「合宿う?」
多輝は教室で声を上げた。絵美佳が多輝の席の横で力強く頷く。多輝は呆れたため息をついて窓の方を向いた。朝っぱらから訳の判らんことを、とぼやくと絵美佳が凄まじい勢いで多輝の頭をつかんだ。力任せに揺さぶられる。
「そうよ! あたしとあんたは準備があるから、今日から地下研究所に泊まるの!」
絵美佳は喚きながら多輝の頭を揺さぶり続ける。多輝は呻いてそんな絵美佳の手を無造作に払い落とした。深呼吸して頭のぐらつきを何とか堪える。
昨日は睡眠薬だった。一昨日は催淫剤だった。一昨昨日は……。頭の中でずらりと絵美佳の盛った薬品名を読み上げ、多輝は深々と息をついた。今度は合宿をするという。しかも多輝と泊まるという。また何かを企んでいるに違いない。多輝は半眼になって絵美佳を睨みつけた。
「準備って、なんの?」
試しに問い掛ける。すると絵美佳は胸を張って手を腰にあてた。ふんぞり返りながら高く笑う。だが多輝は訝りに眉を寄せた。威張られても判らないものは判らない。多輝のその考えを読んだのか、今度は絵美佳が呆れたような声をあげた。
「あんたねえ! 昨日の話聞いてなかったの?」
昨日……。そう呟いて多輝はがっくりとうなだれた。人が珍しく真面目に部活に顔を出したら、いきなり睡眠薬をかまされたのだ。実験台の上で人が寝ている最中に話などされたとして、それをどうして覚えていられるというのだろう。多輝はため息をついて首を横に振った。すると絵美佳が怪訝そうな顔になる。
「お前、昨日のおれになにしたか覚えてるか? それでどうしておれが話なんて聞いていられると思う?」
疲れ果てて多輝は小さな声でそう訊ねた。すると絵美佳がああ、と笑いながら手を叩く。どうやら自分のしたことをすっかり忘れていたらしい。多輝はうなだれて力なく絵美佳に手を振った。もうどっか行け。そんな気分で振った手を、だが絵美佳は力強く握り締めた。
「覚えてないなら、もう一度聞くわ! 協力してくれるわよね!」
「だから何に。っていうか、説明する気、ないだろ。絵美佳」
即座に多輝は言い返した。朝の賑わいの中で一際、二人の存在は目立っている。だがそれも初夏に差し掛かった現在、すっかりおなじみの光景になってしまっていた。クラスの誰も二人のことを特に気にした様子はない。
多輝は毎日のように絵美佳に追いまわされている。絵美佳は科学部の部員だから、という理由だけで多輝に様々な実験を試みようとしているのだ。いや、実際に試みているのだ。多輝は数々の実験のことを思い出して深々と息をついた。
これまでだって絵美佳は説明、というものをしてくれたことはない。それどころか、何故かいつの間にか説明した気になっているのだ。多輝は絵美佳の手を振り解き、机に突っ伏した。
その途端、絵美佳が勢いよく天井にこぶしを振り上げる。もし、多輝が見ていたならすかさず絵美佳の口を覆っただろう。だが、今の多輝は机に伏せているために絵美佳の様子を見ていなかった。
「あたしのバージンは超高いのよ!」
瞬間、教室が水を打ったように静まり返った。多輝は机に伏せたままの体勢で硬直した。幾ら切り札のせりふとはいえ、こうも大勢がいる教室の中で絵美佳がそれを使うとは思わなかったのだ。顔を上げるに上げられなくなり、多輝はその姿勢のままで冷たい視線を一身に浴びた。
「協力、してくれるわよね?」
にっこりと笑いながら絵美佳が多輝の耳元にそう囁く。多輝は冷たい汗をかきながら仕方なく頷いた。
結局、クラスメイトたちの冷たい視線を浴びながら午前の授業を受けた。多輝は昼時間になると同時に教室を一目散に飛び出した。午後の授業などさぼってやる。そこまで決心して屋上に駆け上がる。重い扉を開き、外へ出ると屋上は無人だった。
初夏の風はどことなく生暖かい。多輝は風に煽られながら目を細めた。フェンスに囲まれた屋上には滅多に人は入ってこない。多輝はゆっくりとフェンスに近づいて腰を下ろした。フェンスに寄りかかる。
多輝は絵美佳のせりふをぼんやりと思い出した。バージン、ねえ。そう呟く。絵美佳が凄まじい勢いで怒るだろうと判断して、言っていないことがある。多輝はため息をついて苦笑した。絵美佳の言う、初体験時のことを多輝は全く覚えていないのだ。だが絵美佳がああいう限り、本当のことなのだろう。だが人でないことを自覚した時辺りのことは、実はかなり記憶が飛んでいるのだ。多輝はため息をつきながら空を見上げた。
怒るだろうなあ、あいつ。多輝はそう呟いて目を閉じた。真っ青な空の色が瞼の向こうに隠れる。幾らショックで記憶が飛んでいるといっても、全く覚えていないのはどうだろう。多輝は思いながら自嘲気味に笑った。
だがそれと引き換えにしたように、人形である斎姫への憤りは綺麗さっぱりなくなっている。あれほど嫌だと思っていたのに、なぜかある時を境にそう感じなくなったのだ。確か自分は斎姫を壊そうとしていたのではなかったか。だがその記憶が本当なのかどうかも多輝には確かめようがなかった。この春までの一年間に色んなことがあったのだ。気付いた時にはもう、全ては過ぎ去っていた。
久しぶりの一人の時間をゆっくりと味わっていた多輝は、いつの間にか眠りに落ちてしまった。ふと、眠りから覚めた時、多輝は驚愕に目を見開いた。誰かが傍にいる。多輝は発作的に飛び起き、コンクリートの床を強く蹴った。一瞬でその誰かから飛び離れる。
「あのお。こんなとこで寝てたら風邪ひきますよぅ」
子供を思わせる高い声がする。多輝はかすんでいた目をこすり、その誰かを捉えた。多輝のいた場所にちょこんとしゃがんだ女子生徒が笑っている。見知らぬ顔に多輝は訝りを覚えた。誰だ。低くそう問い掛ける。するとその女子生徒はくすくすと笑いながら立ち上がった。
「悠波ちなりでえっす。えっとお、雨宮先輩ですよねえ?」
ちなりは笑顔で多輝に近づいてくる。多輝はちなりが同じ高校の生徒だと知って肩の力を抜いて床に沈みこんだ。ちなりはにこにこと笑いながら多輝の横に再び腰を下ろした。多輝は警戒したままで隣のちなりを見やった。
幼さの残る顔立ち。ちなりはとても可愛らしい容姿をしていた。短い髪は先がカールしている。健康そうな肌の色と、綺麗な赤い唇。ちなりを黙って観察してから、多輝は小さく笑った。流れてくる波動が特徴的だからだ。
「お前も機械だな?」
「あったりぃ! うわあ。やっぱり部長の言ってた通りだあ。雨宮先輩ってこうして傍にいるだけで、ちなりたちのこと、見分けちゃうんですねえっ!」
そう言いながらちなりは多輝の腕にまとわりついてきた。無邪気なやつ。多輝はそう呟いて苦笑した。まるで子供にまとわりつかれているような気になってくる。多輝は無意識に手を伸ばしてちなりの頭を軽く撫ぜた。
「……あっ」
途端にちなりがびくりと身体を震わせる。多輝は驚いて目を見開いた。ちなりから流れ込んできた感情にさらに焦る。どうやらちなりは多輝に頭を撫でられて感じてしまったらしい。多輝は慌ててちなりの身体を引き剥がそうとした。だがちなりは意外な力で多輝にしがみついていて離れない。
「雨宮せんぱぁい……ちなり、気持ちいいよう」
甘い声で告げながらちなりは多輝の腕に胸の膨らみを押し付けてきた。さすがに多輝は慌てた声を上げた。何がどうなっているのだろう。だが多輝が混乱している間に、ちなりは目を潤ませる。そんなちなりを見た多輝は、殆ど条件反射的にちなりの頭をさらに撫ぜた。
「あっ! んっ……せ、んぱぁいっ。もっとぉ……」
ちなりの甘い鳴き声に多輝は我に返った。慌てて手を引っ込める。するとちなりが拗ねた声を上げた。嫌がってさらに胸を押し付けてくる。
「ちょ、ちょっと待て! なに考えてるんだ、お前は! おれは機械に欲情する趣味はないぞ!」
「えー。それじゃあねえ、キスだけでもしてくださぁい。ほら、ちなりのここ、機械には見えないでしょお?」
そう言いながらちなりは唇を突き出した。多輝は疲れたため息をついてどうしてそうなる、とぼやいた。だがちなりは頑として離れない。多輝は諦めの息をついてちなりの唇に軽くキスをした。するとちなりがいきなり不服の声を上げる。
「ずるぅい! 今のはずるいですぅ! そんなの、キスじゃありませえん!」
「だからなんでおれがお前にディープキスかまさなきゃなんねんだよ!」
「お前じゃありませぇん! ちなりですっ!」
即座に言い返され、多輝は鼻白んだ。ちなりは頬を膨らませて多輝を睨んでいる。涙を浮かべて唇を突き出しているちなりは、どこから見ても子供に見える。そんな奴に何でディープキス。多輝はそう呻いた。
「勘弁してくれ。おれ、ロリコンじゃないし」
「ああっ、酷いですぅ! ちなりはもう、十五歳です! 雨宮先輩と二つしか違わないのにぃ!」
絵美佳とはまた別の煩い奴に関わってしまった。多輝は疲れた顔でがっくりと肩を落とした。折角、一人で穏やかな時間を過ごすつもりでいたのにこのざまだ。もしかして自分と平穏はとても仲が悪いのだろうか。それとも平穏が自分を嫌っているのだろうか。多輝は真剣にそんなことを考えながら、ちなりを見やった。
「ったく、今日は厄日かよ」
多輝は諦めの言葉を吐き出してちなりの頬に手をあてがった。指先が軽く耳に触れる。ちなりは多輝の指の動きに敏感に反応した。小さな声を上げてびくりと身体を震わせる。
「一回だけだからな」
「……うん」
薄く頬を染めたちなりが素直に頷く。多輝は静かにちなりの唇を塞いだ。首筋に抱きついてきたちなりの身体を軽く抱きしめる。そっと唇を開かせてから舌を滑り込ませる。多輝の口づけにちなりが小さく喘いだ。小さな舌が多輝の口の中に入ってくる。多輝は目を閉じてちなりの舌を吸った。
甘い香りがする。多輝は口づけをしている間中、ずっと不思議な香りに包まれていた。何の香りだろう。そう思いながら多輝はそっとちなりを解放した。ちなりは興奮に目を潤ませながらも大人しく多輝から離れた。
「美味しかったあ。雨宮先輩、またしてくださいねっ!」
立ち上がったちなりは笑顔でそう告げた。軽い動きで身を翻す。多輝は手を振りながら去って行くちなりをぼんやりと見送った。まだあの香りが残っている気がする。多輝はちなりがドアの向こうに消えた後、何となく自分の腕に鼻を近づけた。あの香りが身体に染み付いている気がする。だが、多輝の腕には思っていたような香りはなかった。
「何だったんだ、一体」
多輝はため息をついて腰を上げた。何だか一気に気が削がれてしまった。授業をさぼる気も失せた。多輝は諦めて教室に戻ることにした。
段々と流れがアヤシイ方向にw