呪いの指輪じゃないのと思ったのは、夢の中で目覚めた後でした 作:木桜 春雨
に着くまでの間、互いに何も言わず無言だったのは決して気まずいからとか、話題がなかったせいではない、地下を出ると外は暗くて人通りも少なく、夜の街、外国は危ないという感じがしたからだ。
男の後ろを着いて行くだけで必死だった、男が振り返ったので思わず、もう少しゆっくり歩いて欲しいと言うと男は分かったと頷き、すまないと言葉を続けた。
「あ、謝らないで、あたしが悪いのよ」
勝手に一人で外に飛び出して挙げ句に迷子になってしまい、帰り道が分からなくなって、地下に潜って、全部、自分が悪いのだ。
家に着くとほっとした、女はごめんなさいと再び謝る、これで何度目だろうと男は思った。
「謝らなくてい」
もし、帰りたくないと女が言えば優しい声で宥める事はできなかっただろう、だが、自分のそばが安全だと女は思っている、だったらそれだけでも十分だ、今後、一人でこっそりと彼女が出掛ける事はない筈だ、それだけでも十分だと男は思った。
一人で出掛けたいと思った気持ちもわからないではない。
「外国人の女性が一人だと、街中でも安全とはいえない、これからは気をつけて」
頷く女を見ながら、さあ、もう休んでと女に声をかける、本当はそうしたくないのだが、自分は彼女にとって安心できる頼れる人間なのだという事を認識してもらわなくては、たった一人の味方なのだと分かってもらわなければいけない。
このとき、男は何故か窓のほうに視線を向けて近づいた、外は暗くて、何も見えない、この時、男は顔につけている仮面を取った。
現れたのは醜い顔だ、ここ数日の間ずっとつけていたので汗をかき蒸れて、掻きむしったせいか、傷口からは血が滲んでいる。
だが、そんな事は気にならないとでもいうように自噴の顔に手を当てて傷を確かめ、男は笑った、まるで、見せつけるようにだ。
女はいなくなった、外に出る道を偶然に見つけて手で行った、いや、運悪く地下に仕掛けた罠にはまって命を落としたというなら気の毒な事だと笑ってすませただろう、だが、そうではない、男が迎えに来たのだ。
しかも、仮面をつけて目と鼻、口元以外は全て隠している、ケット手金持ちの道楽、二重生活者の貴族という風には見えない。
自分と同じ、匂い、空気を感じたのだ。
気になって後をつけた、女は迷うことのない足取りで男の後をついて行く、危ないと思わないのか、不安を感じないのか。
男が笑った、まさか、気づいているのか、後をつけたこと、そして窓から見ている事に。
(いいや、そんな筈はない)
後ずさり、その場を離れたが、気になってしまった、心臓が激しく鳴る、思わず取り出して捨ててしまいたいと思ったほどだ。
「今日のレッスンは終わりだ、クリスティーヌ」
私の言葉に彼女は驚いた顔をした、予定ならもう少し先までと思ったのだが、そんな気分にはなれないのだ、気分でも悪いんですかと言われて、いいやと答えた。
「しばらくレッスンは休みにしよう」
やらなければならないことがあってねと言うと彼女は素直に頷いた。
「君の若い恋人は、その後、どうだ」
「ラウルの、ことですか」
聞かれるとは思わなかったと言いたげな表情だ、少し前に貴族の男が夜道で襲われたらしい、ジャック・ザ・リッパーに、まさか、娼婦や女を狙う切り裂き魔が男を狙ったというのか、皮肉な事に犠牲になったのはシャニュィ家の次男坊だ、顔を切られて、財布の中身をばらまかれて体に血だけではなく糞尿をかけられたらしい。
(豚の血だ、犯人は皮肉を込めたつもりなのだろうか)
この事件を新聞は大きく取り上げられた、醜聞どころではない、誰からか恨みを買っていたのではないかという噂は瞬く間にパリの社交界に広まった、
これで、シャニュイ家の面目は丸つぶれといってもいいだろう。
一時は殺したいと思っていた敵、憎い相手だったが、こうなって見ると気の毒に思ってしまうほどだ、ああ、冷酷だと思っていた自分にも、こんな感情があったのかと驚く程だ。
「怪我の具合はどうなんだ」
「会っていません、いえ、会えないんです」
当然だ、家族が面会を許しはしないだろう、パリから追い出されるかもしれない、醜聞の元だけ、この先、ずっと会えないかもしれないぞ、その言葉に彼女はわずかに項垂れた。
愛しているとオペラ座の屋上で愛の言葉を交わして抱き合っていた相手だというのに(そんなものなのか)。
会いたくないのかと問いかけたい気持ちがあったが、あえて聞かなかった、諦めがいいのか、残酷なのか、正直なのか、残酷だと思いつつも、責める気持ちにはなれにかった。
元々から無理があったのだ、貴族とコーラスガールなど、純愛などといえば聞こえはいいが、せいぜい、愛人どまりがいいところだ、だが、そんな現実を突きつけたところで、聞き入れないだろう、生涯があるほど愛が燃え上がるなど若いうちだけだ。
「クリスティーヌ、よく考えろ、おまえはこの先、本当にプリマになりたいのか」
「先生、それは」
今日のレッスン、正直、満足のいくものではなかったと伝えと彼女の顔は曇った、以前なら慰めの言葉をかけるところだが、そんな気分にはなれなかっ
たのだ。
彼女を地上まで送った後、何故か足は、そのまま止まる事をせず、街中へと進んでしまった、彼女に対して口にした言葉に自分でも驚いていた、あれではレッスンはやめてしまえといっているようなものだ。
ああ、これが僕の顔なのか、恐る恐る包帯をとると、そこから見えてくる痛々しい傷跡から思わず目をそらした、思い出したのはあの男の顔だ、同じくらい、いや、それ以上ではないかと思ってしまう。
できるだけの事はすると医者は言うが、それだけだ、治るとはいわない、痛み止めの薬を飲んでも顔の痛みは少しもよくならない気がする。
メイドに頼んで新聞を持ってきてもらうと、事件の事が書かれていたが、誹謗中傷の記事だ、僕に、何故だ。
恨みを買っていたのだろう。
貴族なのだ、何か良くない薬に手を出していたのかもしれない、麻薬、コカインなど、でたらめもいいところだ。
そんな事をするわけがないと声をあげて反論する事もできない、家から出る事もできない、いや、出たくない、こんな顔、見られたくない、あの男も、こんな気持ちだったのだろうか。
窓の外を見ると空は曇っていた、雨が降りそうだ、ずっとそうならいいのに、そうすれば外に出なくてもすむ。
ドイツに行かないか、腕のいい医者がいるそうだ、昨日の兄の言葉を思い出す、そうしたら、この顔の傷も綺麗に治るだろうか、その方がいいかもしれない、今は誰にも会いたくない、彼女にもだ。
だが、知らなかった、兄の言葉の意味を。
その話を聞いて仮面の男は笑った、ドイツ、腕のいい医者だと、そんな言葉を信じているならよほどの甘ちゃんだ、どこかの病院か、施設に放りこむつもりだろう。
出てこれる見込みはないだろうなと思いつつ、これを聞いたら彼女はどんな顔をするだろうと思った。
ついて行くのか、だとするとプリマにはなれない、だが、愛しているんだろう、おまえは、見せてくれ、あの男を好きだというなら、どんな選択をするのか。
久しぶりのオペラ座更新です。
クリス、ラウルが出てきます、少し可哀想な気がしますが、十九世紀のパリということですので、これぐらいはいいかなあと。