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過ぎた時は戻らない。どれほど願っても都子は帰らない。順は心の中でそう自分に言い聞かせた。静かに部屋を横切り、廊下に出る。音を立てないようにドアを閉じ、順はじゅうたんの敷かれた廊下を歩き出した。廊下の壁にはぽつぽつと明かりが点いている。深夜のこんな時間に出歩く者は滅多にない。だから明かりは最小限の数しか灯っていないのだ。
オレンジ色の明かりの中を順は静かに歩いた。歩くたびに足の裏にじゅうたんが触れる。しばらく歩いてから順は苦笑した。なぜ自分は裸足で歩いているのだろう。屋敷の中ではスリッパか靴を履いて歩くのが普通なのに。順は胸の内でそう呟き、立ち止まった。だが部屋に履物を取りに戻るのも面倒だ。順は少し考えてから再び歩き出した。どうせ屋敷の中で順を咎める者はいない。
階下に向かう。一階に降りた順は目的の部屋を真っ直ぐに目指した。その部屋にたどり着き、ドアを静かに開ける。ドアは重さの割に音もなく開いた。
「眠れないのか?」
部屋の中から静かに問われる。順は薄暗い部屋の中に苦笑を送り、ドアを閉じた。窓からの明かりを眺める。窓際には翠が座っていた。ベッドでは、変わらず多輝が静かに眠り続けている。
水輝が消えた日から十日ほどが過ぎている。だがその間、翠は多輝に触れさせてくれない。それどころか隙を突こうと試みた順の行動を必ず阻止してしまう。ここ数日で順はもう諦めてしまっていた。
多輝をじっと見下ろし、順は苦笑した。
「姫はまだ眠ってる訳ね。さしずめあんたは姫を守護するナイトってトコ?」
翠は滅多にここを動かない。時折、ふと姿を消すこともあるが、ほどなく戻ってくる。順がどれほど出て行けと言っても聞かない。最近では順にも翠を無理に追い出そうという気はなくなっていた。
「多輝を守護する者は別にいる。わたしはただの間に合わせに過ぎない」
あくまでも硬い声音で翠が答える。今まで順をはぐらかし続けている翠だが、その間一度も穏やかな声になったことがない。あくまでも冷ややかな双眸で、その表情を裏切らない程度には冷たい声を発している。順は小さく笑ってそんな翠と多輝を見比べた。
「やれやれ。アンタは頑なだなあ。いいかげん、打ち解けても良さそうなもんじゃない?」
笑いながら告げ、順は小さなテーブルを挟んで翠と向き合わせに座った。真っ白なテーブルに肘をつく。顎を乗せたところで翠が考えるように首を傾げた。
「必要があればそうしよう」
「あー、はいはい。どうせオレと仲良くなっても得することはないってね」
呆れ気分で告げる。すると微かに翠が笑った。ほんの一瞬だけの笑みに順はつい息を飲んだ。だがすぐに翠は元の冷ややかな顔に変わる。順は止めていた呼吸を戻し、苦く笑った。翠は変わらず静かな表情をしている。
「それで、アンタは結局いつまでここにいる気なの?」
どうせろくな答えなど返ってはこないだろう。期待もせず順は訊ねた。すると翠がすかさず口を開く。
「明後日までには片がつく。それまでだな」
「随分とはっきり言い切るねえ」
笑い混じりに答えてからふと気付く。翠は時を司る者だ。もしかしたら最初から滞在する時間は決まっていたのではないだろうか。順はそう思いながらちらりと翠を見やった。翠は相変わらずの様子で静かに窓の外を眺めている。順の部屋と同じ向きにある窓からは庭が見える。二階からとはまた違った光景を順もしばらく黙って見つめていた。
やがて翠が振り返る。順は片眉を上げて口許に笑いを浮かべた。
「アンタは何でもお見通しなんだっけ? やれやれ。じゃ、オレが何をしてもあんたはここからは出て行かなかったってコト?」
何を言っても翠は決まった時までは動かない。何となくそんな気がした。思ったままを訊ねた順に翠が静かに頷く。やっぱりね、と笑って順は再び窓の外に目を向けた。
月の光が音もなく降り注ぐ。緑の芝は月明かりの白さにいつもとは違う色に染まっている。淡いその色を目に焼き付け、順は顔を上げた。翠の横顔が月に照らされている。翠色の髪と瞳が月明かりを受け、昼間とは別の色に染まっている。
「天空の王は気紛れだって聞いたことがあるよ。地上の王といたく仲が悪いって話もさ」
語ってくれたのが誰だったのかはもう覚えていない。順はそう言って肩を竦めた。翠は黙って順を見つめている。視線を感じながら順はそっと空に浮かぶ月を見上げた。
「天と地が決して混じらないように、二人はいつも相容れない。それが何故なのかを知る者はない、とかね」
だから天空の王は地上には降りてこない。いつか聞いた話を思い出しながら順は静かに話を続けた。翠は口を挟まない。ただ静かに聞いているだけだ。
天空の王とは翠龍神を指す。地上の王は木龍神のことだ。そう教えてくれたのは順と同じハンターだった。そしてそれぞれの王の名を順は後に知った。翠龍神は翠。木龍神は立城。そして翠は龍神たちの前にも滅多に姿を現さない。逆に立城は普段から人の中に紛れている。正反対の性質だからだろうか、と順はその話を思い出すたびに思ってきた。
設定はあとからできるものー!!