エロシーンはないです。
生まれて初めての経験だった。巴はベッドの上で静かに寝返りを打って微かに微笑んだ。初めてこの施設に泊り込んだ時もやはり隣には絵美佳がいた。今も絵美佳は目を閉じて穏やかな寝息を立てている。巴ははみ出していた絵美佳の肩にそっと毛布を引き上げ、自分も同じ毛布に口許まで潜った。
生まれて初めて心が満たされた気がする。巴は自然と緩んでくる頬を手で挟んだ。こうして絵美佳と同じベッドに眠っていることも、今までとは全く別の意味を為している気がする。実際、巴は初めての経験の後だった。絵美佳に処女を奪われたことで、何よりも巴は暖かい気持ちを味わうことが出来たのだ。
変かな、わたし。そう呟いて巴は絵美佳の横顔を眺めた。地下のその部屋は絵美佳の私室になっている場所だ。机の上にある小さなライトだけが灯っている。ほんのりとした明かりはぼんやりと部屋の中を照らし、その光が絵美佳に少しだけ当たっているのだ。
初めて激しい快楽を味わったことより、絵美佳が自分を必要としてくれたことが嬉しい。巴はそう思いながら絵美佳をしばらく見つめていた。世の女性は誰でも処女を失った時にこんな気持ちになるのだろうか。それとも自分が特別に幸せなのだろうか。巴は自然と小さく笑ってしまってから、慌てて自分の口を手で覆った。そっと絵美佳の様子を伺う。
巴の心配を余所に、絵美佳は穏やかに眠っている。巴はほっと息をつき胸に手をあてた。パジャマ代わりに借りた白衣を胸のところでしっかりと合わせる。空調が効いている筈なのに少し、寒い。巴は毛布の中で少しだけ身体を移動させた。ほんの少し、絵美佳に近づく。
そして幸せな夜が明ける。絵美佳は普段通りに目を覚まし、いつもと同じように巴と一緒に朝食を摂った。昨日のことなどまるで夢だったかのように巴は感じた。だが少しだけいつもと違うことがあった。それは絵美佳が巴を本当の名で呼んでくれることだ。だが、絵美佳も心得ているのだろう。地上の学校にいる間、たとえ巴を呼ぶことがあっても誰にも判らないよう、元々名乗っていた名前で巴を呼んだ。
やがて数日が過ぎた。科学部内では巴が絵美佳の助手なのだと認められつつある。巴は充実した毎日に眩暈がしそうなほどの幸福を感じていた。今までとそう変わったことをしている訳ではない。絵美佳の命令に従い、それを守っているだけだ。だが一つ、変わったことがある。それは木村の当主に対する報告を一切、止めてしまったことだ。幸い、元の主人からは文句は言われていない。だから巴は深くは考えなかった。もういいのだ、と自分の中で決めてしまっていた。
だから気付かなかった。自分が木村から離れたのではない。元々、自分は木村に見放されていたのだ。そのことに気付いたのは、とある日に突然な呼び出しを受けたからだ。
その日はよく晴れていた。夏を感じさせる日差しの中、巴は呼び出された場所に急いでいた。もう縁は切れたはずなのに。そうぼやきながら巴は体操服のままでグラウンドを横切った。みんなが脱靴室に向かう中、一人だけ校舎の脇にある非常階段に向かう。そこを昇るのが一番、早いのだ。巴は不満いっぱいで生徒会室に向かった。
生徒会室の扉をノックする。すると中から涼やかな声が聞こえてきた。要の声だ。巴は返事を聞いてからそろそろと扉を開けた。隙間から中を覗く。するとドアの真横に立っていた野木が勢いよく扉を大きく開いた。ノブをつかんだままだった巴は引っ張られて生徒会室の中に転がり込んだ。
「よくいらしたわね、木崎さん。この方があなたに是非、お会いしたいと仰ったの」
巴が立ち上がるのも待たず、要がそう告げる。巴は床に伏せていた身体を慌てて起こした。真っ赤になって身体についたほこりを払ってから要に向き直る。要はだが、巴を見てはいなかった。その視線を辿った巴は息を飲んだ。
よく知る人がそこにいた。巴は目を見張って口許を押さえた。このまま駆け出したい思いに駆られる。だが巴は何とか思い止まった。
「母さま……」
「元気そうね。巴」
良子は穏やかな笑みを見せて首を傾げた。だが巴は母親である良子に笑いかけることは出来なかった。恐らく、良子は元の主人に言われて来たに違いない。きっと諜報員として全く働いていない自分を制裁しに来たのだ。そう思った巴の身体は一気に冷えた。とても良子をまともに見ることが出来ない。
「生徒会長さん、どうもありがとうございました。この子、落ち着きがないものでなかなか捕まえられませんの」
そう告げて良子は要に深々と頭を下げた。要も良子に合わせて会釈をしている。だが巴は驚愕に見張った目で交互に彼女たちを見やった。一体、どうなっているのだろうか。
だが巴がそんな疑問を抱いている間に良子はさっさと踵を返した。にっこり笑って巴の手を取る。巴は引きずられるようにして生徒会室を後にした。出際に見た要の意味深な微笑みが気にかかる。その意味を訊ねたかったのに、巴は有無を言わせず良子に引っ張って行かれた。
行き着いた場所は誰もいない中庭だった。東と西の校舎の間にある縦長の中庭には数箇所にベンチが置いてある。その一つに良子は先に腰掛けた。笑顔で隣を巴に勧める。巴は渋々、良子の横に腰を下ろした。
「本当に元気そうで良かったわ。最近、報告がないからどうしているのかと心配していたのよ?」
この学校には要の放った諜報部の人間が多く潜んでいる。だから迂闊な話はここですべきではない。そうは思ったが巴は内容が内容だけにそのことを良子に伝えられなかった。曖昧に笑ってそう、と流す。
実際、清陵高校には要の息のかかった生徒が数多くいる。要が自ら言ったことだが嘘ではないだろう。現に要は生徒たちのあらゆる情報を握っていた。巴がすんなりと科学部に入部できたのも、恐らくは要の指示が間違っていなかったからだ。要は出来る限り情報を集め、そしてそれを的確に利用しているのだ。
だからここで木村の話をしてはいけない。巴は何とか話を逸らそうと試みた。だがどんな言葉も形になってくれない。結局、巴は意味のない言葉を途切れ途切れに吐き出すのが精一杯だった。良子はそんな巴を不思議そうに見つめている。
巴は後々も出てきます。