷くんは助手席からカーナビを操作し、地図で私が言った道を確認した。
「お前詳しいな。なに、頭の中に地図アプリ入ってんの?」
「下調べしてきたのよ。誰かさんはそういうことに気を利かせないだろうと思って」
「へいへい、すいませんね気が利かなくて。雪ノ下がそんなに楽しみにしてくれてるとは思わなくてな」
「楽しみになんて……してた、けれど……。だって、遠出の話をするとあなたいつも『面倒くさい』とか『アレがアレだから』とか言って、乗り気になったことがないじゃない」
少し拗ねた目線を比企谷くんに送ると、彼は返す言葉がないようだった。付き合い始めてもうすぐ2年になるが、こうすると彼はだいたい言うことを聞いてくれる。
「……悪かったな。捻挫なんかしちまって」
ばつが悪くなったのか、比企谷くんは話を変えようと右脚を上げ、手を置いて見せた。
「本当にね。転び方があんまり派手だったからこっちの心臓が止まるかと思ったわ。骨や腱をやって入院なんてことにならなくてよかったわね。小町さんからもらったチケットで比企谷くんがそんなことになったら、小町さんが不憫だもの」
今回の日帰りスキー旅行は、小町さんから白馬のスキー場リフトペア一日券をもらったことが発端だった。チケットは今年いっぱいが期限だが、小町さんはどうしても予定が合わないということで、私たちに譲ってくれたのだった。
昼前から夕方まで半日滑って……というよりはスキーのできない比企谷くんにスキーを教えてというほうが適切だが、スキーデートを楽しんでさあ帰ろうというところで最後に比企谷くんが派手に転び、右足を捻挫してしまったのだった。そういうわけで、いま私は比企谷くんの車を運転している。
しばらくの間、ラジオの道路交通情報の音声だけが車内に流れた。対向車のヘッドライトが時折私たち二人の顔を照らす。
「まだ痛む?」
「いや、大したことない。……お前、スキーだけじゃなくて運転もうまいのな」
「雪道だから恐る恐る運転してるだけよ。あなたよくマニュアル車なんて乗ってるわね」
マニュアル車なんて免許を取るときにしか運転したことがない。オートマに慣れているとクラッチとギアの操作が煩わしい。
「これが一番安かったんだよ。慣れるとマニュアルも悪くないぞ。運転してる感がある」
そんな話をしているうちに、148号線が通行止めになったという情報がラジオから聞こえてきた。
「こりゃ手詰まりか……」
「主な幹線道路はすべて通行止め、幹線道路がこれでは他の道も望み薄。かと言って朝まで走り回れるほどの燃料はないし、この雪の中で止まっていたら一酸化炭素中毒か低体温症で凍死体のできあがりね」
「つまり、白馬で一泊ってことだな」
一泊、という言葉にドキリと心臓が高鳴る。
「通行止めにならないうちに戻るわ。比企谷くんは宿を探してくれるかしら」
「おう」
「私の手持ちは5万円と少し。カードが使えるならもっと高くても問題ないけれど」
「いや、俺全部出すぞ」
「いいわよ。車も出してもらったし、高速代もガソリン代も全部あなた持ちじゃない。これくらい出させなさい」
「……助かる」
比企谷くんはそう言って話を切り上げ、スマートフォンで宿泊施設を探し始めた。しかし考えることはみな同じということらしく、どこも満室で断られているようだ。
「あー……そうですか。わかりました。はい。失礼します」
「見つかりそう?」
「いや、全滅っぽい」
「困ったわね。どうしましょうか……」
「……ん?」
比企谷くんが窓の外を見やる。つられて私もそちらを見ると、雪で見えにくくなっているが、妖しげなライトアップがなされたお城のような建物が見えてきた。
路肩に車を停め、比企谷くんと顔を見合わせる。
「比企谷くん」
「……別んとこ探すか」
「……ダメ、かしら」
「そんな目で見られても困るんだが……だってこれ」
さっきも使った少し拗ねた目線を送ってみたが、比企谷くんは私の顔を見ながら頬をピクつかせている。
「でも他に空いているところはないのだし、どうせ寝るだけならどこでも一緒よ。違う?」
なんだか私がラブホテルに入りたがっているように聞こえるが、断じてそうではない。断じて。
こうなってしまった以上は一刻も早く休息できる場所を見つけて休息を取り、明日の帰りの運転の安全を確保する必要があるというだけのことだ。だいたい比企谷くんも足をくじいているのだし、早く横になって安静にできるようにしたほうがいいのは言うまでもないだろう。さらに、私たちは二人ともスキー帰りで身体が冷えているし、汗を流せるついでに身体も温めることができるところと言えばやはりお風呂のある宿泊施設しかないが、他に選択肢がない以上はラブホテルに泊まるのもやむを得ないことと言える。そもそも私と比企谷くんは一応パートナーなのだし、ラブホテルに泊まることになんの倫理的社会的問題もない。
そう、なんの問題もないことなのだ。そういうことだ。
「お、お前がそこまで言うなら異論はないが」
「そう。じゃ、そういうことで」
ホテルの看板に従って駐車場に車を回す。駐車場の入り口には駐車券の発券機の代わりに液晶画面のついた機械があった。どうやらここで入る部屋を選ぶ必要があるようだ。
「ひ、比企谷くん。どの部屋がいいかしら?」
「どこでもいいぞ。好きな部屋で」
「そ、そう?」
私の声が裏返っているのはちょっと喉の調子が悪いだけだ。
雪ノ下がとった部屋は学校をイメージした部屋だった。
衝立で仕切られた一角に、黒板のかかった壁に向かって学校用の机と椅子が2つ並べられている。衝立の向こうには学校っぽさの再現を諦めたかのように革張りのソファとガラスのローテーブルがあり、さらにその向こうにあるダブルベッドは保健室を模しているようだった。
「……これ、お前の趣味なの?」
「そ、そんなわけないでしょう。適当に選んだのがたまたまこういう部屋だったってだけで……なにかしらその腐った目は」
「いや別に」
声を上ずらせながら反論する雪ノ下を適当になだめつつ、荷物を置いて部屋を改めて見渡す。ビジネスホテルなんかではちょっと考えられない広さだ。さすがに一泊二食付きの観光ホテルと同じくらいの値段をつけるだけのことはある。
「あ、お、お茶でも入れるわ。比企谷くんは?」
「え、あ、ああ。頼む」
雪ノ下さん動揺しすぎじゃない? つられてこっちまで動揺しちゃうんだけど。そしてお湯をこぼして火傷しないかちょっと心配なんだけど。
そう思って雪ノ下がお茶を淹れているローテーブルとソファに歩み寄ると、ベッド横のハンガーラックが目に入った。
「うわー……」
ハンガーラックに歩み寄って詳しく見てみる。さまざまなサイズのブレザー、セーラー服、学ラン、ジャージなどがビッシリと掛かっていた。ブレザーは総武高校のものにだいぶ近いデザインだ。
視線を感じて雪ノ下のほうに目をやる。当然のように視線がぶつかったが、一瞬で雪ノ下に目をそらされてしまった。
「あ、あの……お、お茶、はいったわ」
「え、あ、おう。あ、ありがとな」
雪ノ下さんやっぱり動揺しすぎじゃない? ついでに俺も動揺しすぎじゃない?
でも付き合ってる女にラブホテルに連れ込まれたのに、部屋に入った後その女にめちゃくちゃ動揺されたら誰だって動揺する。俺は悪くない。雪ノ下が悪い。
ソファに腰かけ、雪ノ下の淹れてくれたお茶で舌を火傷しつつ、俺はこの無言の空間をなんとかしようとテレビをつけた。ちょうど大みそかのゴールデンタイムなので、絶対に笑ってはいけないやつや格闘技などの年末番組が流れている。
「ひ、比企谷くん。シャワーにする? お風呂にする?」
赤い顔で声を裏返らせた雪ノ下が尋ねてきた。なんだその仕事帰りの夫を迎える新妻みたいな聞き方は。
「あー……どうせなら風呂入れてゆっくりあったまるか。寒かったしな」
「そ、そうね。どうせなら……。あなたは座ってなさい。足くじいてるんでしょ」
雪ノ下がお湯を張ってくれている間に、手持ち無沙汰の俺はホテルのフードメニューを眺めることにした。時刻はちょうど19時少し前。スキー場で昼にカレーを食ったきりなので、腹が減っている。
ラブホテルでなにか食うというイメージがそもそもなかったのだが、最近のラブホテルはピザやらパスタやらステーキやらを頼めるらしく、ちょっとしたファミレスくらいの種類がある。今日はこのままご宿泊だし、なにか腹に入れておいたほうがいいだろう。
と考えていたところで、雪ノ下が戻ってきた。さっきまでのオロオロした雰囲気はなくシャキッとしているが、頬にもみじのような赤い手の跡がついている。
二人で適当に何品か料理を注文し、並んでソファに腰かけてテレビを眺めながら来るのを待つ。
互いに無言で一応テレビを見ている体だが、雪ノ下はチラチラと俺を見るし、俺も雪ノ下についつい目線が行ってしまう。そしてたまに視線がぶつかると慌ててテレビに目を戻す。なんだこれ。
そんなことを何度か繰り返すうちに料理が来た。ローテーブルに並べて冷めないうちに手を付ける。
「値段の割にけっこうボリュームがあるわね」
「しかもそこそこうまいぞ。バカにできないなラブホテル」
「え……」
「え……あ」
突如として雪ノ下がフリーズしたが、すぐに「ラブホテル」という単語を出されたことで脳がブルースクリーンになったらしいことに思い至った。乙女か? 俺がまだちゃんと手を出してないから乙女か。たぶんだけど。乙女じゃなかったら俺は泣く。
俺が童貞をこじらせている間に再起動したらしい雪ノ下は、テレビの横に備え付けられた小型の冷蔵庫を開けて中をのぞき込んていた。雪ノ下のジーンズに包まれた小ぶりな尻がこちらに向かって突き出されている。
「比企谷くんもなにか飲む?」
「あー……甘いやつにしてくれ」
そう言うと、雪ノ下はスポーツドリンクと紅茶のペットボトルを持ってきた。
「スポーツドリンクなんてあるんだな」
「それはそうでしょう。運動して汗をかいたらスポーツドリンクが……」
「……そ、そうだな」
雪ノ下の顔が一気に赤らんだ。思わず視線がベッドに向いたが、俺は断じてなにも想像していない。断じて。
しかしいつの間にか雪ノ下も視線をベッドに向けており、そしてまたすぐに視線がかち合った。
すぐに自分の顔が引きつるのがわかった。精神衛生上よろしくない記憶がフラッシュバックするが、俺はすぐに素数を数えて落ち着こうとする。素数は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……1、2、3、5、7……あれ、1って素数だっけ?
雪ノ下と見つめ合った状態での沈黙は、突然鳴り響いた浴室のアラーム音によって破られた。どうやら湯を張り終わったようだ。
「は、早く食べてお風呂にしましょう。比企谷くん、先に入って」
「あ、ああ」
料理の残りを胃に詰め込み、おかしな空気から逃げるように俺は風呂場に向かった。
「風呂でっか」
4人くらい同時に入れそうな大きな浴槽、というか小さな銭湯のような浴槽で、洗い場も軽く運動できそうなくらい広い。ご丁寧に柔らかそうなビニールマットも立て掛けてある。
「比企谷くん。足は……」
すりガラスのドア越しに雪ノ下の声がした。
「足? ってちょおまなにしてんだ閉めろ閉めろ」
「ご、ごめんなさい。足、お風呂に入って大丈夫かと思ったのだけれど」
「だ、大丈夫だ。問題ない」
「そ、そう……」
とっさに股間をタオルで隠したが、間に合わなかった気がする。もうお婿に行けないかもしれん。雪ノ下に責任取ってもらわないと。
そんなしょうもないことを考えながら全身を洗い、湯船に浸かる。今日の運転とスキーの疲れが湯に溶けていく。
濡れた手で顔をつるりと撫で、雪ノ下のことを考える。
これまでは一緒に出掛けてもホテルに行こうとなんてしないどころか、こういうことをやんわり避けてすらいたはずだ。それなのに、今日のあの様子は一体どういう風の吹き回しなのか。
実を言うと雪ノ下がなにを考えているのかはだいたいわかる。わかっているつもりだ。
雪ノ下はこの機会に俺との関係をさらに一歩進めたい、つまり身体の関係を持ちたいのだ。
もちろん俺のうぬぼれでなければだが、うぬぼれてもいい関係を作れているはずだ。
では、俺はどうだ? 雪ノ下とどうなりたいのだろうか。雪ノ下と同じく関係を一歩進めたいか?
――当然そうだ。付き合い始めてもうすぐ2年になるのにまだそういう関係に至っていないのは、「俺たちのタイミングで関係を進めようとしている」と言うより「停滞」と言うほうが近い。実を言えば、以前から焦りももどかしさも感じていた。
今までの2年弱の間にまったくそういう機会がなかったわけではない。ただ、俺たちが高3だった交際1年目は二人で話し合って受験に集中しようということになり、身体の関係は持たないことにした。
「そういうことを一度覚えたら、きっと勉強どころではなくなってしまうと思うから」
という雪ノ下の言葉に、俺も同意したのだ。キスだけでもだいぶ歯止めが利かなくなって小町に咎められるくらいだったので、一度雪ノ下の身体を知ったら俺もサルになっていたのは疑いようがない。
しかしそうすると当然、大学に受かった後はいよいよ……ということになる。当時、雪ノ下は高2まで一人暮らししていたあのマンションの一室を勉強部屋としてまた使っていたが、二人揃って大学合格がわかった日の夜、俺と雪ノ下はあの部屋で事に及んだ。正確には及ぼうとした。
そこで俺は失敗した。
情けないことに、挿入前に暴発してしまったのだ。
精液を雪ノ下の顔や髪にまで飛ばしてしまい、その場のムードは完全に吹き飛んだ。俺の精液に
俺はあまりの情けなさにその場にいられなくなり、何度も謝りながら服を着て雪ノ下のマンションを飛び出した。その後はどうやって家に帰ったのか覚えていない。気がつくと俺は自室のベッドにいて、枕は涙と鼻水まみれ。鏡を見るといつも以上に死んだ目が充血し、まぶたは赤く腫れていた。
暴発事件の翌日、俺の様子がおかしいことに小町が当然気づいた。小町にはしつこくなにかあったのかと尋ねられたが、内容が内容だけに俺が言を左右にしてごまかすと、小町は不機嫌な顔をし、すぐになにも聞かなくなった。
もう雪ノ下との関係は終わりだと思っていたが、雪ノ下と俺の間になにかあったと感づいた小町の差し金で、俺はその翌週にまた雪ノ下と顔を合わせることになった。
どんな顔をすればいいのかわからなかったが、雪ノ下は何事もなかったかのように振る舞ってくれた。あのときの安堵感と言ったらなかった。あの一件を不問に付して、俺との付き合いを続けてくれるつもりでいるということがわかったからだ。
だが、それから俺と雪ノ下はセックスに関することをなんとなく避けるようになり、色っぽい雰囲気にも極力ならないようにした。表向きは順調に交際しているカップルとして振る舞っていたものの、俺と雪ノ下の間には薄くても破ることのできない壁ができていた。デートには何度も行ったが、晩飯を食ったら雪ノ下を家まで送ってそこで解散というのが俺たちのデートだった。
雪ノ下との関係を表面上だけでも修復できたのはよかったが、暴発事件以降、俺のペニスはまったく使い物にならなくなった。雪ノ下のことを考えても、それまでのお気に入りのおかずを引っ張り出してきても、俺のものは少しも勃たなくなっていた。
雪ノ下以外に使うつもりはなかったのだし、彼女と肉体関係を結べない以上は勃たなくても大した問題じゃないと今までは思っていたのだが……。
「勃つかなぁ……」
事ここに至って、その唯一の相手であるところの雪ノ下に対して問題なく機能するかというのは大問題だった。