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遠い月を見つめる。智美は静かにため息をついた。月見をしようと言い出したのは絵美佳だ。絵美佳は校舎の屋上にさっさと上がり、ビニールのシートを広げてしまっている。どうやら絵美佳は用務員の老人とは仲が良いらしく、ちゃっかり校舎の鍵も借り受けている始末だ。もしかしたら下手な教師たちより絵美佳の方がその老人と親しいのかも知れない。
だが月見という割に酒類はない。絵美佳曰く、アルコールは脳細胞を著しく破壊するもので、出来れば口にしたくないのだそうだ。まあ、智美もアルコールの類が好きな訳ではないのでその意見には賛成した。
深夜過ぎの夜空高く、月はぼんやりと浮かんでいる。時折、月の一部が欠けるのは千切れた雲が空を流れているからだ。そんな夜空を見上げながら智美は全く別のことを考えていた。
雨宮多輝。そう心の中で呟く。多輝の正体について絵美佳から話を聞いた時、自分は何を考えただろう。報告しなければということしか考えなかった。だがそれは諜報員としては当り前の思考のあり方だ。別に可笑しいところはどこにもない。
なのにどうしてこんなに罪悪感があるのだろう。智美はぼんやりとそのことを考えていた。前までは気にしたことのない罪悪感に苛まれている。それはきっと絵美佳の傍にいたからだろう。原因も智美にはよく理解できていた。
だから出来るだけ周りの人と親しくならないようにと注意していた筈なのに。智美は内心でそう呟いた。隣では絵美佳が感慨深そうな面持ちで月を見上げている。その横顔には迷いはなさそうだ。智美と一緒にいることが当り前とすら思っているのかも知れない。現に絵美佳はことあるごとに智美をいい助手だと誉めていた。智美も誉められることに慣れていなかったから、絵美佳の言葉を嬉しい気持ちで受け止めていたのだ。
楽しく日々を送ってきたつけが回ってきただけだ。智美は自嘲気味に笑った。絵美佳は微かな智美の表情の変化には気付かない。見ようによっては呆けて天を仰いでいるようにも見える。智美はちらりと隣に座る絵美佳に目をやり、再び空を見上げた。ほんのりと柔らかな光が屋上に注がれている。
「酒は嫌だけど、乾杯くらいはしたい気分かも知れないわ」
そんな風に笑って絵美佳は首を戻した。智美は微笑みながら缶入りのコーヒーを絵美佳に差し出した。クーラーバッグにきちんと入れてあっただけあり、まだ熱い。本当は淹れたてのコーヒーを用意しようとしたのだが、絵美佳は智美にそんな暇を与えてくれなかった。思い立ったらすぐに行動するというのが絵美佳の性格らしい。
智美は絵美佳の乾杯の声に合わせてコーヒー缶を触れ合わせた。缶を両手に包むとじんわりとした温かさが伝わってくる。口をつけると少し苦い味がした。
今まで黙っていたことを智美に打ち明けたからだろうか。絵美佳は智美が口に出さなくても色んなことを話してくれた。きっと信用してくれているのだろう。そのことが判れば判るほどに辛くなる。だが智美は出来るだけ辛さを顔には出さないように務めた。
多輝が元から人ではないこと。そして今は機械仕掛けの身体に精神が移っていること。他の人間が聞けばただの冗談としか思えなかっただろう。それも智美には理解できていた。絵美佳が幾ら本当だと主張しても、大抵は笑い飛ばされて終わる話だ。だが智美はそう出来なかった。そうかも知れない、という納得する気持ちが心のどこかにあったのだ。
智美の主人である木村順は人ではないと言われている。詳しいことは智美にも判らない。とある人物から聞き及んだ話だ。順は人にはあり得ない若さを保ち、そして長い時を生きていると聞く。いつ、順が木村当主の座についたのかは智美にも判らない。身近ではないが、智美は人ではないかも知れない順という存在がいることを知っていただけに、多輝のことも冗談だと笑い飛ばせなかったのだ。
絵美佳はゆっくりと語っている。多輝のこと、そして話は絵美佳の家庭のことへと移った。絵美佳は吉良研究所所長である吉良総一郎博士の長女であるという。そのことも智美は初めて聞く話だった。
「あの有名な博士の、ですか!?」
話を聞いた途端、智美は素っ頓狂な声をあげてしまった。だが今は校舎にも、そして学校の周辺にも人はいない。用務員の老人は少し離れた用務員室で熟睡中だ。智美は慌てて口を覆ってから、声の大きさをさほど気にする必要がないことに気がついた。ため息をついて手を退ける。そんな智美を見ながら絵美佳は不思議そうに首を傾げた。どうして智美が驚いているのかが判らないらしい。
仕方なく智美は説明した。自分の父親のことだからこそ、近すぎて絵美佳は気がつかなかったのだろうか。総一郎の有名ぶりを説明しつつ、智美は頭を抱えたくなった。絵美佳はふんふん、と頷きながら説明を聞いている。
吉良総一郎と言えば、木村財閥が所有する科学研でも有名な人物だ。智美の主人である順も当然、総一郎の名は知っているだろう。総一郎は文句なしの天才と呼ばれている人物だ。科学に貢献しているという理由で様々な機関が賞などを贈ろうとしたが、それらの悉くを総一郎は断ったらしい。そんな暇があったら研究の一つも進めた方がましだ。どこの機関にもそれに似たような返事を寄越したらしい。
まさに後々の世界に於いて伝説になるであろう人物だ。智美は説明をそう締めくくった。絵美佳は何故か難しい顔をしている。智美は不安に駆られながらあの、と声をかけた。絵美佳はちらりとだけ智美を見、次に額を押さえて呻き声をあげた。
説明が下手すぎる……(過去の自分に