月が遠くに光っている。ぼんやりと目を開けた多輝はよろけながら身体を起こした。酷く身体が重い。手足の先に錘でもつけられているような感覚だ。多輝はぼんやりと周囲を見回し、そしてようやく自分が保健室の中にいることに気付いた。
おれ、何でここにいるんだっけ。掠れた声で呟く。だが薄闇からは返事もない。どうやら自分は忘れられてしまっていたらしい。保険医の玲花の姿も見当たらない。多輝はため息をついてベッドから降りた。
ゆっくりと一歩ずつ足を出す。硬い床が妙に冷たく感じられる。多輝は数歩ほど歩いてから自分が上靴を履いていないことに気付いた。息をついてベッドに引き返す。足元にきちんと上靴が揃えて置いてある。多輝はスリッパのように靴を引っ掛け、再びベッドに背を向けた。
そういえば廊下に倒れていたんだったっけな。多輝は何とか記憶をたぐり寄せた。智美の心配顔が脳裏に蘇る。
「そうか、保健室の前でまた気絶したのか」
だが口に出してみてもどうもしっくりこない。本当に自分は気を失ったのだろうか。怪我もあっという間に完治してしまう身体なのに、気絶するほどに発熱していたというのだろうか。多輝は眉を寄せて試しに自分の額に触れてみた。やはり熱い。どうやら熱は殆ど下がっていないようだ。
夢遊病者のような足取りで多輝は歩き出した。身体を引きずるようにして前に進む。視界すらぼやけ、はっきりと景色が見えない。開いている保健室のドアをくぐり、廊下を行く。
校舎の中は異様に静まり返っていた。月の光が影を作る。多輝が歩くたびに影は音もなく揺れる。多輝はゆっくりと地下に続くドアを目指していた。時折、身体がぐらついて傾く。その度に多輝は壁に寄りかかって身体が落ち着くのを待った。しばらく休んでから再び歩き出す。その繰り返しだ。
ふと、空を見上げる。廊下の窓の外には金色に輝く月が浮かんでいる。多輝はその場に足を止め、黙って月を見つめた。なぜか懐かしさを覚える。ぼやけた視界の中で月だけがはっきりと浮かんでいるのだ。多輝は微かに笑いを浮かべて再び歩き出した。
いつか、同じような光景を見たことがある。忘れてしまっていた何かが蘇る。多輝は熱に浮かされながら歩いた。そしてドアにたどり着く。照合を待つ間、多輝は壁に寄りかかっていた。やがて膝が砕け、壁伝いに沈み込む。肩で息をしながら多輝は目だけを上げた。電子音が響き、ドアの鍵が外れる。
ドアを開けると急に明るい光が目に飛び込んでくる。多輝は目を見開いて息を飲んだ。光が視界の中で錯綜する。光の乱舞を見つめ、多輝は思わず胸を押さえた。動悸が激しくなる。異様な息苦しさを感じ、多輝は身体を折り曲げた。瞼を閉じても光は見えている。叫びたくなるような何かが身体の底から這い上がってくる。
多輝は無意識に手近のものにしがみついた。指先の触れた柔らかな布を必死でつかみ、空いた手を床につく。身体全体で呼吸している多輝の傍には、いつの間にか人影があった。影がゆらりと動いて多輝の背中を撫ぜる。多輝は夢中でその誰かにしがみついた。
甘い、香りがする。多輝は誰かに静かに唇を奪われていた。目を閉じたまま熱い息をつく。そんな多輝を誰かの腕がしっかりと支えている。微かに目を開くと、黒いブラウスと真っ白なリボンが見えた。多輝は再び目を閉じ、甘い香りを深く吸い込んだ。身体に香りが満ちる。
「美味しいですか?」
唇が離れた隙を狙ったように誰かの声が聞こえてくる。知らない女の声だ。多輝はぼんやりする頭の中でそう考えた。そして頷く。すると誰かの手が頬に触れた。冷ややかな指が多輝の頬を撫ぜる。
甘い香りが再び唇を塞ぐ。今度は深い口づけだった。開いた唇の隙間から温かい舌が口の中に入ってくる。多輝は自然に口づけに応えた。甘い香りが口の中いっぱいに広がる。ああ、相手の唾液の香りだったのか。そう、多輝が気付いた時、大量の唾液が口に注ぎ込まれた。抵抗することもなく飲み下す。自分の息までが香りに包まれ、多輝はその香りに酔いしれた。
唾液の糸を引きながら誰かがそっと離れる。多輝はぼんやりと目を開けた。知らない女性が微笑みを浮かべている。その女性は力の抜けた多輝の身体をそっと支えて立ち上がった。多輝は促されるままに女性に寄りかかって腰を上げた。
どこに行くとも言われない。多輝は女性に抱えられながら歩いた。もう、目もよく見えない。視界に交錯するのは色だけだ。時折、女性が立ち止まる。その度に多輝は酷い息苦しさに襲われた。何度か激しく咳き込む。女性はそんな多輝を気遣うように背中を撫ぜ、そしてまた歩き出す。
多輝は知らない場所に連れられた。ベッドに乗せられる。だが多輝は感触だけでベッドだということを確認した。もう、目には景色は全く映っていない。あるのはただ、光と色だけだ。輪郭のない色が時折、視界の中で動く。
「ロボット研究会にようこそ」
不意に知っている声が聞こえてくる。多輝は驚愕に息を飲んだ。間違いない。優一郎の声だ。多輝は横たえていた身体を懸命に起こし、声のする方を向いた。だが、やはり優一郎の姿は見えない。
「て……め……どう、して……」
息苦しさを堪え、多輝は掠れた声で告げた。一言、喋るだけで湯水のように体力を消耗してしまう。多輝はそれでも何とか身体を支えていた。
「雨宮先輩には貸しがありますからね。そろそろ返してもらおうかなと」
優一郎の滑らかな言葉が響く。多輝は顔をしかめながら息をついた。喉が熱い。何とか深く息を吸ってから、多輝は目を上げた。優一郎がいるであろう方を睨む。
「借り、なんて、ねえ、だろ……がっ」
だがそう吐き出した瞬間、多輝はベッドに崩れ落ちた。がくん、と腕から力が抜ける。再び身体を起こそうとしたが、どうしても力が入らない。歯軋りした多輝の耳に誰かの足音が響いてきた。そして間近に迫ってきてから足音が止まる。多輝は音の方に目を上げた。
「先輩。去年の秋の記憶が混乱してたりしませんか?」
涼やかな声で耳元に囁かれる。多輝はなんだと、と心の中で返した。既に言葉にならない。身体全体で息をしている多輝を見下ろしていた優一郎は悠然と笑っている。だがそれすら多輝には見えなかった。
「安心してください。先輩にはあのときの事を追体験させてあげます。後でゆっくりと」
どういう意味だ。多輝はそう訊き返すことが出来なかった。身体の奥底から何かがこみ上げてくる。多輝は掠れた呻き声を上げた。シーツを力任せにつかむ。だが実際には多輝の指には殆ど力は入っていない。力なくシーツを握った手は小刻みに震えていた。
優一郎とは去年、知り合った。多輝はぼんやりとそのことを思い出した。だが知り合った経緯や、知り合ってからの記憶が曖昧になっている。どこで、どうして知り合ったのだろう。多輝は心の中で自問した。だが思い出せない。
静かに空気が揺れる。多輝はそれだけを感じ取って目を細めた。だがやっぱり見えない。多輝はベッドに近づいてくる複数の人影を捉えることが出来なかった。優一郎が微笑みを浮かべ、真横に立った女性に手を伸ばす。
「それじゃあ、作戦を開始しよう。プログラムを起動するから、女性器ユニットを露出させて」
「はぁい」
女性の声が答える。それを耳にした多輝は驚きに目を見開いた。確か、ちなりと名乗った少女だ。多輝は呆然としたままベッドから動くことが出来なくなっていた。
やったらやり返されるの図w