どこまでも醜い私は、ある日黒髪の少年を手に入れた 作:布施鉱平
絶望の底から
「…………」
誰もいないリビングのソファーで、リディアはひとり腕を組み、
その顔には、隠しきれない疲労の色がある。
少年が攫われてからすでに二日が経過しているが、リディアはその間、全く寝ていなかった。
普段であれば、二日寝ないくらいで疲労を感じるほどヤワな鍛え方はしていないが、今はその限りではない。
一秒が十秒に、一日が十日に感じられるほどの苦痛と重圧を、精神に受け続けているのだ。
今もこうして束の間の休息をとってはいるが、目を閉じても
かと言って、睡眠の時間を思考に
冒険者ギルドには、主要な街道と街の監視を依頼した。
何人もの情報屋に金をバラ撒き、少年に関すると思われる噂や目撃情報は、信ぴょう性のないものまで全て集めて精査した。
貸しのある商人や貴族に働きかけ、人身売買や違法な養子縁組の動きがないかも調べ尽くした。
やるべきことは、すでにやったのだ。
だが、その結果判明したのは、少年を売っていた奴隷商の死体がスラムで発見された、という事実だけだった。
誰が殺したのか、いつ殺されたのか。
そういった情報は、不気味なくらいに出てこなかった。
何らかの力が働いているのは確実で、それは間違いなく少年の誘拐に関わっていると思われるのに、そこから先を辿ることが、どうしてもできないのだ。
「…………」
リディアの表情が、苦悶に歪む。
激しい後悔と自責の念が、眉間に深いシワを刻んでいく。
なぜ、もっと早くから少年の過去を調べることをしなかったのか。
なぜ、彼の出身地や、どういった経緯で奴隷の身に落ちてしまったのかを知ろうとしなかったのか。
少年が文字を覚えてから聞けばいいと考え後回しにしていたが、調べようと思えば他にも手段はあったはずだ。
そういった情報があれば、少なくとも今の状況を打破するなにかの
……いや、本当は、なぜ少年について調べなかったのかなど、分かっている。
リディアは、怖かったのだ。
少年の過去を知ることが。
彼と一生添い遂げると誓いはしたものの、調べた結果、それを覆す何かを見つけてしまうのを恐れたのだ。
もし、少年が奴隷の身に落ちた理由が、家族に裏切られたからなどではなく、彼にも家族にもどうしようもない理由があったのだとしたら?
もし、家族が少年を探していたら?
もし、家族が少年を愛していたら?
もし、少年が家族を愛していたら?
そしてもし、少年に────恋人がいたとしたら?
そういったいくつもの考えを、リディアは脳裏に浮かぶ前に心の底に押し込めて蓋をし、気づかないふりをしてきた。
少年と一緒にいるのが幸せだったから。
少年のことを愛していたから。
少年に愛されていると信じていたから。
少年を手放す未来なんて、想像したくもなかったから。
だから、自分に都合の良い暖かさや居心地のよさだけに目を向け、それを
そして、その身勝手で自分本位な考えが、彼に繋がる糸を断つ結果になってしまったのだ。
「…………っ」
握り締めた二の腕に、血が滲んだ。
しかし、痛みは感じない。
それをはるかに上回る痛みが、ずっと彼女を蝕み続けているからだ。
少年を失ったと分かった瞬間、リディアの心はズタズタに切り裂かれていた。
その傷口からは目には見えない大量の血が流れ続け、すでに溢れそうなほど彼女の内側を満たしている。
もし今涙を流せば、その色はきっと赤黒く濁っていることだろう。
少年の思いに触れた時に流した涙と、同じ色をしているわけがない。
かつて感じていた絶望など、絶望でもなんでもなかったのだと、リディアは思い知った。
いまが、そうなのだ。
ここが、絶望の底なのだ。
────バタンッ
暗い感情に引きずられ、際限なくどこまでも落ちていくリディアの意識を浮上させたのは、荒々しく開かれたドアの音だった。
目を開き、音のした方向に目を向ける。
そこには、予想外の人物が立っていた。
────マリアベルだ。
いつもは整えられている水色の髪を振り乱し、顔を紅潮させているところを見ると、どうやらよほど急いで走ってきたらしい。
「どうし────」
「リディアさんっ!」
どうした、と尋ねようとしたリディアの言葉を遮り、マリアベルが声を上げた。
乱暴に扉を開け放ったことといい、髪を振り乱すほど走ったり、大声でリディアの言葉を遮ったりしたことといい、いつもは誰よりも物静かなマリアベルらしくない行動に、よほどのことがあったのだと理解したリディアは声を飲み、続く言葉を待った。
そして────
「あの方を────あの方を攫った犯人が誰か、分かりましたっ!」
マリアベルの震える唇から告げられた言葉は、微かではあるが確かな光を、リディアの心に灯したのだった。