「ぶ、部長! 沸騰してます!」
間近で誰かが悲鳴を上げる。絵美佳は言われて慌てて三脚の上に目をやった。まただ。ビーカーの中身が思い切り煮立っている。煮える寸前まで温めようとしているのに、もう三度も沸騰させてしまった。絵美佳は苛々しながらガスバーナーのガスを絞った。
今日は合宿の最終日だ。なのにどうも合宿初日から気が入らない。いつもならしないようなミスを連発しているのだ。絵美佳は苛々しながらビーカーに手を伸ばした。真横に立っていた智美が慌てて絵美佳の手をつかむ。
「だ、駄目です! そのままつかんだらやけどしますってば!」
それを聞いて絵美佳はのろのろと納得した。そう。普通は中身の煮えたビーカーをつかんだら火傷する。いつもなら誰かが笑って絵美佳の代わりに処理してくれていたのだ。
「あいつが居れば、こういうの得意なのに」
絵美佳がぼやく間に智美は素早く軍手を出した。そっとビーカーを三脚から下ろす。すぐに冷やすと硝子が割れるので、そのままの状態で流しの中に入れる。絵美佳は無言で智美を見つめた。
他の部員たちもそれぞれが実験に入っている。合宿中になかなか面白いデータも取れた。なのに絵美佳が予定していた実験だけが進んでいないのだ。これまでに何本、紫芋を駄目にしただろう。絵美佳はため息をついて椅子に腰を下ろした。
「ぶちょおー。やっぱ、寝てないのがまずいんじゃないんすかあ?」
間延びした声をかけてきたのは大助だ。絵美佳は煩いわね、と言い返してから実験台に向き直った。まだ材料はある。
「そうですよお。そのままだと、ほんとに身体が壊れちゃいますよ」
「眠れないんだから仕方ないじゃない!」
気遣うように声をかけてきた智美に絵美佳は即座に言い返した。苛々しながら三脚に手を伸ばす。今度は智美が止める前に、絵美佳は慌てて手を引っ込めた。指先がじんじんする。智美が大変、と叫んで絵美佳の手をつかむ。絵美佳は引きずられるようにして別の実験台のところに連れて行かれた。
「駄目ですよう。熱いって言ったじゃないですかあ」
そう言いながら智美が水を出し始める。絵美佳の手を水流の中に突っ込み、智美は子供に言い聞かせるようにもう一度同じことを繰り返した。
手が痛い。絵美佳はぼんやりと水流の中の自分の手を見つめた。さっきは大した痛みじゃなかったのに、次第に痛みが酷くなってくる。
「もう! このくらいの火傷なら、あいつが居れば」
絵美佳は苛立ちに任せて水流の中の手を握り締めた。すると痛みが余計に酷くなる。泣きそうな顔になった絵美佳を見ていた智美が、慌てて駄目ですよ、と声を上げた。
「もう。部長ってば、無茶しちゃ駄目ですっ。まだ冷やしてないと」
その時、不意に実験室のドアが開いた。乱暴に開け放されたドアのところに一人の女性が立っている。知らない顔だ。絵美佳は眉を寄せてその女性を睨みつけた。
「あんた、誰? どうやってここへ入ってきたの!?」
だがその女性は絵美佳の誰何の声を無視して実験室に入ってきた。慌てた部員たちが女性を止めようとする。だが女性は横から伸びてきた手を全て振り切り、真っ直ぐに絵美佳の元に歩いてきた。智美が慌てたように女性と絵美佳の顔を見比べる。
「いいから、ちょっと付き合え」
そう言ったかと思うと、女性は絵美佳の手首を強い力でつかんだ。絵美佳の返事も待たずに歩き出す。
「あっ、えっ? ちょっとっ!」
「ぶ、部長ー!」
うろたえながら女性に引きずられる。そんな絵美佳の後を智美が焦ってついてくる。女性は来た時と同じように真っ直ぐにドアを目指し、そして入り口のところで不意に足を止めた。後ろからついて来ていた智美に首を振る。
「ちょっとこいつと話があるんだ。智美ちゃんは遠慮してくんないかな」
滑らかにそう告げると女性は智美の鼻先で乱暴にドアを閉じた。絵美佳の髪がドアに煽られて揺れる。絵美佳は女性につかまれていた手を思わず振り解いた。女性は意外とあっさり、絵美佳から手を離した。
「突然何よ! あんた……あれっ?」
絵美佳は叫びを止めてまじまじと自分の手を見下ろした。さっきまで激しかった痛みがきれいになくなっている。火傷した筈の手をまじまじと眺め、絵美佳はゆらりと顔を上げた。女性は黙って廊下を歩き出している。
「いいから早く来いよ。そこじゃ、ろくに話も出来ないだろ」
しばらく行ってから女性は面倒そうに振り返った。絵美佳は黙ってその女性に従った。迷うことなく女性は食堂を目指している。絵美佳は疑いの眼差しを女性に向けながらも大人しく従った。
食堂は静まり返っている。女性は食堂の奥に進んで冷たい麦茶の入っているポットを手に取った。毎朝、当番の部員が麦茶を沸かして冷やしておくのだ。女性の手つきを見つめながら、絵美佳は近くのテーブルについた。女性が二人分の茶を運んでくる。
「あ、あの、あんた、その……」
だが絵美佳は自分の考えをすぐには口に出来なかった。普通ではあり得ない。だが女性はのんびりと紙コップを傾け、絵美佳に苦い笑みを見せた。
「ま、そゆこと。おれはこの身体に入っちまったらしい。機械だけどな」
声に聞き覚えはなくても喋り方はよく知っている。絵美佳は息を飲んで女性を見上げた。震える指をさす。
トンデモな性格の絵美佳ですが、さすがにびっくりしたようです。