どこまでも醜い私は、ある日黒髪の少年を手に入れた 作:布施鉱平
「────おめでとうございます、リディアさん。間違いなく、妊娠されてますよ」
翌日。
少年と風呂に入り、その後家族の待つリビングにやってきたリディアは、ソファーに横たわってマリアベルの診察を受けていた。
その結果、はたしてリディアが予感していた通り、彼女の胎内には新しい命が芽生えていることが確認されたのだった。
「うぅっ、リディア、良かったわね、おめでとう。私もすごく嬉しいわ」
「……よかった。……よかったね。……おめでとう」
「おぉっ、おれの子の、妹か弟が生まれるんだな!?」
四人に祝福されながら、リディアはゆっくりと体を起こすと、感慨深げに自らの腹部に触れた。
「そうか…………うん、私が、母親か………………そうか…………」
その胸に込み上げる感情を、一言で表すことは難しい。
喜び、興奮、感動、誇り────それだけではなく、不安や責任感もまた、同時に強く感じていたからだ。
「…………」
リディアは無言のまま立ち上がると、まだ事態を飲み込めていない様子の少年の前に
「□&○#?」
少年が、心配そうにリディアの頬に触れ、目元を優しく指で拭う。
自分でも気づかないうちに、リディアは泣いていたのだ。
胸の内に
「…………ふふっ、君と出会ってから、私は泣いてばかりだ。母親になるというのに、こんなことじゃいけないな」
少年の手に自らの手を重ね、リディアは微笑んだ。
そのまま涙を拭うこともせず、ただ感情が突き動かすままに、少年を抱きしめる。
少年もまた、それ以上は言葉を発することなく、ただ、リディアの背に回した手に力を込めた。
少年の手は、暖かかった。
そして、体の内側にも、確かな熱を感じた。
リディアは瞳を閉じ、その暖かさだけに意識を集中する。
いつのまにか、不安はもう、どこかに消えていた。
腕の中にある大切なものと、これから生まれてくる大切なものが、それをかき消したのだ。
◇
その日は、本来であれば全員で少年を愛でる日であったのだが、他の四人が気をきかせて部屋に篭ってしまったため、リディアと少年は二人きりでいちゃいちゃしていた。
まるで、出会ったばかりのあの日に戻ったようだ。
リディアが少年を抱き抱えたままソファーの上に座り、互いにお菓子を食べさせあったり、ついばむようにキスをし合ったりと、まさに新婚夫婦のような甘い空気を漂わせている。
そんな中、ふと、少年がリディアの上から飛び降りると、トコトコと歩いてどこかへ向かおうとした。
「どこへ行くんだ? 私も…………」
立ち上がったリディアに、少年が頭の上でバッテンをつくって、拒絶の意思を示す。
少年がリディアを拒絶するなど、滅多にないことだが……
「ああ、そうか。分かった」
とリディアは素直に引き下がった。
実はこの少年のジェスチャー、これは『今からトイレに行く』という合図なのだ。
リディアたちには、少年がどこに行こうとしても後を追ってしまう習性がある。
だが、トイレの中にまで付いて行こうとしたときに全力で拒否されて以来、そこだけは不可侵の領域となっていたのだった。
少し前まではトイレの前で待つようにしていたのだが、少年が恥ずかしがるので、今はそれもしていない。
少年は軽く手を振ると、照れくさそうに去って行った。
それに手を振り返したリディアは、少年の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、ソファーに座り直した。
「…………」
そして、少年が去ってからものの数秒もしないうちに、リディアの手は自然と自らの腹部に置かれていた。
アレックスもよく同じことをやっていたな、とリディアの頬に笑みが浮かぶ。
きっと、まだ妊娠していない他の三人も、自分の番になれば同じことをするのだろう。
全員、自分の腹に手を置いて、そして微笑むのだろう。
それは、想像するだけで幸せな光景だった。
「…………ん、遅いな」
幸せな想像に意識を飛ばしていたリディアだが、五分を過ぎても少年が戻ってこないことに気づき、顔を上げた。
少年のトイレタイムにまで干渉するつもりなどないが、これまでの経験からいって、少年が三分以内にトイレから戻らなかったことなどないのだ。
リディアは立ち上がると、トイレに向かって歩いて行った。
トイレは一階の奥、リディアやミゼルの部屋を越えた突き当たりを曲がった場所にある。
「少し遅いようだが、大丈夫か?」
コン、コン、とトイレのドアをノックして、リディアは少年の反応を待った。
一秒、二秒、三秒……
反応は、ない。
「っ、すまん、開けるぞ!」
妙な胸騒ぎがして、リディアはドアをこじ開けにかかった。
以前であれば、リディアならドアの外から少年の気配を確認できただろう。
だが、今はミゼルによって家の周囲に張られた〈
バキッ、と
そこには────
────少年の姿は、なかった。
「…………っ」
リディアの心臓に、氷の剣で突き刺されたかのような、冷たい痛みが走った。
だが激しく動揺する一方で、冒険者として
窓が、
外の空気を取り入れるために取り付けられた窓が、開いていた。
リディアでも、手を伸ばしてようやく届く高さにある窓だ。
少年の身長では、絶対に開けることはできない。
もちろん、自らの意思でそこから出ることも。
「ルナっ!! アレックスっ!! 外に走れっ!! 彼が────彼が、
リディアが叫ぶように指示を飛ばした直後、家の中を駆け抜ける足音と、玄関の扉が弾き飛ばされる轟音が響いた。
「ミゼルっ!! 〈
再びリディアが叫ぶと、即座に〈守護結界《イージス》〉が解除され、息を切らしながらマリアベルが駆けつけてきた。
「はぁっ、はぁっ、リ、リディアさんっ! 今のは、本当なんですかっ!?」
「こんなことを冗談でいうものかっ! ……すまん、ともかく、落ち着け。魔力の痕跡で犯人の行方は追えるか?」
「は、はいっ! やってみます!」
次いで、〈
「リディアっ!」
「いま、マリアが魔力の痕跡を探している。少し待て」
「う、うん、分かったわ」
「どうだ、マリア」
「…………ダメです。犯人が痕跡を消すのに慣れている、というのもあるのでしょうが、やはり〈
「そうか…………」
マリアベルが悔しげに唇を噛み締め、リディアとミゼルもまた、同じように唇を噛んだ。
「でも…………でも一体どうやって? 〈
ミゼルの言葉は、間違っていない。
少年を守るためにミゼルが張り巡らせた〈
魔法陣に血を垂らして
だとすれば……
「……前提が間違っている、ということだ。犯人は
そして
なら────犯人は結界が張られてから、この家に侵入してきたわけじゃない」
「それって…………」
リディアの言葉に、ミゼルが息を飲んだ。
「ああ、おそらく、彼を
そして、ずっと機を狙っていたのだろう。私たちが気を抜く瞬間を。
もう大丈夫だ、心配ないと、彼から目を離す瞬間を」
みしりっ、と音が響いた。
それはリディアたちが歯を食いしばった音であると同時に、溢れ出した三人の殺気が物理的な圧力を
「ですが、ミゼルさんが〈
それ以前から潜んでいたとして、一体いつから……」
「……たぶん、侵入してきたのは、バカ虎がドアを破って入ってきたゴタゴタの時。
……その瞬間くらいしか、この家に入り込むのは不可能」
マリアベルの疑問に答えたのは、いつの間にか戻ってきていたルナだった。
「戻ったか、ルナ。どうだ、足取りは掴めたか」
「……むり。……バカ虎が匂いを追ってるけど、たぶん全部
……細切れにしたあの子のシャツを、無関係な一般人にくくりつけて、かく乱してるんだと思う」
「時間稼ぎか……用意周到だな」
おそらく、アレックスは我を忘れて必死に少年の匂いを追っているのだろう。
ルナが戻ってきたのは、それが囮だと見切りをつけたからであり、そうだと分かっていてもアレックスを連れ帰らなかったのは、その気持ちが痛いほど理解できるからに違いなかった。
「…………ミゼル、念のため、〈
「分かったわ」
「ルナ、家の周囲の痕跡を徹底的に調べてくれ。侵入時は慎重だったかもしれんが、逃走時は急いでいるはずだ。必ず、なにか残している」
「……わかった」
「マリアはルナについて行ってくれ。魔力痕跡が残っていれば、お前の方が見つけるのは容易だろう」
「分かりました」
「よし、では行け」
的確な指示を出し、三人が行動を開始するのを見送ったリディアは、血が出るほど握り締めていた拳を壁に叩きつけた。
「……っ、何のための強さだっ! 何のためのっ!」
何度も何度も、自分を罰するように、リディアは拳を振るった。
少年がぶつけても怪我をしないように、ミゼルが
「何の……ための…………っ」
今のリディアの強さは、自分が生き残るためでも、顔も知らぬ誰かに認められるためのものでもない。
この世界でただひとり、彼女が心から愛する存在を守るための強さだったのだ。
それなのに、守りきれなかった。
この腕の中から、奪われた。
混乱、憤怒、焦燥、恐怖。
それらが混じり合い、リディアの心に暗い混沌を生み出していく。
仲間の手前、必死になって自分を押さえ込んでいたが、本当は今すぐにでも外に走り出してしまいたかった。
そして「天使のような少年を見なかったか!」と道行く人間を剣で脅してでも、少年の行方が知りたかった。
────いや、今からでも、遅くはないのではないか。
そう、リディアが本気で考えかけた時。
「あ…………」
右手が、無意識に、腹部に触れた。
そこから伝わって来る熱が、荒れ狂うリディアの心を静めていく。
「…………ふー」
大きく一度息を吐き終えたとき、リディアの赤い瞳は、もういつもの冷静さを取り戻していた。
「…………すまない、格好悪いところを見せたな。…………ありがとう」
また、救われた。
少年に。
そして、少年との間にできた、自分の子に。
「お前の父親は、すぐに助け出してみせる。必ず」
母として我が子にそう誓うと、リディアは迷いのない確かな足取りで歩きだした。
今も仲間たちがやっているように、自分も、自分にできる最善のことをするために。