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「部長。あの、どうぞ」
控え目な声が聞こえてくる。絵美佳は不機嫌なままで目を上げた。智美が机の脇に立っている。絵美佳を気遣っているのだろう。智美は心配そうな面持ちで湯気のたつマグカップを机に置いた。
「ハムちゃん、いなくなっちゃったんですかあ。ちょっと寂しいですね」
先日、入部してきた智美は他のどんな部員より、絵美佳の傍にいた。それ故にいつもこのホームページも二人で一緒に見ていたのだ。しみじみと頷きながら絵美佳はありがたくマグカップを取り上げた。ぴったり、絵美佳の好みの濃さで淹れてあるコーヒーを啜る。
智美は不思議な女子生徒だった。大抵、ここに来てすぐの生徒はまず地下施設の広さに怯える。次いで研究内容に驚く。さらに順応するまでには日数を要するのが通常だ。だが智美はここに入ってきたその日にいきなり順応してしまったように見受けられる。それというのも、一度、絵美佳が出した注文には忠実に応えることが出来るからだ。科学者としての資質はどうであれ、助手としてはいい人材だ。
椅子を指し、絵美佳は智美に隣に座るように指示した。智美が頷いてパイプ椅子を引っ張ってくる。
「あんたって結構、いいわよねー。気が利くし」
マグカップを両手に包んで絵美佳はそう呟いた。すると智美が真っ赤になって顔の前で手を慌ただしく振る。そんなことないですよ、という意味だろう。だがしどろもどろで言葉らしい言葉は智美の口からは出てこない。絵美佳は小さく笑ってまあまあ、と智美の肩を叩いた。
「ありがと。ほんとに役にたってるし」
心から感謝の言葉を口にする。こんな風に誰かに素直に礼を述べることも絵美佳にとっては珍しいことだ。同じ部屋で作業をしていた数人の部員が絵美佳の言葉を聞きつけて驚きに目を見開いている。だが絵美佳も智美もそんな部員たちの反応に気付かなかった。
「いえ、そんな。あ、でもそう言ってもらえるととても嬉しいです。わたし、人に誉められたことってないから」
そう言いながら智美は照れて頭をかいた。その拍子に智美は肘で自分のマグカップを机の下に引っくり返してしまう。情けない声をあげた智美に絵美佳は遠慮なく笑い声を上げた。智美が慌てて立ち上がって研究室の中にあったタオルを手に戻ってくる。コーヒーのこぼれた床を拭きながら、智美は何度も絵美佳に詫びた。
「そんなに謝らなくていいわよ。あんたってば、どじだけど、笑えるから」
笑いながら絵美佳はそう告げた。だが智美はまだ情けない顔をしている。目を上げて智美はため息をついた。
「それって誉め言葉に聞こえませえん」
唇を尖らせた智美に絵美佳は何を言う、と軽く返した。これでも誉めているつもりなのだと説明すると、智美の機嫌も幾らかは落ち着いたようだ。そうですか、と複雑な表情をしながら零す。
結局、智美とのやり取りがいい気分転換になり、それからの絵美佳は滞っていたプランを順調に組んでいくことが出来た。智美も絵美佳の手伝いに精を出した。部員たちの研究も上手く進んでいるらしい。放課後の部活動の時間が過ぎ、帰宅時間になっても科学部の施設の中は賑わっていた。
やがて一人、また一人と部員たちが地下から出て行く。そして最後には絵美佳と智美だけが地下施設に残された。今までプランが停滞していたこともある。絵美佳は今日は帰らないつもりだった。智美にそう告げると彼女も付き合うという。
「そんな、部長を一人で置いていけませんよお。大丈夫。わたしなら平気ですし」
そう言った智美はこまごました雑用をこなしていた。食事の準備までしてくれているという。絵美佳はありがたくご馳走になることにした。食堂に入るといい香りが漂っている。白い飾り気のない皿に盛られたスープを一口飲んだ絵美佳は絶句した。どうやら智美は丁寧にコンソメを作ったらしい。金色のスープは信じられないくらいにいい味をしている。
「美味しい!」
「喜んでもらえて嬉しいです。あ、まだおかわりもたくさんありますから」
テーブルを挟んで向き合っていた智美がにっこりと笑う。邪気の感じられない笑みを浮かべた智美に絵美佳は頷いてみせた。スプーンで掬って口に入れるたびに、コンソメのいい香りが鼻をつく。
絵美佳の家には料理の得意な由梨佳がいる。さらに優一郎も料理の腕はまずまずだ。絵美佳自身も料理をすることがある。だが、そんな家庭で育ってきた絵美佳にとってもこのコンソメは絶品と思えた。
二人で向かい合って食事を済ませた頃には、もう十時を回っていた。絵美佳はデザートに出されたブラマンジェをつつきつつ、再びディスプレイに向かった。時計の針の音が聞こえそうなほど、部屋の中は静かだ。絵美佳はふと画面から目を離し、智美を見やった。智美は絵美佳から少し離れた場所にある机に向かっている。
「あんたみたいな助手が欲しかったのよね」
声をかけると智美が驚いたように顔を上げた。どうやら書き物をしていたらしい。絵美佳は不思議に思いながら首を傾げた。智美が腕でさっと机の上を隠したからだ。絵美佳が何それ、と目で訊ねると智美は途端に困ったような顔になった。
「ええと、その、アルバイトみたいなものなんで、気にしないでください」
アルバイト。それを聞いた絵美佳は目を輝かせた。耳にしたことがあるが、実際に絵美佳はアルバイトというものをしたことがない。絵美佳は喜びを満面に表しながら智美に近づいた。智美はまだ困惑した表情をしている。だが絵美佳は全く智美の様子を気にしなかった。
20年以上前の話なので古いところがあります。
……昔は大丈夫だと思っていたのですが……駄目ですね(泣)