俤家
家に帰ると、旦那はソファで寛ぎながらスマホを眺めていた。
「あなた、ただいま」
「遅いじゃないか、どこまで行ってたんだ?」
「ごめんなさい。お買い物の量が多くて時間かかっちゃって」
「言い訳はいいから、早くご飯を作ってくれ。もう正午回ってるんだ」
「………はい、分かりました」
ぶっきらぼうに言い放つ旦那に頷き、私はキッチンに向かう。
買った物を冷蔵庫にしまうと、部屋に戻ってササっと着替えた。
「まったく………女なんだから、仕事しないなら家事くらいしっかりやってくれ」
「ごめんなさい、すぐにご飯にしますね」
謝りながらも手を動かして、私は昼ご飯の準備をする。
まだ少し冷えるし、温かいうどんにするつもりだ。一日家にいるとはいえ、旦那も寒いだろうし。
そんなこんなで30分後。
「あなた、ご飯できましたよ」
「やっとか」
二人で座ると、手を合わせて食べ始める。
旦那はあれだけ急かしたというのに、いざ食べるとなれば感想をいうこともなく、ただのんびりと箸を動かすだけだ。
私から求めてみたこともあるが、『普通だ』と言われてからあまり求めなくなった。
「あぁ、そうだ。今夜は夕ご飯はいらない」
やっと口を開いたかと思えば、あまりにも突然な報告だ。
「えっ?今日は家にいるんじゃ………」
「会社の急な飲み会だ。仕方ないだろ」
「そんな………日曜日なのに。何故いきなり………」
「おい」
食い下がろうとした瞬間、凄んだ声で旦那が睨んできた。思わずビクッと身体が跳ねて縮まる。
「余計な詮索はするな。お前は大人しく、家で家事をしてればいいんだ」
「………分かりました」
「それと仕事の靴が汚れている。磨いておけ」
「はい」
それだけ言うと、食べ終わった旦那は食器をそのままにして、何も言わずに部屋へと戻ってしまう。
しばらくすると出て行った旦那を見送り、私は食器を洗った。
「はぁ………」
ため息を吐きながら、私はスマホを見る。
当然だけど、彼からの連絡はない。念のため連絡先を消したんだから、当たり前か。
旦那に言われた通り、仕事の靴を磨き終えてからベランダに向かう。
洗濯物の様子を確認するついでに、周りをグルッと見渡した。
「まだいるわね………」
彼の送ってくれた写真に写ってた探偵が、行き交う人に混じって見える。煙草の自販機の前に一人、少し離れた通りに留まってる車に一人。
とはいえ、本当に上手く周りに溶け込んでいて、事前に情報が無ければ気が付かなかっただろう。
この人達がいる限り、私は彼に会うことは出来ない。
けど私からは何も出来ない。変な動きをすれば、それこそ探偵にとって恰好の情報だ。
私が出来るのは彼と接触しないこと。私のためにも、彼のためにも。
今頃、彼は何してるかな………
大学の準備はもちろんだけど、本来なら二人で会える予定が消えてしまったわけだ。結構暇してたりするのかも。
高校の卒業のお祝いは延期になっちゃったしなぁ。もしかしたら私みたいに会いたいと思っていて………って、これはちょっと自惚れかな。
けどやっぱり………心配ね。
今は私だけに向いている監視の目が、もし彼にも向いてしまったら。
そう思うと、ズキッと心が痛む。
分かって関係を持ったはずなのに、自分のせいで彼が嫌な目に遭うと考えると、身が切られる思いだ。
せめて一回だけでも連絡を………いや、それはマズい。
探偵がどんな手段で調べてるかも分からないんだし、迂闊なことは出来ない。
今は我慢するしかない。これからのためにも………
「これから、ねぇ………」
取り込んだ洗濯物を畳みながら、私は呟いた。
もし今回不倫がバレずに、また会うことが出来るようになったら、彼はまた会ってくれるかしら。
こんなに迷惑をかけてしまって、もう会いたくないとか言われてもおかしくないわよね。
元々儚い関係で、長続きなんて期待できる関係じゃないのは分かってる。むしろそういう関係でよかった。
それなのに、今は………離れてることが、こんなにも辛いなんて。
「変わっちゃったわね」
ダメだ………ぼんやりとしてたら、ずっと嫌な想像ばかりしてしまう。
何か行動しないと………
「はぁ………しじみの味噌汁でも作ろうかしら」
飲み会が嘘だとしても、他の女性と出かけてるとしても、旦那が泥酔して帰ってくることに変わりはないんだし。
それから数時間後
家事も一通り済ませて読書をしていると、外からチャイムが聞こえてきた。
「あっ、もう五時ね」
正直人に監視されてると思うと家から出たくないが、それはそれで怪しまれるし、そうも言ってられない。
いつも通りにしなくちゃいけないんだ。私は家の外に出てポストを確認した。
中には旦那の読む新聞と、リフォームのチラシと………
「ん?何これ?」
白い封筒が入っていた。
差出人は………書いていない。よく分からないので、とりあえず家の中に引っ込んだ。
何かのイタズラか、配達ミスか。
どちらにしても中身は薄い紙一枚のようだ。部屋の光で透かしてみると、中身は少ない文字が書かれているだけの紙切れ。
とりあえず危険な物では無さそうなので、封を切って開けてみる。紙切れの文字を読んで目を見開く。
「ッ⁉︎こ、これって………」
数日後
俤さんとの連絡を絶ってから、二週間ほどが経った。
会うことはもちろん、メッセージのやり取りもしないようにしている。少しでも怪しいと思われたら終わりだし。
こうしている間も俤さんが探偵に監視されてると思うと、その息苦しさを想像してしまって心が締め付けられる。
何かしてあげたい、助けてあげたい。そう思っても、僕が出来る最大の手助けは『何もしないこと』だ。
僕が動けば探偵に目をつけられる。そうすれば不倫のことだってあっという間にバレてしまう。
相手はプロなんだ、素人の浅はかな考えで誤魔化せるわけがない。
僕達が接触しないことが、俤さんを助けられる唯一の手段。
「大丈夫かなぁ………」
頭では分かっていても、実際には歯痒い思いで居ても立っても居られない。
もしも不倫のことがバレてたら、そう考えただけでも胸が張り裂けそうになる。
自分に降りかかる罰なんかどうでもよくて、ただ俤さんの身に何かあったらと、嫌な想像だけが頭に浮かぶ。
「はぁ………」
大学で使うためのノートを買いに出かけていた僕は、デパートのフードコートで休んでいた。
お昼時な事もあって、軽い食事を終えてからスマホを開く。
俤さんは僕の連絡先を消したが、僕は消していない。これまでのやり取りの履歴も残っているため見ることができる。
数週間前までは、僕達は当たり前のようにやり取りしていた。
デートの予定とか、俤さんが新しい料理に挑戦したとか、僕が大学の準備してるとか。普通の恋人同士のような、他愛のない会話。
それなりの時間を俤さんと過ごす中で、僕はこの関係が不倫であるという意識が薄れていたのかもしれない。
学校にいるようなカップルと変わらない。お互いを愛し合ってる、ただの恋人関係のように感じていた。
けど違う。どんなに僕が俤さんのことを大切に思っていても、僕達が堂々と愛し合えることなんてなくて。
周りの目に怯えながらの関係、少しでも踏み外せば一生消えない傷が残る。
だからといって、今の僕に旦那さんから俤さんを奪える力なんてない。結局、ただ身体で繋がってるだけの子供に過ぎない。
結局、ずっと続くわけなんてなくて………
「分かってたはずなんだけどなぁ………」
こうなることなんて、初めから分かっていたのに。今になって、自分の覚悟が甘かった事に気が付かされる。
もう会えないかもしれない。
そう思っただけで、こんなにも苦しいなんて。
もちろんこれは僕達が、僕達自身のために選んだ事だ。 間違ってるとは思っていない。
でも、そうだと分かっていても………
「会いたいな」
デパートを出た僕は、やや曇っている空を見上げた。
この空を、俤さんも見ているのだろうか。
どんよりと暗い気持ちのままアパートに帰ると、いつもの習慣通りポストを覗く。
チラシを断ってるためほとんど物が入ることのないはずのポストに、一枚の封筒が入っていた。
「何だ?」
大学からの物かと思ったが、裏面に書かれた名前を見て目を見開く。
「ッ⁉︎………お、俤さん?」
宛先に『俤 茵』と書かれた封筒は薄く、中身は手紙のようだ。
今すぐ開けようとするが、念には念を入れてすぐに自分の部屋に戻る。
部屋のカーテンを閉じて封筒を開けると、案の定中身は一枚の手紙だった。丁寧な文字で文が書かれている。
『こんにちは。
ちょうどテレビの契約更新の封筒を送る予定があったから、それと一緒に手紙を送る事にしました。手紙って、こういう時証拠が残らないからいいね。けど旦那に怪しまれるから、返信とかはしなくて大丈夫。
まず最初に、私は無事よ。今のところ君の事がバレてる様子は無いし、探偵のことも気にはなるけど、これまで通り過ごしてたら、特に生活に支障は無いから。
君のことだし、自分の事よりも私の事心配してそうだから、先に伝えておくね。
だから、君はちゃんと自分の心配をするように!あと、大学の準備も忘れないでね。』
「あはは………」
自分の心中を見透かされていて、何とも恥ずかしくて苦笑いしてしまった。
それでいて、彼女の安全が確認できて、心を蝕んでいたものがだいぶ和らいだ。少なくとも、手紙を送れるくらいの余裕はあるみたい。
『次に、ごめんなさいね。君に迷惑とか心配ばっかりかけさせちゃって。
今回のことは私の不注意のせいね。私が気をつけなくちゃいけないことなのに、君に助けられてばっかりで。本当にごめんなさい。
本来なら面と向かって謝りたい。けど君にも監視の目が向いてほしくないから。こんな形で謝ることをどうか許して。
君がこれからどうしようとしてるかは分からないけど、もしも迷ってるなら、君は君のやりたいように生きていいんだよ。
私に縛られる必要なんて無いんだし、今回のことで私も改めて君に及ぶ危険を実感できたの。
だからこれを機に別れるって言われても、私は受け入れるから。
けどもし、また会おうと思っていてくれるなら、その時は二人で思いっきり楽しもう!君の進学祝い、考えてあるんだ。
とりあえず、今はお互いの安全を最優先で。君も、自分のことをしっかりと考えてね。
俤 茵より』
そう手紙は締めくくられていた。
「俤さん………まったく………」
いつもと変わらない。優しくてそれでいて素直な、いつもの俤さんだ。
こんな時でも僕の事を思ってくれていると思うと、心の熱がじんわりと体に広がっていく。
直接会ったわけでも、声を聞いたわけでもないのに、すごい安心する。
けど違う。僕が本当に聞きたかったのは、もっと別に………
「ん?これは………?」
手紙の端には、何か強い筆跡で書かれた跡があった。
文字は消されてしまっているが、何度も書いては消したのか跡はくっきり残っている。
僕は近くにあった紙を筆跡の上に乗せた。その上から鉛筆で、そっと跡の辺りを塗り潰す。
すると予想通り、書かれていた文字が浮き出てきた。
『君に会いたいよ』
「あっ………」
浮かび上がった文に、僕は言葉を失った。
たった一言、本文の中に書こうと思えば書けたのに。
わざと端に追いやられた文の跡は、僕には俤さんの本心のように感じた。
きっと何度も書くか書かないか迷って、悩んだ末に消した文だ。僕を縛りつけないために。
けど僕は知りたかったんだ。気遣いとか優しさとか抜きに、俤さんがどう思っているのかを。
俤さんは会いたいと思ってくれている。
そしてもちろん、僕だってまた会いたい。二人でやりたい事、まだまだいっぱいあるんだ。
いつかは終わる関係かもしれない。けど、それは今じゃない。このまま終わりだなんて、そんなの絶対に嫌だ。
お互いにその気持ちがあるのなら、過程の苦しみも乗り越えられる。
だからきっと………
「また会える」
何の根拠もないけど、何故か確信が持てた。
そうと決まれば、今は自分のやるべきことをやろう。
僕は手紙を閉じると、立ち上がって大きく伸びをした。さっきまで重苦しかった心が、嘘のように軽い。
「楽しみに待つとするか」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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