味方から放たれる天を覆う黒い矢の雨。味方の被害を顧みず、ただ黄巾賊を殺すために放たれたその雨の中で、狂信兵は嗤っていた。
「イタミ、コソ、シンコウ…!!」
「オォ…カミヨ…!」
ハリネズミのように全身に矢が突き刺さっても、彼らの士気が衰えることは無い。彼らにとって、この戦場で起こる全てが自らの信仰を神に捧げる『神事』なのだから。
感じる痛みも、失われる命も、殺す敵兵も、全てが神への供物。
それを桃香が知らなかったことが、悲劇の引き金となった。
「あ、あああ!!!お、俺の腕がァァ!!!」
両腕を斬り落とされた狂信兵が、劉備軍兵士の腕を根本から食い千切る。溢れ出す鮮血が大地を濡らし、その凄惨さを示していく。
「う、そだろ…!?」
「こいつら、人を…!」
グチャグチャと、人肉を貪る咀嚼音を響かせ、喉を鳴らして食い千切った肉を胃に納める狂信兵に、劉備軍の士気は崩壊する。
「ぃ…だ…い、嫌だァァ!!」
「冗談じゃねぇ!!」
「…ぁ!……ま…!」
少しでも身を軽くするために、次々と武器を放り出し、兜を脱ぎ捨てて脱兎の如く逃げ出す劉備軍。愛紗がそれをすぐに止められなかったのは、彼女自身がすでに戦意のほとんどを失っているからに他ならない。義姉の乱心と、人肉を貪る敵軍。この二つによって、愛紗こそが今すぐにでもここから逃げ出したいのだ。
しかし指揮官としての責任が、彼女にそれを許さない。彼女が少しでも無責任であったのなら、兵達と共にここから走り去っただろうが、生来の生真面目さ故に、彼女の足は動かない。もはや戦う理由すら見失いながら、ただ武器を振るう。
そしてそんな真面目過ぎる指揮官を戴いたことが、兵士達にとっては不運だった。
「…逃げるなァ!!」
「ぁ…っが…!…か、かん、う、さま…?」
逃げ出した兵士の一人を斬り伏せ、その亡骸を蹴り飛ばす。堅物であり非道な行いを嫌う愛紗の凶行に、兵士たちは茫然と足を止めた。
「っ…!逃げることは許さん!!残って戦え!さもなくば…!!」
青龍偃月刀を突きつけ、逃亡する兵士たちを脅す。
桃香の狂気が伝染したかのように、愛紗もまた、この戦場の狂気に呑まれはじめた。
偃月刀から滴る返り血が、まるで涙のように、青龍の装飾を流れた。
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「な、七乃…」
「…どういうつもりですかー?紀霊さん」
孫策軍の後方に展開している袁術軍は、黄巾賊の攻勢全てを孫策軍に押し付けていた。しかしその本陣では、諸侯とは違う地獄が繰り広げられている。袁術の配下であるはずの初老の男、紀霊が美羽の天幕に踏み込むやいなや、彼女の護衛悉くを殺し尽くしたのだ。
そして彼の部下たちが天幕へと雪崩込み、美羽と七乃に剣を突きつけた。
「…袁術様、我らは貴女をお迎えに参りました」
「む、迎えとな…?」
「っ…あなたは…!」
淀んだ目をした紀霊が、守るように立ち塞がる七乃を無視して美羽へと語り掛ける。その目が、黄巾賊と同じ狂信の光を湛えていることに七乃は気付いた。
「えぇ、えぇ。我らが神の御許へと、貴女を捧げる。…それが我らに下された神命。貴女の体に流れる名門の血…。それは神の御子にこそ受け継がせるに相応しいものです。お喜びあれ!!血筋しか取り柄のない、無能な餓鬼の貴女に、
「っひ、いやじゃ!わらわは子供など産みとうない!七乃ぉ!!」
紀霊が天へと両腕を掲げ、滂沱の涙を流し、長く伸びた髭を濡らす。そんな紀霊の姿は、美羽には恐怖でしかない。彼はこんな男ではなかった。美羽が蜂蜜を強請れば、「仕方ありませんな」と苦笑しながら、こっそり渡してくれるような好々爺だったのだ。祖父のような優しい男の造反に、美羽は戸惑いを隠せず、七乃へと助けを求めた。
「紀霊さん、それ以上お嬢様の耳に、不快な言葉を入れることは許しません」
しかし、そんな美羽を守るように、いつもの間延びした猫撫で声ではない、将軍としての覇気を纏った七乃が、剣を構えて紀霊に相対する。
「ふむ…張勲殿。お主の腕で、我らを殺せるとお思いか?…無駄死によ。大人しくそこを除け。…いや待て、やはりお主も連れていくとしよう、神への供物は質も大事であるが、量もまた重要なればな」
「…殺す」
張勲の射殺すような眼光を受けても、平然と髭を撫でつける紀霊に、七乃の怒りが爆発する。彼女にとって、美羽は全てである。美羽の為に世界はあると思っている。だからこそどんな謀略を用いようが、彼女の願いを叶えることを優先してきた。そんな七乃にとって、目の前の男は何にも優先して抹殺すべき怨敵となった。どこの誰かも分からない『神』とやらに、美羽を捧げ、子を孕ませるなど、正気の沙汰ではない。
「ほっほ、元気元気。…やれ、殺すでないぞ」
剣を構える七乃に、兵士達が殺到する。元々武勇に優れる訳ではない七乃が、袁術軍有数の武官である紀霊の配下に敵うはずもない。しかしそれでも、幼い主を守るため、七乃は刃を振るった。
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「袁術は何をしている!?」
孫策軍の陣幕で、冥琳が怒りの絶叫を放つ。体のいい盾として配置された事にも腸が煮えかえる様な怒りを覚えたが、今はそれ以上である。
孫策軍が敵の攻撃を受け止め、袁術軍が襲いかかる。それが向こうから言い渡された作戦である。反論もなにも許さなかったくせに、こちらが数少ない兵力で黄巾賊の足を止めたにも関わらず、袁術軍は一向に動く気配がない。
「穏!すまんが袁術のもとへ行ってくれ!」
「はい~!お尻をひっぱたいてきます~」
冥琳は急いで穏を袁術の下へと送る。今ですら雪蓮や祭が奮闘してなんとか抑え込めているのだ。そう長くはもたないことなど、彼女が一番分かっている。だからこそ、ここで一突きが必要なのだ。
「もう少しだけ耐えてくれ…!」
「冥琳さま!撤退の準備は完了しました、いつでも退けます」
しかし彼女はそこまで袁術を信用している訳ではない。孫家の力を削ぐためにここで限界まで被害を増やそうとするだろう。だからこそ冥琳は、亞莎に命じていつでも撤退できるように準備を整えさせた。雪蓮や祭にも、それは伝えてある。袁術が動くか動かないか、それでこの後の行動は決まる。
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「袁術殿~!」
「おぉ陸遜殿!!」
馬を走らせ、袁術の本陣へとやってきた穏は、本陣の手前で袁術軍の将、紀霊と鉢合わせた。彼は額に汗を垂らしており、その焦燥が伺える。
「紀霊さん!どうなっているんですか!?」
「わ、儂にもとんと…!袁術様からは『動くな』との命令が…!」
穏は思わず紀霊を怒鳴りつけるが、紀霊も訳が分からないといった様子であり、これが袁術の計画された策謀ではないと穏に感じさせる。
「儂はすぐにでも動けるように、部隊を纏めておきましょう!陸遜殿、申し訳ないが本陣へ向かい、袁術様の真意を!…もしもの場合、孫策軍はすぐに撤退を!!」
「…っ!そのつもりです~!」
紀霊は馬を駆けさせながら、穏に袁術の説得を任せた。去り際に残した言葉によって穏は少しの安堵を得る。彼の発言によって、孫策軍が撤退しても敵前逃亡に当たることは無くなった。袁術配下の中で、唯一孫家に同情的な紀霊は同時に袁術軍の長老的立場にある。その彼が言った言葉であれば、反故にされることはないだろう。
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「孫策配下の陸遜ですぅ~!……え?」
最早返事を待っている時間すら惜しい穏は、転がるように天幕へと入る。しかしそこには、美羽の姿も、七乃の姿もなく、血まみれで床に伏せる美羽の護衛兵と、それを斬ったままの姿で、孫策軍の鎧を着た兵士達が倒れている光景が広がっていた。
「こ、これは…!?」
意味不明な光景に、穏の頭が混乱する。なぜ自軍の兵士がここにいる?袁術と張勲はどこへ?なぜ護衛兵が死んでいる?
雪崩の如く疑問が穏の頭を埋め尽くす。しかし一つだけ分かることは、この光景を袁術軍に見られる訳にはいかないという事だ。袁術傘下から独立したがっている孫策軍の兵士が、護衛兵を斬り殺して事切れている。そんなもの、疑惑しか生まない。
「袁術様!失礼いたします!」
「!!…まっ」
最悪のタイミングで、天幕が開けられる。
「えんじゅ…こ、これは!?」
彼が見たものは、殺されている護衛兵と、その体に剣を突き立て死んでいる孫策軍兵士。そして明らかに不味いものを見られたと、目を見開く陸遜の姿。誰が見ても穏が美羽を襲撃したとしか見えない光景だった。
「だ…!」
「っ!!」
兵士が叫ぶ前に、穏は咄嗟に
「っが、ぁ!…だ、誰かァ!!」
「っな…!?」
兵士が最期の力を振り絞り、叫ぶ。これが雪蓮であれば、一太刀で首を刎ねて終わりだっただろう。祭であれば、貫くと同時に口を塞いだだろう。しかし武官ではなく、軍師であり、戦う術を知らない穏は、突発的な行動だったこともあり、そこまで考えが至らなかった。
「おい!どうした!?」
「り、陸遜!?なぜここに…!?」
「袁術様はどこだ!?」
次々と現れる兵士達に、穏は剣を落とし、膝から崩れ落ちる。もはや言い逃れは不可能。出来たとしても、自らの独断だと証言することぐらいだろう。それであっても雪蓮の責任問題となることは避けられない。
(申し訳ありません…雪蓮様…)
がっくりと項垂れる穏を殴りつけ、意識を奪うと、
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「聞けェ!!袁術様の将兵達よォ!!」
袁術軍の陣に、紀霊の言葉が木霊する。全軍から見えるようにと台へ登った彼が、嗚咽混じりの叫びをあげる。滅多に感情的になることがない男が、ここまで心を乱すとは何事かと将兵達は耳を傾けた。
「卑怯者の孫策は、外道にも刺客を放ち本陣を襲わせ、袁術様と張勲殿を攫ったァ!!見よ!」
紀霊の言葉と共に、返り血塗れの穏が台に放り出される。意識を失ってはいるものの、彼女の姿が誰かを殺した後であることは、誰の目にも明らかだった。
「おそらくだが袁術様は、孫策本陣に連れ去られておる!!全軍で卑怯卑劣な孫策から我らが主をお助けせよォ!!」
オオォォォ!!!!
袁術軍は怒りに震えた。世間での袁術の評価というのは決して高いものではない。しかし兵士にとっては違うのだ。愛らしい笑顔を浮かべ、ニコニコと愛嬌を振り撒く幼い主。たしかに浪費癖はあるものの、たかだが幼児の浪費で崩れるほど、袁家の財力は脆くない。彼女は領内で災害が起きたことを知ると、『住む家が無いのは可哀想なのじゃ』と、無償で家を再建してやったことがある。疫病に苦しむ村を知ると、『病気の時はたくさん栄養を取らなければいかんのじゃ』と、食事を振舞った。そういった無邪気な施しは、確実に領民の心を掴んでいた。事実、袁術軍の兵士にはそういった施しに救われた者も多い。故に、心優しい幼い主を攫った孫策への怒りは、並大抵のものではない。
「孫策の首を上げよォ!!」
紀霊の号令の下、怒りに狂う袁術軍が孫策軍へと襲い掛かった。
▼
「袁、術ゥ!!!」
雪蓮が黄巾賊を斬り殺しながら、憤怒の叫びをあげる。ここまでするのか。孫家を散々使い潰しておきながら、ここで裏切るのかと。溢れる激情のまま、我武者羅に剣を振るう。
しかし幾ら叫んでも、幾ら敵を斬っても、黄巾賊と袁術軍に挟撃された孫策軍の危機は変わらない。
「…お前達、策殿を連れていけ」
「ちょっと祭!?なに言って…」
血が出るほどに拳を握り締めた祭が配下に命令する。ここから形勢を覆すことは不可能。冥林の知略があろうと、雪蓮の武勇があろうと、それは最早変わらない。
「策殿、撤退を。殿はこの黄公覆が承った」
「ふざけないで!私も残るわ!私が死んでも蓮華がいる!孫家はほろ…」
「…策殿、この老骨に二度も主を失えと?」
「…!」
祭はかつて、雪蓮の母である孫堅と共に戦場を駆けた。劉表との戦で命を落とした旧主を忘れたことなど一度もない。その時の悔恨を、虚しさを、また味わえと言うのかと鋭い瞳で雪蓮を睨む。
「…生きて…戻りなさい」
「っは!」
その思いを察し、苦渋の末に雪蓮は殿を命じる。生きて帰ることなど、不可能だと分かっている。それでも雪蓮は命じずにはいられなかった。祭は、もしも亡き孫堅であれば、『ここで死ね』と命じたであろうなと思いながら、若き主の優しさを受け取り、戦場の人に戻る。
「撤退よ!」
祭は背後から聞こえる雪蓮の声が僅かに震えていた事には、気付かない振りをしてやった。
その3は、できたら今日の夜に投稿します。
戦争シーンが長引いてますが、これもこの後の鬼畜を盛り上げるスパイスと思ってお付き合いください。
感想評価いつもありがとうございます!