桃香のこと、嫌いじゃないんですよ?
ただ、気高い理想を持った女の子が歪んでいくのが好きなだけなんです
「…やってられるかっ!!」
黄巾賊に仲間ごと矢を放っていた弓兵の一人が、その弓を地面へと叩きつけた。
両手を震わせ、桃香へと詰め寄るその男を、誰もが止められずに顔を伏せる。
「劉備様よぉ!もうアンタには付き合いきれねぇ!俺は抜けさせて貰う!」
桃香の足元へと唾を吐き、肩を怒らせながらその場を立ち去ろうとする男を、桃香は冷たく見つめていた。
男は劉備軍でも弓の名手として知られていた。だからこそ彼は、自分の放った矢が、仲間の眼球を貫いたことを分かっていた。愛紗が逃げる仲間を斬り殺す所も見えていた。自分の弓は、善良な人々を傷つける悪党に向けるために鍛えたのだ。仲間に向けるためではない。まして配下を斬りつける様な将を助けるなど真っ平御免だった。
「…なにしてるの?命令違反は死刑だよ」
しかし桃香は平然と、傍らに控える自身の護衛兵に告げる、あの男を殺せと。だが限界なのは彼だけではなかった。
ガシャンと、護衛兵が槍を投げ捨てる。続けて一人、また一人と武器を手放す兵士達。桃香の理想に惹かれて集まった彼らが、今のこの現状に耐えられる筈もなかったのだ。
「…失礼します」
次々と本陣から人が居なくなっていく。それは本当の意味で、桃香の理想が失われた瞬間だったのかもしれない。
棒立ちになりながら、置き去りにされた武器を茫然と見る彼女の心中に、ポツポツと怒りが溢れだす。
なぜ誰も理解しない?なぜ黄巾を殺さない?それが皆の幸せに繋がるというのに、なぜ誰も分からない?
「なんで…?私は正しいことしてるんだよ…?あれを…!あれを殺さなきゃ…!大勢の人が苦しむんだよ…?」
自分は正しいことを、正義を行っているはずなのに、なぜそれを理解してくれない?
「あぁ…そっか。あなたたちも、あれと一緒なんだね」
「桃香様…?…ぁ…」
俯く桃香を雛里が覗き見て、後悔した。その可憐な顔に浮かぶのは、
怒り、狂気、憎悪、悪意、怨嗟、悲嘆、失望、殺意、ありとあらゆる醜い感情が、桃香の顔を埋め尽くしていた。
それは人の上に立つものが決して浮かべてはいけない、世界を呪う呪詛を具現した表情。
「っひ!…あ、あぁ…!」
雛里は駆けだす。股間を黄色く濡らしながら、ただ『あれ』から遠ざかりたい一心で、親友のもとへと駆けた。
「あは、アハハハハハ!!!!そうだよ!私は間違ってない!!…あれ…?じゃぁ…間違ってるのは…ダレカナ??」
切っ先を地面に引きずりながら、桃香はふらりと歩き出す。道すがら逃げ出した兵士達の首を刎ね、狂笑を浮かべた顔を、服を真っ赤に染めていく。
「なんだぁ?てめぇ?」
そんな桃香の前に、男が立ちはだかる。野卑な顔つきと、桃香の胸へと注がれる下品な目線。しかし桃香は男の視線を意にも介さず、ただ男の頭に巻かれた黄巾だけに反応する。
「…しね…死ね死ね死ね死ね死ね、死ね!!!お前たちが!!お前らさえいなかったらぁ!!!」
「!?」
桃香の身から迸る殺意が、男の目に映る彼女の姿を何倍にも巨大に見せる。殺意の巨人は憎悪に濁ったその剣を、男へと振り下ろした。
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「ぁ、っぐ…!」
愛紗に組み付いた狂信兵が彼女を地面へと押し倒す。矢の雨こそ止んだが、彼女の周りに最早味方は誰一人としていなかった。
逃げる味方へとその刃を振り下ろした彼女の周りには、かつて味方だった者達の残骸が
積み上がり、がらんどうな瞳を怨嗟に濁らせて彼女を呪う。
「ぁ…ち、違う…私は、私はぁ…」
己の過ちに、愛紗は茫然と立ち尽くす。胸に去来するのは初めて武器を握った幼き日。なぜ武を志したのか、今となってはそれすら曖昧になってしまった。しかし決してこんな事をする為ではなかったはずなのだ。
「……ニエ…ミツケタ…!」
「ササゲヨ…ササゲヨ…」
膝から崩れ落ちる愛紗の下へ、狂信兵がやってくる。しかし最早、愛紗に抵抗する気力も体力も存在しない。無抵抗の彼女を肩に担ぎ、彼らは劉備軍の陣を去っていった。
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「しゅ、朱里ちゃん!」
「雛里ちゃん!?本陣はどうしたの!?」
涙を流し、駆け寄る雛里を朱里は慌てて抱締めた。ガタガタと震え、失禁の臭いを漂わせているこの親友は、臆病な所はあるが、それでもこの有様は異常だと、朱里は驚きを露わにする。
「ひぐっ…と、桃香さまが…ぐすっ…」
「桃香さまになにがあったの!?」
雛里が嗚咽を交えながら語った内容は、朱里の想像を絶するものだった。味方ごと敵を殺せという常軌を逸した命令とそれに反抗する兵士達に見限られ、心を壊した桃香。それは事実上、劉備軍が完全に崩壊したことを示していた。
「朱里ちゃん…私たちどうしたら…」
苦し気に呟く雛里の胸を締め付ける感情の正体は、主を止めることが出来なかった自身への失望。天才などと持て囃されておきながら、主の暴走一つ、止めることが出来なかった無能者への怒り。あまりに大きすぎるその二つの感情は、鳳雛とよばれた幼過ぎる天才から天下に比類なきその才能を奪い去った。もう二度と、彼女はその才を振るうことができない程の深い傷を、彼女は負ってしまったのだ。
「…!」
それを理解した朱里は、そんなものに意味などないと知りつつも、もしも自分が本陣に残っていたらと夢想する。しかし朱里が残っていたとしても、桃香の乱心は防げなかっただろう。あの日、彼女が己の理想に蓋をしてしまった瞬間、この事態が起こることは規定事項となった。止めるべきだった。彼女の理想に共感し、惹かれたのならば、あの決断をさせてはならなかった。黄巾賊の暴虐に怒っていたのは桃香だけではない。あの時、誰もが黄巾賊は死んで当然だと思ったからこそ、桃香の決断に誰一人として異を唱えなかった。その結果が、『これ』なのだ。
「鈴々ちゃんに伝令を!撤退、いえ敗走します!」
これ以上、兵を無駄死にさせるべきではない。直ちに兵を纏め、撤退しなければ。総大将を失った軍になにができる。劉備軍は、桃香の理想はもはや泡沫の夢となって消え去ったのだ。今は一人でも多くの仲間を、同じ夢を見た戦友たちを、ここから逃がすことこそが自らに課せられた最後の役目だと信じて。
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「全軍、武器を捨て、鎧を脱ぎなさい!」
「か、華琳様!?」
曹操軍に響く、華琳の命令に、桂花は思わず素っ頓狂な声を上げた。頭上からは岩が降り注ぎ、劉表軍の最後尾を焼き尽くした火焔兵がこちらに向かってくる中での武装解除。気が触れたとしか思えない命令に、桂花は諫言しようと喉に力を込めた。しかし次いで放たれた華琳の言葉は二人の軍師の予想を上回るものだった。
「これより我らは撤退する!足を遅くする全てを、ここに捨てて行きなさい!!」
「ぁ…!」
「そうか…!」
桂花と凛は、すぐさま華琳の意図を察した。岩と炎、どちらも鎧では防げず、遠距離から襲いかかる両者には武器も意味をなさない。それならば、武器を捨て、鎧を脱ぎ、身軽になったうえで、全力でひた走る。それがこの戦場から脱する最善の方法だと、華琳は気付いたのだ。
「っ伝令!すぐに全軍に武装を解除させなさい!」
「っは!」
桂花の命令に、駆けだした伝令は大声で武装解除と叫びながら、陣を回っていく。しかし時間がない、連合でまともな戦力を有しているのは、もはや曹操軍のみなのだ。劉備軍はほぼ壊滅し、孫策と袁術は意味不明な同士討ち。黄巾全軍が曹操軍に目掛けて突撃を仕掛けてくるのも、時間の問題だった。
「華琳様」
「…だめよ」
いつの間にか、秋蘭が華琳の側に跪いていた。ただ華琳の名を呼んだだけであるのに、言わんとしていることを理解した華琳は、それを否定する。
「これ以上、誰も失う訳にはいかないわ」
「えぇ…だからこそです。弓兵を率いて敵の足止めをする者が必要でしょう」
それは華琳自身、誰よりも自覚している事だった。誰かが残らねば追いつかれる、それも弓に秀でた者でなくてはならなかった。春蘭の部隊は歩兵であり、投石器と火焔兵に圧倒的に不利。であれば残るのは弓兵を指揮し、自身も弓の名手である秋蘭しかいない。
「華琳様、ご命令を」
「私に、命じろというの!?あなたに死ねと!」
それは、覇王にあるまじき行為だった。か弱い少女のように涙を流し、感情のままに叫ぶ。普段は決して見せない、年相応の少女としての姿に、秋蘭はふっ、と微笑んだ。
「……死ぬことは許さないわ」
「御意」
梃子でも動く様子のない秋蘭に、華琳は涙を拭って命じた。しかしそれは、覇王としての発せられたものではなく、ただ幼馴染に死んで欲しくないという、一人の少女の願いでもあった。
▼
戦いは、黄巾賊の圧勝で幕を閉じた。多くの諸侯が討ち取られ、からくも戦場を脱した軍勢も、その多くが壊滅状態だった。
そして勝敗が決した戦場に黄巾賊の勝ち鬨が木霊する。動けなくなった連合軍の兵士達が面白半分に殺され、各軍の殿部隊も満足な抵抗もできないままに、捕えられていった。
「や、だぁ!!やめ、てよ!!」
勝利の美酒に酔う黄巾賊の陣で、桃香がその髪を掴まれて引きずり回されている。
狂気に侵された彼女は、劉備軍が撤退していく中、一人で黄巾賊に戦いを挑み、その凶暴さで何人もの黄巾賊を血祭に上げた。しかし桃香が一人で何人斬ろうが、膨大な数の黄巾賊に勝てる訳もない。息が上がり、剣を持つ手が震えてようやく、黄巾賊は彼女を捕縛した。
「っひ、ぐぅ…!」
「へへへ、てこずらせやがってよぉ!」
地面に押し倒された桃香に、黄巾賊の男が馬乗りになって、黄色い歯を覗かせながら舌なめずりをする。周囲には幾人もの黄巾賊が、顔に似合わぬ凶暴さを見せていた少女が、一転して悲鳴を上げる様に、股間を膨らませている。
「はなしてっ!!いや!やめ、やめろつってんだろ!!」
彼女らしくない暴言を吐きながら、必死に男の下から逃れようと藻掻く。しかし下卑た笑みを浮かべる男にとって、それは最大の興奮を催す反応だった。各地で略奪と強姦を繰り返した黄巾賊の男達は、すっかり弱者を嬲る快楽に酔いしれていた。泣き喚く女でなければ勃たないと豪語する者がいるほどに、彼らは弱者を凌辱することに中毒的なほど依存していた。
「いってぇ…!やりやがったな!このイカレ女ぁ!!」
我武者羅に振り乱した桃香の爪が、男の頬を斬り裂いた。それはほんの僅かな傷であり、明
日には消えている程度の切り傷だった。この男がこれまで弱者に与えてきた傷には、比べようもないほどに僅かな、ほんの僅かな傷。
「っぶ…!?が、ぁ…!」
しかしそんな傷ですら男は許さない。切り傷ではない、遥か格下と見做す少女に一撃を加えられたという事実が、男の自尊心を傷つけたのだ。
丸太の様な腕を振り上げ、桃香の顔面に振り下ろす。これまでも何度も人間を殴殺してきたのであろう、いっそ手馴れているとすらいえるほどに、桃香の可憐な顔に男の拳が突き刺さる。骨と骨がぶつかる鈍い音が響き、桃香の脳を揺らす。
手加減のない一撃は、容易く桃香の頬に、でかでかとした青痣を生み出した。生まれてこの方、感じたことがない痛みと衝撃に、彼女は殴られたという事すら理解できていなかった。
「あぁ!?なにボサっとしてんだ、てめぇ!!」
「ぅぶ!…ぁ、ぎ…ぉぇ…」
顔を押さえて茫然とする彼女の、がら空きの腹に二発目の拳が振るわれる。まるで抉るように放たれた拳は、桃香の口から胃の中の物を吐き出させる。
殺される、その恐怖が桃香を支配する。股から黄色い液体が漏れて地面を濡らしていく。
「おい!殺すんじゃねぞ!!」
「俺らが楽しんだ後にしろ!」
「殺した後も楽しむけどなぁ!」
桃香を殴る男に、周囲の男達が抗議の声を上げる。それは彼女を心配してではない。どこまでも身勝手に、自分の欲望を満たすための抗議。
「ひ、っぐ…な、なんで…?わたし、わるいこと…して、ないのに…みんなの、ために…たたかった、のに…」
そんな悪意の坩堝の中に放り込まれた桃香にできることは、ただ涙を流すことだけだった。
これまでずっと、人のために戦ってきた。その結末がこれなのかと、こんな救いようのない悪人達の欲望を満たす為に、人としての尊厳を蹂躙され、破壊し尽くされることが、自分の末路なのかと。
困っている人を、助けを求める人を救ってきた。それなのに…。
「な、んで…?なんで、だれも、わたしをたすけてくれないの!あんなにがんばったのに!なんでよ!あんたたちのばんでしょ!たすけてよぉ!!」
「勿論だ」
ギィィンっと空気を震わせる一閃が、桃香に馬乗りになった男の首を刎ねる。溢れ出した血が桃香に降り掛からないように、大斧を携え、短い銀髪を揺らす女が男の体を蹴り飛ばした。
「あ?」
くるくると、宙を舞う男の生首は、間の抜けた声を漏らしながら、落下した地面に赤い花を咲かせた。なにが起きたか理解しないまま、多くの弱者を食い物にしてきた男は、遥か強者によってその命を終わらせられたのだ。
「よく、頑張ったな」
「ぁ…てん、し…さま…?」
大斧を担いだ女の顔は、桃香からは逆光となって分からない。しかしそれが桃香にとっては後光のように輝いて、銀髪の女性を救いの天使の如く見せていた。
「天使…?私は…いや待て、殿は神となられたし…うむ、悪くない!」
「た、す…けて…!」
前半は声が小さく聞き取れなかったが、朗らかな笑顔を浮かべるこの女性が、この悪意の地獄から自分を救ってくれることを予感して桃香は手を伸ばした。
「だから言っただろう、勿論だ、とな」
返り血で真っ赤に染まったその手を、なんの躊躇いもなく天使は掴み、桃香を地獄から引き上げる。そして彼女を胸に抱き、何を言うでもなくただ頭を撫でる。
「ふ、ぐ、うぅ…!」
ただそれだけの事が、崩れた桃香の心を癒した。助けてくれた、救ってくれた。皆が私を見捨てたのに、この人だけは違ったと。悪意に苛まれる彼女を解きほぐした。
「さて、貴様ら…覚悟はいいな?」
片手に桃香を抱き、片手で斧を構えた女は、桃香に見せた朗らかな笑顔とは違う、凶暴な肉食獣のような眼光の中に、狂信的な忠誠の炎を燃え上がらせる。
「我が名は董卓軍第一師団師団長、華雄!!我が殿の命により、貴様らを…塵殺する!!」
ついに董卓軍参戦!
え?マッチポンプ?…信仰心が足りてませんなぁ?
次回は、
孫策軍、地獄の撤退戦
美羽と七乃の行方
秋蘭、やる気0の殿戦
になります