エロはありません。
いいかげん帰ってくんないかな……。
順は数日間で何度もその言葉を吐き出した。だが相手は一向に帰る気配を見せない。ここにいるのが当り前だという顔で居座っているのだ。しかも目的が何であるとか、どういう理由であるとか、そういう説明は一切なしでだ。
叩き帰せればいいんだけど、それもムリだしなあ。順は苦い気分でベッドに腰を下ろしている翠を見やった。翠は仏頂面のままで多輝の傍に陣取っている。順が近づこうものなら無言で威嚇される始末だ。順はその度に呆れた目で翠を見つめる。だが翠の意志通り、ある一定以上には距離を縮められない。順は呻いて額を手で覆った。
「いや、だからさあ。多輝ちゃんの身体も綺麗にしてあげないと、可哀想じゃないの?」
ドアの横に立ち、順は翠にそう話し掛けた。一室を占領されているだけならまだいい。だが翠は順はもとより、誰をも多輝に近づけさせてくれないのだ。折角のチャンスなのに優秀な機体に触れることすら出来ない。そのことに順は焦っていた。いつ、翠が多輝と共に姿を消すか判らない。それまでに何とか少しでもデータを収集しておきたいというのが正直なところだ。
「余計な世話だとわたしは言わなかったか? 多輝に関しては心配ない。既に着替えは終わっているし、機体の汚れも落としてある」
ああ言えばこう言う。順は心の中でそう呻いた。
あの日、順が席を外している隙に翠はこの部屋に結界を張ってしまった。順は慌てて結界を破ろうとしたが、びくともしなかった。頑強な結界からは女性の悲鳴だけが聞こえていたのだ。きっと多輝が翠に無理に抱かれたに違いない。順はそう考えていた。
やがて結界が内側から解け、順が駆け込んだ時、既に水輝の姿はなかった。代わりにベッドに横たわっていたのは多輝だった。布団をかけられてはいたが、きっと機体は汚されたままに違いない。順は何度か翠に多輝の世話をさせてくれるように頼んだ。だがその度に翠は順の申し出を冷ややかに却下した。
「でもさあ。多輝ちゃんだってそのままだと気持ち悪いじゃないの」
「しつこいな」
翠がゆらりと立ち上がる。順は慌てて身構えた。既に身体は男のものに戻っている。だが翠を相手に張り合えるかどうかは判らない。第一、翠とは戦ったことが一度もないのだ。どこまでの相手なのかも謎のままだ。
だが翠は順の思いとは逆に何も仕掛けてはこなかった。ぐるりとベッドを回って順と向かい合わせになるように座り直しただけだ。順はほっと息をついて肩に入っていた力を抜いた。
「あのさあ。オレ、あんたの言う通りに坊やにメールも打ってやったじゃない? おまけに言われた通りにあんたに茶も淹れてやったじゃない? なのにオレの親切は全く無視?」
翠は水輝が消えた次の日、順に幾つかのことを告げた。まずは多輝が無事であるという優一郎にメールを打つこと。次に美味い茶を淹れること。そして最後は自分たちに一切、触れないこと。順はこれまで翠の要求を全て満たしてきた。なのに翠は順のささやかな願いすら聞き入れないのだ。
まあ、判ってたけどさあ。順は心の内側でそうぼやいた。翠は駆け引きが通じる相手ではない。水輝のように隙もない。だからきっと自分の願いは一切、通らない。そのことが判っていながら順はまだ粘っているのだ。
「貴様の親切とやらの本当の目的は、多輝の機体を調べることだろう?」
「あーらら。お見通し」
冷ややかな翠の声を受けて順は苦笑した。ついでに肩を竦める。元々、翠を騙せるとは思っていない。少しでもこちらに興味を示さないかと試しているのだ。順は壁にもたれたまま胸ポケットから煙草を抜いた。咥えて一息つく。すると翠が少しだけ目を細めた。
「言っちゃなんだけどねえ。これでもオレはあんたたちには相当に迷惑かけられてるわけ。囮の水輝ちゃんは送り込まれてくるわ、人形は奪われるわ、ついでにあんたが現れるわ、全くいいことなんていっこもないわけ」
まあ、水輝ちゃんを美味しく頂いたこと以外はね。順は心の中でそう付け足して翠を指差した。
「で、それでもオレはあんたの言うことを出来る限りきいてあげたわけよ」
「ほう」
翠は微かに笑って部屋の奥にあった椅子を目で指した。少なからず順の話に興味を覚えたのだろう。どうやら座ってもいいという意味らしい。順はどうも、と断って部屋を横切った。示された通りに椅子に腰を下ろす。すると翠はゆっくりと立ち上がって順の目の前に移動した。テーブルを挟んで向かい合わせになる。
翠の面立ちは間近で見ると冷たいというよりシャープに感じられる。順は微かに笑ってテーブルに肘をついた。煙草をふかしながら片目を閉じる。すると翠は怪訝そうな顔になった。
「つまりはオレは迷惑かけられっぱなしなんだけどさ。あんたたちのお陰で。せめてもの詫びとかさ。そういうのはないわけ?」
「詫びか」
「礼でもいいけど」
順はすかさず言い直した。そうでなければ翠はきっと詫びと称して何かをしでかしてくれるだろう。確かではないがそんな気がした。だがもしかしたら礼と表現しても似たような反応をするのではないだろうか。言ってしまった後に順はしまった、と唇を噛んだ。翠は顎に指を当てて考え込んでいる。
「礼か。つまりは見返りを寄越せ、とこういうことか」
「い、いや、あのね」
嫌な予感がする。もしかしたら翠は何かとんでもないことを企てているのではないだろうか。ひょっとして自分は墓穴を掘ってしまったのではないだろうか。そう考えを巡らせた順の背中に冷たい汗が流れる。順は息を潜めて翠の言葉を待った。
「では一度だけわたしを呼び出すことが出来るようにしておこう」
「いや、あのね?」
何が哀しくて硬直する原因をわざわざ呼びたいと思うか。順は冷や汗をかきながらもしもし、と翠に手を振った。だが翠は天井を見上げて満足そうに微笑んでいる。
「なに、気にするな。わたしが呼び出しに応じるかは判らないが、せめてもの礼のつもりだ。貴様が不注意でわたしの名前を呼んでも即座に力を放出するのは遠慮しておこう。一度きりだが」
「……あの、ねえ」
「ちなみにわたしがこうも譲歩することは滅多にない。これでは礼にはならないか?」
……ばかにされているのだろうか。それとも本気だろうか。順は真剣にどちらなのか悩んだ。だが結論など出る筈がない。元々、翠はつかみ所のない奴だと聞いている。だからもしかしたらこれが地なのではないだろうか。順は呻いてテーブルに突っ伏した。
頼むから帰ってくんないかな、もう。疲れ果てた順は心の底からそう願わずにはいられなかった。
翠が変わってるのは色々理由があるんですけども……
そのうち出てくると思いますー。