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水の匂いがする。水輝は静かに瞼を上げて声にならない声でそう呟いた。水輝の目覚めを察知したのか、真っ暗だった部屋がゆっくりと明るくなる。どこからともなく音楽が聞こえ始める。水輝が身体を起こす頃、部屋は見慣れた明るさを取り戻した。かかっている音楽はやはりクラシックだ。
外には雨が降っている。地下に潜っている水輝はそのことを把握していた。力は自由には使えない。だが本来の性質である水の動きは嫌でも感じ取れるのだ。水輝は息をついて周囲を見回した。
可愛い部屋だと素直に思う。ここは元は別の誰かの部屋だったのだと優一郎が教えてくれた。そのことを思い出して水輝は小さく笑った。きっと元は、ではない。今でもこの部屋はその誰かの物なのだろう。だからこそ自分はいつまでもこの部屋の客でしかない。水輝はくすくすと笑いながらベッドから滑り降りた。
この部屋は心地良い室温が常に保たれている。何度か廊下に出たことがあるが、廊下もそうだった。多分、地下全体が一定の気温に保たれているのだろう。地下に埋まった施設を設計したのは優一郎だ。そう水輝は優一郎から聞かされた。
「凄いわよね。普通の高校生じゃないんだわ、きっと」
そして優一郎は水輝を手厚くもてなしてくれている。そのことに水輝は素直に感謝していた。傷ついた身体もすっかり良くなっている。ただ問題なのは、睡眠時間が妙に長いということか。その理由は水輝にも判っていなかった。だが優一郎にも原因はわからないらしい。
まあ、眠り過ぎて身体がおかしいこともないし。水輝は小さくそう呟いて背伸びをした。ついでに乱れていた髪を指で漉く。それでも物足りなくて水輝は設えてあるドレッサーに向かった。櫛で丁寧に髪を漉く。そうしている間にドアが音を立てて開いた。
「あ、おかえりなさい」
水輝は笑顔で振り返った。優一郎がにっこりと笑ってただいま、と応える。まだ優一郎は学生服のままだ。水輝はその服を見つめ、思わずため息をついた。懐かしい。心の底からその思いが込み上げてくる。
かつて自分は清陵高校に通っていた。当時、通っていたのは水輝だけではない。立城もまた同じ学校にいた。懐かしい時を思い出しながら水輝はしばらく優一郎の姿を見つめていた。すると優一郎が不思議そうに首を傾げる。ああ、と笑って水輝は手にしていた櫛を戻した。きちんと優一郎と向かい合わせになるように座り直す。
「前にね。あたしも清陵高校に通っていたことがあるの。だからその制服が懐かしくて」
「そうだったんですか。それじゃあ僕らの大先輩というわけですね」
微笑みを浮かべ優一郎が扉を閉める。水輝は軽く頷いて何気なく優一郎の近くに寄った。
制服姿の優一郎を見上げる。穏やかで柔らかい顔立ちの優一郎は、制服を身につけていると昔の立城を思わせる。勿論、顔が似ているという訳ではない。持っている雰囲気がとても似ているのだ。水輝は懐かしさに目を細め、しみじみと優一郎を見つめた。
あの頃、とても楽しかった。心の中に沸き起こる懐かしさに微笑みを浮かべ、水輝は一歩、優一郎に近づいた。優一郎は不思議そうにそんな水輝を見下ろしている。だが文句を言おうとはしない。
毎日が夢のように感じられた。人との関わりがとても楽しいと思えた。今でも人は好きだ。けれどあの頃は今よりもっと積極的に人と対していた。水輝は懐かしい時間を思いながらそっと瞼を閉じた。軽く俯く。すると優一郎が首を傾げて水輝に声をかけた。
「ごめんね。なんだかとっても懐かしかったから」
だからつい、見とれちゃったの。そう言いながら水輝は顔を上げた。閉じていた瞼を上げる。すると優一郎が驚いたように目を見張った。水輝はいつの間にか瞳に涙を浮かべていた。どうしてそうなったのかは自分でも判らない。だが懐かしいと思うと同時に同じくらいの悲しみが心に生まれたのだ。
ごめんなさい。水輝はそう言って優一郎から顔を背けた。
どうしても思い出せないものがある。あの頃、自分と立城以外にも誰かが一緒にいた筈だ。毎日の楽しい時を共に過ごした誰かがいた。だがそれが誰だったのかを水輝はどうしても思い出せなかった。優一郎が助けてくれたあの日から、その悲しみは胸の奥にあった。思い出せない何かを思うと切ない気持ちになるのだ。
過ぎた時は戻らない。いつか翠がそう言っていた。水輝は思い出して苦笑した。濡れた目元を拭う。翠がしたことは許しがたいが、かといってストレートに憎める相手ではないことも水輝はよく理解していた。時を司る翠はその強大な力ゆえに仲間たちの多くから恐れられてきた。そんな中で翠と会い、そして話を出来る者は限られていた。水輝はその限られた者の中の一人だったのだ。
あんなことがあったのに憎めないなんて変かしらね。水輝は心の中でそう呟いた。優一郎は心配そうな顔で水輝を見守っている。水輝は視線に気づき、軽く笑って手を振った。
「大丈夫。何でもないのよ。少し、昔を思い出しただけ」
「水輝さんは立城さんとは親しいんですか?」
優一郎は不意にそう訊ねた。瞬きをして目を戻す。そして苦笑して水輝は首を軽く傾げた。
「さあ、どうかしらね。でもあたしの傍にずっといてくれたのは確かね」
そう答えて水輝は手近にあった椅子を引っ張った。腰を下ろして優一郎を見上げる。一体、何を訊きたいのだろう。優一郎は考えるような仕草をしている。水輝は笑いながら優一郎を見つめていた。
「立城さんのこと、呼びましたよね? 助けてって。よほど信頼してらっしゃるのかなと思って」
「え?」
助けて。水輝は口の中でそう言ってみてから首を捻った。言った覚えがない。水輝は素直に優一郎にそう告げた。すると今度は優一郎の方が考え込んでしまう。どうやら言ったことに間違いはないらしい。水輝は困惑して額を手で押さえた。
エロに入る前の準備体操的な感じのエピソード?
この状態の水輝は男性化していた時のことはさっぱり覚えてないです。