「ええと、だから」
つまりはここで話さない方がいいのではないだろうか。その意志だけを巴は何とか良子に伝えることに成功した。すると良子がにっこりと笑う。
「ああ、巴はそういえば紅茶が好きだったものね。そうね。近くに喫茶店はあったかしら」
良子は何が楽しいのかくすくすと笑いながら立ち上がった。もしかしたら巴の狼狽ぶりに笑っていたのかも知れない。だが巴には良子を観察している余裕などなかった。力強く頷いて立ち上がる。さっさと学校の正門に向かおうとした巴の後ろから声がかかる。巴は足を止めて振り返った。見ると良子は困惑した顔で校舎を見上げている。
「なに?」
「あなた、鞄はいいの? まさか手ぶらで帰るつもり?」
良子はごくまっとうな質問のつもりだっただろう。だが巴は答えることが出来なかった。元々、自分は帰るつもりはない。良子との話が済んだら学校に戻るつもりだった。第一、授業はまだ残っている。それとも良子は残りの授業をさぼらせるつもりなのだろうか。巴は呆れて息をついた。
「母さま。まだ今日の授業は残っているんです。お話が済んだらわたしは学校に戻ります」
「ああ、そうなの」
良子は簡単に答えて立ち上がった。今度は巴より先に歩き出す。巴は慌てて良子の後を追った。
二人で並んで坂道を下る。そういえば母さまと一緒にこうして歩くのは何年ぶりだろう。巴は歩きながら不思議な気分をかみ締めていた。母と娘が一緒に歩く。本当ならさして珍しいことでもないのだろう。だが自分は何故か初めてこうして歩いた気がする。もっともそれは錯覚だろう。巴はそう心の中で笑った。
やがて二人は小さな喫茶店に辿り着いた。学校の坂を下ったところにある、カントリー調の喫茶店だ。客は殆どいない。昼間の時間なのに、と巴は怪訝に思いながら喫茶店の扉をくぐった。良子は先に入って店員に席に案内されている。巴もそれに従ってテーブルに向かった。
白いテーブルの真ん中には硝子の一輪挿しが置いてある。飾ってあるのは小さな赤い花だ。巴は和むその光景に少しだけ目を細めた。
「いらっしゃいませ」
女性の店員が水を運んでくる。渡されたメニューとにらめっこし、巴はダージリンティを注文した。良子も同じのを、と頼んでいる。そして店員が下がった後、改めて良子は巴を見つめた。
「報告が途切れているわね。どうなっているの?」
早速の質問だ。巴は苦笑いしてグラスを取った。唇を湿らせてから顔を上げる。
「ごめんなさい。もう、わたしは諜報員を辞めたいと思うの」
「……巴。それを一人で決めるのはどうかと思うわ」
静かに言い返される。巴は困惑した面持ちになり、良子をじっと見つめ返した。良子はこれ以上はないというほどに真面目な顔をしている。つまり、自分にすら相談しないというのはどういう了見か。そう訊きたいのだろう。巴はため息をついて良子に向き直った。
「ごめんなさい、母さま。でもわたし、本当にやりたいことが出来たの」
出来ればずっと絵美佳の傍にいたい。ずっと一緒にいたい。その願いは絵美佳に受け入れられた。だから自分はもう、木村のために働きたくない。いや、絵美佳に少しでも悪影響がありそうなことは絶対にしたくないのだ。
絵美佳は吉良瀬側の人間だ。それならば木村といつまでも自分が繋がっていたらまずいだろう。巴はそう判断していた。だから報告もあの日からしていない。巴にとってはそれが自然だったのだ。
だが良子は眉間に皺を寄せている。相当に気に入らないらしい。巴は恐る恐る良子から目を逸らした。居心地が急に悪くなる。
案の定、良子は説教を始めた。巴は居辛い気分のまま、じっと良子の話に耳を傾けた。あなたは諜報員の自覚がなさすぎる。折角、口をきいてあげたのにその恩を仇で返すような真似をしようとしているのだ。そんな話を聞いているうちに巴は段々と嫌気がさしてきた。
思えばこんな風に良子に叱られるのは初めてだ。そう思ってからふと巴は眉をひそめた。初めて。何故だろう。普通、母親に叱られることはさほど珍しいことじゃないはずだ。なのにどうして自分はこれを初めてと思うのだろう。そんなに自分は母親に叱られないようないい子だったろうか。それを思い出そうとして巴はさらに戸惑った。
思い出せない。幼い頃の自分はどんな子供だった? 何故、思い出せないのだろう。必死で記憶をたぐり始めた巴の顔は、いつの間にか真剣そのものになっていた。良子がそっと口をつぐむ。だが巴はそのことにすら気付かなかった。
どうしても思い出せない。巴は運ばれてきた紅茶に無意識に手を伸ばした。震える指でカップに触れる。指の震えを受けたカップが小刻みに揺れ、小さな音を立てる。巴はそこでようやく我に返った。慌てて顔を上げる。すると良子はいつの間にか静かな表情になっていた。
目と目が合う。どうしてだろう。自分は確かに良子を母と認識しているのに、何故か良子のことを知らない誰かと思う気持ちが心の何処かにある。巴は愕然と目を見張り、やがて顔を伏せた。
「そう。やはり順様に聞いたとおり、あなたにはマスターが出来てしまったのね」
穏やかな声だった。巴は訳が判らないままでゆらりと顔を上げた。説教をしていた時とは全く違う、本当に静かな表情が目に留まる。巴はじっと良子を見つめていた。頭の中はだが真っ白だ。何も判らない。物静かな中年女性を見つめている、という感覚しかない。この人は誰だろう。そんな思いすらその時の巴の心には存在しなかった。
紅が綺麗に塗られた唇が言葉を紡ぎ出す。巴の目には滑らかに動く唇が映っていた。
あー……
ちゃんと活かせてないキャラクターが色々いるなー……(汗)
エピタイは自分のためですw