どこまでも醜い私は、ある日黒髪の少年を手に入れた 作:布施鉱平
────束の間過去を振り返っていたアレックスは、我に返ると舌打ちをして歩き出した。
目的地はない。
そもそも人のいる場所から離れたくて、この雪原を選んだのだ。
周りに人がいる環境は、アレックスの怒りを増大させる。
最近は特にそれが顕著で、恐怖の視線を向けられただけで思わず手が出そうになったこともあった。
自分を抑え切れなくなってきているのだ。
いっそのこと暴れてしまった方が楽なのだろうが、もしその欲求を受け入れてしまったら、外見だけではなく中身まで獣になってしまう。
そうなれば、待っているのは破滅だ。
ただでさえ敵だらけの世の中を、全てに敵に回すことになる。
いまさら人に敵視されるのが怖いわけではないし、自分の死が怖いわけでもない。
アレックスが恐れていることはただ一つ、仲間と敵対し、仲間を傷つけてしまうことだった。
気のいいアレックスの仲間たちは、沸点の低い彼女を見捨てずにずっと友として接してくれていた。
この絶望的な世界で、彼女たちだけがアレックスの味方だった。
リディアや、ミゼルや、ルナや、マリアベルの存在がなければ、アレックスはとうの昔に犯罪者として指名手配され、無数の屍を築き上げた末に殺されていただろう。
ふと、ルナの生意気な顔が頭に浮かんだ。
アレックスのことを「バカ虎」なんてあだ名で呼ぶふざけたエルフだが、今は無性にその軽口が聞きたかった。
彼女たちと共にあるときだけ、アレックスは幾ばくかの安らぎを得ることが出来たのだ。
…………だが、だからこそ、戻るわけにはいかなかった。
これまでの人生で溜まり続けたアレックスの怒りは、今や自制という鎖を引きちぎろうとしている。
仲間に手をあげたことは一度もないが、いずれそうなるのは時間の問題に思えた。
だからアレックスは仲間の元を離れたのだ。
自分を失う前に、仲間を失う前に。
安らぎを捨て、孤独の中で仲間との絆を繋ぎ続けることを選んだ。
正式に離脱を宣言したわけではないが、怒りを抑えこめるという自信を手に入れるまでは帰るつもりはなかった。
冷たい雪を踏みしめながら、次は砂漠にでも行ってみようかとアレックスが考えていたその時、
ピロリンッ♪
という気の抜ける音が頭に響き、魔力で出来た封筒のような物が目の前に現れた。
獣人の魔力でも扱うことのできる数少ないスキルの一つ、〈
『緊急招集』
メッセージには、そう題打たれていた。
仲間と距離を置くことを決意したアレックスだったが、流石にそれを無視することは出来ない。
指先で触れると、封筒が光の粒となってアレックスの中に取り込まれていった。
頭の中に、文章が浮かび上がる。
だが、そこに書かれていたのは予想を遥かに超える内容だった。
────────『緊急招集』────────
『
人を愛し、人から愛されることなど諦めかけていた私のことを、彼は救ってくれた。
だから…………だから、皆にも少年に会って欲しい。
彼が皆のことを等しく受け入れてくれるかどうかは分からない。
しかし私は、彼の愛が皆にも与えられることを心から願っている。
怖いのは分かる。
信じられないのも分かる。
だが、信じてくれ。
セバルの家で待っている。
追伸:ちなみに、私はもうセックスした。
…………すごかった』
────────────────────────
…………アレックスは、四度読み直した。
ミゼルに文字を教えてもらったとはいえ、未だ読み書きは苦手なアレックスだ。
なにか間違った解釈をしているのではないかと時間をかけてゆっくり読んでいったが、やはり書いてある内容は同じだった。
(少年? セックスした? リディアが?)
信じられなかった。
先祖返りしているアレックスほどではないが、リディアだってお世辞が思い浮かばないほどの不細工だ。
実際、娼館に行った時にも相手の男が勃たないどころか吐瀉物を撒き散らされ、悄然としながら帰ってきたことを覚えている。
そのリディアが、男とセックスしたと報告してきているのだ。
(…………そんな馬鹿な。ありえない)
頭の中ではそう考えながらも、アレックスの足は向きを変えていた。
その先にあるのは、商業都市セバル。
リディアの住まいがある方角だった。
◇
アレックスは今まで、戦うことで色々なものを発散してきた。
性欲もその一つだ。
顔や体型が醜いばかりか、先祖返りして獣の特徴が強く出てしまっている自分に欲情できる男などいるはずがないと、
普通の獣人よりも強烈な発情期が訪れた時さえ、自慰すらしなかった。
だから、いま自分を突き動かしている感情の正体がなんなのか、アレックスには分からなかった。
分からないままに、気づけば走っていた。
自らの後方にもうもうと雪煙を作り出しながら、アレックスは疾走する。
雪原を抜け、岩山を越え、谷を飛び越えて、セバルまでの最短距離を一気に駆け抜けていた。
まさに獣のような動きで疾走しながらも、アレックスの頭を支配しているのはリディアから届けられたメッセージの最後の一文だ。
『────私はもうセックスした』
『────セックスした』
『────セックス』
『────セックス』
……………………
その言葉を反芻するたびに、腰の後ろで揺れる尻尾の毛がぶわっと開き、ぞわぞわとした感覚が背筋を舐めた。
セックスという言葉の意味は知っていても、それを実感として捉えたことはない。
だが、自分のよく知る人物がそれを経験したと聞けば、否が応にもその光景を想像してしまう。
今までに感じたことのない、しかし不快ではない感覚を抱いたまま、アレックスはほとんど休むことなく走り続けた。
日が落ちて夜が訪れようが、アレックスには関係ない。
その金色の瞳は暗闇の中でも明確にものを見分け、百歩先を見通すことができた。
夜が来て、朝が来て、また夜が来て、朝が来て…………
馬を乗り継いでも不可能なほどの速さで、アレックスはセバルにたどり着いた。
流通の要所であるセバルの門前には、早朝であるにも関わらず、多くの商人や旅人が街に入るための順番待ちをしている。
だが、その後ろに並んで待っている余裕などアレックスにはない。
門から大きく回り込んで街の側面に移動すると、ぐるりと街を囲う高い防壁に向かって勢いよく跳躍した。
防壁の半ばよりも上の高さにまで跳んだアレックスは、堅固な石壁に爪を突き立てると力強くその腕を振り下げ、反動で一気に防壁の上にあがる。
そしてすぐに飛び降りて街の中に入り込むと、鋭敏な感覚で人の気配を避けながらリディアの家へと向かっていった。
近づくにつれ、興奮が高まっていく。
少年に会って何がしたいという、明確な目的があるわけではない。
純粋な人間であるリディアと違い、自分のような先祖返りした獣人が気に入られるとも思っていない。
だが、引き返そうという考えは一度も浮かばなかった。
戦士として生きてきたアレックスのどこかに眠っていた
…………そして、アレックスはたどり着いた。
何度か訪れたことがある、リディアの家の前に。
中からは複数の気配を感じた。
リディア、ミゼル、ルナ…………それと、もう一つ。
最後の一つは、今まで感じたことのない柔らかい気配を放っていた。
いや、それだけではなく、家全体を包む気配がなんだか柔らかくて、暖かい。
入りたい、とアレックスは強く思った。
あの居心地の良さそうな空間に、早く入りたい。
中に入って、体を丸めて、疲れた体と心を休めたい。
吸い寄せられるように玄関にたどり着くと、アレックスは扉を押した。
…………だが、開かない。
もう一度押してみるが、やはり開かない。
今すぐ入りたいのに、目の前にある柔らかな気配に早く包まれたいのに、それをこの扉が邪魔している。
イラっとしたアレックスは、
途端に扉は内側に向かって飛んでいき、道が開かれる。
一歩踏み入った瞬間、アレックスはあまりの心地よさに目を細めた。
前に来た時と同じ家かと思うほどに、匂いが違う。
体の芯を蕩けさせるような、いい匂いが漂っていた。
何を勘違いしたのかリディアたちが敵意を向けてくるが、そんなことは気にならないほどに、アレックスの注意は残るもう一つの気配に向けられていた。
リディアによって遮られているが、柔らかい気配も、蕩けるような匂いも、その後ろに居る存在を中心に広がっている。
「……はぁ、うちの扉は引いて開けるんだって教えただろ? ────アレックス」
「アレックス!?」
「……バカ虎」
ようやく入ってきたのがアレックスだと気づいたようで、三人の敵意が消え去っていく。
そして、それぞれアレックスに対して声をかけてくるが…………
「…………くるるるるるる」
それに応えるべくアレックスの喉から出てきたのは、自分でも聞いたことのない妙な音。
その音が虎が求愛時に発する鳴き声だと言うことを、アレックスが知るはずもないのだった。